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エピローグ

二話同時投稿しています。読み飛ばしに注意してください。

 清浄な朝の空気の中、まだ通い慣れていない新しい教室に向かう途中で、悠祐はふと足を止めた。

 換気のために開かれた窓から、朝のランニングに励む運動部の掛け声が廊下にまで届いていた。


 ――ファイッオー、ファイッオー、ファイッオー……


 おそらく野球部だ。伊達に二年も所属していたわけではないから、聞くだけでわかってしまう。

 先月までは、心置きなく野球に打ち込める彼らに強い羨望を抱いていた。部活の様子を見たり聞いたりするだけで妬ましさに苦しくなるのに、未練を断ち切ることもできず、女々しく木陰からひっそりと眺めていた。

 しかし今はこんなふうに不意に彼らの声を耳にすることがあっても、心穏やかでいられる。悠祐の中で、野球選手としての喜びも悲しみも全て過去のものになったのだ。

 そして野球がもたらした多くの経験が、悠祐の今と未来を支えていく。だから悠祐はもう、新しい明日に向かって歩き出さなければならない。

 悠祐が教室にやってきたとき、そこには既に一人だけ先客がいた。


「おはよう。やっぱ竹本は早いな」


 教卓の真正面の席で黙々と自習に励んでいた竹本は、悠祐を見てふっと笑った。


「おはよ。浅井くんも早朝学習続いてるじゃない?」


 出来のよい生徒を褒めるような口調が子供扱いされたようで、悠祐は顔をしかめた。

 三年のクラス替えでも悠祐と同じクラスになった竹本は、しっかり者の優等生である。授業中に最も教師からの圧力を受ける席にいて全く崩れぬ余裕の表情は、新しいクラスでも早々に尊敬の眼差しを集めている。

 これに対して悠祐は、野球部でエースと呼ばれても、勉強は平均より少し上でしかない。二年までは部活優先だったため、この春までは毎日の勉強習慣すら身に付いていなあかった。

 それがここに来て、急に真面目に勉強する姿勢を見せているのは、単なる気まぐれからではない。

 悠祐はスポーツドクターを目指そうと考えていた。

 野球をやめて未練も断ち切り、ぽっかり空いた時間をどうやって埋めようかと考えたとき、その夢は自然と悠祐の心の中に芽生えた。

 自分のように望まぬ形で引退する選手を少しでも減らせたら。そんな願いは我ながら単純すぎる思考だったが、それゆえに根強い。

 今の成績で医学部はとても、と担任教師に難色を示されて頼ったのが竹本だ。

 美術部の部長という責任ある仕事を務めながら優秀な成績も維持している彼女は、コンクールの作品制作も並行して進めているらしい。その計画的な有能さは、美空とは違った意味で特別な生徒だった。

 そんな竹本の成績を支えているのが朝の自習である。彼女に勧められ、悠祐もこの四月から真似している。今のところ一日も欠かしてはいない。


「まあ、浅井くんは継続しやすいモチベがあるものねえ?」


 によによと薄笑いでからかわれて、悠祐は視線を逸らした。


「……悪いかよ」

「別に、いいんじゃない? 勉強は捗ってるんでしょ?」

「……おう」


 捗っていないときも、ときどきあるけれど。それは許容範囲のはずだ。


「なら、特に言うことないかな。美空によろしくね」

「……ああ」


 悠祐は自席に鞄を置くと、勉強に必要な最低限の参考書と筆記用具だけを持ち出して教室をあとにした。

 徐々に増えてきた若葉の美しい緑を渡り廊下から愛でつつ、悠祐は竹本との会話を反芻する。

 竹本が美空を下の名前で呼ぶようになったのはいつからだろう。

 タイミングは確実に悠祐のほうが先だと思うが、その呼称で美空を呼ぶのは自分だけだと思っていたので少々悔しい。美空にそれだけ親しい友人ができたことは歓迎すべきことだけれど。

 自分の狭量さを反省しながら悠祐が美術室の戸を開けると、いつものように先に来ていた美空が物音に気づいて振り返った。


「浅井先輩。おはよう、ございます……」


 自然の光が好きらしい美空は、一人のときに明かりをつけない。朝の青みがかった光の中でほんのりはにかむ彼女は、たぐいまれな容姿と相まって天使のようだった。

 悠祐はそんな彼女に毎朝心を奪われている。


「……先輩?」


 きょとんと首を傾げる仕草もまた可愛いのだ。


「ああ、おはよ」


 悠祐は緩みそうになる口元を懸命に引き締めながら、美空のそばの席に腰を下ろした。


「作品は、進んでんの?」


 冷静ぶって話題を振れば、美空はこくりと頷いた。

 美空は今、コンクールに向けた作品づくりに没頭していて、朝から晩まで授業以外のほとんどの時間を美術室で過ごしている。

 放課後は当たり前だが他の美術部員もいるため、美空と二人きりでゆっくりと話すには朝のこの時間しかない。悠祐が早朝学習を継続できている最たる要因だった。朝の学習の場として美術室を提案してくれた竹本には感謝せねばならない。


「なにを描くことにしたんだ?」


 悠祐は身を乗り出して美空のスケッチブックをのぞき込んだ。そして「えっ」と声を漏らす。

 イメージしていた雰囲気とはかなり異なる絵がそこにあった。校庭や桜の絵がそうだったように、てっきり悠祐は、美空に似合いの柔らかで明るい色彩を想像していたのだ。

 しかし、ざっくり色付けられた習作は、全体のコバルトブルーが深い悲しみを醸していた。そこに、海底をほのかに照らす光のような淡い色がまだらに配され、瞳に知性の光を宿したイルカのようなジュゴンのような生き物が真ん中でこちらをまっすぐ見ている。

 印象的なのは、同心円を重ねた波紋のようなものが前景として描き込まれている点である。まるでなにかを訴えるシグナルのようで、見る者の胸をざわつかせる。


「……これ、なにを表現してんの?」


 うっかり訊ねてしまってから、もしかしてこれは禁句だったのではないかと悠祐は冷や汗をかいた。これを質問するのは、作品からなにも伝わらないといっているようなものだからだ。

 しかし幸い、美空は特に気にしていないようだ。代わりに難しい顔をして、うんうん悩み始めた。

 悠祐はそこで自分の問いがいかに無意味だったかを悟る。そもそも美空は、言葉で上手く表現できないものを作品に昇華しているのだから、言葉で聞いたところで有意義な答えが返ってくるはずがなかったのだ。


「悪い。そんな無理して言葉にしなくていいから。なんでか惹き付けられて、いい絵になると思うよ」


 美空の手を握って勇気づけると、美空は悠祐の真意を計るようにじっと目を合わせたあと、花がほころぶように笑った。


「うん……ありがとう……」


 安心しきった曇りない笑顔は、悠祐の胸を温かいもので満たす。

 はじめこそ悠祐は、この愛らしく整った顔に一目惚れした。だが今ではむしろその内面に強く惹かれている。

 美空の振る舞いは周囲の普通とかけ離れているから、最初は確かに戸惑う。しかし、よく知り合ってみれば美空も美空なりに自分の至らなさに思い悩んでいて、そういう部分は普通の高校生となにひとつ変わらない。

 むしろ彼女の不器用さゆえの純粋さや真っ直ぐさは、幼い時代に置き忘れてきた無垢な心を思い起こさせるようで、どこか斜に構えていた自分の在り様を恥じたくなったほどだ。

 美空の一番そばにいられる今を、悠祐は幸運だと思っている。

 容姿に惹かれて彼女に近付こうとした男は、おそらく悠祐が初めてではない。それでいて誰も美空のそばに残っていないのは、少し変わった美空の言動を誰も理解しようとしなかったからだ。

だが、美空の特別さは美空が望んだものではない。特別扱いされることに、彼女は辟易しているのではないか。

 悠祐がそれに気づけたのは、程度の差こそあれ悠祐自身にも、野球部のエースとして否応なく注目され期待された経験があったからだ。きっとそれも、野球が悠祐に残したものなのだ。

 間近で美空の表情や仕草を観察していると、彼女の中には周りも本人すらも気づいていない豊かな感受性が眠っているのではないかと思う。おそらく今後たくさんの作品を通して、美空はそれを開花させていくだろう。先ほどの絵はその一端に過ぎない。

 ゆっくりだけれど確実に美空は変化していく。その隣で、悠祐もまた変わっていけたらと願う。

 変化はいいことばかりではないかもしれない。けれど、過去にしがみつくことはもう決してしない。

 窓の外の桜はもうほとんど散ってしまっている。しかし来年もまた美しい姿を見せるだろう。

 だから、未来を恐れる必要など、微塵もないのだ。

 この夏には、二年間ともに練習に明け暮れた仲間たちの引退試合がある。今年は美空と応援に行けるだろうか。

 ガラスの向こうで吹いた一陣の風が、地面に残る花びらを空中に舞い上げる。その様子を見つめながら、悠祐はふと、そんなことを考えたのだった。

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