黒妖犬の襲撃
ノースタウンを出発したレスターの隊商と他四つの隊商は、最北の森へと入った。
この森では獣にはほとんど襲われることはないと聞いている。また、盗賊の類いにも襲われることはないらしい。以前はいたそうだが、ノースタウンの警邏隊と黒妖犬の群れがこれを取り除いてしまったという。
そのため、この森で一番気をつけないといけないのは黒妖犬ということになる。群れてこちらを襲ってくるのだが、少ないときは五匹前後、多いときは二十匹前後も群れているらしい。こいつらの目的は品物ではなく、人間や魔族、あるいは馬やロバである。そう、俺達を食うために襲うのだ。そのため、こいつらに襲われたときは荷物ではなく、隊商の隊員と馬などを守らないといけない。
ちなみに、この森には小鬼もいるらしいが街道上に現れることはないらしい。もっと奥の方に住んでいるそうだ。
野営地から出発して既に数時間が過ぎているが、俺とアリーは周囲の森に気を配っている。まだ始まったばかりだが旅は順調だ。
「森の中というと、小森林を思い出すなぁ」
「そうですね、植生は少し違うみたいですが、なんとなく雰囲気は似ていますね」
時折雑談なんかを交えて暇を潰しているわけだが、転生してから初めて入る森なので少し緊張している。ただ、アリーの言う通り雰囲気が小森林と似ているおかげで、同時に妙な懐かしさも感じていた。
俺とアリーは三十分に一度の間隔で交互に捜索をかけて、黒妖犬が近づいていないか確認している。ああいった獣系の魔物は動きが俊敏なので、こんな視界が悪い場所で見かけたときには、あっという間に懐へと入り込まれてしまうからだ。
ただ、困ったことにスカリーとクレアは黒妖犬に出会ったことがないため、目視に頼るしかない。それと、アリーの探索範囲は百五十アーテムだと聞いている。以前よりも範囲が広くなっているのは、まじめに修行していた成果だ。ただ、それでも不安だったので、俺は範囲を五百アーテムにして周囲を警戒していた。
「それにしても、森に入ってからは荷馬車の揺れが一層酷くなったなぁ」
「確かにそうですね。私も馬車から降りた直後は感覚が少し変になっています」
「体が揺れているように感じるんだよな」
今俺達が進んでいる道を街道と呼んでいるが、煉瓦で舗装されているわけではない。木を引き抜き、植物を取り払い、そして往来する人、馬、馬車などで踏みしめた道だ。山の方へ近づくほどに道が荒くなってゆく。荷馬車がすれ違うくらいの広さがあるだけでも大した代物なのだ。
だから荷馬車の揺れは森に入ると一段と酷くなったし、山脈へと近づくに従って更に悪化していく。正直、勘弁してほしい。
「師匠もですか。こればかりは私も慣れないですね」
「これ以上の速度で荷馬車を走らせたら、車酔いしそうだな。あ、進行方向の左手四百アーテム先に黒妖犬を見つけた。数は……え、三十匹?」
かけた捜索に反応があったが、思わず数を数えなおしてしまった。多くても二十匹程度じゃなかったのかよ!
「レスター! 進行方向の左手四百アーテム先に黒妖犬を見つけた! 数は三十匹!」
「なんだと?! 数え間違えてねぇだろうな!」
「心配すんな! 算術は得意なんだよ!」
適当な返事をして、レスターに次の指示を促す。止まって様子を見るのか、それともそのまま突っ切るのか、まずはそのどっちかだ。
再び捜索をかける。彼我の距離は二百五十アーテムまで縮まっている。荷馬車の速度を考えると、黒妖犬は明らかにこちらへと向かってきていた。
その情報を追加でレスターに伝えると荷馬車を止めた。後続の荷馬車も次々と止まる。マイルズの馬車は少し離れたところで止まった。
「おい、森の左手から黒妖犬三十匹が襲ってくると後ろの連中に伝えろ!」
「へい!」
荷馬車が止まると、レスターに命じられた御者が御者台から飛び出していく。伝言を聞いた背後の馬車では、使用人の一人が更に奥の馬車へと向かって走って行った。こうして伝言ゲームのように後方の荷馬車へと情報を伝えていくのだ。
それと入れ替わりにマイルズのところから斧使いの戦士がやって来る。
「おい、どうした?」
「ユージが森の左手から接近してくる黒妖犬三十匹を見つけた! 距離は二百五十アーテムらしいぞ」
「いや、百ちょっとだ。早くマイルズのところへ戻れ!」
「師匠、私も補足しました! 散開して後ろの馬車も狙うつもりのようです!」
荷台から降りて鎚矛を手にした俺は、斧使いの戦士に戻るように急かす。アリーも俺に続いて抜剣していた。
「黒妖犬ってのは犬だけに鼻がいいんだな! 四百アーテム以上からでもこっちの臭いをかぎ取るのか!」
「いや、おかしい。大抵は街道の近くで待ち伏せしているもんだぜ。最初はやり過ごせるかと思ったんだがな」
御者台から降りて、短剣を構えたレスターが首をかしげながら俺に返事をする。そうか、だから最初は止まろうとしなかったんだ。
前後を見ると、マイルズ達もスカリーとクレアもみんな迎撃態勢をとっている。少なくとも奇襲はこれで防げた。
俺とアリーは、レスターと御者が手にしている短剣に魔力付与をかけた。以前の盗賊との戦いを見た限りでは、これで自分の身を守ることくらいはできるはず。
「お、ありがとよ! これで心置きなくぶち込めるってもんだぜ!」
俺が自分の武器にも魔力付与をかけていると、レスターから礼を言われた。けど残念ながら、それを暢気に受け取っている余裕はない。森の奥から草木をかき分ける音が聞こえてきた。
最後に捜索をかけてみると、マイルズのところに四匹、俺達のところには五匹、そして他の荷馬車には三匹ずつが襲ってくるようだ。どうも俺達のところが貧乏くじを引いたっぽい。
でも一点、気になることがあった。左前方からこちらへ向かってきていたのだから、普通は前の荷馬車から順番に襲われることになる。なのに、まるでこの黒妖犬は計ったかのように、全ての荷馬車を真左から同時に襲おうとしているのだ。いくら何でも野生の黒妖犬はここまで賢くない。なんだこれ?
「師匠、来ます!」
アリーの声で思考を中断する。目の前から聞こえてくる音は、草木をかき分けるもの以外に生き物のうなり声も加わっていた。
街道上の俺達と森までは約三アーテムしかない。視界の利く範囲はそれだけだ。勢いをつけた黒妖犬が飛び出してきたら、一瞬で距離を縮められてしまう。それでもないよりかはましだ。ただ、距離があまりにも短すぎて魔法操作は使えない。
あと、俺とアリーは馬を背に森と対峙している。これは馬を黒妖犬から守るためだ。本当なら荷馬車を盾にして第一撃をやり過ごしたいんだけど、馬も襲撃対象に入っているせいで守らないといけない。何しろ、怪我でもされたら動けなくなってしまうからな。この森の黒妖犬の厄介なところでもある。
こっちは四人で向こうは五匹、数の上では分が悪い。その上勢いまで向こうに部があるとなるとさすがに危険すぎる。だからここは、強制的に仕切り直すことにしよう。
「我が下に集いし魔力よ、大地をもって我が盾となれ、土壁」
薄暗い森の中に黒い影が見えてから呪文を唱え、目の前の生い茂る草木が揺れた瞬間に、魔法を発動させる。黒妖犬が姿を見せた瞬間に、高さ二アーテム、幅四アーテムの土壁がせり上がった。
「ギャン!!」「ギャウン!」
二匹の黒妖犬が土の壁にぶつかったらしく、悲鳴が上がった。他の三匹は突然現れた壁を前にして急停止したらしい。怒りのこもった唸り声と鳴き声を発してくる。
そして次の瞬間、俺は土壁を解除した。このままこの壁を放置していてもすぐに回り込まれるだけだ。最初の勢いさえ防げたら不要である。
壁が地面に還ると、目の前には全長一アーテム程度の黒妖犬が五匹いる。三匹はすぐさまこちらに気づいて唸り声を上げてきた。しかし、まだ二匹はぶつけた顔の痛みで混乱しているようだ。
「アリー!」
「はい!」
俺の呼び声を聞いた瞬間、待っていましたとばかりにアリーが前に出た。目標は正面で痛みに苦しんでいる黒妖犬だ。二アーテム程度の距離ならば、アリーにとってはないも同然だった。
上段から振り下ろされた黒い剣先は、黒妖犬の頭に吸い込まれるように入り、あご先から出てきた。同時に、その頭部が縦に割れて血を吹き出す。端から見ると、まるで単に素振りをしたかのようにしか見えない。
これで四対四、数の上では同数になった。でも、身体能力の高い魔物犬と近接戦闘をしないといけないのは厄介だ。
周囲でも既に戦いは始まっているらしい。雄叫びや犬の鳴き声をはじめとする戦いの音が聞こえてくる。この様子だと、しばらくは独力で何とかしないといけない。
しばらくは四対四で睨み合っていた俺達だが、我慢しきれなくなった黒妖犬が次々に俺達を襲ってくる。
彼我の距離が二アーテム以内でこういった身体能力の優れた相手と戦うとなると、俺は不利になる。俺の持っている鎚矛で打撃を与えようとすると思い切り振り回さないといけないが、俊敏な黒妖犬相手にきちんと当てるのは難しい。せめて手にしている武器が刃物なら目や口を狙って傷つけることもできるが、鈍器だもんなぁ。近いうちに短剣でも買おうかな。
ということで少なくとも今は魔法で対応するべきなんだけど、呪文を唱えている暇がない。特にひっきりなしに責め立てられるときは防ぐだけで精一杯だ。あんまり時間をかけるわけにもいかないし、ここはひとつ、隠し球の使いどころか。
「風刃」
呪文をすっ飛ばして、俺は無詠唱で黒妖犬の顔面に風邪の刃を撃ち込んだ。すると黒妖犬は悲鳴を上げてのたうち回る。俺はその頭めがけて何度も鎚矛を叩き込んでおとなしくさせた。
周囲に視線を巡らせると、既に自分の担当分を殺していたアリーが俺の方を見ていた。何が嬉しいのかにこにこと笑っている。まぁ、アリーは俺が無詠唱で魔法を使えることを知っているからいい。その他は、レスター達もまだ戦っているし、誰もこちらに注意を払っていないようだ。どうもばれていないっぽい。
「なるほど、近接戦闘では、ああやって魔法を使うのですか」
「え、あ、うん。それより、レスター達を助けるぞ」
「はい!」
俺は上機嫌なアリーを促して、未だに黒妖犬相手に戦っているレスターと御者に加勢した。二人がかりで相手をするとなると、さすがに黒妖犬相手でも近接戦闘で優勢に戦える。
黒妖犬との戦いが完全に終わったのは、それから十分が過ぎた頃だった。
隊商の集団全体として、戦っていたのは長くても十五分くらいだったと思う。まるで計ったかのように荷馬車単位で襲ってくれたおかげで、どうにか死者を出さずに済んだ。しかし、均等に襲われたせいで集団の比較的弱い部分も同時に襲われてしまい、何人かが重傷を負ってしまう。さすがに完全に対応するということはできなかった。
「酷い目に遭ったぜ。あんな大量の黒妖犬に襲われるたぁな」
レスターの隊商には幸い負傷者はいなかった。マイルズ達は戦士が黒妖犬を押さえ込んでいる間に、魔法使いと僧侶が魔法で対処したそうだ。スカリー達も同じやり方で対応したらしいが、前衛役としてクレアも黒妖犬の押さえ役に回っていたらしい。
「いやぁ、あんときのクレアさんは凄かったでぇ。なんせ、あの犬ころを鎚矛で滅多打ちやもんなぁ」
「待ちなさい! 身を守るために、何度か叩いただけでしょう?! 大体、とどめはスカリーが刺したじゃない!」
何やら見解の相違が発生している模様。使用人の方を見ると人間語がわからない振りをしている。うん、賢い選択だ。
「他の隊商のところを見て回ったが、もうしばらくしたら動けるそうだ。それと、俺達を襲ってきた黒妖犬は、全部で二十匹倒したようだ」
レスターの代わりに後続の様子を見に行っていたマイルズが、他の様子を報告してくれた。
「いくらかは逃がしちまったが、もうこれで俺達を襲ってはこねぇだろう」
レスターは襲撃を退けたことで安心している。ただ、俺は気になったことがあったのでそれを質問してみることにした。
「なぁ、レスター、マイルズ。最北の森にいる黒妖犬って、襲撃のタイミングを合わせるっていうような知恵のある魔物なのか?」
「どういうことだ?」
「いや、黒妖犬が襲ってくる直前に捜索をかけてみたんだけど、全ての荷馬車を同時に襲うように仕掛けてきたんだ。しかも、マイルズ達と俺達のところ以外はどこも三匹ずつだった。野生の魔物が襲ってきたにしては、整いすぎていると思わないか?」
レスターとマイルズは顔を見合わせる。
「考えすぎじゃねぇのか?」
「タイミングについてはわからんが、どこも三匹ずつという話は聞いたな」
「師匠は、盗賊が黒妖犬を使って私達を襲わせたというのですか?」
「いや、それがよくわからないんだよなぁ」
魔物を手なずけて隊商を襲わせるというのなら、最初に思いつくのは盗賊だ。しかし、それなら黒妖犬をけしかけてすぐに自分達も襲いかかればよかったのに、結局最後までその姿を見せなかった。
「アリーの言う通りやと盗賊が出て来んとおかしいわな」
「それじゃ、一体誰がなんのためにやったの?」
全員で考え込む。知能の低い魔物にできるようなことじゃないが、誰かがやったとも言い切れない。随分ともやもやする話だ。
「あーもう、やめだやめ! 助かったんだからいいじゃねぇか」
「そうだな。いくら考えても答えがでそうにないぞ」
レスターとマイルズは早々に考えることを諦めたようだ。確かに、判断材料がなきに等しいこの状態じゃ、考えるだけ無駄か。
何となく不安を覚えながらも、俺はこの話を打ち切らざるをえなかった。
隊商の集団は、この後一時間あまり各点検や休憩を取ってから、再びロッサ目指して動き出した。