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第一印象

 芸術的に真っ直ぐな軌跡を描いたそのボールは、吸い込まれるようにしてキャッチャーミットに収まった。

 九回裏を守りきり、勝利が決定した瞬間だ。次いで、歓声が沸き上がった。選手だけでなく観客までもが一体となって、決勝進出を決めた喜びに興奮していた。

 その中心にいたのは、ピッチャーを務めた少年だ。他の選手たちに抱きしめられ、もみくちゃにされながら、彼自身もまた輝かんばかりに笑っていた。

 去年の夏の記憶である。美空は美術部の友人に連れられて野球部の試合に行った。万年初戦敗退だった我が高校の野球部はその年、地区予選準優勝という快挙を成し遂げた。

 彼らの積み重ねてきた努力を想像すると、絵の題材を探しに来ただけの美空まで感極まって涙が出そうになった。そして羨ましくなった。彼らの頑張りは、これほど多くの人を熱狂させるのだ。誰にも理解されない美空の絵とは違う。

 けれど、記録用のカメラを覗き込んだときに美空は気がついた。写真の中では褪せてしまうこの感動を、美空は絵という形で表現できるのではないか。

 美空は野球ができないけれど、絵を描ける。描くことの楽しさばかりを追い求めてきたけれど、もっと、美空の中のなにか――感情や言葉では表せないものを表現するために、伝えるために使ってもいいのではないだろうか。

 伝えたい「なにか」はまだ分からない。けれど、それは美空にとって一つの気づきだった。

 その夏の日以来、美空は、自分の中の「なにか」を探し続けている……。



***



「美空の絵って写真みたいだよね」


 初めてそう言われたのは、いつのことだっただろう。記憶が遠すぎて、よく覚えていない。数え切れないほど何度も聞かされた言葉で、誰に言われたのかさえ定かではない。

 放課後、部活動が始まる前の傾き始めた日差しに美術室の壁が照らされている。そこには生徒たちの作品が貼りだされていて、その一枚に「校庭 結城美空」と書かれたカードが添えられている。

 昼の校庭の柔らかな陽だまりは、画用紙の上でも現実のものと見紛うほどの鮮やかさだ。美空が美術の授業で描いたものである。

 美空は少し壁から離れて、他の生徒の作品と自分のものとを比べてみる。全然違う。

 パースとかデッサンとか、技術的なものは美空のほうがずっと上だ。美空は小さい頃から絵ばかり描いていたのだから当然だ。けれど、なにか足りない。綺麗は綺麗だけど、それだけ。

 周りの作品はもっと「キラキラ」している。この絵を描いた人は、ここを描きたかったんだろうな、とか、これが好きなんだろうな、とか。描いた対象への描き手の想いが、拙さの中にも溢れるほど込められている。

 美空の絵には、それがない。

 だって仕方がない。美空は絵を描くこと自体が好きなのだから。

 なにを描こうとか、なにを伝えようとか、目的があって絵筆を握るわけじゃない。美空にとっては、絵筆を握ること自体が目的で、絵の具で見たままのものを画用紙に描き出す作業こそやりたいのであって、作品は副産物なのだ。

 写真みたい。

 なにを描きたいのか、なにを伝えたいのか分からない。

 そんなふうに言われたって、美空自身そんなことを考えてはいないのだから困る。


「どうして、みんな……絵の描き方を、決めつけるの……?」


 自由に描かせてほしい。だけど、せっかくできた作品が誰にも理解されないのは、寂しい。

 美術部の顧問の先生に相談したら、美空にも描きたいと思えるものがきっとあるはずだから、探してみるといいと言われた。

 そうして見つけたのが夏の野球部の試合だった。あのとき確かに、自分の絵は写真に表現できないものを表現できると感じたのに、肝心の表現したいものにまだ出会えない。

 美空の中は空っぽで、誰かに心の底から伝えたい、叫びたいことがないのだ。芸術が爆発なら、美空には熱量が圧倒的に足りていない。




 美術室で一人の時間をぼんやりと過ごしていると、授業を終えた部員たちが少しずつ美術室に集まってくる。

 おのおのに作品づくりの準備を始める彼らに合わせて、美空もまた、いつもの定位置である窓の正面に椅子とイーゼルを置いた。

 スケッチブックを自分用の戸棚から取ってくると、描きかけのページを開いて、イーゼルに置く。

 ここ二週間くらい、美空はずっと同じ絵を描いている。何枚も、何枚も。

 鉛筆を手に取って、さあ続きを描こうと窓の外に目をやって美空は、あれ、と目を丸めた。いつもの場所に、彼がいない。放課後になると毎日桜の木の下にいたのに。

 美空が窓の風景をきょろきょろと見回していると、突然背後から呼びかけられた。


「結城さん、先生が呼んでるから、準備室行って。スケッチブック持って」

「あ……はい」


 振り返ったところに立っていたのは、部長の竹本だ。美空が頷くと、用は済んだとばかりに行ってしまう。

 美空は開いたままのスケッチブックを抱えると、美術室の奥にある小さなドアから美術準備室に入った。


「結城、です。……先生?」


 ドアの前に置かれたついたての向こうをのぞき込むと、美術部顧問の葉山が棚から書類を取り出しているところだった。


「ああ、結城さん。待ってたわ。座って」


 教師用のデスクの向かいには椅子が一つ置かれている。デスクに着いた葉山と向き合う形で美空は着席した。


「話の内容はだいたい予想できてるわよね」


 美空はこくりと頷いた。そろそろコンクールに出品する作品に着手しなくてはならない時期なのだ。

 葉山は美空の作品をとても買ってくれていた。美空を美術部に誘ってくれたのも彼女で、コンクールへの出品も強く勧められているのだ。


「進捗はどう?」


 美空は無言でスケッチブックを差し出した。まだ描きかけのページである。

 白い画用紙の上に、桜の下で少年が一人佇む風景があった。ここしばらく、美空の定位置から見える風景でもある。今はまだ鉛筆画だが、イメージが固まったら、きちんとした用紙に描き直し、水彩で色をつけるつもりでいる

 葉山はそれをじっくり眺めると、美空を安心させるように笑みをつくった。


「とても雰囲気のある絵ね。いいと思うわ」


 美空はぱっと顔をほころばせた。しかし、葉山が即座に「でも」と続けたのを聞いて、表情はこわばる。


「まだ、迷いがあるみたい」


 葉山がすっと指したのは、桜の下でぼんやりとどこかを見つめる少年の顔だ。


「この男の子は、なにを考えているのかしら」


 美空は押し黙った。答えることができないのは、ただ分からないからだ。


 その男の子を見るようになったのは、春の訪れを感じ始めた頃だった。

 ある日の部活中に美空がスケッチブックからふと視線を上げると、真正面に見える桜の木の下に名も知らない男子生徒が立っていた。

 遠目でうかがう限り見覚えはなく、同学年ではなさそうだった。三年生なら卒業式までもう登校しないはずだから、二年生と予想をつけた。分かるのはそのくらいだった。

 けれど、美空は彼をなぜだか知っている気がして、その憂い顔に胸を締め付けられた。

 あなたにそんな顔は似合わないよ。

 彼の他の表情を知るわけでもないのに、心のどこかがそう囁く。

 どうしてもその表情が気にかかって、いつの間にかスケッチブックに鉛筆を走らせていた。どんなに描いたところで彼の視線の先がわかるわけでもないのに、やめようとは思わなかった。美空が探していた「なにか」がそこにあるような気がしていた。


 唇を結んだまま美空がじっと考え込んでいると、くすっと吐息で笑う気配がして、美空は慌てて顔を上げた。


「なるほどね」


 葉山は一体なにに納得したのだろう。美空はぼうっと葉山の顔を見ながら、また考え込みそうになってしまう。だが、現実の動きが彼女の意識を引き戻した。葉山が一枚のプリントをデスクの上に置いたのだ。


「コンクールの要項。渡しておくわね」

「……はい」


 白い用紙に並んだ文字の羅列に、美空はほんの少し眉を寄せる。文章を読むのは、あまり得意ではなかった。


「大事なことも書いてあるから、きちんと目を通しておくのよ」

「……はい」

「それと、絵についてだけど」

「はい」


 そこだけはきちっと葉山の顔を見て、美空は全神経を耳に集中させる。その唇からもたらされるヒントを、一つも聞き漏らしたくなかった。


「この半年で、結城さんの絵はとてもよくなったと思うわ。ただ、まだ描きたいものが掴みきれていないみたい。男の子がなにを思っているのか、結城さんはそれになにを思うのか、そのあたりをもう少し作りこんでみるといいんじゃないかしら」


「……はい。わかりました」


 やっぱり、「描きたいもの」だ。美空には分からないなにか。

 強く心を惹かれたから男子生徒の絵を描いた。でも葉山はそれだけでは足りないという。

 目に見えた風景をそのまま映しとるだけでは駄目で、もっとそこに美空自身で加えないといけないものがある。きっとそれが、他の作品にはある「キラキラ」で、夏の日の野球のような、他の人と分かち合えるものなのだ。


「がんばって、みます」


 立ち上がって折り目正しくお辞儀をすると、美空はスケッチブックとプリントを抱え、ぼんやりした足取りで美術室に戻った。葉山の言葉と絵のことで美空の頭はいっぱいだった。

 再度小さなドアを開けて美術室に踏み込むと、面談の前まで静かだったはずのそこには、楽しげな話し声が響いていた。

 部屋の真ん中に女子部員たちが集まっている。そして、彼女たちに囲まれた中央に、ぬっと頭一つ分突き抜けた男子生徒の背中があった。

 背後からでも分かるがっしりとした体格は、美術部員のものではない。


「誰……?」


 美空の口から思わずこぼれた呟きに気がついて、手前にいた竹本が振り返った。


「あ、結城さん。面談終わったんだ。今ね、モデルを引き受けてくれるっていう人を見つけたから、皆に紹介していたの」

「モデル? ――あ」


 美空が背の高い彼を振り仰ぐと同時に、彼もまたこちらを向いて視線がぶつかる。

 美空の瞳が見開かれた。彼もなぜか息を呑んで目を丸くする。しかし、美空の驚きは彼の比ではなかった。


「桜の、木の……!」

「え?」


 桜の木がなんだと一様にきょとんとした部員たちに囲まれながら、美空は開きっぱなしで小脇に抱えていたスケッチブックを前に出す。


「これ……私が、描いた……の。いつも、あの桜のところに、います……よ、ね?」


 初めての人を前にあたふたと懸命に言葉を紡いで、美空は窓の向こうの桜を指さした。そして、彼に問うような視線を送る。

 しかし、彼の眉間がみるみる深い皺をつくっていくのを目にして、美空はひるんだ。

 遠くの小さな桜とスケッチブックを無言で見比べていた彼は、はあ、と聞こえよがしな溜息をついたかと思うと、美空の手からスケッチブックを奪い取った。そして、桜と自身が描かれたページをつかみとり、びりりと荒っぽい手つきで破ってしまった。

 あまりにも突然のことに、美空は固まって見ていることしかできない。その間にも彼は切れ端を半分、また半分に切り裂いていく。


「な、なんで……」


 強ばった喉をなんとか急き立てて、美空がようやっとそれだけを口にすると、彼は手の中に残った破片を床に払い落として美空から顔をそむけた。


「こんなもん、見たくなかった。つか、あそこに立ってるの見られて、しかも絵にされてたとか。最悪」

「そ、んな」


 彼は言い捨てると、それ以上のやりとりを拒絶するように、美空から離れていった。周りにいた女子部員たちも、ちらちらと美空を気にしながら彼についていく。唯一竹本だけが、部長としての義務感からか、床に散らばった紙片をかき集めるのを手伝ってくれた。けれど、彼女だって、美空と特に親しいわけでもないのだ。

 竹本は最後の一欠片を拾い上げ、美空の手に乗せる。そして少し言いにくそうにしながら、


「勝手に絵のモデルにしちゃったのは、あんまりいいことじゃなかったね……」


とたしなめて、彼のほうに去っていった。

 美空は置き去りにされたスケッチブックとばらばらになった絵の残骸を持って、とぼとぼと自分の定位置に戻る。イーゼルの脇に寄せていた机にそれらを置き、しばらく放心していた。

 一体なにが起きたのか、分からない。

 もしかすると美空の絵は、彼の他人に踏み込まれたくない部分を知らず知らずのうちに踏み荒らしてしまっていたのだろうか。


「私の、絵が……」


 誰かに理解されるような作品を描きたいと思っただけなのに、傷つけてしまうなんて。理解されないより、もっと酷い。

 感情の見えにくい美空の瞳から、雫が一つ、ぽとりと落ちた。


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