わかるよ、きみのこと
ぱぁん、といっそ耳に気持ち良いほど軽快な音が食堂に響いた。
視線をやってみると、わずかに顔を右に傾けた男と、震える手をもう片方の手で包みながらきつい目で男をにらみつける女がいた。
「……嘘つき」
その眉根は強く寄せられ、眼尻から涙が一つこぼれ落ちる。
男は困ったように微笑むと、
「もういいの?」
と言った。
女の目が見開かれ、すぐにますます目に力が入ったと思うや、身を翻し奮然と食堂から去っていった。
男は少しの間女の後ろ姿を眺めていたが、注文した料理が配膳されるとまるで何事もなかったように受け取り、おそらく友人グループが固まる席に向かっていく。
周囲の方が困惑と好奇に揺れていたが、それ以上何事もなく、やがていつも通りの喧騒に戻っていった。
その喧騒に、わりと近くに位置していた男の友人グループの会話が混ざっている。
「お前すげーな。何人目だよ」
「さあ」
「つーか何したのよ。やばい剣幕だったけど」
「怒らせちゃった」
「そりゃわかるよ」
男女入り混じった集団で、どこか愉しげに先程の愁嘆場を話題にしていた。
中心となった男はかすかに赤く染まった左頬以外はさして変わった様子もなく、淡々と周囲からの追求をかわしながら料理を口に運んでいる。困ったような微笑もそのまま、貼り付いたように変わらない。
ただ先程とは違い、もうそれは感情を表してはいないように見えた。
そんなことを思っていると、男と視線が合う。
あ、と思うと、男から一瞬、表情が消えた。
そして磁力が働いているように視線がそらされない。
仕方なく息を吐き、うなずいてやると男の視線はすぐに外された。
以降、もう視線は合うことはなく、俺はもう一度ため息を吐くと、自分の食事をさっさと終え、食堂を後にすることにした。
◇
「いやあ、参った」
小崎敬司はからっと陽気に笑った。その頬に残された平手の痕は今やくっきり赤く色づいている。ただでさえ整った顔立ちがそんな有様なのだからいっそう人目を引いてしまうだろう。
「……とりあえず、座れよ」
俺は椅子を勧めた。店内に客はあまりいなかったが、それでもちらりとこちらを見る視線を感じた。自意識過剰であるならいいが、意外とそうでもないと経験から知っていた。
敬司は大人しく俺の対面に腰を下ろした。
角の席で、衝立によって区切られているので視界も通らないはずだが、この男の頭は座っていてなお衝立から飛び出てしまう。
敬司はメニューを見もせずに慣れた様子で呼び出しボタンを押し、しばらくして来てくれた店員に「ブレンド一つ」とにこやかに注文する。
「あの子、新人だね」
「ゴールデンウィークの後に入ったんだよ。ようやく大学に慣れたんだろうな」
「うわあ……さすが毎日通っているだけはある」
「引いたんなら無理に褒めなくていい。毎日じゃないし。週二、三くらいだ」
「十分では」
「コーヒー一杯で粘れるからレポートやるのにありがたいんだよ。駅側じゃないからあんまり学生もいないし」
「迷惑では」
「……バイト代が出た後メシ食うくらいはしている」
「え、誘ってよ」
「軽くメシ食いに行く程度で誘ったりする?」
「……しないんだ」
「え」
「わかった。月末一緒に来よう、な」
頭を使わないどうでもいい会話を交わしていると敬司の分のコーヒーが運ばれてきた。敬司は礼を言い、テーブルに置かれたカップを引き寄せ、そのまま口に運んだ。
乾杯ではないが敬司に合わせて俺もすっかり冷めてしまったコーヒーをちびりとすする。
ふうっと敬司が息を吐き、カップを置く。
店内は喧騒とは程遠かったが、静謐とも言い難い。少ない客の会話、カウンターの向こうから聞こえる水仕事の音、誰が聞いているか不明なラジオのローカル放送、天井ではシーリングファンが重く低く小さな唸り声を上げている。
大声でも出さなければ、詳細に会話を拾うことも拾われることも難しい。
「またやっちゃったよ」
ぽつりと敬司はこぼした。
俺は「うん」と応答した。
「大事にしよう、俺と一緒にいてめちゃめちゃ楽しくなってほしいと思ってんだけどさぁ」
「知ってる。よくやってると思う」
「あんがと。まぁでもやっぱダメだな。どうも最後には怒らせちゃう」
「何人だ。七人目だっけ」
「大学入ってからなら」
「早いなぁ……」
この一年で七人。多いと思うかは人によるのだろうが無の人間としては明らかに多いし早いと言うしかない。
確か、今回の彼女は年度末に付き合うことになったと聞いた。友人グループでの一年お疲れ様旅行とか異文化のイベントがきっかけだったとか。
「それで、今回も原因は」
「それはプライベートなことだから、ちょっと」
「そういうとこしっかりしてんだよなぁ」
「まぁでも俺が悪いんだよ。詳細は控えるけど上手いことやれなかったんだ」
「また傲慢なことを言う」
「……そうだな。多分、こういうとこが悪かったんだ」
敬司はしんみりと肯いた。いつもこうだった。
この男は恋人と別れた後、俺に話を聞くことを求めてくる。しかし過剰な後悔や愚痴を言うでもなく、詳細な経緯を聞かせようともせず、ただ「別れてしまった」「俺が悪い」と言うばかりで、俺の返答はどのようでもいいようだった。
嫌なわけではないが、奇妙ではあった。
一度、きついことを言ってしまったことがある。俺も苛立っていた時期で、配慮ができなかった。「お前は恋人に向いていないんじゃないか」と偉そうに、吐き捨てるように。
そのときも敬司は少しも怒ろうとせず、神妙に「そうかもしれない」と肯定してくるので毒気が抜けた俺が謝罪し、発言を撤回させてくれと頼んだのだったか。
敬司とは中学からの付き合いだが、高校は別、大学で再会してからまた話すようになった程度の仲だ。
話は合う。趣味も交友関係も別で、特に昔の話をするわけでもないのに、なぜか話が通じる。
向こうがどう思っているかは知らないが、俺は敬司の話を聞くのが嫌ではなかったし、俺の話を聞く敬司も特段楽しんでそうではないが、退屈そうでもなかった。
たまに思い出したように会っては少し話をして終わる、その程度の関係だった。
「復縁とか、ないのか」
「ないんじゃないか」
「はっきり言うな」
「たぶん向こうが望んでないからね」
「お前は?」
「望んでいい立場じゃないよ、俺は」
自嘲とも卑下とも言えない声音だった。
相手に対しての申し訳無さが取れる程度で、それ以外の感情を察することはできない。単純に事実を述べているだけだ。
恋人と別れた人間にありがちな、未練がましい様子がまるでない。自分の中での感情は整理がついていて、わずかに水面がざわめくほどしか表れることがない。
なるほど、こういう態度を取られたら別れるしかあるまい。
それが直接の原因であるかはわからないが、俺は何度目かもわからない納得を覚えていた。
「わからないぞ。もしかしたら向こうは望んでいるかもしれない」
「かもしれないとも俺は思っちゃいけないよ」
「それは違うんじゃないか」
かぶせ気味に言っていた。ほとんど無意識のことだった。
自分自身驚きながら、俺はゆっくりと、慎重に言語化した。
「それは彼女の領分だろ。お前が望んでいけないからといって、彼女がどう思うか、それをお前の側から遮断することこそ筋が通らない。お前たちの間に何があったか知らないが、お前にできることは彼女がどうあろうがそれに対応するだけなんじゃないか」
「……」
「他人がどう考えてるか、どう出るかなんて、結局そのときにならないとわからないだろ」
「ああ、そうだな。うん、それはそうだ」
敬司は自然に肯いていた。
反発する様子などまるでなく、ただ背もたれに身体を預け、わずかに距離が遠くなっていた。
「今まで、こうなったらもう終わりだったからさぁ」
「まぁ、人前で愁嘆場を演じたらそうなんじゃないか」
「や、そのくらいならまだ修復できなくも」
「え」
「どんなに行動揺れても関係なかったりするんだよ。深夜から早朝にかけてメッセージ送られたりガンガン通話来たり、家でめちゃめちゃなじられ続けたり、他の男と遊んでる報告ばっかされたりとかも今まであったけど」
「ええ」
「あ、全部別の子の話。中高も含めて」
「そう……」
「大概駆け引きなんだよな、そういうの。見ればわかる」
つまらなそうに敬司は言った。
相手の女性を悪く言うことはほとんどない男だが、例外もある。
唯一、試されることは厭う。
相手が好意や誠意の限界を探ろうとしてくると、相手の望む通りに振る舞うがもうそこに感情は伴わない。機械的に身体だけ動いてしまうという。
何度もやられない限りは忘れることにしていると以前言っていたが、一度で済むならばそんなセリフは出てこないだろう。
目を伏せた敬司の顔を改めて見る。
長いまつげが嫌味なく調和するほど秀麗に整った顔は、こうして物憂げに黙っているとさらに際立つ。わずかに癖のついた髪は無造作に流されているはずなのにこの顔面に戴かれると流行の髪型に見えてしまう。
よくできた作り物のようだった。
本来は大口開けて笑い、変顔も容赦なく披露し、くしゃくしゃに顔を崩して号泣するほど感情豊かな男だが、人がこいつに求めるのは超然とした態度だった。
豊かな表情も魅力であり、過去敬司と付き合ってきた女性たちはそうした姿も楽しんでいたようだが、彼女たちの内幾人かはいつしかこいつを困らせることに快楽を覚えるようになっていった。
愁眉の様を自分にだけ見せて欲しくなるようなのだ。
昔から、俺とこいつが出会った中学の時分からすでにその予兆はあった。
美しいものに惹かれるのは人の常。独占したがるのも。果てには歪めてしまいたくなるのはさすがに道から外れているか。
特別有名になりたいわけでもないものにとって、美貌とはそこまで人生にとってプラスにしやすいものでもないようだ。
「桐子は違う。心底俺に怒っている」
「何したのさ。いやごめん、言わなくていい」
反射的に聞いてから、俺はすぐに撤回した。つい先程同じやり取りをしたはずだった。
ふうっと敬司は溜息を吐いた。
「嘘ついたんだよ」
「うん?」
「彼女を騙したんだ、俺は」
およそ初めて聞く、恋人に敬司がしたことであり、別れの原因だった。
俺が黙っていると、敬司はわずかに口の端を吊り上げた。
「食堂で彼女自身言ってたし、完全に俺が悪い。隠すようなことじゃなかったな」
「それは……」
口を開くが、それ以上の言葉は出てこなかった。
嘘。偽り。騙すこと。
一般的に悪であり、一線を越えれば罪ともなり、それだけに人の間を軽々しく飛び交ってはコミュニケーションのスパイスとなっている。
言わないこと、隠しごととは別に、明確に人を欺くものだ。
詳細を聞く気はなかった。
そこまでは敬司も明かさないだろう。わからない。もしかして今突っ込めばさらっと言ってしまうのかもしれない。けれど俺にそんな余裕はなかった。
急に気温が下がったような、椅子に沈み込んでいくような気がしていた。
ここに座っていたくはなかった。
しかし身体は重く、腰を上げることもできない。
敬司の次の言葉を待つ。それを聞くまで俺は何もできない。そんなおかしな思考に囚われていた。
待っているが、望んではいない。
奇妙な義務感が俺を椅子に縛り付けていた。
「変な話になった。悪い、帰るよ」
「え……」
「歩はゆっくりしてくれ。じゃ、ありがとな」
俺の返事も聞かずに立ち上がり、すっとテーブルの上の伝票をつかみとるやそのまま敬司は立ち去っていった。
残された俺は、すっかり冷めたコーヒーに視線を落としながら当分敬司から連絡をとってくることはないだろう、そう思っていた。
俺から連絡を取らない以上、これが別れになってもおかしくはなかった。
◇
予想通り、敬司から連絡はなかった。
だからといって当然、俺の普段の何が変わるでもない。変わらず一人で大学に行き、一人で講義を受け、一人で勉強し、一人で帰宅して一人で食事してシャワー浴びて寝た。
一人暮らしのぼっち大学生などそんなものだ。
まったく敬司と会わなかったわけではない。
構内で幾度かすれ違うこともあった。大概、誰かと集団で楽しそうに歩いていた。
俺は向こうに気づいたし、向こうも俺に気づいたかもしれない。
視線を交わすことはなかった。敬司がしなければあいさつもない。俺達の関係は敬司からの歩み寄りだけで成り立っていた。
このまま終わるのだろう、そう思った。
そもそもが間違いだった。俺と敬司は見ているものが違う。感じ方が違う。共通の知り合いがいない。
中学から大学に入るまでの間に、住む世界が完全に分かたれていた。
少なくとも敬司にとってはそれはきっと良いことだったと思うし、俺の方は俺だけの問題だった。
これで良かった。浮き立ちも沈み込むこともなく、そう結論づけた。
「あなた、小崎くんの友達でしょ?」
図書館で資料を流し読みしているときだった。
気づくと、隣に一人の女がいた。
なんとなく見覚えがある。
「はあ。どちら様ですか?」
尋ね返すと、女はわずかに顔をしかめた。
その顔で、ああ、と思い出した。
食堂で敬司を引っ叩いだ女だった。それ以外でも敬司の隣を歩いている姿を見たことがあるような、ないような。
「私のこと、小崎くんから聞いてないの」
「敬司はそういう話はほとんどしない。でも思い出した。たしか、キリコさん」
俺が言うと、彼女は顔をしかめたまま肯いた。
「宇津見桐子。あなたは……」
「安条歩。俺のことは誰から?」
「……小崎くんからに決まっているでしょう」
「へえ。あいつ、俺のこと話したりするんだ」
「そういうの嫌がるタイプ?」
「いや、単に不思議なだけです」
実際、そういう認識がなかった。
俺との付き合いなど特に隠すようなものでもあるまいが、頻繁に会っているわけでもなく、人に紹介するようなものでもない。
言ってしまえば敬司にとっては多くの友人たちの中の一人であり、それもたまに会って駄弁る程度の仲だ。
いたことないから知らないけど恋人とはこの程度の仲でも把握しているものなのか。
「……一度、構内で小崎くんと少し話しているのを見たことがあって、後で彼に聞いただけです」
「ああ、なるほど」
「それより、少しあなたに聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「かまわない。場所を変えようか。学内は……」
「できればやめてほしい」
学外で俺が知っている腰を落ち着けられる場所など、いつもの喫茶店しかなかった。
いや当たり前に他にもあるのだが、友人の元カノとはいえ女性を連れて行く場所となるとまるで思いつかなかったので一番無難なところに落ち着いたのである。
「落ち着いた店」
無難な感想を口にされたので問題ないだろう。
注文はすでに運ばれてきている。やはり隅の席なのでもう会話に支障はなかった。
「先日、敬司とここで話した。あなたが敬司に食堂で一発お見舞いした後」
「はい?」
「詳しい経緯はまったく聞いてないが敬司はひとしきり俺が悪かった俺が悪かったと言っていた」
「あの」
「あなたの名前もそこで聞いた。あとは春休みから付き合ってたことくらいか、あいつが言ってたことは」
「……」
「ざっくりとはそんなこと。他に何か聞きたいことはある?」
「あなたね……」
額を抑え、宇津見さんは顔を伏せた。
おそらく聞きたいのはそんなところだろうと思ってさっさと教えたのだが、違ったのだろうか。
「いつもそんな話し方なわけ?」
「おおむね」
「小崎くん、こういう友達いたんだ……」
宇津見さんは何事か悩みだした様子だった。俺に何か言おうとするものの、眉を寄せ首をひねっては声に出すまで行かない。
急ぐこともないので俺はコーヒーをすすりつつ、彼女を観察することにした。正直な話、この瞬間まで彼女のことはぼやっとしか認識しておらず、このまま別れてしまうといまいち顔を判別できなくなる気がしていた。
白いジャケットに青いパンツ姿、薄く茶色に染めた髪を後頭部でまとめている。
身だしなみに乱れがなく、詳しくないが化粧にも手を抜いていないようだ。人の視線を常に意識している雰囲気がある。
なぜかと言えば姿勢の良さが大きく……たぶん全体にすきの無さがある。動作の一つ一つが丁寧で、動いた直後にはもう背筋が立っている。今も何か考えている様子だが、顔をわずかに伏せているだけで、首から下は崩れていない。
これだけなら本当にただ格好のいい人なのだが、よく見ると顔立ちは意外と幼い。所作とファッションが大人びていて、おそらく性格もそうだろう。年齢相応に、あるいは年齢以上に自立しようとする意思を感じた。なるほど。
敬司とは別れる他ないだろう。
なんとなくの所感であり、他人と共有できるとも思っていない。現に別れている以上後出しだ。だとしても、彼女と敬司は当たり前に違っていて、その違いに触れてしまえば隣にいられない。そう感じた。
「本当に、それ以外に私のこと聞いてないの?」
「本当に。詳しいことは全然知らない。あなたが敬司を叩いたことを知ってるのはそのとき俺も食堂にいたから」
「……そう」
宇津見さんは押し黙った。
今度は悩んでいるのではなく、どこか放心した様子だった。
「やっぱり、私のことはどうでも良かったんだ」
「それは違う」
「……え?」
「それは違う、と言いました。敬司はあなたのことを真剣に考えているはずだ」
考えて出た言葉ではなく、ただ反射的に口から出ていた。
嘘やでまかせでもなく、俺の中にすでに答えが用意されていて、それが宇津見さんの嘆きに反応しただけだった。
「あなたと敬司の間に何があったかは本当に知らない。どちらが悪いなんて話は興味もない。ただし、敬司が本気で落ち込んでいたことぐらいわかる。俺のような相手にまで詳しいことは明かさず、それでも落ち込んで、ひたすら自分が悪いと口にし続けた人間が相手を軽く見ているはずがない……もちろん、相手を思っているからと言ってそれが免罪符になるはずはないし、個人的な感想を言えば自分が悪いなんて発言は対話の拒絶だろう。褒められたもんじゃない」
まくし立てた。
口から出る最中にもうこれは公平な態度じゃないと気づいて後悔していた。途中からは言い訳のようなものだった。
そして言い切ってから言わなくていいことを言った自分に嫌気が差している。つまりはいつものことだ。
背もたれに身体を預ける。わずかとはいえ前に出ていたことに気づく。後悔、嫌気、自嘲、俺の人生につきまとうものだがここ最近は再び強く感じていた。
「あなた」
呼ばれる。壁に向かっていた視線が宇津見さんの方に向かう。
彼女はこれまで見なかった顔をしていた。眉尻が落ち、口の端が少しだけ上がっている。どこか構えた気配が消え去り、感情がそのまま出ているような……
「面倒な人なんだねえ」
呆れを含んだ、可笑しそうな顔だった。
「……そうです」
「本当、小崎くんにこういう友達がいたとは。私、ずっと余計な心配していたわけだ」
「余計な心配?」
彼女は微笑んでいた。とはいえそれは自嘲も表していた。
「いつも本音で話してない……というか、ワンクッション置いてるみたいな。自分のことはあんまり話さないくせに人の話は聞きたがるでしょう?」
「……」
俺といるときの敬司は大体くだらない話をしていた。
他愛のない、無意味な話を好んだ。それはたとえばSNSでも誰も話題にしない漫画の一コマの話であったり、昨日作った唐揚げがいかに美味かったかという話であったり、講義で紹介された思考実験を真剣に議論したりした。
誰とでもできる話題だろう、と俺は思っていた。もっと言ってしまえば暇つぶしの会話だ。無駄だと。
「取り繕ってる人だから、私といるときくらい気を抜いてほしかった」
その無駄が欲しかったと彼女は言った。
「あなたのことを覚えていたのは、あなたと会った後の小崎くん、見たことない顔してたから。今思えばあれは気を許してないと出ない顔だった」
「……」
俺が何を言えようはずもない。
彼女は強く感情を顕にしているわけではない。
諦観の微笑を口元に浮かべ、静かな目で俺を見据え、淡々と語っているだけだ。けれど当然、だからといって彼女の内心が穏やかであるわけもなかった。うっすらと赤く染まる目元がそれを証明していた。
言葉の内容には否定したいことがある。敬司が俺に気を許しているとは思えない。けれどいくら俺でもそれを口にしてはいけないことくらいわかった。
「何があったんだ」
代わりに踏み外してしまった。
自分自身で決めた枠を。俺と敬司の間にあった暗黙の線を越え、聞く資格のないことを尋ねてしまっていた。
無意識にではない。耐えきれず、自分自身の感情に圧されるようにして口から吐き出した。我慢できなかっただけだ。
「あなたと、敬司の間に。何が」
「本当に聞いてないの? 全く?」
「……一つだけ。嘘をついたと、敬司が」
「……そう」
彼女は重く息を吐いた。
「わからないの。どうして、彼があんな嘘をついたのか」
予感はあった。
もしかしたらと思っていた。
本当は聞きたくなかった。けれど聞きたくないと思うほど聞かねばならない気持ちも強まっていた。
果たして、予感は正しかった。
「わかるよ……なんて、どうして」
声が震えなかったのは感情が追いついていなかったからだろう。
「……何がわかるって」
「私たちが付き合ったのは春にクラスで旅行に行ったとき」
小崎くんのことはそのときまでただの友だちだと思っていた、と彼女は言った。
「話してて楽しいけどちょっと軽薄で信用しきれないところがあるなって。顔もあんなにカッコいいと気後れしちゃって落ち着かないし。友達思いなのも悪い人じゃないのもわかるけどそういう対象として見てなかった」
宇津見さんのように、しっかりした人ほど敬司には惹かれない傾向にある。正確に言えば、あの美貌に。
「旅行が楽しかったせいだと思う。今まであんなに楽しいことなかった、本当に。温泉に行ったんだけどね。車を借りて、朝早くから出発して、かわりばんこに運転して、道に迷ったり普通に寄り道したりで初日は全然予定通りにいかなくて、それでもみんな笑っていた。私は計画崩れるの苦手だし、中にはもっと嫌がる子もいた。でもあのときは不思議と何もかもゆるせたし、きっとその子もそうだった。振り返ってみれば小崎くんのおかげだった」
容易に想像できた。
あいつは人の喜ぶこと、人の嫌がる一線に敏感だから、誰の線も越えないように立ち回ったのだろう。みんなが楽しめるように、みんなが仕方ないなと笑えるように。
もちろん少人数だからこそ上手くいった面もあろうが、少なくとも宇津見さんには上手くいったと思わせられた。幸運にも助けられたに違いない。
けれど結局、あいつの望む人付き合いとはそういうものだと俺は知っていた。
だからわからない。なぜ、恋人にはそれができないのだろう。
「だからって急に好きになったわけじゃない。少しだけ見直した、それだけのつもりだった。それだけの」
「それだけじゃなかったんだな」
「……後から考えてみたこともあるけど、言い訳ならいくらでも思いつく。確かなのはあのとき、私は彼に打ち明けてしまった」
何を、とは聞けなかった。
宇津見さんはぎゅっと唇を結び、眉間に皺を寄せ、言葉をせき止めていた。
「俺に言えないなら言わなくてもいい」
「……いいえ。いいえ。私はもう彼に話してしまったから。誰にも言うつもりなんてなかったのに、話してしまったから。今、あなたに言わなくったってもう同じこと」
宇津見さんはわずかに身じろぎをした。
わずかに崩れていた姿勢を整えたと言ったほうが正しい。顔からも険が落ち、フラットな、おそらくいつもの彼女の様子を取り戻した。表面上は。
臨戦態勢だと思った。
相手は俺などではなく、彼女が今から口にする内容であり、それを口にする状況そのものだろう。
聞きたくない。聞きたくなかった。この期に及んで俺はまだそんなことを思っていたが現実彼女の口を塞ぐことも席を立つこともできず、アホのように待つしかなかった。
すう、とかすかに息を吸う音が聞こえた。
「私には父親がいない。いわゆるシングルマザーの母子家庭というやつなの」
身構えた俺の耳を叩いた言葉は実際のところ、それだけで俺を動揺させることはなかった。なるほどとすら思ってしまった。彼女のすきの無さ、自立心の高さは生来の素質もあろうがそれに起因するものかと。
そして当然、あいつとの共通点にも気づいていた。あったことに安心し、違ったことに訝しんでいた。
「父親のことはよく知らない。母は詳しく話そうとしないし、幼い頃ならまだしも今となっては私もあまり興味がない。どうでもいい」
淡々とした声音だった。感情は聞き取れない。ここに至るまでに余分なものとして切り落とされたように事実しか無い言葉だった。
「母は昔、いわゆる夜の仕事をしていた。賢い選択とは思われないかもしれないけど、多分、冷静に自分の適性と現実の負担を秤にかけたんだと思う。事実としてそこそこ長く、私が高校に上がるまで続けていたし、体を壊すようなこともなかった」
「……お母さん、今は?」
「お弁当屋さんで働いているよ。根本的に生命力ある人だから、動ける限りは働くって言ってるし、その方が長生きしそうなところもある」
「すごいな。尊敬する」
口にする前にもう軽い言葉だと認めていた。
きっと彼女たち親子を知る人々から何度だって言われた言葉だろう。今更、彼女から聞いた情報しか知らない人間から聞いたところでどれほどのものがあろう。
「ありがとう」
宇津見さんは果たして、微笑んだ。
少しのことで吹き飛んでしまいそうな微笑だった。
「最近ようやくわかったんだけど、みんな心からそう言ってくれてるんだね」
「……当たり前のことだ」
「そうみたい。小崎くんも同じように母のことを褒めてくれた」
たったこれだけのやり取りでも察せられるものはあった。
「さっきも言ったけど、無理してまで言わなくていい」
「うん、聞いて楽しい話でもないしね。ま、なんとなくわかっちゃったんだろうけど、私の小中は悲惨だったの。高校も、大分マシになったけどクラスって箱があると中には相性が悪い人もいる。それだけ」
それだけであるはずがなかった。
彼女の身に降りかかった理不尽がどれほどのものであったか俺に知る術はない。軽々しく聞いてはいけないことだ。
けれど、たとえ一つ一つが些細であったとしても積み重なれば身動きが取れなくなることくらいわかる。学校という逃げ場がないと錯覚してしまう箱の中では、一度動けなくなるとすぐに閉じ込められてしまう。
閉じ込められ、やせ細った心はずっとそこに残り続ける。時が流れても、幸運にも忘れられたとしても。
「あなたも、あなたのお母さんにも悪いところなんて一つもない」
言わねばならなかった。他の誰かがもう言っているかもしれない。敬司ならば確実だ。それでも、何人でも何度でも彼女に伝え続けなければならない。
完全に救われることがないにしても。
「ありがとう」
宇津見さんはやはり微笑んだ。変わりはなかった。当然だ。
これから彼女の大事な人が心と時間をかけて伝え続け、変わるかもしれないものなのだ。
そしてそれは敬司だったかもしれなかった。
「あなたたちやっぱり似てるね。小崎くんも同じようなことを言ってくれた。それで、わかるよって」
彼女は一息ついた。
「君のことわかるよ。俺も同じだって言ったの」
「――」
「小崎くんも母子家庭で、お母さんが夜の仕事をしていたんだって」
「……それは」
「あなたは小崎くんの古い友達なんでしょう。彼の家族について知ってる?」
「……知ってるよ」
「じゃあわかるんだ。これが嘘だって」
わかる。
知っている。
小崎敬司の家族を俺は知っているし会ったこともある。
両親がいて、兄弟もいて、仲の悪くない親戚もいる。問題はある。大きな問題がある。けれど宇津見さんの環境と同じだとはそれこそ口が裂けても言えない。
敬司は宇津見さんに明確に嘘をついた。
それもおそらく、彼女に近づくために。
「小崎くんとよく話すようになって。彼の方から近づいてくることも、私から声かけることも増えた。そうしてたらいつの間にか周りが付き合ってるんだって見るようになってきて、私も嫌ではなかったから特に否定はしないでいる内に、まぁそういうことになったの」
一瞬、少しだけ震えていた声音はもう平坦なものに戻っていた。
過去を懐かしむように微笑んでさえいる。
「そこからはあんまり聞かせるようなこともないかな。普通に過ごして、お互いの家も行き来するようになって、ある日彼宛てに届いた手紙を受け取ったら、送り主が男の人で、名字が小崎だった」
名を聞くと、それは確かに敬司の父親だった。
「兄弟がいるなんて聞いてない。親戚も知らない。だからって言い訳なんて簡単にできたはず。でも少し問い詰めただけで嘘だってわかって、喧嘩……には最後までならなかった。私だけが感情をぶつけ続けて、小崎くんは最後まで謝るばかり。なんでこんなことをしたのか言ってくれなかった」
食堂での出来事はほぼ最後のことだったのだろう。終わりだと判断したからこそ敬司は俺に話を聞かせに来たに違いない。
「あなたにはわかる? どうして、小崎くんは私に嘘ついたのか」
わかる、と俺は言うことができた。
推測はできた。今俺の脳裏に浮かび上がる過去の中に共通点はいくつもあった。それは俺自身の罪と後悔に向き合えば容易に出てくるものだった。
わからない、と言わねばならなかった。
だって本当にわからない。点と点がつながらない。過去の出来事があったとして、その延長でここに至るのが理解できない。気持ち悪い。吐き気さえ覚える。
わかるもわからないもなかった。
「……俺のせいだ」
気づけばそう言っていた。
「どういうこと?」
「いや、わからない。わからないんだ。なんでこんなことになってるのかなんて本当にわからない。わかるのは俺のせいだってことだけで、あいつが何考えてこんなことしたかまるで理解できない」
口から出る言葉に意味を持たせられない。
根拠も何もなく、論理も説明できない。ただ思い出だけそれが正しいとがなり立てている。
俺もまたこう言うしかなかった。
「……俺が悪いんだ」
「――」
宇津見さんは息を呑んだ。
落ち着かせるように息を吸って、吐く。そうしてから感情の窺えない目で俺を見据え、そう、と言った。
「あなたたち、本当に似た者同士なんだ」
彼女は席を立つと、さっと伝票を掴むやためらいなく去っていった。
止めることもできず、俺はずっと座ったまま、うなだれていた。
◇
『もしもし』
「俺。久しぶり。今大丈夫か?」
『ああ大丈夫。久しぶり』
「宇津見さんと会った」
『そうか。元気そうだったか』
「お前が言うなよ。万全ではないだろ」
『うん、そうだな。何も言えない。資格がない』
「……わざわざ俺に会いに来て、お前の真意を知りたがってた」
『そうか』
「悪いけど、少し彼女から話も聞いた。お前らの馴れ初めとか」
『そりゃ恥ずかしい』
「茶化すな。なんでだ」
『ん』
「なんで彼女にあんな嘘をついた」
『ああ』
「どうしてあんな、まるで俺がお前にやったのと同じことを……」
『そうだな。そうだよ。答えとしちゃそれが正しい』
「正しい? いやわからない。理由がわからない。意味がないだろ、あんなことしても」
『意味ならあるさ。あった』
「……謝ってほしいなら、謝る。謝らせてくれ」
『は? いやいや、お前が謝ることなんてないだろ。そんなことするなよ』
「ずっと謝らなきゃいけないと思ってたんだ。お前に。けどお前がそんな風に何もなかったみたいに話しかけてくるから言えなかった」
『やめてくれ。頼む。求めてない』
「じゃあお前は何を求めてるんだ。何を求めてあんなことしたんだ」
『……』
「答えて」
『……お前に本当に、別に何も求めちゃいないんだ。何をしてほしいとか、まして謝ってほしいだなんて全然思わない』
「……」
『ただ、そうだな。一つだけ、不満に思うことがあったんだ。本当にそれだけなんだ』
「なんだよ」
『お前さ……』
「……」
『いや、悪い。待ってくれ』
「なに」
『今ちょっと家の方がまたごたついててさ。手が離せないんだ』
「……ああ」
『悪い。またこっちから連絡する。それまでにちゃんと考えとくし、桐子には俺からまた話す。じゃあな』
それで通話は切れた。
俺はそのまま、スマートフォンの画面が黒く落ちるまでじっと見るともなしに見ていた。
◇
小崎敬司と俺が出会ったのは中学の頃だ。
都会でも田舎でもないベッドタウンで、ああいうやつが生まれてしまったのは誰にとっても暴力的なことだった。
美貌。
魔性と言えばいいものか。本人にとっては不本意だろうが当時の敬司は恐ろしいほどに異性を惹きつける色を滲ませていた。
今も顔の造作は整っているし、少年から青年へ成長したことでより幅広く好かれるようになったのは間違いない。
ただし、当時の敬司にあって今の敬司からは失われているものが一つある。危うさだ。
今にも消えてしまいそうな儚さ。線細く、常に眉と目元に憂いを帯びながらも微笑む少年。
女たちは、ときには男さえ、そして教師でもあいつを求めた。
小崎敬司は、その当時トロフィーとして校内に存在していた。
彼を所有する、隣に置くことがあの小さな中学校の中での頂点であり、ゴールであった。
もちろんこれは俺の多分に偏見が混じった誇張表現かもしれない。他の誰ともこんな話はしていないし、大多数の生徒は敬司と関係のないまま卒業していったのも事実だ。
ただ、当時あの校内に流れていた異様な空気……一部の生徒たちが常に感情をあふれさせ、場に緊張をもたらしていたことはきっと卒業生の誰も否定できないだろう。
その中心に敬司がいた。
敬司が何かを求めたわけじゃない。あいつはただ流されただけだ。
あいつを取り合って女たちが影で争い合った。しかもその女たちというのが校内でとりわけ存在感のある女たちだったと言うだけの話なのだ。
狂う、とはああいうことかと思った。
今となってはまるでフィクションのようにも感じる。しかしそれが現実だった。
初めの内は、つまり俺たちの入学当初は「顔のいい新入生がいる」と噂になる程度だった。
一年のとき俺は敬司と別のクラスだったが、それでもあいつの話題が毎日のように聞こえてきたのだからまぁ、相当なものだ。とはいえそのときはアイドルに多少熱を上げるようなもので、興味のなかった俺などは引くこともあったが逸脱してはいなかった。
転機はいつだろう。
やはり二年のゴールデンウィーク後のことだろうか。
いや、熱は中心ほど高い。そして逃げ場がなければ高まり続けるしかない。初めは浮かれる程度で済んだものが、徐々に高まっていき、気づいたときには手がつけられなくなっていたというだけの話で、本当はとっくに閾値を超えていたのだろう。
俺のような外野の人間にも何かが起きているとわかったのが二年の五月、一人の三年女子の転校が契機だったというだけだ。
珍しい時期の転校であり、さらにその女子は生徒会にも所属し、テニス部の部長で、三年の中でも一際目立つ人だった。俺でさえ顔くらい知っていた。名前は思い出せない。
突然、彼女は学校に来なくなった。そして一週間もすると親しい友人にさえ一言もなく彼女は転校していった。
こうなってくると無責任な噂話に興じるのは人の常だ。そしてそれが中学生なら尚更、ましてやその話題の中心にあいつがいたとしたなら。
俺の耳にさえ入ってくるほどだった。
いわく「フラれた」「駆け落ちしようとして失敗した」「寝取られた」「寝取られた上にその現場を見せつけられた」「自棄になって処女捨てたら相手がヤバいやつだったので逃げた」「そもそももう何かをする気力もなくなって家族に無理やり引き離された」……
異様な空気だった。
中学生という未熟な時期。校内全体に流れる緊迫感。何かが起きているという現実味の無さ。その全てが合わさったとはいえ、ここまで下衆の勘繰りじみた噂が流れるかと打ちのめされたものだ。
今となって、人間には環境次第でそういうところがあると認識してから許せるようになったが、当時は噂話に加担するすべての級友に対して怒っていた。懐かしい義憤だ。
あのときの俺は周囲すべてに対して怒っていた。なるべく表には出さないようにしていたが、常に機嫌が悪かった。勉強している間だけは忘れられたから成績は上がっっていったのが皮肉だろう。
必然として友人は離れていった。ただでさえ数少ない話し相手がいなくなるともう俺が学校で口を開く回数はゼロに近くなっていった。そうなってすら噂話だけは耳に入ってくるのだから不思議だった。結局、俺自身興味を捨てきれなかったということか。
俺がぼっちになっている間にもあいつの周辺では次々と動きがあった。
生徒間の対立、教師の謹慎処分、一つの部活の消滅、封鎖された社会準備室……文字にすれば喜劇、当事者たちからしてみれば激動の出来事が山ほど起きていた。
そして、一時の小康状態が訪れた。二年の終わりのことだった。単純に敬司に一番執着していた先輩が卒業したのだ。一応そのときの敬司の恋人ということになっていた人だ。
もちろん別れたわけではない。だが、強烈な感情と言動を撒き散らす人間が一人いなくなったというだけで校内は見事に静まり返った。卒業式が終わり、年度末の終業式を控えていたということもある。皆疲れていた、というのが正直な感想だろう。
そうして平穏なまま春休みに入り……
俺と敬司は出会った。
――バカみたいに顔が良い。
校内ですれ違うこともあったが俺は基本そんなにしっかり人の顔を見ない。改めてちゃんと見た敬司の顔立ちは、俺でさえ一瞬呆気にとられてしまうほど精巧で美しいつくりだった。
市内の図書館のことだ。駅から離れ、何より学区外にあるその図書館にはうちの学生が少なく、俺は春休み中入り浸るつもりだった。中でも辞書や土地の資料が並ぶ本棚の奥にある座席はいつも空いていて、定位置にしようと思っていた。
そこに敬司がいた。
薄暗い館内で、そこだけスポットライトが差しているかのようだった。ぱらぱらとおもしろくもなさそうな顔で雑誌をめくっていた。名前は知らない。音楽雑誌だったはずだ。
敬司は雑誌をめくる手を止めると、顔を上げた。目が合った。
『……安城くん』
敬司の第一声はそれだった。
『……話したことあったっけ』
『無いよ。え、あった?』
『いや、名前。じゃあなんで知ってんの』
『同級生の名前くらい知ってるだろ、普通』
あまりに当たり前みたいに名前を呼ばれたので、こっちも普通に返してしまった。
敬司に限らず顔見知りを外で見かけても気づかぬふりをするのが俺だ。実際、相手側からも声をかけられたことはない。その程度の付き合いしか築いてこなかった。全くの予想外のことだった。
『安城くんもここ使うんだ』
『……うちの生徒がいないから、楽なんだ』
『はは、同じだ』
敬司は可笑しそうに笑った。どこかあどけなく、やはり作り物じみた笑顔だった。そう見せれば人が喜ぶと知っているような、と見るのは穿ち過ぎだろうと当時は思った。逆に今となってはその考えが正しかったと思っている。
そして当時の俺にとってもさほど効果のあるものではなかった。単純にそのとき俺は敬司に好意的な興味を抱いていなかったからだ。
生返事を返したはずだ。次の瞬間には「邪魔して悪かった」と離れ、さっさと帰る一心だった。
『普段どんな本借りてるの?』
だからまぁ、そんな問いにも適当に答えて「急いでる」だの「体調悪い」だのと嘘でも吐いてしまえばよかったのだ。そうするつもりだった。
『別に。色々だよ。海外ファンタジーとかミステリー、SF、ラノベも読むし最近は時代小説にも手を出してる』
『すごいな。読書家だ』
『そんなんじゃない。他にやりたいことがないだけ』
『いやぁでもいいね。俺は小説とか読めないからさ。単純に羨ましいよ』
『え』
衝撃だった。
言っている意味がわからなくて、離れようとしていた重心が思わず前に向かってしまった。
『どういうこと。長文読むの苦手とか?』
『あー、違う。正確に言うと小説っていうか、フィクション全般。漫画もアニメも映画も苦手』
音楽でも物語じみたやつは好きじゃない、と敬司は言った。なぜだかそのセリフが妙に印象に残ってしまっている。
『え、なんで?』
『幼稚園児の疑問だ……』
理解できなかった。
当時の俺にとって「物語を受容できない」人間がいるというのは幽霊や妖怪よりも信じられない存在だった。
『いや昔は読めたんだよ。それこそ絵本とか嫌いじゃなかったし、ニチアサのヒーロータイムも好きだった。それがちょっと前からダメになっちゃったんだよなぁ』
なんていうか、と敬司は頬をかいた。
『物語って、最終的には理解できない相手を許さなくちゃいけないとこあるじゃんか』
『そんなことないけど』
『即答かよ』
当時の俺にはわからなかったが、今ならば多少わかる。わかった気になれる。
あれは「物語は必ず対立した相手と和解する」という意味ではなかった。「そういう人間もいる」と認めなければいけないということだ、と、今は思う。
当時の俺も俺なりに「まぁ、こいつはこういう考えなんだろう」と釈然としないながらとりあえず肯いたところ、
『そうそう、そういう感じ』
と、敬司はけらけらと楽しそうに笑ったので多分合っているのだろう。
なぜだか俺はそこで奇妙な親しみを覚えてしまった。
思っていた相手と違ったからだろう。偏見を持っていた相手といざ話してみるとまったく違う方向にいて、逆に興味を覚えてしまった。そんなとこだ。
いかにも中学生らしい未熟で傲慢、一方的な好意だった。
ところが敬司は敬司で興が乗ったらしく「もうちょっと話さないか」と誘ってきた。
その後、俺たちは飲食自由のロビーの一角に居座り、自販機で買った紙パックのジュース片手にずいぶん話し込んだ。
『さっき持ってた雑誌は読めって言われたから開いてみたけどあれはあれで興味ないな正直』
『彼女に?』
『そう。知ってるんだ』
『うちの中学で知らんやついないだろ、俺が知ってるんだぞ』
『なるほど。まぁあの人わりとロックとか好きなんだよ。ライブもよく行ってるらしい』
『一緒に行ってないのか』
『興味ないって言ったろ。これ言うと怒るんだけど』
『ああ。好きなものは共有したいタイプか。趣味の領域は難しくね』
『そ。ちょっと曲聴くくらいならいいけどインタビュー網羅してライブも追っかけるのは無理だな。よくわかった』
話してみれば敬司はあっけないほど普通の同級生だった。
恋人に対する不満がある。娯楽の好き嫌いもある。男子中学生らしく粗めに笑うし口調も雑だ。
学校の中で作り上げられた超然たる魔性の美少年というイメージなどどこにもなかった……とは言いすぎだ。
顔の造作だけはどうしても際立っていた。
現に傍を通り過ぎる人々も必ず一度は敬司の顔に目を留めていた。見惚れて立ち止まる人さえいた。
誘蛾灯とか蟻地獄みたいだな、と俺はぼんやり思っていた。
『悪い』
と敬司が言った。
『何が』
と俺は尋ねた。
『落ち着かないだろう、周囲がこんなだと』
『別に、どうでも。……正直に言えば、知らない人だからだけど。学校の中ででもこんなだと俺はきついな』
『だよな』
『お前は』
きつくないのか、と尋ねようとした。
声にはならなかった。答えはわかりきっていた。こんな普通のやつが異常な環境にさらされ続けて何を思うかなんて明白だった。
敬司は俺の声にならなかった言葉を察して「そりゃきついよ」と言った。
『……安城くんはうちの噂、知ってる?』
『……地獄の六角関係とか調理実習下剤事件とか深夜授業とかの話?』
『違う違う俺じゃなくて。……ええ、すごいな。そんなことまで知られてんの。そっちじゃなくて、うちの』
小崎家についての噂だよ、と敬司はつぶやいた。
俺は口ごもった。それが答えだった。聞いてはいた。学校の噂ではない。地域に流れるゴシップだ。
子どもにまで絡みつく大人たちの醜聞だった。
『やっぱり知ってるんだ』
『いや知らない。……知らないよ』
否定した。敬司のためではなく自分のためだった。直視したくなかった。未熟で傲慢な子どもたちの学校だけでなく、成熟しているはずの大人……自分の親が、あんな噂で楽しげに、無責任に盛り上がっていたなんて。
実のところこれだけは、今も許せていない。
『うんまぁざっくり言うとあれ、本当なんだ。俺と父さんは血が繋がっていない。結婚したら母さんの妊娠が発覚した系のあれ。父さんに覚えのないタイミングで』
あっさりと敬司は言った。
他人事みたいに何の感情も負っていない声音だった。
『実を言うと俺も詳しくは知らない。多分色々あったんだろうなと思う。時系列もさ、何が前後してるかなんて、知っちゃったら許せなくなることも出てくるだろ。聞く気もないし、知らない方がいいんだろうな。事実だけ、俺と父さんは血がつながってなくて、父さんはそれをわかってて母さんと夫婦を続けて、下の弟もできて、今でもうちはわりと仲いい家族だと思うよ』
それは間違いなく事実なのだろう。
敬司がそう信じているだけかもしれない。だとしても他人がどうこう言える領域ではなかった。
『だから問題は俺なんだ』
やはりさらりとした口調だった。
それだけにその考えは自然に敬司の中にあるのだろう。
『母さんを許せないんだよ』
何も言えなかった。当然だろうと思っていた。
『バカみたいだけど何を許せないのかもわからないんだ。不義の子である自分を産んだことが許せないのか、父さんを騙したことが許せないのか、今も笑顔で暮らしていることが許せないのか……そもそもこの感情の根本は母さんに向けられてるのかも』
わからない、とつぶやいた。
『しかも許せないなら許せないで思いっきり反抗しちまえばいいのにそれもできない。家を壊したくない。いざ母さんに面と向かうと何も言えない。傷つけたくない。だからあんまり家には帰らないで、こうして知ってる人のいない図書館で時間を潰してる。ちょっと前までは先輩が遊びに連れ出してくれたんだけど、あの人も多分そろそろ限界だろうし』
そこで敬司は笑った。頬を歪ませて、何かを嘲る笑みだった。
『この顔。安城くんはどう思う?』
『……整っているな、くらいは』
『そんなもんだよね。多分、父親似なんだ。血縁上の。親戚さらっても似てる顔はいないし、前に母さんの友達が俺を見てぎょっとした。知ってるんだなって思ったけど何も気づかないふりをした。以来、鏡を見るのが少し嫌になった』
『きっつ……』
『だろ? それで学校もさ、小学校から多少あったけど、中学に上がったら女子にはつきまとわれるし、男は絡んでくるしでもうね。最初はまだ流せたけど、行動もだんだんエスカレートしてくしさぁ』
『噂は知ってる。誇張されてるんだと思ってたけど』
『俺は逆に噂話は知らないけど、まぁ大体本当だと思うよ。こいつらマジかってことめちゃめちゃあったもの。俺としては教師に相談してたら襲われそうになったのが一番衝撃だったな』
『あれ本当なんだ……』
『先輩と付き合うようになったの、それから助けてもらったのがきっかけなんだよ。あの人はあの人で独占欲えぐくて他人への攻撃に躊躇がないヤバい人なんだけどまだわかりやすいんだよな。俺の顔がめちゃめちゃ好みなんだってさ』
『……』
『笑っちゃうだろ。顔でひどい目に遭ってるんだけど、守ってくれる相手の理由も顔なんだ。俺の人生この顔を中心に回ってるんだよな。……なのに、俺の家にこの顔のルーツはないんだよ』
敬司は感情を昂ぶらせないまま、口を閉じ、目を伏せた。
少しも声が震えなかった。いくつも修羅場を潜ってきたからかもしれない。本来の優しい性格もあるだろう。嘲るように笑いながら、結局他人をことさらにひどく言うことはなかった。自分の境遇だけを嘲笑っていた。
――疲れている。
誰が見てもそう思うだろう。そのときの俺にさえわかるほどだ。敬司は疲れていた。中学二年の少年が、親を含むありとあらゆる他人に振り回され続けて気力を失っていた。
危うさがあった。作り物の美貌がもたらす儚さじゃない。それは生き物の不安定がこぼす陰だった。
何か言わなければいけない。
使命感、義務感……内から湧き上がる強制力が俺の口を動かそうとしていた。頭だけが必死にフル回転して「だからって俺に何が言える?」と現実を突きつけていた。
小崎敬司は疲れていた。それは確かだ。そのとき見れば誰だってわかる。普段は取り繕っているだけで、偶然通りすがりのよく知らない顔見知りがいたせいで仮面が剥がれてしまったのだ。
ではその顔見知りに何か言われて、はいそうですかと元気になれれば苦労はなかった。
俺に何を言う資格もないし、俺に何を言われたところで敬司には響かない。
無意味だし、無力だ。
――じゃあ誰なら響く?
切迫したときほどバカみたいな思考が浮き上がるものだ。答えはすぐに出た。簡単な、誰でもわかる浅知恵だ。
家族はダメ。繋がりが深すぎる。そもそも原因の一つなのだから言われたところで余計にこじれる可能性すらある。
恋人。これもいけない。話を聞く限り敬司にとって助けになることもあったらしいが、敬司を所有したい人間にとってこの状況は好都合だろう。
友人は……きっといないのだろう。かつてはいたはずだ。中学に入学する以前なら。少なくとも今、同級生に友人と呼べるような存在がいるか疑わしい。いたらこんなやつを相手に身の上話をするはずがない。
教師も無理。見ず知らずの他人など論外。上っ面の肩書はこの場合何の役にも立たない。
大事なのは立場だ。同じ境遇にあり、同じものを……似たような景色を見てきたものの言葉なら彼の心を打つだろう。
そんな人、世にあふれていても都合よく現れたりはしないけれど。
だからやっぱり俺は無意味で、無力で、何か言う資格などなかった。
なかったんだ。
『わかるよ』
俺は言った。どんな風に言ったのか、記憶に残っていない。ふわふわと熱に浮かされた頭が夢の中で口にした言葉なんか覚えてないように。
『小崎くんのこと、わかるよ』
『……わかるって、何が』
敬司が顔を上げる。
青白い顔に淀んだ目でなお、美しかった。
『俺も似たようなもんだから。うち、今親父の浮気がバレてすっごい険悪なんだ』
もちろん嘘だ。
我が家は平々凡々な中流家庭であり、父に浮気するようなバイタリティなどなく、母は若手俳優に熱を上げるだけで十分満たされていた。
薄っぺらな、ちょっと突っ込まれただけで崩れる嘘だった。
そうなってほしかった。愚かな嘘に腹を立ててくれれば、その怒りがある間は彼の中に火が灯るだろう。火はいつか消えるかもしれないが、春休みが終わる間だけでも十分だ。
新しい場所に行ければ、それだけで変わるものがある。
口にしてすぐに後悔しながら俺はそれを願っていた。
『本当?』
果たして、敬司は食いついた。
嘘などとはまるで思っていない顔で、目に光が宿ってすらいた。
『あ、うん。わかるって言ったけどちょっと違うか。でもまぁ、子どもからしたら親のそういうのってだけで嫌じゃん?』
『わかる。そうなんだよ。いやまぁ全否定はしないけど見せないでほしいと言うか』
『小崎くんの方がきついと思うが、うちもな……親同士のことだって子どもは話し合いに関わらせないようにしてるみたいなんだけど、外野に置かれて、知らないところで終わって、後はそれを受け入れろって空気が嫌でさ』
『わかる……』
敬司の様子は一変していた。
身を乗り出し、喜びに口元をほころばせ、真剣に俺の話を聞いていた。
俺はと言えばそのとき、口元から出る現実味のないふわふわした嘘に自分自身で怖気が走りつつも声色や顔に全く表れない自分自身に驚いていた。
……多分このとき、俺は一生分の嘘をついた。このときまでも嘘を得意だと思ったことなどないが、高校に進んでから以後、まったく嘘をつけなくなった。
それだけこの日のことは俺の人生において重くのしかかっている。
たとえ敬司本人が、一時とはいえ救われた様子を見せたとしても。
『……いや、楽しいな。久しぶりに楽しかった』
ひとしきり親への不満を互いにぶちまけあった後、敬司はそう言った。
いつの間にか外は薄暗くなっていた。真面目な中学生であればもう帰る時間だった。
敬司が名残惜しい様子だったので、つい言ってしまった。
『……明日も来るつもりだけど』
『そうか、じゃあまた明日だな』
そういうことになった。
中学二年の終わり、三年の始まりの春休み、俺と敬司は学区外の図書館で会っては二、三時間駄弁るようになった。
『敬司はさ、友達作ればいいんじゃないか』
『歩がいるじゃんか』
『いや、正直今のままなら俺、学校でお前を避けるよ。火事のど真ん中に突っ込みたくないもの』
『ひでえ』
表面上、俺たちはすっかり打ち解けてしまった。
敬司と俺とでは境遇が全く違い、趣味もかぶらず、交友関係などかすりもしないが、不思議と話が合った。
しかしそれは結局のところ、敬司生来の気質によるところが大きかったのだろう。環境によって抑制されていたが、あいつはもともとが明るく、相手を選ばず親しく接することができる善性を持っていた。今までその姿を見られなかったのは、周囲があいつを独占しようとしたのもあるが、単に誰にも気を許していなかったからだろう。
俺はただ、あいつの心の壁に嘘という穴を開けて侵入しただけだ。
『俺とお前が同じクラスになったらいいよ。でもそうならなかったとき、残り一年をまた修羅場で過ごすこともないだろ』
『ううん……』
『問題を分けようぜ。家のことは家のこと、学校は学校。親のやらかしはムカつくけど置いといて、昼間に気を抜けた方が絶対いいって』
『そうは言うけど、歩だって友達いないだろ』
『俺はいいんだよ。友達必要ないし、周りもほっといてくれる。お前は周囲がほっといてくれないタイプだろ』
『う』
『いくら恋人がいようがもう卒業した以上完全なバリアにははらない。なら自分で自分の心身を守らないとあと一年大変じゃないか』
『で、友達作れと』
『そう。簡単だろ?』
『いやー、もう二年いなかった存在なので何とも』
何日か話してわかったが、敬司はあれで図太い人間だった。
本当にあいつにとって問題なのは親のことであり、それさえ時間をかけて成熟していく内に呑み込んでいただろう。
足を引っ張ったのが顔だ。
家が気まずくとも学校にいる間少しでも忘れられればよかったのに、今度はあいつを奪い合う女たちという修羅場が待っていた。さらに、その原因である美貌は親の問題にも関わってくる。逃げ場はなかった。
ところが聞いてみたところ、意外と敬司は女たちを冷静に観察していた。恨むのも仕方なく、蔑むのも自然に思える関係だが、敬司の声には不思議と重く湿った感情がなかった。呆れは含まれていたが、それさえどこか感心するような響きもあったのだから。
『女子はちょっと厳しいな。大体の人には避けられてるし、どうもかわいそうな目で見られてる気がする』
『そこで真っ先に女子の方が出るのがすげえよ。何、記憶喪失なの』
『別に大半は関係ないし、昔は女子の方が優しくしてくれるから一緒にいて楽だったんだよな』
『大半の男を敵に回す発言だ……』
『ひどくない?』
『じゃあ男はどうなんだよ。別に嫌いじゃないんだろ。小学校のときは友達いたみたいだし』
『女関係で二年間学校めちゃくちゃにしたやつ普通に友達になりたくなくない?』
『わかってんじゃん!』
おもしろいやつだった。
洒脱で陽気、人を笑わせるのが上手く、少し話すだけで多くの人は好意を持つだろう
『あれだな、お前のミスがわかった』
『何よ』
『中学生女子の性欲を見誤ったんだよ。知らなかったのかな』
『ええ……性欲ってお前』
『他になんて言えば良いんだよ。恋愛全部が性欲だなんて言う気はないけど、お前に対するそれは別。性欲』
『歯に衣着せないなぁ』
『肉食動物の群れに丸々太った家畜が突然現れて親しげに振る舞ったらそりゃ狂う。なんか女たちがかわいそうに思えてきたな』
『あ、わかる? たとえはなんか気に食わないけどそうなんだよな。こんな見た目に惹かれたせいで人間関係めちゃめちゃになっちゃった人も結構いたからさぁ。洒落にならん人もいたしさすがにあれはどうかと思うけど』
『……やっぱお前友達作れよ。男女どっちでもいいけど、男が楽か。多分、同級生はそこまでお前を嫌いじゃないよ。嫌ってるやつもいるだろうけど気にかけてるやつもいる』
『そうかなぁ』
『そうだよ。ヤバかった上が卒業したんだから、もういい加減学校の空気も少しは変わるだろ。これでまだお前をダシにして問題起こすようなやつは、まぁいないかも限らんけどもうそういうやつわかるでしょ、事前に』
『まぁ振り返ればヤバい人は最初からちょっと違ったな、うん』
『そういうのは上手くかわして、普通のやつとまずは友達になってみろよ。それできっと変わる』
『変わらなかったら?』
『そんときは……まぁ言い出しっぺだし、俺が話し相手になるよ』
『お、よろしく』
『真面目に作れよ、友達』
『うんうんわかってるわかってる』
そして俺たちの春休みは終わった。
図書館で交わした、一週間程度の出来事だ。
果たして敬司は中三の一学期が始まると同時にクラス全員に話しかけ、その大半と友達に……少なくとも、休み時間に話す仲になることに成功した。
それからはもう早かった。学校の空気は徐々に穏やかになっていった。上の世代が卒業し、何も知らない新入生が入ってきたことも大きかっただろうが、やはり一番は敬司の周囲が健全になったことだろう。
去年までのことなどなかったように平和になった学校で俺はというと相変わらず一人でいることが多かったが、それでも多少の話し相手くらいはできた。
俺と敬司は大体月に一回、また図書館で会っては話していたが、それももう必要なくなっていたことは明らかだった。敬司の話す内容は学校であった笑えたことだったり、下級生にストレートに告白されてめちゃめちゃ狼狽えてしまったことだったりと、ただ健全だった。
それに、少し親と喧嘩したことも。
喧嘩といっても大したものではないようで、自分の感情を過度に攻撃的にならずに親にぶつけ、だからといってすぐに理解もされずに口論になってしまったと。
何も変わらないけど少しスッキリしたと敬司は言った。また日を改めてゆっくり何度でも話していくとも。
良かったと俺は思っていた。良かったと思えば思うほど俺の中では泥が溜まっていた。
早く一年が過ぎ去ってほしかった。
別々の高校に入学して、少しずつ疎遠になって、その内敬司には俺のことなど忘れ去ってほしかった。
当然、俺の思い通りにはならなかった。
それは夏のこと、夏の終わり。
俺の嘘がバレた。
◇
数ヶ月ぶりの帰省に対して特に思うところはなかった。
父は相変わらずのほほんと乱読家でまた電子の積読が増えていた。母は母で現在タイのドラマにハマっているらしく俳優のSNSを追うのに忙しいという。
特別な会話もなく、気まずい無言が続いたわけでもなく、一応顔見せとくか程度の予定は一日で消化された。となるといつ帰ってもいいわけだが、まだ一つだけ用事がある。
メッセージが来たのだ。今帰省していることを伝えると「俺も!!!」と返ってきて場所が指定された。
母の自転車を借り、よくもまぁ当時はこんな距離を毎日往復してたもんだとえっちらおっちら漕いでいく。着いた頃にはもう汗びっしょりになっていた。
館内に入るとさすがに冷房が効いていて助かる。
ロビーの一角に目をやると、すでにいた。近づく。
「よ」
「おう」
短くあいさつすると、俺も対面のソファに腰を下ろし、ぐるりと周囲を見渡す。
記憶にあるより小さく、古かった。ソファの表面はあちこち剥がれ、修復した跡がうかがえる。壁の自動販売機には色あせた安っぽいサンプルが並び、照明も薄暗い。
それでも、座ってしまえば思い出すものがいくつもあった。
目の前には、あの頃からそのまま大きくなったような男がいる。
「とりあえず、おつかれ」
「ああ。まぁほんと、実際シンプルに疲れたよ」
敬司は深くため息をついた。
さわりだけ聞いていた俺もさすがにうなずく他ない。
「遺伝子上の父親が死んで、まさか俺に遺産が来るとはねえ」
声色から読み取れる感情はない。表情も、わずかに眉根を寄せているが怒りも悲しみも見えない。
「遺伝する病気だった?」
「嫌なこと聞くな……普通にがんだよ。胃がんだってさ」
敬司はもう一度ため息をついた。
「うちの親もさぁ、まさか向こうと連絡とってたとはね。しかも主に父が。久しぶりに家族に対する不信感が湧いたわ」
「お前のお父さんすごいよね色々と、本当に」
「子どもとしちゃたまったもんじゃないが。……父いわく、思ったよりまともな人だったとさ。独身貴族を謳歌してたらしい」
「はぁん、その遺産がまるまるお前に来たと」
「まるまるは来ねえよ。わりと若く亡くなったから、ご両親も存命でずいぶん気落ちしてた」
「会ったのか」
「向こうの希望で一回だけな。今後はもう会うこともないだろ」
「向こうとしても突然降って湧いたような唯一の孫だもんな」
「いやぁ、他にもいるんじゃないか。俺っていうヘマがいるわけで、やっぱりかなり遊んでたみたいだし」
「血だねぇ」
「俺は遊んでない。全部本気だ」
にやりと敬司は笑った。俺は渋面を作ってみせた。
「悪かったな。そんなわけでこの頃大分忙しくて後回しにした。終わったら終わったでレポートラッシュが来るし」
「いや、そういうことなら全然かまわない。こうして今話せているわけだし」
俺は一拍置いて言った。
「その後、宇津見さんとは?」
「一度会った。前よりはマシな話ができたと思う。お前のおかげだ」
「そんなことないだろ」
即答した。あんな有様で宇津見さんのためになったとは思えない。
「あるよ。自分の行いを振り返るいい機会になった。桐子には申し訳ないことをした」
敬司は静かな声で言った。苦い笑みが貼り付いていた。
俺は一度目をつむり、開くと、尋ねた。
「なんであんなことしたんだ、敬司」
「……」
「なんで……宇津見さんを、騙すようなことを」
敬司の顔からは表情が抜け落ちていた。
「お前と同じことをしようと思ったんだ、歩」
その答えは予想していたもので、明らかだった。
だからやっぱり理由だけがわからなかった。
「どうして!」
「答える前に、俺も一つだけ聞いていいか?」
「……何だよ」
「ここで最後に会ったときのこと、覚えてるか」
覚えていた。
忘れるなどできるはずもなかった。
「……ああ、覚えてる」
「あのとき俺はこう言ったよな」
そして敬司は口にした。
一言一句変わりない、五年前と同じ言葉を。
「歩、どうしてあんな嘘をついたんだ」
記憶が蘇る。
ここに置き去りにしたままのあの頃の自分がソファの下から這い出してくる。
「先輩もひどいことするよな。俺はいつまででも待つつもりだったのに無理やり連れ出すんだから。そもそもあの人がお膳立てした席だったのに」
……俺の嘘は結局、当時の敬司の恋人である卒業生が暴き立てた。
楽しく中学生活を謳歌し始めた敬司を疑った彼女は何が起きたのか調べ、その末に俺と敬司が図書館でたまに会っていることも突き止めてその会話を盗み聞きした。俺が敬司と似たような境遇である嘘を前提にした会話を。
彼女はすぐに俺の話が完全な偽りであることを調べ上げ、すべて敬司に教えた。
そして俺がいつも通りのこのこと図書館に赴くと、そこには思いつめた様子の敬司とかすかに見覚えのある女性がいた。
敬司は尋ねた。
『嘘ついてたのか……俺のことわかるって言ったのは嘘だったのか?』
俺は肯いた。
ここに至ってなお嘘をつき続ける意味はなかった。敬司が望むならどれだけ罵られ、殴られたってかまわなかった。
けれどその問いにだけは答えられなかった。
『歩、どうしてあんな嘘をついたんだ』
あのときの感情はどんなに言葉を尽くそうとも正しく言い表せない気がした。自分でも正確なところはわからなかった。言えば言うほど言い訳でしかない気がした。
ずっと間違っているとわかっていたのに、敬司が楽しそうだったから正せなかった。
俺は答えられず、ただうつむいた。
いつの間にか敬司は恋人ともに去っていた。
今また、同じ問いが突きつけられていた。
あの頃は答えられなかった。今もまだ口は重い。でも、開けられないほどじゃない。
俺は口を開こうとして、
「俺から先に答えるよ。桐子に嘘ついた理由」
と、遮られた。
思い出を愛おしむように敬司は目を閉じ微笑んでいた。
「桐子の過去を聞いたとき、俺は無性に桐子が愛おしくなったんだ。以前からちょっといいなと思ってた。その気持ちが急にふくらんで、俺の中を一気に占領した。あいつを笑わせたかった。少しでも人生の支えになりたくなった」
「……なら、どうして」
嘘なんかとは口に出せなかった。
「今まで、高校時代に付き合った相手も含めて全部、俺はフラれ続けてるんだけど」
「何?」
「原因がね、全部一緒なんだ。俺は肝心なところで彼女たちに嘘をついてきた」
「……」
「桐子ほどパーソナルな部分に踏み込んだ嘘はなかったはずだ。でも、彼女たちの心により近づくために俺は嘘をついてきた。いつも最後にはバレてしまって、俺がしたのは彼女たちの心をより傷つけることだけだった」
「敬司、お前……」
「歩、俺はお前みたいにやりたかったんだ」
敬司はまっすぐ俺を見て言った。
「お前の嘘で救われたから、お前みたいに嘘で救えると思ってたんだよ」
「馬鹿だ……」
罵りが勝手に口からこぼれ落ちた。
「お前、馬鹿だ、敬司」
「そうだな。うん、そうなんだよ」
「……俺がお前に嘘をついたのは、単に寝覚めが悪かったからだ。お前を救いたかったんじゃない。自分が嫌な思いをしたくなかったからだ」
思い出す。
あのとき、敬司を見て覚えたものを。
万が一にもありえないと思いながら、万が一にはありえるかもしれないと思わせるほど陰のある姿を
「お前が明日にも死んじゃいそうな顔してるように見えたんだ、俺には」
「……そうか」
敬司はため息をついた。
長く、深いものだった。
「当たってるよ。あの頃俺は毎日どっかで自殺を考えてた」
瞬間、敬司はまるで中学のあの頃みたいな顔をしていた。
「自分の家が嫌だった。どこかで母を汚いと思っている自分がいるのが何よりも。学校が嫌だった。対等な友達がいない。流されるだけ流されて、周囲をめちゃくちゃにしながら無責任面する自分には当然だと思っていても。自分自身が嫌だった。この顔も嫌いだったが、何よりも一番この顔に振り回されている醜い自分には吐き気がした」
頭を振って、俺を見る敬司はもう、今の顔に戻っていた。
「だからなんだな、きっと。死んでしまいたくなるような人生を変えてくれたから、俺はお前の嘘が好きなんだ、歩」
「……だからって」
「うん。だからって嘘は良くない。やっとわかった。嘘は良くなかったんだ」
敬司は笑った。晴れやかな、苦いものも混じりつつ、それでも明るい笑顔を見せた。
「あのときのお前は良くない手段を選んでくれた。選ぶ方も嫌だったろうに、つらかったろうに、嘘で俺をどん底からすくい上げてくれた。俺はそれにすがった。それだけの話なんだ」
「……嘘だって言い出せなかっただけだ」
「そうだよな。それも今ならわかるよ。だからあの日、もし先輩の手を振り払ってお前の答えを待っていたらと思う。そしたら俺もお前も、今もう少しマシだったかもな」
少しだけ考えてみるが、ちっとも想像つかない。そんなことよりも先に、俺にはやることがあった。
ずっとずっとやらねばならないと思っていたことだ。
「敬司」
と俺は呼んだ。
「うん」
と敬司は応えた。
「あのとき嘘ついて、ごめん」
「あのとき嘘ついてくれて、ありがとう」
言った瞬間、肩の力が抜けた。肩どころではなく腰まで、全身にかかっていた重しがとれたようだった。
たまらずソファに身体を預けて前を見ると、敬司も同じようにソファに身を投げ出している。
「……やっと言えた」
「本当にな」
お互いだらしない姿でうなずき合う。
あの頃から五年、敬司と再会してから一年……だというのに、ようやく再び出会ったような気分だった。
目をつむると、いろいろなことが思い浮かぶ。
あの頃の自分の鬱屈した思い、敬司に対する憐憫、同級生たちへの一方的な軽蔑、親や大人に対する不寛容……思い返すほど、自分の未熟さに嫌気が差す。それでももうそれは不快な記憶ではなかった。
後悔だけが残るのだとずっと思っていた。
人と関わっても、後悔だけを与えるのだと。
そんなことはなかった。意味はあった。
あの頃の偏屈で傲慢で未熟な自分にも、意味は。
「ところでさ、歩。一個言わなきゃいけないことがあるんだ」
「……何」
「桐子いるじゃん。ここに来る前、一度桐子ともちゃんと話したってさっき言ったじゃん」
「うん」
「大体のことは話したんだよ。中学の頃まで含めて。お前とのことも言った。すまん」
「……彼女にはお互い迷惑かけたもんな。当然だと思う」
「でさ、ケリつけろって発破かけてくれたのも桐子なのよ」
「いい人だなぁ……」
「うん、で本題なんだけど、ケリつけた後ちゃんと報告しないといけないんだけど、お前も一緒に来てくんない?」
「……なんで? 悪いことしたと思うし謝れるなら謝りたいがそれこそ迷惑では」
「いや、まぁその、俺一人だと報告で終わりそうでさぁ……」
「うん」
「よりを戻したいんだ、やっぱり」
「別れたときのダメな潔さはなんだったんだ……」
「それも含めて反省した。ていうか別れが今までで一番つらい。無理。俺には桐子しか考えられない」
「めっちゃ正直に言うけどお前に彼女はもったいなく思えてきたな……」
「ああ!? お前まさか桐子狙ってんのか!」
「最悪の言いがかりだ」
そしてバカみたいに笑いながら話してたらさすがにうるさいと注意されてクソ暑い外に追い出され、ママチャリを押しながらの帰り道、どうやって宇津見さんに謝るかを話し合った。
中学のあの頃よりも少しだけ遠慮なく、あの頃よりも少し伸びた歩幅で、あの頃にはできなかった好きな女の子の話をしながら、ゆっくりと。