【書籍化】転生スケベ令嬢と、他人の心が読める攻略対象者
前半ノンノ視点、後半アンタレス視点です。
現世での私の名前はノンノ・ジルベスト。ジルベスト子爵家の次女である。
王城で文官として勤めている父と、のんびり刺繍にいそしむ母と、おっとりとした姉と共に王都で暮らしている六歳の女児が私である。
いのいちばんに現世などと言うからには、私には前世の記憶がある。それも生まれた時からだ。
前世の私は高校卒業と同時に亡くなった。
その時の恨み辛みは今の私の心をも蝕む。思い出しただけで腸が煮えくり返り、どうしようもない悔しさに涙が込み上げてくる。
だけど誰かに聞いて欲しい。あの日私はーーー念願だった18禁乙女ゲームをついにネット注文し、コンビニへ前払いに出掛けた途中で交通事故に遭って死んだのだ……! だってクレジットカードとか持ってなかったんだもん……!
前世の私は変なところで生真面目で、人一倍えろいことに興味津々だったというのに、高校卒業していないからという理由で18禁の映像にも画像にも漫画にも小説にも手を出さずに生きていた。どれだけバカだったんだろう、私。
十八歳の誕生日にこっそり解禁してしまえば良かった。あと数ヵ月で卒業だし、大学受験もあるし……なんて考えて良い子ちゃんだった前世の私をぶん殴ってやりたい。死んじゃったじゃん、えっちな動画も画像も何一つ知らないまま死んじゃったじゃん、あんなに見たかったのにーー!
リアルな彼氏? もちろん居たことないよ。
居ない歴年齢の処女だったから破廉恥なロマンスとか味わったことないよ。
もう前世の自分の真面目さが憎くて憎くて、思い返す度にハゲ散らかしてしまいそう。
なにせ今の私が生まれ変わった世界には、破廉恥そうなものが全くないのだ。
全体的に中世ヨーロッパ風の異世界に私は生まれ変わってしまったのだけれど、この世界、貞淑すぎる。
齢四歳にして我が家の蔵書をすべて見聞した結果、一冊だけ閨に関する本を見つけたが、内容は小学校の保健体育の教科書よりえっちじゃなかった。これなら前世で近所のお姉ちゃんに借りた少女漫画の方がよっぽどえっちだったわ。ハンッ(鼻で笑う音)
ご婦人向けの恋愛小説にも目を通したけれど、濡れ場になると暗転してしまう。『ジャクリーヌはマルクスによって寝室へと連れこまれた。そして長い夜が更けていった。』みたいな。その長い夜が詳しく知りたいんじゃワシは。
それに、この世界でいちばん最悪なのは長すぎるスカート丈だ。
貞淑さを求めた結果、女性は足首を晒すことさえはしたないとされているのだ。パンチラどころかふくらはぎすら見れないのである。
ああ、少年漫画のラッキースケベが恋しい。美少女のパンチラの上に顔面からダイブしてしまう少年主人公って、本当に幸福者だったんだなぁ……。
ちなみにご婦人の夜会用ドレスは胸元がバーンと開いているのだけれど、六歳である私は夜会に出席することがないのでまったく見る機会がない。おっぱいいっぱい見たい。
そんな前世の後悔と現世の環境の悪さにより、私は見た目は子供煩悩は大人というとんでもねぇ幼児になってしまったのである。
「ではノンノ、他の子達と仲良くしているのですよ」
「はい、お母様」
母に連れられて、私は気楽なお茶会へと参加することになった。
母をはじめとするご婦人たちは中庭に面したテラスに用意された大きなテーブルで、刺繍やレースなどを編みながらおしゃべりに夢中だ。これは社交より趣味に重きを置いたお茶会なので、母はとても楽しそう。
そんなご婦人たちに連れてこられた我々子供軍団は、中庭に広げられたラグの上に集まっている。
ぬいぐるみや人形を持った可憐な少女たちや、植物図鑑を広げる少年たち。非常に長閑ですなぁ。
……さてと。
私は花を摘むのに夢中になっている振りをしながら、少しずつ場所を移動する。目標は屋敷の裏口の方である。
このバギンズ伯爵家でのお茶会ももう三度目になるので、私はヒューマンウォッチングにちょうど良い場所をすでに見つけていた。
そう、お屋敷の裏口というのは下働きの者たちが見られたりするのである。
お茶会にいる貞淑なご婦人たちを見ているよりは、下働きの人たちの方が隙があるのでなにかラッキースケベでも起きないかなぁと、下心しかない期待で私は胸をときめかせていた。
ちなみに六歳児のまっ平らな胸である。母や姉の様子を見るに、我がジルベスト家には巨乳遺伝子はなさそうでガッカリである。
そんなこんなで私は裏口近くの茂みに潜み、蚊と戦いながらそこで誰かが訪れるのを待っていた。
三十分も経っただろうか。ひとりの若い侍女が裏口に現れる。
私は蚊に刺された左腕をボリボリと掻きながら、その侍女を凝視した。
「ああ、今日は本当に暑いわ……これからお使いなんて嫌になっちゃう」
侍女はそう呟くとスカートのポケットからハンカチを取りだし、自身の首筋を拭った。胸元のリボンを緩め、貝ボタンを一つ二つと外していく。そして汗ばんだ鎖骨の辺りにハンカチを当てた。
もう少し……あと二、三個くらいボタンを外したりしないだろうか。
ここには若い侍女しか見当たらないのだし、こう、もっと大胆に胸元を広げたりとかしないかしら。
なんだったらスカートをまくりあげて、太ももの汗を拭っちゃうとか……。ガーターベルトとか見たいなぁ、うへへ。
「……おい」
あ、侍女がボタンを留め始めた。くそぅ。
もっと大胆に脱いで汗を拭けば良いのに。
あーあ、なんのチラリズムもなかったな。
買い物籠を持って屋敷の外へと出ていく侍女の後ろ姿を眺め、私は深々と溜め息を吐く。
次はもっとスケベなシーンが見たいものだ、と私は茂みに座り直したところで、隣にぷにぷにの頬をした男児が居ることに気が付いた。
「なぁ、おい、アンタ、本当に何を考えてるんだ……?」
男の子は顔を真っ赤にさせながらも、私のことを化け物を見るような目で見つめていた。
「……人間観察をしているだけよ。お庭に飽きちゃったから」
ところで私、ヘーゼルナッツ色の髪と瞳をした、幸薄そうな美幼女である。
満面の笑みを浮かべても他人からは困り笑顔に見られてしまうほど、線が細くて儚げな雰囲気の六歳である。
こんなか弱そうな美幼女の中身がスケベモンスターだなんてこと、誰が想像出来るだろうか。出来るわけがねぇ。
私は自信を持って男の子に笑いかけた。
しかし男の子はどん引いたように一歩後退した。
「なぁに? きみ、どうしたの?」
微笑みを絶やさず小首をかしげれば、男の子は真っ赤な顔のまま恐る恐る口を開いた。
「『ここには若い侍女しか見当たらないのだし、こう、もっと大胆に胸元を広げたりとかしないかしら。なんだったらスカートをまくりあげて、太ももの汗を拭っちゃうとか……。』」
「え?」
「『次はもっとスケベなシーンが見たい』」
「も、もしかしてきみって……」
「……そうだよ、僕は他人の考えが……」
「きみってとってもエロい人?」
「違うよ!!!」
そんなわけないだろっ! と憤慨するこの男児こそが、この世界『レモンキッスをあなたに』という超健全すぎる乙女ゲームの攻略対象者アンタレス・バギンズであることに、私はようやく気が付いた。
『レモンキッスをあなたに』は前世の私が小学校高学年くらいにプレイした超健全ピュアピュアな乙女ゲームである。
なんとまともなラブシーンが、ハッピーエンドを迎えたときのキス一回だけだ。あとはお手手を繋いだり、額同士で熱を測ったりくらいの接触しかない。
ファンの間ではラブシーンの濃厚さよりも、ヒロインと攻略対象者が心の絆を深めていく丁寧な過程に萌えるのだ、との評価だが、当時小学生だった私は早々に飽きて一回全クリしただけで終わった。
もっとラブラブチュッチュッしろよオイという感想しか浮かばなかった。
プラトニックを理解しない前世の私も大概荒んだ心の女児であった。
アンタレス・バギンズ伯爵令息は、他人の心が読めてしまう言わばテレパシーの超能力者だ。
幼い頃からその能力により人の裏の顔を見続けてきたアンタレスは引きこもりがちになる。
そんなアンタレスを心配した両親が年の近い子供を集めて気楽なお茶会を何度も開くが、アンタレスはお茶会に出席しない。
けれどある日のお茶会で、アンタレスはとても大人しそうな女の子を見かける。この子なら大丈夫かもしれないとアンタレスは屋敷から出てくるが、彼女にテレパシーを気付かれてしまい「化け物!」と怖がられてしまう。
アンタレスは深く傷付き、それ以来極度の人間嫌いになってしまう。
そんなアンタレスの深い心の傷を癒すのが、学園で出会うことになるヒロインだ。
ヒロインのどこまでも無垢で清らかな心を知り、アンタレスはヒロインに恋に落ち、様々な障害を乗り越えてヒロインと結ばれる。ーーーそれが彼のルートだ。
幼いアンタレスに「化け物」と怯える少女こそが、この私ノンノ・ジルベストだったのだろう。
しかし目の前に居るアンタレスの表情を見てごらんなさい。
私のことを「化け物」と言いたげに怯えている。立場逆転してるよ。
「ねぇねぇ、アンタレスくん」
私は幼子をなだめるような優しい声を出すが、アンタレスはビクッと肩を大きく跳ねさせた。
まぁ気持ちはわからなくもない。
こんな儚げ美幼女の中身がこれほどドスケベだとは、思いもよらなかったのだろう。それこそテレパシー持ちのアンタレスでなければわからないはずだ。
正直、四六時中エロいことしか考えてない頭の中を知られてしまうのは、なかなか気まずい。
だけど前世の死に際の無念さを思い出せば、いたいけな男の子の前でも開き直るしかない。
人生は一度きり。もう二度と悔いなんて残したくない。
だから私は私の人生を謳歌してみせる。好きなだけ我が煩悩を燃やすのだ!
「人は見かけにはよらないということを、きみはそんなに幼い内から知ることになって、とても苦しいと思います」
ちなみにアンタレスは淡い金髪とエメラルドグリーンの瞳をした、攻略対象者らしい美少年である。
そんな美少年が私を見て怯えている。
「けれど人は大人になる過程でいずれ気付くんです、人間は薄汚れた心を持っていることに。薄汚れているくらいが普通だってことに」
「……薄汚れた心が普通?」
「そうです!」
「でも、人前では優しいふりをして心の中ではその人の悪口を言うやつとか、そんな人が普通だって言うの?」
「かなり超絶普通です!」
私は力強く頷く。
「笑顔の下の感情がどんなに醜くて汚くても、異常はありません。本当に悪いことは、実際に他人を傷付けることです。実際に口に出して相手の心を傷付けたり、物を盗んだり、怪我を負わせたり殺したりするのが悪いことなんです」
心に秘めているのならば、相手のことをどう思っても自由だ。好きでも嫌いでも良い。
ただ相手の悪口を口にしたり、いじめたり、自分の外側に悪意を出すことがいけないことなのだ。
私がドスケベなのは私の自由だけど、それで突然巨乳のお姉さんの乳を揉んだり、美青年に襲いかかったりしたら犯罪者になってしまう。そういうことだ。
でも多少の覗き見は許して欲しい。この美幼女に免じて。
私がそんなことを強く思えば、アンタレスは半信半疑ながらも頷いた。
「アンタレス、きみのテレパシーはすごいものだよ。もし心の中の悪意を表面に出そうとする犯罪者に出会ったら、真っ先に逃げられる。自分の身を守れるんだから」
「うん……」
アンタレスはそれからようやく私に訊ねた。
「それであんたが頭のなかで考えている、前世とか攻略対象者とか破廉恥なこととかって、なに?」
そんなふうにして私とアンタレスの交流が始まった。
▽
時は流れて十年後。
私とアンタレスは十五歳の時に『レモンキッスをあなたに』の舞台である王立学園へ入学した。そして現在二学年。ついにヒロインが同学年へと途中編入したことにより、無事に乙女ゲームが始まった。
ヒロインはピンクブロンドと青い瞳が綺麗な美少女で、すでに攻略対象者たちを魅了しているようだ。
この国の王太子殿下に、一学年下の第二王子と双子の第三王子。同じクラスの世話焼きの侯爵家令息や、上の学年の公爵家令息と選り取りみどりという感じだ。
これが『レモンキッスをあなたに』という超健全乙女ゲームではなく、それこそ前世の私がプレイすることの出来なかった18禁えろえろ乙女ゲームの世界だったなら、私はヒロインに対してなにかしら行動に出ただろう。
濡れ場を覗き見するとか、なんならお友達になって恋愛相談に乗るふりで攻略対象者たちとのドスケベ話を聞き出すとか。
あーあー、なんでそっちの乙女ゲームに転生出来なかったんだろう私。こんな超健全世界とか拷問だよ~。
ちなみに超健全世界のせいか、攻略対象者たちに婚約者や恋人の存在は居ない。略奪愛とか健全ヒロインのすることじゃないもんね。
そのためこの国の貴族たちは在学中に恋人を見つけるか、卒業後に婚活して結婚という流れが多い。すでに婚約者が居る人はごく少数派だ。
もちろん私にも婚約者や恋人は居ない。
このままでは前世と同じく処女歴を更新してしまうのでは、という焦りがないわけでもないけれど、一応縁談があるみたいなことを両親が言っていたので処女の貰い手……じゃなく嫁の貰い手がないということはないだろう。在学中に恋人が出来るかもしれないし、と私は密かに期待している。
どうせ結婚するならばスケベな人が良いな。
隣国の辺境伯爵が大層な女好きで愛人をたくさん囲っているという噂は本当だろうか。奥さんもいらっしゃるらしいので、上手いこと第二夫人あたりに収まれないだろうか。夜の生活は気持ちいいことにこしたことはないだろうし、他人のドスケベも見放題な生活とか素晴らしいと思う。
この国は超健全乙女ゲームの舞台であるせいか、そういう破廉恥な人が居ないのだ。
愛人とか不倫って何? みたいな万年新婚夫婦ばかりが暮らしている。
それはもちろん良いことだけれど、ゲームの強制力ならすごすぎる。
恋愛結婚と政略結婚の割合は五分五分なのに、もれなく全員ラブラブ夫婦になるのだから。
そのわりに閨教育が小学生の保健体育レベルなんだからなんだかなぁ……。これも強制力だろうか。
「……ノンノのご両親が、女にだらしない噂のある男のところにノンノを嫁に出すわけないだろ」
「あ、アンタレス」
ドン引きした顔で現れたのは、もはや幼馴染みと呼んでも良い存在であるアンタレスだ。
淡いブロンドがサラサラと揺れ、エメラルドグリーンの瞳が宝石よりもより一層輝いて見える。
十年の年月を受け、ぷにぷにの頬をしていた男の子はシュッとした美少年へと成長した。
図書館に隣接する中庭のベンチに腰を掛けていた私の隣に、アンタレスは長い脚を投げ出すようにして座る。
他人を冷めた目で見るアンタレスの横顔はとてもきれいで、彼を調教したいと願うご婦人達はきっとたくさん居るのだろう。
きっと緊縛とか手錠とか似合うだろうな。
そう思ってアンタレスを見つめていたら、アンタレスの頬がじわじわと紅潮し、無表情を装っていた顔が崩れていく。
「もう、ノンノは昔からそうだけどさぁ……、聞いている僕の気持ちも少しは考えてくれないっ? なんだよ緊縛とか手錠って……」
「ごめんごめん」
「心と一致してないってわかってるんですけど」
「まぁ心の中のことは大目に見てよ。実際に私がアンタレスに手錠を強要したら衛兵に突き出していいからさぁ」
「『あ、突き出すって言葉えろいな』って思いながら言わないでくれる?」
目元を赤らめながら睨むアンタレスの顔はちょっとかわいい。出会った頃のアンタレスを思い出させる。
「……それでノンノはなんでこんなとこに居るわけ? またお得意のヒューマンウォッチング?」
「私の心を読めば良いのに」
「今現在考えていること以外を読むのは面倒なんだけど」
アンタレスのテレパシー能力はかなりチートで、他人が今現在考えていること以外にも、その人が抱える深層心理や過去のトラウマ、場所や物から残留思考を読み取ることも出来る。『レモンキッスをあなたに』の攻略対象者じゃなくて推理物のゲームや小説の主人公の方が向いているんじゃないかと思う。
まぁ本人はその能力を喜んではいないので、使いこなそうとはしていないけれど。
私は先程まで広げていた手紙を、アンタレスに見せた。
「なに、これ」
「出版社から。また私の小説が発禁になっちゃったって」
「ぶふっ」
あまりに健全すぎるこの国に耐えきれず、私は“ピーチパイ・ボインスキー”という名前で覆面作家をしている。
『この国に少しでも破廉恥を!』をスローガンに、ちょっとスケベな小説を書いている。
スケベ度は前世で読んだ少女漫画や少年漫画レベルのものだ。18禁読んでないから分かんないんだよね……。お手本がないと書けない。処女だから。
最初に書いたのは女性向けのものだ。
壁ドン顎クイ頭撫でポンからの事故チューとか、女性がときめくものをふんだんに詰め込んだ恋愛小説で、プラトニック一色だった出版業界で異色を放ち、売れに売れた。
けれど男性評論家たちから「こんな男はファンタジー。なんのリアリティーもない」などとボロくそに言われたので、今度は男性向けを書いてみた。少年漫画でよくあったハーレムものをお手本に、ラッキースケベ尽くしの小説を。
するとどうだろう。私の女性向け小説をボロクソに言っていた奴等から「これこそが真の芸術である」などと好評価の嵐だ。
どう考えても登場する女性キャラにリアリティーはない。女性キャラ全員が男性主人公に惚れていて、ラッキースケベされまくっても訴えないなんておかしいのに。
結論、超健全乙女ゲーム強制力に支配されてはいるけれど、国民みんなスケベなことが好きっぽい。
そうして私はこの健全乙女ゲームの世界をR指定に塗り替えてやろう、あわよくば私に続く作家達が生まれて、本当の18禁官能小説がこの国に生まれることを願いながら、作品を書き続けた。
その結果がーーー発行禁止、発禁である。
「これが乙女ゲームの強制力、この世界の意志なのね……」
「あんな不健全過ぎるものを書いていたらそうなるよ」
「だってあんなに売れたのに。みんなが読みたいと思ったから売れたのよ?」
「売れることだけが大衆の支持を得た証ではないからね」
アンタレスは辛口だけれど、実際学園内でも“ピーチパイ・ボインスキー”の名前は有名だ。
女子生徒達がカフェテリアでうっとりと「ピーチパイ先生の新作をお読みになりました? まさか雪山で遭難して山小屋で一夜を明かすだなんて、斬新ですわ」「ええ、暖炉の火では足りなくて、下着姿で殿方と抱き合って暖を取るなんて、天才の発想ですっ」「はぁ……ピーチパイ先生の作品はなんてロマンチックなのでしょう」などと話し合っている。
男子生徒達は主に校舎裏で「ボインスキー氏の傑作はやはり『トラブル学園桃色100%へようこそ』ですなぁ。女子生徒の制服が謎の果物の果汁で溶け出すなど、神展開の連続でありますぞ」「しかも我らが主人公たそは相変わらず期待を裏切らぬ活躍で女子生徒達のあれやそれやに顔面ダイブでありますぞ」「やはりボインスキー氏は分かっておられますな、芸術というものを……」と頷き合っている。
ちなみに私が偶然を装って女子グループにも男子グループにも「なんだか皆さん楽しそうですねぇ。なんのお話をされているのですか? 私も混ぜてくださいな」と突撃していくのだが、今のところ全部断られている。
まあ、男子生徒達がスケベ話をしているところに女子を入れてくれないのは仕方がないかもしれないけれど。
薄幸そうな美少女顔のせいで「ノンノ様は破廉恥な話など耳にした瞬間倒れてしまいそう」と思われているらしく、女子生徒さえ仲間に入れてくれない。やんわりと「ノンノ様には興味のないことですわ」と断られてしまう。私、めっちゃスケベなのに。ていうか作者ぞ? 我、作者ぞ?
「しかし発禁かぁ~。ちょっと際どいだけの小説なのになぁ。この国じゃもう出版は無理なのかも」
やはり『レモンキッスをあなたに』の舞台国なだけあって、健全パワーが強すぎる。
しかし私の書いた本は近隣諸国でも翻訳され、この国以上に売れている。
これ以上乙女ゲームの強制力に屈する前に、亡命でもしてしまおうか。
「亡命って……、ノンノはジルベスト家の皆さんを泣かせたいわけ?」
「そうじゃないけどぉ」
父は地道に出世し、母も最近は刺繍の先生としてご婦人やご令嬢に教えていてとても元気だ。
おっとり屋さんの姉も婿養子を貰い、昨年出産した。人の良い義兄と、可愛い姪っ子と家族が増えて私も嬉しい。
私が他国に亡命したら、ジルベスト家は全員悲しむだろう。
「……ちなみに僕だって、ノンノがこの国から居なくなるのは嫌だよ」
「そうだよね、アンタレスは私以外友達居ないもんね……」
「そういう意味じゃない」
なぜか頭が痛そうにアンタレスが呟くが、そういう意味もどういう意味も、この子は私が居なければぼっち確定の生活を送っている。
ゲームのアンタレスもやっぱりヒロインに出会うまでは孤独だった。今は私という異物が傍に居るだけマシなのかもしれない。
やはりテレパシー能力持ちというのは人の輪の中で暮らしにくいようだ。私だったらきっと、他人の性的嗜好を調べて楽しんでいると思うけれど。
「ノンノにこの能力がなくて本当に良かったと思うよ。きみは人類の敵だと思う」
「だよねぇ。その力はアンタレスだけが正しく扱えるんだよ。他の人じゃロクなことに使わないと思うもん」
「ノンノって本当に……基本残念な思考をしているのに時々ものすごくまともなことを言うから嫌になるよ……」
脱力するアンタレスの肩を、慰めるようにポンと叩いておく。
「そういえばヒロインとはどうなの、アンタレス?」
「どうって……」
「ヒロインとくっつけば完全にぼっち卒業になるじゃない?」
私の発言が気に食わなかったようで、アンタレスにジロリと睨み付けられてしまう。いったい何故だ。ぼっちであることを指摘されるのがそんなに嫌なのだろうか。
アンタレスは深々と息を吐くと、「さっき」と呟いた。
「ノンノが言うヒロインとやらに遭遇したよ」
「わぁっ、ついに!」
「ここに来る途中、木に登ったまま下りられなくなった子猫を助けようとしていた。それで僕も手伝うはめになったんだ」
「ねっねっ、すごく良い子だったでしょ、ヒロインちゃん」
「うん」
アンタレスはヒロインを思い返すように頷いた。
けれどその横顔には、ゲームで見たような熱っぽさは不思議となかった。
「彼女は良い子すぎる。心の声を聞いても、どこまでも純粋で、まっさらだった。……まるで神様みたいな子だったよ」
「神様? なにそれ」
ゲームのアンタレスはそんな純真なヒロインの心に癒され、恋に落ちた。
現実のヒロインの心もそうなら、アンタレスも彼女のことを好きになると思ったのだけど。なんだかゲームのアンタレスとは微妙に反応が違う。
アンタレスは私の顔を覗き込んだ。そして私の頬にゆっくりと触れ、両手で包み込む。
「あんなに綺麗な心で生きていられるなんて、人間じゃないみたいだ。ノンノが言う『乙女ゲームの主人公』という運命の依怙贔屓が彼女になければ、とても人との間では生きていられないだろうね」
「つまり? アンタレスはヒロインを好きになったの? なれなかったの?」
「彼女は遠くで見守っているくらいがちょうど良い相手だよ。……あんなに綺麗な心で生きていかなくちゃならないなんて、むしろ同情する。可哀想だ」
よくわからないが、今のアンタレスにはヒロインはタイプじゃないっぽいみたいだ。
「つまり僕は、薄汚れたくらいの心の方がずっと親しみを感じるようになってしまったってわけ」
それはどういう意味だろうか。回りくどくてよくわからない。
そう思った瞬間、両頬に添えられたままだったアンタレスの両手にわずかに力が籠る。ふにっと頬肉を寄せられて、私はきっと馬鹿みたいな顔になっているだろう。
アンタレスは私に顔を近付ける。アンタレスがつけている香水がふわりと香り、彼の体温が至近距離に感じる。
アンタレスは非常に照れ屋なので、また顔が赤らんでいた。彼の喉仏が震えている。
「責任、取ってよね。全部ノンノのせいだから」
「突然責任とか言われても……。なんの責任でしょうかね、アンタレス君や」
「僕が“ヒロイン”に恋をしなかったのは、君のせいだって言ってるの!」
突然語気を強めたアンタレスは、そのまま私の額へと口付けた。
ふにゅっと湿っぽい温もりが押し付けられたと思ったら、アンタレスの両手が離され、彼はベンチから立ち上がった。
アンタレスは怒っているみたいに真っ赤で、少し目尻に涙が溜まっていて。
呆気に取られている私を見下ろし、小さな声で呟いた。
「……好きだよ、ノンノ」
アンタレスはそのまま乙女のように駆けていった。
はて。
私は口付けられた額にそっと触れる。
……はて。
じわじわ頭が熱くなってくる。
私はスケベなことが大好きで、こういう純愛チックなものって鼻で笑っちゃうくらいどうでも良かったんだけど。
……自分の身に起きてしまうと、どうでもよくは、ないんですねぇ。
私はベンチの上でうずくまり、しばらくその場から立ち上がれなくなってしまった。
どうしよう、アンタレス。腰が抜けたよ。
▲▽▲▽▲▽
僕の名前はアンタレス・バギンズ。
バギンズ伯爵家の長男で、……他人の心が読める超能力を持っている。
この能力に目覚めたのは五歳の頃だ。
突然、人の心の声が聞こえるようになって、僕は困惑した。
優しい笑顔の下では子供嫌いな侍女や、詩的な言葉を連ねる紳士の中の罵詈雑言、友人だと口では言いながら相手の悪口を言うような人……。そんな恐ろしい人達ばかりがこの世に溢れていることを知ってしまった。
それから僕は人が怖くなり、引きこもりがちになった。
両親ですら僕を心配する言葉を口にしながらも、心の隅で僕のことを面倒だと思っていることを感じた。
『今まで良い子だったのにどうしたのだろう、心配だ、早く良くなっておくれ、……手のかからなかった頃の息子に戻って欲しい』
今にして思えば両親のその心の声も仕方がないものだったのだろう。両親には領民を守るために多くの務めがあって、僕のことだけにかまけてはいられず、そして彼らは日々の暮らしに疲れてもいた。
けれど子供の僕にはそんな大人の気持ちなど理解出来なかったから、両親の心さえも怖くて、テレパシー能力が目覚めてしまったことを誰にも相談出来ずに泣いていた。
両親は忙しい合間を縫って、僕に様々な気分転換を用意してくれた。たくさんの本や玩具、新しい馬を買ってくれたり、お気に入りのパティスリーから新作のお菓子を取り寄せてくれたり。同い年の子供達を呼んだ気楽なお茶会もその一貫だった。
そしてそのお茶会で、僕はノンノ・ジルベストに出会った。
ノンノ・ジルベストはヘーゼルナッツ色の大きな瞳と、同色の細い髪を持つ、繊細そうな少女に初めは見えた。
整った顔で少し困ったように笑い、ゆっくりとお茶を口に含む動作も愛らしくて、周囲の人間の庇護欲を刺激するような儚さを持つ、おとなしい子に見えた。
僕は他人の心の声が聞こえないように中庭には出ず、屋敷の中から彼女を見ていただけだから、余計にそんな風に見えた。
ある日、ノンノは中庭に咲いた花を一生懸命に摘んでいた。
子供達が座っているラグの周囲の花を一輪一輪と摘んでいき、「あ、あっちにもきれいなお花がある! そっちにも!」というようにぴょんぴょん跳ねながら、カラフルな花束を作っていた。
僕はそんなノンノに見とれ、きっとあの子は純真な子に違いないと思ってしまった。
彼女の性格をよく知った今ならわかるけれど、あれは人畜無害な振りをしてお茶会をバックレようとするノンノの渾身の演技だった。
僕は彼女の思惑通り騙されて、中庭から消えてしまった彼女のことをうっかり探しに出てしまった。
そこから僕の運命が回り出したのだと思う。
ノンノはバギンズ伯爵邸の使用人用出入り口のそばにある茂みに隠れていた。
しゃがみこんでいる彼女のヘーゼルナッツ色の髪に初夏の木漏れ日が踊り、その幻想的な光景に思わず僕の足が止まる。
潤んだ瞳で一心になにかを見つめるノンノの頬は初夏の気温にしっとりと汗ばみ、長い睫毛が重そうに震えている。その横顔を見ていたら胸の奥がきゅうっと痛くなって、声が出なくなった。
ーーーまるで小さな妖精みたいにきれいな子だ。
そう思った、その時。
『もう少し……あと二、三個くらいボタンを外したりしないだろうか』
彼女の心の声だろうか。鈴の音のような愛らしい声が聞こえてくる。
彼女の声が聞きたくて、いけないと分かっているのに一歩一歩と僕は足を動かしてしまう。
『ここには若い侍女しか見当たらないのだし、こう、もっと大胆に胸元を広げたりとかしないかしら。
なんだったらスカートをまくりあげて、太ももの汗を拭っちゃうとか……。ガーターベルトとか見たいなぁ、うへへ』
……酷かった。
妖精のようだと思った彼女の心の声は無邪気に弾み、ーーー思っている内容があまりにも酷かった。
「……おい」
僕は思わず声をかけてしまう。
『あ、侍女がボタンを留め始めた。くそぅ。
もっと大胆に脱いで汗を拭けば良いのに。
あーあ、なんのチラリズムもなかったな』
「なぁ、おい、アンタ、本当に何を考えてるんだ……?」
ようやく僕に気が付き、こちらを見上げた彼女の顔は本当に儚げで。心の声と見た目が一致しないにも程があるだろう。
しかもノンノは僕に心の声がバレても動揺せず、『前世』『乙女ゲーム』『攻略対象者』などと目まぐるしく思考を働かせ、堂々としていた。自分の心にやましいところは一つもないというように。
……これほど六歳とは思えない不健全な思考を抱えてなぜそこまで自信満々でいられるのか、僕にはわからなかった。
彼女は言う。
「けれど人は大人になる過程でいずれ気付くんです、人間は薄汚れた心を持っていることに。薄汚れているくらいが普通だってことに」
「……薄汚れた心が普通?」
「そうです!」
「でも、人前では優しいふりをして心の中ではその人の悪口を言うやつとか、そんな人が普通だって言うの?」
「かなり超絶普通です!」
その言葉は力強く、ノンノ自身が微塵も疑っていないようだった。
ーーー悪い気持ちを抱えることは、いけないことではないの?
「笑顔の下の感情がどんなに醜くて汚くても、異常はありません。本当に悪いことは、実際に他人を傷付けることです。実際に口に出して相手の心を傷付けたり、物を盗んだり、怪我を負わせたり殺したりするのが悪いことなんです」
悪い気持ちを抱えても良いのだと、ノンノが笑う。
行動に移すか移さないかの線引きが大事なのだと。その線引きを理性と言うのだと、僕は大きくなってから知ることになる。
「アンタレス、きみのテレパシーはすごいものだよ。もし心の中の悪意を表面に出そうとする犯罪者に出会ったら、真っ先に逃げられる。自分の身を守れるんだから」
「うん……」
ノンノは破廉恥だし、意味不明なことばかり考えているし、今すぐに信用するのは難しい。
……だけど僕の能力を、悪い風には思わず、まるで神様からのギフトだと言うように褒めてくれるから。少しだけ、心が緩む。
もっと彼女のことが知りたい。
「それであんたが頭のなかで考えている、前世とか攻略対象者とか破廉恥なこととかって、なに?」
だから手始めにそう訊ねた。
六歳の初夏の出来事だった。
▽
あれから僕とノンノはよく一緒に居るようになった。
引きこもりがちだった僕に友達が出来て、両親は喜んでいた。彼女をきっかけに心が元気になって、また以前の僕に戻ることを期待していた。
そんなことを期待されても、もう以前の僕には戻れないのだけれど。
テレパシー能力が目覚める前の、なにも怖いものなど知らない僕に戻ることは不可能である。
だけどノンノが傍に居ると、他人の心の薄汚れた部分など本当に些細なもののように感じることが出来るようになってきた。
ノンノは本当に無邪気にいかがわしい存在だった。
愛らしい姿で侍女に抱きついては『おっふ、いい乳!』と微笑み、階段の下でかくれんぼをしている振りをしながらご婦人のスカートの中を覗こうとする。真面目にノートを記入しているかと思えば女性の裸を落書きし、地図を眺めているかと思えば王都の花街へ行くルートを調べている。薔薇が見頃だと聞けば植物園へ出掛けて恋人達の様子を観察し、人気のカフェの話を聞けばパフェを食べながら恋人達を見学する。そんな恐ろしい女の子だった。
それに付き合わされて外の世界に出るようになった僕は、他人に近付くことに慣れてしまった。
ノンノの言う通り、汚い心なんて誰もが抱えている。
人の心は脆い。正当な理由なく他人を憎むし、責任転嫁は上手だし、楽な方に流されようとする。
それでもそんな負の感情を自ら律し、外側だけでも優しい人間になろうと振る舞う人達を見ると、ホッとした。ああ、本当に恐ろしい人間はこういう人達ではないと思えた。
だいたい僕だって清らかな心など持ってはいないのだ。誰かの心を勝手に読んだ上に相手を軽蔑するなど、僕がしていいことではないだろう。
ノンノの心は自由だった。
前世の記憶を持つと思い込んでいるノンノは、精神年齢もめちゃくちゃで、倫理観もこの世界の人達とはまったく違っていて、時に破廉恥な小説を書いたり、時に春画を描いたり、時には粘土で男性の局部を作り出そうとするくせに表面だけは淑女のマナーを遵守する怪物であった。
ノンノの傍に居ると、呆れるし、ドン引きするし、驚くことばかりで疲れるのに、僕は彼女と友達付き合いをやめようとは思わなかった。
だってノンノは僕のことをどこまでも信頼していたから。僕に心を読まれることを理解しているのに、開けっ広げな気持ちを僕に差し出して、ちっとも飾らない。
『そのままの心で生きていていいんだよ、アンタレス』
『きれいな気持ちじゃなくても正しい気持ちじゃなくてもいいんだよ』
『人前でそこそこの礼儀を尽くせたら、それで大丈夫だから』
ノンノの心が僕にそう囁く。
他人を怖がってもいいし嫌ってもいいし汚い心を持ってもいい。それで相手を傷付けようとさえしなければ。
そんなふうに生きるノンノの傍に居ると、僕は僕のままで生きることが許されているような気がして、楽になれた。
それから十年の月日が経って、男爵家の養女だという少女が学園に編入し、ノンノの言う『乙女ゲーム』が始まった。
ノンノは僕を『攻略対象者』だというが、僕に男爵令嬢を構っている暇はない。だってノンノが毎日なにかしら問題を引き起こすからだ。
ノンノは“ピーチパイ・ボインスキー”などという卑猥な響きに聞こえる名前で作家業を始めていた。以前書いていた破廉恥な小説だ。
彼女はそのネタ探しに奔走したり、自分の評価を知りたがってファンが集っているところに乗り込んで行ったり、「ねぇアンタレス、私、男性の体って前世で父親と一緒にお風呂に入った小学校低学年の記憶までしかないんだよね。あーあー、男の体が見たいな~。どこかに全裸を見せてくれる親友が居ないかな~」と僕にチラチラと視線を向けてきたりした。
とっさに彼女の頭を叩いた僕を非難する奴など居ないだろう。
こんな問題行動ばかりのノンノだったけれど、僕以外の人からは「繊細でか弱い少女」だと評価されているから腹立たしい。
成長したノンノはほんの少し力を加えただけで折れてしまいそうな華奢な体で、ヘーゼルナッツ色の大きな瞳は小動物のように潤み、困ったように笑う顔に庇護欲を掻き立てられる人間が老若男女後を絶たない。彼女の性格を勘違いして思いを寄せている男子生徒もいた。
まさか「ノンノの外見に騙されていますよ。彼女はとてつもなく破廉恥な人間です」などと男子生徒に忠告するわけにもいかず、僕はノンノに黙って彼女の身辺を守ったりしている。
そんな僕の行動を勘違いした両親がジルベスト子爵家に縁談を申し込んでいるのも知っている。……けれどそれもそれでいいかな、と思ったりする。ノンノの真実を知らない誰かに嫁ぐよりは、僕に嫁いだ方がノンノも自由に過ごせるだろう。
彼女の自由な心が誰かに閉じ込められてしまうのは、親友として見過ごせないからだ。
……などと思っていた僕だけれど、件の男爵令嬢に出会い、すべてが欺瞞だったと理解してしまった。
ノンノがヒロインと呼んでいる男爵令嬢のことを、僕は避けてもいなければ積極的に関わろうとも思っていなかった。ノンノ本人も「プラトニックに興味がないんだよねぇ」と無関心で、そんなことよりも破廉恥なことを考えるのに忙しくしている。
僕たちの知らないところで『攻略対象者』と愛を深めて勝手に幸せになればいいと思っていた。
ノンノを探して校庭を歩いていた時、件の男爵令嬢と出会った。彼女は木に登ったまま下りられなくなった子猫を見つけて、助けようとしているところだった。
養女といえど一端の貴族令嬢が、靴を脱ぎ、裸足になって木と格闘している。制服のスカートが乱れることも気にせず、『木登りは苦手だけれど、可愛い猫ちゃんのためならやってやれなくもないはずだわ!』と木にしがみつく。
それはひどく間抜けな体勢で、真剣な表情で、ちっとも木に登れていなくて、でもどこまでも真っ直ぐな心根で。
ーーー恐ろしいと、僕は思った。
男爵令嬢はノンノの言う通り、とても美しい心を持っていた。
どんな理不尽な目に遭っても他人を憎んだりせず、羨んだり妬んだりせず。真面目に、がむしゃらに、失敗して泣いたとしても不貞腐れず、前向きに頑張る心を持っていた。
こんなのはもはや人間じゃない。
神様だとか天使だとか、想像上の清らかな生き物だけが持っているであろう、澄みわたった心だ。
ただの人間が持つなんてありえない心だ。
僕は男爵令嬢が恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。
ノンノは言っていた。攻略対象者であるアンタレスはテレパシー能力によって他人に怯えるようになり、心に深い傷を抱え、学園で出会ったヒロインの美しい心に癒されるのだと。
ーーーこんな人間とは別次元の心に癒されるだなんて、ゲームの僕はよほど心が衰弱していたに違いない。
現在の僕が知っている人間の心は、薄汚れて輝いている。それは僕の中にだってある。
この男爵令嬢はこんなに真っ白に光輝く心を抱えて、こんな世界を生きていかなければならないのか。
まるで、神様が間違えて下界に生まれてきてしまったような、そんな痛ましさを感じた。
僕は男爵令嬢に同情を抱え、彼女の代わりに子猫を助けた。男爵令嬢は僕に何度もお礼を言って、心からの笑顔を浮かべていた。
この子、本当にこんな綺麗な心でこれから先を生きていけるのだろうかと、苦い心配だけが僕の中に残る。
そして僕は同時にこう思った。ノンノじゃなきゃ駄目だと。
薄汚れた心を堂々と僕の前に広げて、信頼しきって笑ってくれるノンノの傍が一番落ち着く。
ノンノの心が一番好きだと、僕は気付いてしまった。
▽
図書館脇の中庭に設置されたベンチに、ノンノは腰かけていた。その姿は相変わらず線が細く、どこか哀愁を漂わせている。
ノンノのことを理解している僕でさえ、一瞬、なにか悲しい出来事が彼女の身に起こり、胸を痛めているのではないかと錯覚してしまう。
現実のノンノは、著作した破廉恥小説が国から発行禁止を受けたので隣国に亡命しようかと考えているだけだった。なにもかもがくだらなすぎる。
そしてそのくだらなさに、ホッとしている自分が居た。
くだらないけれど、一応ノンノを引き留めようと、僕は口を開く。
「……ちなみに僕だって、ノンノがこの国から居なくなるのは嫌だよ」
「そうだよね、アンタレスは私以外友達居ないもんね……」
「そういう意味じゃない」
確かに友達はノンノだけだけれど、もう、そういう意味じゃなくなった。
『やはりテレパシー能力持ちというのは人の輪の中で暮らしにくいようだ。私だったらきっと、他人の性的嗜好を調べて楽しんでいると思うけれど』
下世話なノンノの心の声が聞こえる。
彼女がテレパシーを使えなくて本当に良かった。くだらない使い方をしてニヤニヤ笑っている所が簡単に想像できる。
まぁノンノがニヤニヤ笑っても困り顔なので、周囲の人間に彼女の性格の悪さは露見しないだろうけど。
「ノンノにこの能力がなくて本当に良かったと思うよ。きみは人類の敵だと思う」
「だよねぇ。その力はアンタレスだけが正しく扱えるんだよ。他の人じゃロクなことに使わないと思うもん」
ーーーアンタレスだけが正しく使える。
ああ、どうしてこの子はこんなに僕を無条件で信頼するのだろう。ノンノはまったく僕を疑わない。僕の何もかもを受け入れてしまう。
「ノンノって本当に……基本残念な思考をしているのに時々ものすごくまともなことを言うから嫌になるよ……」
その信頼を受け止めるのが嬉しいけれど恥ずかしくて、つい憎まれ口のようなことを言ってしまう。
けれどノンノは僕の細かな心情など気付かず、僕の肩を優しく叩いた。
「そういえばヒロインとはどうなの、アンタレス?」
「どうって……」
「ヒロインとくっつけば完全にぼっち卒業になるじゃない?」
僕が男爵令嬢と結ばれることを推奨するようなノンノの言葉に、ムッとする。
さきほど自分の気持ちに気付いたばかりの僕だが、そんなふうに遠回しにノンノの恋愛対象外宣言をくらうのは実に不快である。
「……さっき、ノンノが言うヒロインとやらに遭遇したよ」
「わぁっ、ついに!」
「ここに来る途中、木に登ったまま下りられなくなった子猫を助けようとしていた。それで僕も手伝うはめになったんだ」
「ねっねっ、すごく良い子だったでしょ、ヒロインちゃん」
「うん」
良い子と言えば良い子なのだろう。いっそ不自然なほどに良い子で、人間には思えないけれど。
「彼女は良い子すぎる。心の声を聞いても、どこまでも純粋で、まっさらだった。……まるで神様みたいな子だったよ」
「神様? なにそれ」
まったく理解していないノンノの両頬を手で包み込む。
「あんなに綺麗な心で生きていられるなんて、人間じゃないみたいだ。ノンノが言う『乙女ゲームの主人公』という運命の依怙贔屓が彼女になければ、とても人との間では生きていられないだろうね」
「つまり? アンタレスはヒロインを好きになったの? なれなかったの?」
「彼女は遠くで見守っているくらいがちょうど良い相手だよ。……あんなに綺麗な心で生きていかなくちゃならないなんて、むしろ同情する。可哀想だ。
つまり僕は、薄汚れたくらいの心の方がずっと親しみを感じるようになってしまったってわけ」
『それはどういう意味だろうか。回りくどくてよくわからない』
考えることを放棄してしまいそうなノンノの両頬をぶにっと寄せる。
現実の僕は神様みたいな女の子に救いなんか求めない。
目の前に居る、儚げな外見で他人を欺きながら破廉恥なことばかりを四六時中考えている、低俗で不健全で下心しかない、まっすぐに薄汚れた心を持つノンノこそが、僕を普通の人間として生かしてくれる。
「責任、取ってよね。全部ノンノのせいだから」
「突然責任とか言われても……。なんの責任でしょうかね、アンタレス君や」
「僕が“ヒロイン”に恋をしなかったのは、君のせいだって言ってるの!」
君が憧れる、何人もの女性を囲む色情魔にはなれそうにない僕だけれど。
僕を無条件で信頼し、受け入れてくれるのだから、ありのままの僕でも許してくれるだろう。
ノンノが書く破廉恥な小説のヒーローみたいに、強引に君の唇を奪う勇気はないけれど。せめて、これくらいは。
ノンノの白い額に、むぎゅっと唇を押し付ける。ほんの一瞬だけ。
「……好きだよ、ノンノ」
ぽかんとしたノンノの瞳を見ていられなくて、僕はすぐさまベンチから立ち上がり、元来た道を全速力で駆けて行く。
恥ずかしすぎて胸が痛い。
明日ノンノに会うときにはどんな顔をすればいいのか。まったくわからない。だけど僕の心は君の心から離れることは出来ないから。
人間らしく薄汚い君の心が愛しくて、どうしても、離れることは出来ないから。