冬将軍vsシベリア寒気団【シリーズ・白根美紅】
今年の冬は寒かった。うん寒かった。
「ねぇお兄ちゃん、冬将軍とシベリア寒気団ってどっちが強いの?」
珍しく妹のミク(本名:白根美紅)から質問が飛んできたかと思えばコレである。
兄は数秒間唖然とした後、テレビ画面から視線を外して背後に佇む妹へと移した。録り溜めてあったミルキ○ホームズを観るのは、また後日となりそうである。
「お前は何を言っているんだ?」
兄の表情は呆れというよりも、哀れみのような感情を色濃く浮かべている。まるでそう、世間の常識を改まって問われているかのような面持ちだ。見え過ぎてしまう妹の将来を案じてのことだろうか。
「そんなの冬将軍に決まってるだろ」
違った。ただの馬鹿兄妹だった。
「……ホントに?」
ジトーと警戒感丸出しで眺めつつ、その回答への疑問を口にする。
「お前、冬将軍舐めるなよ。素手で熊も冬眠させるほどの実力だぞ。シベリア寒気団なんて徒党を組まないと何も出来ないヘタレの集まりじゃねぇか。悔しかったら単独でウサギを冬眠させてみろってんだ」
つまるところ友達が居ないので他人とつるんでいる連中が嫌いなご様子である。そしてそれはともかく、ウサギを冬眠させるのは冬将軍にも出来ない芸当である。
「うん、シベリア寒気団の方が強いんだね。わかったよ」
「待てコラ」
説明の甲斐もなく、というより説明自体がアレな感じではあったのだが、とにかくミクの中では結論が出たようである。もちろん、兄として納得の出来る回答でないことは言うまでもない。
「その結論に至った理由を述べよ」
「だってお兄ちゃん、嘘ばっかり言うじゃない」
的確かつ賢明な判断である。しかし当然ながら、兄としては看過出来ない非常事態だ。騙すにしてもからかうにしても、ある程度の信用があるからこそ成立するものである。それがなくなってしまうということは、数少ない楽しみの一つが失われてしまうことと同義であろう。
「ミクよ、ちょっとここに座りなさい」
正座で座り直して姿勢を正すした兄が、目前の床をトントンと叩いて正対を促す。
「また?」
「またとか言わない」
「はいはい」
おざなりな返事をしつつも、ミクは意外にも素直に応じて兄と正対する。それは別に兄という存在に対して思慕を抱いていたからでは全くなく、兄は社会的に可哀想な人間なのだから邪険にしては駄目だと母から言われていたためである。
現実というのは悲哀に満ちているものだ。
「で、何?」
「まずは問題に答えてみろ。もちろん真剣に、正直にな」
「問題?」
「そう難しいものじゃない。友達にリンちゃんっているだろ」
「うん、いるけど」
今でも時折遊んでいるご近所の友人である。双子の弟がいて、小さい頃は兄も含めた四人でよく遊んだものだ。今となっては遠く儚い思い出である。ミク個人としては、どうしてこうなったのかと問わずにはいられない。
「彼女が二階の自室でベッドに寝そべっていたところ、突然大きな揺れが襲いました。その瞬間、彼女の脳裏をよぎったものは以下の三つ――
一つ、鍵付き引き出しの奥に仕舞いこんである、ムシャクシャした時に書き溜めた恥ずかしいポエム集。
二つ、まだ途中までしか読んでいない未完結の長編漫画約百巻。
三つ、ここ数ヶ月コツコツ集めてきたヤオイ画像一G分」
兄はピンと人差し指を立て、気味が悪いほどの笑顔で問う。
「さぁ、この後リンちゃんはどうしたでしょう?」
「うーん……」
ミクは悩む。その様は真剣そのものだ。
「ポエムは鍵付きの引き出しだから、とりあえず心配しないでおくとして、ヤオイ画像はパソコンを立ち上げなければならないものだから簡単には持って出られないでしょ。そうなると漫画だけど、さすがに百冊は無理だよね。まだ読んでないヤツだけ持って出れば減らせるかな。でも半分くらいしか読んでなかったらそれでも大変だろうし……そもそも、もし机が壊れて鍵の意味がなくなっちゃったらポエムも大変だし、パソコン自体が壊れたらヤオイ画像も失われちゃうワケでしょ。それともUSBメモリに移してあったりするのかな。リンちゃんって結構大雑把なとこあるから、そういう慎重なことしそうにないんだよね。というか――」
ミクは正面でニヤニヤしている兄をキッと睨み付ける。
「これってちゃんと答えあるの?」
どれを選んでもどれかは犠牲になる。しかもどれ一つとっても、明確に重要な代物でもない。まして兄の出している問題である。意地悪な引っ掛けがないと思えるのも無理からぬ話だ。
「答えという意味なら、ないね」
「じゃあ何のためにやらせたのっ」
「受け答えから、わかることがあるからさ」
「わかること?」
「先入観だよ」
ニヤリと笑い、言葉を続ける。
「お前が先入観に振り回されているということが、これでよーくわかった」
「何でよ。どーいうこと?」
「俺の出した問題に、お前は何一つ疑問を持たなかった。揺れた時に頭をよぎっただけであって、リンちゃんがそれらの物体を所持しているとは言っていない。そもそも、彼女がそんなイメージダウンアイテムの数々を持っているハズが――」
「え、持ってるけど」
兄の言葉が止まる。
「持ってるよ、多分全部」
「マジで?」
「ポエムはこっそり読んだことあるし、本棚に漫画がびっしり並んでるし、ヤオイ画像は見たことないけど、同人誌なら発見したことあるよ」
「……まぁ、その件に関しては後ほど改めて検証するとして、この三種のアイテムをミクよ、お前はどうしようと思ったんだ?」
「どうしようって、持ち出すんでしょ?」
「どうして?」
「どうしてって、地震が起きたから」
「俺は確かに『揺れた』とは言ったが、それが地震だったなどとは一言も言っていない。仮に百歩譲って地震だったとしても、その規模が大きいかどうかもわからない。お前は少し揺れた程度で、部屋に隠してある恥ずかしアイテムを外へ持ち出すのか?」
恥ずかしい質問に、ミクの眉根がキュッと引き寄せられる。
「そりゃあ小さい地震なら持ち出したりしないけどさ……というか、恥ずかしアイテムなんて持ってないしっ」
「まぁそれに関しては後で捜索するとして」
「するなっ!」
「いずれにせよ、これでわかっただろ。お前は先入観に縛られ、曇った眼でこの兄を見ている。俺は確かに嘘を吐く。だが嘘なんて誰でも吐くものだ。だがお前は、俺が常に嘘を吐いているという先入観で見ている。それがどれほど失礼なことなのか、これでわかっただろう」
「お兄ちゃんのはただの屁理屈じゃない」
ミクの表情は納得顔には程遠い。
「……よしわかった。今度はそこに立ってみろ」
「そこって、鏡の前?」
「そう、鏡の前だ」
部屋の隅にある大きな姿見の前に立ち、ミクは不審な表情を兄へと振り向かせる。
「立ったけど?」
「今何が映っている?」
「何がって、私が映ってるに決まってるでしょ」
「よし、右手を持ち上げてみろ」
不服そうな顔をしながらも、それでも素直に従って右手を持ち上げる。トレーナーの袖が肘まで落ち、手首が外気に晒された。寒風の吹きすさぶ室外ほどではないが、それでも窓際の冷気が露出した手首を舐める。
「こんなことして何になるの?」
行為の真意が見えないこともあり、彼女の言葉に宿る棘も一段と鋭く感じられる。
「鏡の中のお前は手を挙げているか?」
「当たり前でしょ」
「どっちを挙げてる?」
「左手に決まってるじゃない」
「そうか。頭はどっちにある?」
「どっちって……正面?」
「聞き方が悪かったな。鏡に映ったお前は左右が入れ替わっているんだよな?」
「うん」
「なら上下はどうだ? 入れ替わっているか?」
兄の質問に、ミクは一瞬何を聞かれたのかわからないとばかりに小首を傾げた後、薄い氷の上を踏み締めるような慎重な面持ちで応じる。
「上は上、下は下でしょ。入れ替わってなんかいないよ」
「よしよし、それじゃあ今度は――」
言いつつ近くにあったテーブルを引きずってくる。
「このテーブルに横になって鏡を見てみろ」
「え、何で?」
「いいから」
何をしようとしているのかわからないまま、妙にニヤけている兄を警戒しつつテーブルに寝そべる。テーブルの上に横になって鏡に映るという非日常は、あまりにも奇妙な感慨を伴って彼女の視界へ飛び込んできた。
「その体勢のまま左手を上に伸ばしてみろ」
「え、うん」
言われるままに左手を天井に向けて伸ばすと、鏡に映る自分の姿も同じように手を伸ばす。
「鏡の中の自分はどっちの手を伸ばしている?」
「だから右手だって」
「頭と足は入れ替わっているか?」
「入れ替わってるワケないでしょ」
「それはおかしいな」
「何がよっ」
さすがに痺れを切らせたのか、ミクの語調が荒くなる。しかしそんな様子に慌てる素振りも見せず、テーブルを回り込んでミクの背後へと立った彼は、同じ鏡に映り込んだ。
「ホレ、俺から見るとお前は手を『上』に挙げているし、頭と足は『左右』に伸びているぞ?」
「え?」
言われてミクは混乱する。確かに彼女の左手は上に伸びている。しかしそれは彼女にとって確かに右手であり、左右は入れ替わっていると感じられる。同時に頭と足は上下をそのまま保っているように見えるのに、それが入れ替わるという状況が全く理解することが出来ない。
「え、あれ?」
「もういいだろ。とりあえずテーブルから降りろ」
「あ、うん……」
頭の上にクエスチョンマークを浮かべたまま、彼女は床へ足を下ろす。
「いいかミク」
間髪を入れず、兄が口火を切った。
「鏡っていうのは左右が入れ替わる代物じゃない。上にあるのが上に下にあるのが下に映るように、右にあるものは鏡の右側に左にあるものは鏡の左側に映っているだけなんだ。それを左右が入れ替わったと感じるのは、主観を鏡に映る自分に投影した際に生ずる違和感を強引に正当化したしたものに過ぎない」
「えっと、つまりどういうこと?」
「鏡に映った自分は左右が入れ替わってなどいない。左右が入れ替わったと思い込んでいるだけなんだって話だ。お前が横になって鏡を見た時に混乱したのは、そういった先入観が無意識に働いているせいだ。お前はもっと正直に、ありのままの姿を受け入れる努力をすべきなんだと、お兄ちゃんは思う」
腕を組み、うむうむと頷いている兄の姿は、一見するとまともそうに見えなくもない。
「……あのさ、お兄ちゃん」
「何だ、妹よ」
「冷凍庫にあったハズの雪見大福がなくなっているんだけど、知らない?」
「それならさっき冬将軍が食べてたゾ」
刹那、ミクの飛び膝蹴りが顔面に決まった。
先入観というのは、それ自体が悪なのではない。それはパターンを読み、未来を予測し、より効率的な判断を手際良く済ませるために生み出された知恵の一つである。事実、ある程度の知能がなければ先入観を持つことはないし勘違いも存在しない。問題は、その使い方が拙いというだけの話なのだ。
「もう二度と信じないからっ」
プリプリ怒りながら、鼻血を流して倒れている兄を尻目に部屋を後にする。先入観というのは大抵の場合当たっているものだが、これはその典型例の一つと言えるだろう。
人間、おかしな先入観を持たれないような普段の行動こそが肝要である。
コンピュータが間違わないのは、コンピュータに先入観がないからです。