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「夏」
「遥?」
遥は夏から顔を少しだけ離すと、そっと夏の唇に不意打ちでキスをする。二人の唇が触れ合った瞬間、夏は驚きで頭の中が真っ白になる。それはただのキスではなかった。そのキスは魔法のキスだった。遥の愛の魔法が込められたキス。そのキスで夏にかかっていた『呪いの魔法』があっとう間に、とけた。その瞬間、夏は生まれ変わった。新しい夏として。春に蛇が脱皮をするみたいに、古い殻を脱ぎ捨てて生まれ変わったのだ。
数秒後、夏は驚いたように目を見開いた。そんな夏の顔を見て、遥はいたずらっ子が母親からそのいたずらを怒られたときに言い訳でするような顔をして、笑った。
……今まで見てきた遥の顔じゃない。これが、遥の、……本物の笑顔?
木戸遥の本当の顔。本当の笑顔。
なんだろう? 心臓がどきどきする。全身にすごい勢いで血液が流れていくのがわかる。それから、自分の顔がすっごく赤くなっていることがわかる。(恥ずかしいけど、わかってしまう)体が、とても熱くなっていく。私は今、すごく緊張している。
……なんでこんなに緊張しているんだろう? これが遥の本当の顔なんだ。遥の素顔なんだ。どうして今まで気づかなかったんだろう? 夏は大きな目をぱちぱちさせる。
そしてすぐに、その疑問の答えにたどり着く。(今の夏の思考は天才である遥のようにクリアだ)
遥は始めから顔を隠してない。なにも変わっていない。変わったのは私。変化したのは私だ。私は遥に勝手に自分の理想を重ねていた。遥の顔に仮面をかぶせていたのは私なんだ。理想の仮面。本当の素顔。自分の顔は嫌い。遥の顔が好き。自分の顔なんか見たくない。素顔を隠していたのは私。鳥かごに鍵をかけていたのも私。(そうか……)私なんだ。夏の頭の中で革命が起きている。止まっていた時間が一気に流れ出して、それが時間の洪水を起こしている。夏を強制的に成長させ、干からびていた大地を豊かに(緑色と黄金の色に)塗り替えるようにしてかき回していく。天地開闢が起こっている。