軋轢
それから美空はしばしば悠祐と昼食をともにするようになった。特に約束をしているわけではなかったが、悠祐はいつも早めに食堂に来て端の席をキープしているので、そばに座らせてもらうのは美空にとってとても都合がよかったのである。
それになんといっても、悠祐といると沈黙が苦ではない。
なにか話したほうがいいのかと一度は美空から当たりさわりのない話題を振ってみたのだが、悠祐はくだらないと言いたげに眉をひそめて、「そういう面倒な気づかい、いらないから」とばっさり切った。そのくせ、悠祐が思ったことはぽんぽん言ってくる。
つまり、話したいことがあれば話せばいいし、話したくないなら無理に話す必要はない、ということなのだろう。
悠祐の前で張り詰めていた美空の気持ちはそれで一気にほぐれた。自分を偽って相手に合わせなくてもよいという関係がここまで心地よいなんて美空は知らなかった。
しかしそういう関係になっても、美術室における二人の距離感は変わらなかった。悠祐は相変わらず美術部のモデルをしているが、美空と会話することはない。美空の絵のことにも触れない。美空も美空で、悠祐にモデルを頼もうとはしなかったし、野球部のことを尋ねることもしなかった。
おそらく互いが互いに不可侵の領域があることを察していて、暗黙のうちにそれを守る協定のようなものができていた。初対面のときの出来事は互いにとって手痛い失敗で、繰り返すのを避けたいというのが無意識の本音にあった。
そういうわけで悠祐と美空は、至極穏やかに、そして密やかに友人関係を結んでいたのだった。
しかしその均衡は突然打ち破られた。
ある朝、登校したばかりの美空のそばに、めずらしく級友が寄ってきた。好奇心に溢れた彼女の瞳に美空は嫌なものを感じとる。
「結城さん、最近一緒にお昼食べてる人って、誰?」
意図の分からない質問に美空は眉を寄せる。美空が誰と食事をしても、彼女には関係ないだろう。
けれども、その質問が発せられた途端、教室の空気は変質する。誰もあからさまにこちらを振り向いたり、おしゃべりを中断したりはしない。けれど、あえて自然なふうを装っているようないびつな気持ち悪さが生まれた。
教室中の生徒が実はじっとこちらの会話に耳を澄ませているような不気味な感覚だ。
美空が何も言えないで固まっているうちに、その疑惑は本物になった。不運なことに、話題の当事者たる悠祐がこの場にやってきてしまったのだ。
「結城さん、いる?」
教室の後ろ側のドアを引いて控えめに姿を現した悠祐は、よそ行きの作った声音でそばにいた生徒に尋ねた。彼が教室を包む異様な雰囲気に気がついたのはそのあとだった。
不審そうに教室全体をさっと見回して、窓際の一番後ろにいた美空と目が合う。
「あ、みそら……」
その呼称を初めて聞くのがどうして今なのだろう。こんな状況でもなければ、嬉しく感じられたかもしれないのに。
「結城さん」と呼んだときよりもよほど馴染んでいて、きっと悠祐の心の中ではいつも「美空」と呼ばれているのだ。
悠祐が美空を呼び捨てにした途端、ざわっと空気が揺れた。クラス中の人が顔を上げて、美空と悠祐を交互に見る。
「うそ、一緒にご飯食べてる人って浅井先輩だったの?」
教室の真ん中くらいにいた女子が思わずといった様子で声を上げた。
「浅井先輩って?」
「浅井先輩っていったら、野球部のエースじゃん」
聞き返したのは、美空に話しかけてきた生徒で、そこに男子が割り込んだ。そこからはもう言いたい放題だった。
「エースって、あの?」
「うちの野球部が初めて地区予選勝てたの、その人のおかげって話だよね」
「そんな人がなんで結城さん? 接点なくない?」
「顔が好みだったんじゃない? ショック~、ちょっとファンだったのに」
「俺は結城さんがそんなミーハーだったってほうがショックだぁっ」
「お前、密かに結城さんのファンだったもんなぁ」
美空は机の上で両手をぎゅっと握る。
また、だ。
どうしてこの人たちは、他人のことをこんなに好き勝手言うのだろう。そんなに興味があるのだろうか。美空の言葉を聞こうとはしないくせに。
一方的に質問してくることはあっても、それは盛り上がるネタを得るためであって、美空という人間を理解しようという意志など毛の先ほどもない。
美空はこの一年で彼らの相手をすることに疲れきっていた。だから休憩時間はなるべく教室にいないようにしていたのに、まさかこんな形で悠祐まで巻き込んでしまうなんて。
申し訳なくて、廊下側にいる悠祐を見ることができない。
美空が座ったまま俯いている間にも、クラスメイトたちの聞くに堪えない噂話は加速する。しかしそれも、誰かの一言でさあっと静まった。
「私、浅井先輩が肩の故障で野球部辞めたとか聞いたんだけど、本当なのかな?」
本人の目の前でなんと無神経なことを!
美空はたまらず立ち上がった。両手で机の天板を力強く叩いてしまい、無音になった教室に物騒な音が響き渡る。周囲の生徒たちがびくりと震えた。
恐る恐る美空の様子を窺う無数の視線を感じる。美空がなにを言うのかと固唾を飲んで待ち構えているのが分かる。けれど美空の胸の内は嵐のように荒れ狂っていて、到底言葉になどできそうにない。
口を開いたら、ただひたすらに、どうして、と泣き喚いてしまいそうだった。それくらい、悠祐の傷ついた部分に無遠慮に踏み込んできたことが許せなかった。
なにも言えないでいる美空に代わって教室中の注目を引き受けたのは悠祐だった。
「おしゃべりは終わったか?」
誰よりも冷静な口調が逆に内に隠した怒りの大きさを物語るようで、誰一人言葉を発することができない。悠祐の口元は緩やかなカーブで笑みを作っているのに、目はちっとも笑っていなかった。
悠祐は冷たい視線で室内を見渡す。
「こいつが誰となにしようがお前らには関係ないだろ。外野がピーピーうるせえんだよ」
鍛えられた腹筋から発せられる力強い声に、生徒たちは一様にうなだれた。
誰も返す言葉がないのを見てとると、悠祐は教室を出ていった。
彼の姿がドアの陰に消えそうになって、美空は慌てて廊下に駆け出した。
幸い悠祐の背中はまだ近くにあり、美空は駆け足を緩めるも、いつになく速い彼の歩調はついていくのも大変だった。
悠祐は階段の踊り場まで降りてきてからようやく立ち止まって振り返る。
一番上の段に踏み出したところで足を止めた美空は、手すりに捕まって上がった息を整える。
「なんなんだ、あいつら。いつもああなのか?」
悠祐がのぞかせる苛立ちに、美空は自分に向けられたものではないと理解しつつ、ひゅっと息を呑んだ。
「いつも……は、あそこまでじゃ……ない、けど……」
美空によく分からない質問を投げかけてきたり、その答えについて美空に聞こえない音量でこそこそとささやき合ったり、感じの悪い待遇を受けているのは否めない。
まるで珍獣にでもなった気分だ。なにをしても物珍しさからか好奇の視線にさらされる。そしておかしいだのありえないだの否定されるのだ。
「気に入らないなら……放っておいて、くれればいいのに……」
その方がお互い平和ではないのか。
美空は彼らの目に触れないように、ひっそりと過ごしているつもりだ。それなのに、どうしてかいつの間にか注目の下に引きずり出されている。
分かり合うつもりがないのなら、近寄らないでほしい。美空は見世物ではないのに。
「それは俺も同感だけど。無理なんだろ。あんたみたいな、存在自体が特別みたいなやつが近くにいたら、嫌でも自分の平凡さ浮き彫りにさせられるし。嫉妬で自分の醜さ思い知らされるし」
特別という言葉が、美空の胸に刺さった。悠祐に突き放されたような気がした。美空の唇が震える。
「特別なんかじゃ……ない……」
「特別」なんて、まるでいいことみたいではないか。美空は、ただ異質なだけだ。それゆえに誰にも理解されないのだ。
美空のなにをうらやむというのだろう。普通の――自分の気持ちをほんの少し言葉にするだけで、多くの人に理解され、共感してもらえる人が、他者となにも分かち合うことのできない美空の、なにに嫉妬するのか。
美空を特別というのなら、特別とは、すなわち孤独だ。
悠祐は、こんな美空とも普通に付き合ってくれる貴重な人間だと思っていたのに、彼にとってもやはり美空は異質なものなのだろうか。
寂しさのような悲しさがこみ上げ、涙が出そうになって、美空はぎゅっと目をつぶった。唇を噛んで堪えようとする。そんな美空の頭に、ふっと柔らかく舞い降りる感触があった。
驚いて目を開いたら、いつの間にか悠祐がすぐ前に立っていて、その手が美空の頭の上に乗せられていた。
悠祐は、美空とまっすぐ目を合わせると、くしゃっと顔を歪めて笑った。
「だな。あんたはあんただもんな」
そこで初めて気がついた。美空はずっと、誰かにそう言ってもらいたかった。
この人はいつも美空をありのままに受け入れてくれる。
誰か一人でも味方がいるということは、こんなに安心するものなのか。
悠祐の笑顔をじっと見ていると、美空の頭の片隅にちらりと引っかかるものがあった。前にもどこかでこの顔を見たことがある。それは既視感だった。
おぼろげなその感じをなんとか引き寄せようとすると、ぼんやりと記憶に付随する感覚が蘇ってくる。肌に照りつける強い日差し、人々の歓声、少年たちの笑顔……。
美空ははっと目を見開いた。
「せんぱ……っ」
口にしかけた言葉を、すんでのところで飲み込む。
「どうした?」
「あ、えっと……なんでも……」
不思議そうに顔をのぞき込む悠祐に美空は首を振る。“不可侵協定”があるのだった。
美空は慌てて話題をそらした。
「教室……なにか、用事……?」
考えてみれば、悠祐は美空のクラスすら知らないはずだった。
その答えを悠祐はポケットから取り出す。
「生徒手帳。昨日美術室に忘れてた」
「……あ」
美空は制服の胸ポケットを押さえる。手ごたえのない中身は空っぽだ。絵を描いている最中に上着を脱いだから、そのときに落ちたのかもしれない。
「ありがとう……」
「ん」
受け取って表紙をめくると、確かに「一年四組 結城美空」と記載された学生証が入っている。
「じゃ、俺は行くけど。あんたは、大丈夫か?」
「……ん。へいき」
「そっか。ならいい」
階段を下りて、二年生のフロアへと戻る背中を見つめながら、美空の胸はほんの少しチクリとした。
悠祐が心配したのは、「あの状態の教室に一人で戻れるか」ということだと分かってはいた。けれど、美空は正直な気持ちを言わなかった。
美空の言葉が足りなくて気持ちを伝えきれないことは多いけれど、食い違いに気が付いていて敢えて黙っていたことはない。しかも、信頼を置いている相手に対して。
嘘をついたわけじゃない。だから後ろ暗く思う必要なんてないのだろう。けど、どうしてか、悠祐にはありのままの自分でぶつかりたいと思ってしまう。そして、ありのまま受け入れられたい、とも。
他人に期待することを止めて久しいのに、悠祐は美空をとても欲張りにさせてしまう。いけないことだと思うのに、嬉しいと感じる自分もいて、美空はこの気持ちをどうしたらいいのか分からなかった。
美空が階段に立ち尽くしていると、間延びしたチャイムの音が始業時間の五分前を知らせる。
自分のすべきことを思い出した美空は、ポケットにパスケースが入っていることを確認して、そっと昇降口に向かった。
***
学校を抜け出した美空は自宅に戻ってきていた。
教室に戻るのが怖いからついサボってしまった……というわけではなく、どうしても確認したいことができてしまい、いてもたってもいられなくなったのだ。
普段はきっちり授業に出ている美空だが、事情ができれば躊躇いなく無断欠席を決めてしまうあたり、やはり感覚が一般よりずれている。
鍵を差し込んで開けた家の玄関はしんと静かだった。美空の両親は共働きなので、昼間の家は無人である。
授業時間中に堂々と帰宅した美空は、廊下の突き当たりの階段を上って、まっすぐ自室に向かう。
美空の部屋は、雑然と画材や絵が並べられているだけの殺風景な六畳一間だ。可愛らしいカーテンがかかっているおかげで、かろうじて女の子の部屋だと分かる。
素っ気ない内装はまるで美空の人柄そのものだ。飾り立てることに興味はなく、ただ大切なものを大事にとっておくだけ。
部屋の右手奥には本棚がある。文章を読むのが苦手な美空が本棚に並べるのは、小さい頃両親が買い与えてくれた児童文学全集や絵本、それに色使いや構図などに興味をもって購入した画集や写真集が大半だ。
しかし、それらに隠れるようにして、一冊だけ小さなアルバムが入っている。美空はそれにすっと手を伸ばした。
ぱらり、と表紙からページをめくっていくと、去年の夏の風景が美空の脳裏に鮮やかに蘇った。
夕立の前の積乱雲、校庭の花壇に咲いた向日葵、波が打ち寄せる岩場に身を潜めたヤドカリ、人混みの中から見上げた花火……全て美空が、あの夏に撮ったものだ。
自分の絵と写真の違いはどこにあるのか、美空の絵に足りないものとはなんなのか、答えを探し歩いた軌跡がこのアルバムには収められている。
そしてその最後に、その写真はあった。
「やっぱり……」
グラウンドで揃いのユニフォームに身を包んだ仲間たちに抱擁されながら、写真の中心で太陽のように笑う少年。今よりも髪が短く肌が日に焼けていて、なにより表情が全然違うから、すぐには気づけなかった。
「浅井先輩、だったんだ……」
美空の絵にきっかけをくれた人。写真に写しとれない想いを絵ならすくいあげられるかもしれないと気づかせてくれた。
美空は初めて悠祐を桜の下で見つけたときのことを思い出した。暗い顔は似合わないと感じたのは、夏の試合で見たこの笑顔が美空の記憶の奥底にあったからだ。
「そっか……そうだったんだ……」
じわじわと広がる実感を確かめるように、美空は何度も頷く。
悠祐のいる桜の風景に心惹かれる謎がようやく解けて、胸のつかえがおりたようだ。
そして不思議と気持ちがふわふわする。記憶の中の人物と悠祐が同一人物だと分かっただけなのに、彼と自分の過去に接点を見つけられたことが、どうしようもなく嬉しい。
悠祐と出会ってからの美空はどうにもおかしくなってしまった。今まで画用紙に写しとるだけだった平坦な風景が、彼がいるだけで違って見える。
桜の下に立つ彼の姿を思い起こして、美空は昨日までよりももっとその光景に焦がれている自分に気がついた。
学校の桜はすでに五分咲きほどになっていて、もうすぐ満開を迎える。空気さえも染め上げる淡い桃色が、先に咲いたものからちらりちらりと舞い落ちていく中に、彼が立ったとしたら。きっと美空は、ただ見惚れていることしかできないだろう。
現実には目にすることがないと分かっているその情景を、美空はひたすら脳裏に描き、飽きることなく眺め続けた。