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失言

 美空がその日二度目の登校をしたのは四限目も終わった昼休憩の真っ最中だった。

 いつもなら悠祐と顔を合わせて食事をしている時間に校門をくぐる。そのときになって、食堂に現れない自分を悠祐が心配しているかもしれないと気がついた。

 今朝の出来事があるだけに、顔くらいは見せておいたほうがいい。美空は一階にある食堂に足を向けた。

 廊下の突き当たりに食堂のガラス扉が見えるところまでやってくると、偶然にも今まさに食堂から出ていこうとしている悠祐がいた。


「せんぱ……」


 呼び止めようとするが、美空の小さな声では到底届かない。

 廊下の先にいる美空に気が付かないまま、悠祐は食堂のすぐ脇にある通用口から屋外に出て行ってしまった。見失いそうになった美空は慌ててあとを追った。

 通用口からは、隣に建っている特別教室棟や体育館につながる屋根付きの渡り廊下が伸びている。悠祐のクラスは次の授業が移動教室なのだろうか。

 廊下を走って通用口に着いた美空が外に悠祐の姿を探すと、意外にも彼は体育館のほうへ進んだあと渡り廊下を外れて特別教室棟の裏手に回っていく。そちらにあるのはあの桜の木とグラウンドだ。悠祐がそこに近づくことはしばらくないだろうと思っていたのに、気持ちの整理はついたのだろうか。

 悠祐の心情を慮りつつも、その一方で、美空の胸の内にはほんの少しの期待が生まれていた。

 もしかしたら、桜の下に立つ彼の姿をもう一度見られるのではないか。

 折しも桜は満開に近い五分咲きだ。見られたくないと言っていた悠祐に対して罪悪感はあるものの、願望には抗えない。

 美空は柱や建物の陰に身を潜めるようにして悠祐のあとをつけようとした。しかし、特別教室棟の角に身を隠し、そろりと顔だけを覗かせたところで、美空の目論みは早々に頓挫した。


「あんた、結構しぶといんだな」


 突然頭の上から悠祐の声が降ってきて、美空はびくっと大きく全身を震わせた。暴れる胸の鼓動を抑えながら振り仰ぐと、曲がってすぐの壁にもたれかかった悠祐が腕を組んで美空を見下ろしていた。


「え、と……その……」


 いつから美空の気配に気がついていたのだろう。言い訳のしようもなく、美空は悄然とうなだれる。また最初のときのように、冷たく突っぱねられてしまうのだろうか。

 しかし聞こえてきたのは意外にも、こらえきれずに低く漏れる笑い声だった。


「……?」


 見上げると、壁に寄りかかったまま悠祐が肩を震わせている。


「どうして……笑ってるの……?」


 不可解で美空が思わず眉を寄せると、それにもまた悠祐は吹き出した。

しばらく笑い続けてからようやく、悠祐はお腹が痛いとぼやきながら美空の質問に答えた。


「いや……無表情だと思ってたけど、よく見ると意外とあんたも感情が分かりやすいんだなと思って」


 そんなことを言われたのは生まれて初めてだったので、美空のほうが驚いてしまった。


「ほら、その顔。口元とか頬があんまり動かないからホントによく見ないと分からないけど、あんたは目が語ってる」


 じっと瞳の奥を覗き込まれて、美空はたじろいだ。頬がじわじわと熱くなってきたように感じて、両手で押さえる。

 まだ暖かいとはいえない外気に冷やされた手のひらがひんやりとしていてさらに驚いた。

 動揺した美空は涙目になって悠祐からじりじりと距離をとる。

 それを見た悠祐もまた目を丸くして、美空からそっと視線を逸らした。

 妙な空気が二人の間を流れて、美空はどうしていいか分からなくなる。

 どうして自分はこれほど心を乱されているのだろう。悠祐に見つめられただけなのに。

 誰かをじっと凝視しすぎて困らせるのは、美空の十八番(おはこ)だったはずだ。それなのに、今初めて困らせられる側の気持ちが分かったように思う。どうしてか分からないけれど、とても、恥ずかしい。

 互いに黙り込んだままもじもじとして、こそばゆい空気がくすぐったい。

 しかしそこに、場違いに軽薄な声が割って入ってきた。


「おい、そこにいるの、浅井じゃね?」

「あー、マジだ。しかも女の子といる。かわいー」

「退部してから見ねえと思ってたけど女といちゃついてたのかよ。いいご身分だな」

「確かに」


 ははは、と馬鹿にしたように笑いながら美空と悠祐の横を通り過ぎていくのは、上級生と思われる四人ほどの男子生徒だ。こちらまで会話がはっきりと聞こえる声の大きさは、間違いなくわざとだった。

 美空は気まずい空気も忘れて、キッと彼らをにらんだ。ちょうどこちらを向いていた一人と視線がぶつかったので、美空は抗議の気持ちを込めて精一杯眼差しを尖らせる。

 しかし相手はそれを軽く鼻で笑い飛ばすと、あろうことか「あれ、女の子泣いてるじゃんン」などど難癖をつけ始めた。


「……っ、泣いてません!」


 潤んだ瞳から一粒だけ目尻に盛り上がっていた雫を美空は慌てて拭った。だが、すでに手遅れだった。


「浅井くん、女の子を泣かせるなんていけないなあ。ただでさえ野球部に迷惑かけてるってのにさ」


 聞く者の神経を逆撫でするへらへらとした口調に美空は反感を抱くが、野球部という単語が出てぎくりと身体を強張らせた。彼らに向き直った悠祐の表情には、諦念が滲んでいる。


「君が抜けたせいで今俺ら毎日必死よ。来年はみんなで優勝目指そうとか豪語してたの誰だっけ? なのに(かなめ)のピッチャーが使いものにならなくなっちゃうなんてさあ。無責任だと思わない?」

「…………」

「まただんまりかよ。ふざけやがって。迷惑かけてんだから、謝罪くらいすべきなんじゃねーの?」


 甚だしい言いがかりに、美空は思わず悠祐の前に踏み出した。


「や……やめてください! 浅井先輩の、チームメイトだった人……ですよね? 一番、傷ついている人に、よくそんな……」


 男の子たちの注目を浴びて、慣れない状況に怯えつつも美空は必死に自身を鼓舞した。

 しかしそんな美空の腕を掴んで止めたのは他でもない悠祐だった。振り返った美空に悠祐は首を振る。


「いいから」

「せんぱ……でもっ」

「いいから。俺が悪いんだ」


 美空を自分の後ろに引かせると、悠祐は野球部のメンバーに向かって頭を下げた。


「悪かった」


 腰を折って謝罪するその姿は、あまりにも潔かった。一瞬にしてその場が静まり返る。

 しばしの無音のあとに、かすかな舌打ちの音が聞こえた。真ん中にいた少年が忌々しそうに「行くぞ」と言い捨てて背を向ける。彼がグラウンドに向かって歩き出すと、他の面々も興ざめした様子で場を離れていく。

 空気をかき乱すだけかき乱して去っていった彼らが視界から消えると、美空はつい不満をこぼしてしまう。


「どうして……謝っちゃったんですか……」

「そりゃ、迷惑かけたのは、本当だから」


 悠祐の素っ気ない返答からは、その気持ちを推し量ることができない。


「でも……浅井先輩が、故意にそうしたわけじゃ、ないです……」


 自分が口を挟むべきことではない。けれど、言わずにはいられなかった。

 悠祐の顔を見れなくて美空がスカートの裾をいじっていると、横に並ぶ悠祐のかすかな呼吸音が聞こえた。鼻で笑ったのか、それとも諦めのため息なのか。今、悠祐がどんな表情をしているのか、怖くて確認できない。


「そりゃあな。だけど、俺の事情で、他の人にしわ寄せが行ったのは事実だ」


 真剣味を帯びたその声音で、美空は先ほどの謝罪が表層的なものでは決してなかったことを知る。


「俺の代わりに投げることになった後輩は特にさ。まさか自分がメインで投げることになるとか思ってなかっただろうし。責任とか、結構……重いから」


 悠祐は、心の底から彼らに対して申し訳なく感じているのだった。けれどそれは、なんだかとても、悲しいことのように思えた。


「……仲間だったなら、少しくらい先輩の気持ちを汲んでくれたって……」


 故障という不本意な形でマウンドを去ることになった苦悩を、かつての仲間どころか、悠祐自身すらないがしろにしているのではないか。

 ハ、とまた息を吐いた音がして、今度は笑ったことがはっきりと分かった。


「チームを抜けたら、案外そんなもんだ。特に俺は、一年のときから期待のエースだなんだって持ち上げられて反感買ってたし。俺がいるせいで、監督とか張り切って練習キツくなったし。それで、来年はもっとってみんなで気合い入れたところで、故障で抜けてさ。振り回されたほうはたまったもんじゃないだろ?」


 その長いセリフを、美空はうまく理解できなかった。辛抱強く、何度も何度も頭の中で繰り返してみたけれど、どうしても、納得できなかった。


「……私には、分からないです」

「どうして」


 どうしてだろう。

 悠祐の言葉を呑み込もうとすると、胸の中がとてももやもやする。違う、おかしい、と抵抗する気持ちがある。

 ぼんやりと視線を上方に転じれば、大きな白い雲が夏の空を連想させた。

 写真の中の悠祐はあんなにキラキラと笑っていた。チームメイトだけではなく観客までを巻き込み、盛り上がって一つになった興奮の中心に彼はいた。

 それが、今は誰一人周りに残っていないなんてことが、あるだろうか。


「夏の試合……見に行きました」


 言わないつもりだったけれど、そんなことは無理だった。


「えっ……」


 驚いた悠祐の視線を横顔に感じたが、美空は空を見上げ続けた。


「浅井先輩、たくさんの人に、囲まれてて……輝いてて……うらやましかった、です……」

「そう……」

「はい……」


 それきり言葉が続かない。言いたいことがまとまらないのだ。

 そもそも美空はなにを言いたいのかもよく分かっていなかった。ただ、なにかを伝えなければという強い衝動があった。


「だから、その……」


 美空は無理やり言いつなごうとする。


「浅井先輩が……野球で、得たものは……そんな、簡単に、失くすものじゃない……です……。だから、そんな、あっさり……諦めないで……ください……」


 勝利が決まったあの瞬間、チームは強い絆で結ばれていたはずだ。分かち合うものがあったはずだ。それが、たった半年の間に失われてしまうとは思えない。悠祐がもっと足掻けば、状況はきっと変わる。

 だけど、美空の想いは、届かなかった。


「ごめん」


 冷たい響きをもった一言が、二人の間のなにかを決定的に断ち切った。


「あんたから、今の俺がどう見えてるのかは、分からない。でも、少なくとも俺は、野球を辞めて、全部失ったって感じた。仲間だって。さっきのやつらだけじゃない。本当の友達だと思ってたやつらとも、ぎこちなくなった。……あっさりなんかじゃ、ねえんだよ」


苦しげに吐き出された最後の一言に、美空は自身の失言を悟った。


「もしかしたら……大人になって振り返ったら、この経験も無駄じゃなかったと思うのかもしれない。けど、今の俺にはなにも残っていない。そう見えるんだ。それが今の俺の、全てなんだよ」


 噛んで含めるようにゆっくりと話す悠祐は、有無を言わせぬ空気があって、対話の余地などないように思われた。

 激昂こそしないけれど、彼は怒っている。“不可侵協定”に違反した美空に対して、なにも知らないくせに踏み込んでくるなと牽制している。

 あんたとは考え方も感じ方も違うんだと美空は線を引かれたのだ。「あんた」という呼び方に初めて突き放された気がした。

 だけど、美空は黙ることができなかった。せめてこれだけはと言うべきことを見つけたのだ。


「少なくとも……先輩の野球で、私の絵は、変わりました」


 悠祐の野球は、美空の絵の中に残っている。そう伝えたかった。

 だけどやっぱり悠祐は自嘲的に笑うだけだった。


「……絵のことなんて分からないし、慰め以上の言葉には聞こえない」

「でも、本当に……」

「もういいから」


 苛立ち混じりに制されて、美空はぎゅっと唇を噛んだ。

 誰かに自分の言葉が伝わらない孤独には、慣れているつもりだった。だけど、こうして悠祐に違うんだと態度で示されると、途方もなく悲しくて、寂しい気持ちになる。

 なにも残っていないなんてこと、あるはずがない。実際、美空の絵にとって悠祐の野球は大きなきっかけになったのだから。

 それを悠祐に証明したい。そのためには、どんな言葉を紡げばいいのだろう。

 伝えたいのに、伝えるための言葉がない。

 美空はいつだってそうだった。自分の気持ちを上手に言葉にできなくて、ようやく吐き出した断片を勝手に解釈されて、誤解される。否定してもやっぱり上手に説明できない。やがて疲弊して、口を閉ざす。わかってもらうことを諦める。

 でも、今だけは諦めたくなかった。諦めたくはないのに、ふさわしい言葉を見つけられないまま無言の時は過ぎ、予鈴のチャイムが無情に響きわたる。


「そろそろ、教室に戻ろう」

「…………はい」


 校舎までの道のりを歩く間、悠祐は一度も美空を振り返らなかった。

 そして放課後の美術室に、悠祐は来なくなった。

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