優しさの形状
足音がこっちへ近づいてくる。
風は、疎らに咲いたクロッカスを撫でるように優しく梳いていく。
「ミサ、来てくれたんだね?」僕は聞いた。
「…暇だったから」ミサはそう答えた。
ミサは白いセーターの袖をつまんで、口元に当てている。吐く息は、ほんのりと白い。
川岸から5メートルも離れていないところに腰をおろしている青年は、ずっと対岸を眺めている。ミサは青年の隣りに座った。
「なんのつもり? こんな時間に呼び出して、……ねぇ、ケイ、聞いてる?」
ケイと呼ばれた青年は空を見上げる。彼は取り出したタバコに火をつけた。
「なんのつもり…か。ミサに会いたかった、では駄目なの?」
「私たち、もう半年も前に別れたのよ?」ミサは横目でケイを見た。「…しかも、あなたは私を振ってる」
「でも、こうして来てくれたじゃないか」
「それなのに、気安く連絡かけられる厚顔無恥な元カレを笑いに来たのよ」ミサは苦笑して言った。
ケイはミサの顔を見ることが出来なかった。
「反論の余地はないな」ケイは首を横に振って答えた。「まぁ、そんなことをする気力もないけどね」
「どうしたのか知らないけど、私は関係ないから」そうは言ったが、ミサは気づいていた。本当にどうでもよかったのなら、ここへ来る必要などなかった。
「…父さんが死んでいることがわかったんだ」ケイの吐く息は白い。ミサにはそれがタバコの煙なのか、それとも、寒さからくるものなのか、判別出来なかった。
ケイの父は、彼がまだ幼かった頃に失踪した。彼は探偵を雇い、父の行方を追わせていた。そして、先週のこと、父の死をあっけらかんとして報告してきた探偵を殴りつけてやった。
別に父の事が好きだったわけじゃない。ただ、父へ向かうはずだった一撃は、行き場をなくしたことで、近くにいた探偵を捉えた。彼には気の毒だったとしか言いようがない。
「…だから、少し慰めてもらいたかった」ケイは相も変わらず対岸を、いや、本当は何も見えていなかった。
「彼女に慰めて貰えばいいでしょ? ……あ、わかった! 別れたんでしょう?」
ケイは小さく首を振った。「いや、別れてないよ」
「…じゃあ、なんで?」
本当はわかっていたはずでしょ?
「なんで、私が呼ばれなきゃいけないの?」
嬉しいはずなのに…。
「迷惑」
口をついて出て来るのは、いつもこんな。
わかっていたはず。ケイは、いつもいつも私のことばかりを思っていた。
気づいていたはず。でも、無視してた。怖かったから。だって、別れを告げたあなたの瞳は、もう既に光を失ってきていたから。
「視力、どれくらい落ちてるの?」ミサは見上げるような目線で言った。
「そうだね、大好きだった君でさえ、僕の目は、もう映そうとしないんだ」
「……そう」
「今日は来てくれてありがとう。ずいぶん楽になったよ」
「私、何もしていないわ」ミサは少し大げさなジェスチャー。
「したよ」ケイはそう言って、ミサが来た方とは逆の方へ、歩いていく。
「…そう言って行っちゃうんだ。あの時のように ……また、………私を振るの?」
ケイは振り返って、まるで鏡に映っているかのように静かに微笑む。
「ありがとう、ミサ」
………。
ありがとうございました。