二つの招待状
梅雨が明けた。忌まわしい除湿の作業がぐっと減るのはとても嬉しい。作業員もにっこりだ。
しかし、七月は夏だ。初夏とはいえ暑い。空調設備などない研究室の中は、締め切っていると確実にサウナ風呂となる。だから窓は全て開けっ放しだ。これでも大概なのだが。
そんな俺達にとって一服の清涼剤なのが風だ。全くの無風だと室内の空気は澱み、そして気温は上がってしまう。それを防いでくれるのが、この時期の我らが生命線である風なのだ。
全開となっている窓から涼しいそよ風が入ってきたときなどは、思わず作業の手を止めて風を堪能してしまう。いや、仕事を止めちゃ駄目なんだけど、もう本能みたいなものだから仕方がない。
ところが、『過ぎたるは及ばざるがごとし』という言葉があるように、度を超すとよくない。
「ああ~! 資料がぁ~!」
今も突風が研究室内に突っ込んできた。そのいきなりな強い風が室内をかき乱す。油断していた作業員や学生が対策なしで机の上に置いていた紙の資料や粉末が、盛大に舞い上がっていた。って、おい、あの粉末って高いやつじゃなかったか?
まぁいい。在庫にある分は提供するが、なくなってしまった場合は自腹を切ってもらうことになっている。それよりも、また盛大に紙の資料をばらまいてくれたな。集めるのが大変だぞ。
一方、俺は突風対策も完璧だ。以前派手にやらかして、回収と整理に三十分くらいかけたんだよなぁ。決済済みと未決済の書類が同時に吹き飛ぶのは勘弁していただきたい。
それにしても最近、サラ先生絡みの仕事がなくていいね。研究室の管理だけをしていればいいんだから作業がはかどる。って、あれ? 確か最初は、俺ってその管理だけをすればいいって話だったんだよな? なんでそれ以外の仕事を引き受けているんだろう。
「ユージく~ん! おはよう!」
いつの間にか余計な仕事をやらされていることに気づいた俺が愕然としていると、諸悪の根源さんが入ってくる。この研究室の主、サラ先生だ。
脳天気さはいつものことなので、室内にいる作業員も学生も、サラ先生に挨拶を返すだけですぐに自分の作業に戻る。
そしてにこにこ笑顔のサラ先生は、入り口からまっすぐに俺のところへとやって来た。
「おはようございます、サラ先生」
「うん、おはよう! で、なんで研究室の中がこんなに散らかってんの?」
さも今気づきましたよというような感じで、サラ先生は室内を見回しながら質問してくる。
「風の試練です。油断している者に、常に緊張感を持って作業をするようにと警告を与えてくれたんですよ」
「へぇ~、随分とはた迷惑なことする風さんやね~」
全くである。おかげで俺も油断できない。書類の上に置いてある文鎮を外す度に緊張してしまう。
サラ先生は、室内の様子を一通り見終わると俺の方へと向き直った。今日の笑顔は普通だな。厄介な仕事を持ってきたわけじゃなさそうだ。
「それで、何か用ですか?」
「うん。あのな、今日の夕方にうちの家に来てほしいねん」
「教授室じゃなくて、学校内の屋敷にですか?」
俺が確認の質問をするとサラ先生はしっかりと頷いた。あれ、ということは仕事ですらない? 一体何の用なんだろうか。
「必ず来てや。大切なことやから。今回はうちやのうて、ユージ君自身のことなんやからね」
「え、俺ですか?」
なんだろう。いくら考えてもさっぱり思いつかない。焦りはしないけど不安になるな。
「そんじゃ確かに伝えたで。絶対来てな!」
俺の返事も待たずにサラ先生は研究室を出て行く。そして直後に突風が吹いた。
たまに吹く突風に警戒しながら仕事をしていると、夕方になっていた。サラ先生との約束を思い出して本日の業務を終了させる。
まだいる作業員に後のことを任せると研究室を出る。そうして自然と食堂へ足を向けた。
「あ、違った」
これからサラ先生と会う約束をしていたんだ。何も考えずに体を動かしていたら、自然と食堂へと向かいそうになった。すっかり習慣付いているな。
でも、この時間帯だと夕飯を食べておくべきか微妙なんだよな。俺との話が最初にあるのは間違いないだろうけど、その後に夕飯が出されるのかどうか。それに話が長引くとおなかの虫が鳴りかねない。
食堂で少し食べておくかどうか悩んだ結果、何も食べないことにした。そもそもそんなにおなかが減っていないことに気づいたからだ。昼に食べたやつがまだおなかに残っている。
ということで、研究室から直接校内のペイリン邸へ向かうことにした。
学校の内部にあるペイリン邸は、魔法学園の創立当初からあったらしい。というより、最初はここで創立者のメリッサが教鞭を執っていたそうだ。そして、学生が増えるに従って宿舎が建てられ、学舎も新設されていったという。今ではペイリン一家の私邸に戻っているが、ここは学園の出発点なのだ。
そんなお屋敷に俺はこれから入るわけだが、もちろん普段は全く縁がない。むしろレサシガムにあるペイリン本邸の方に馴染みがあるくらいだ。何が言いたいのかというと、実はちょっとだけ緊張しているのだった。いやだって、初めてのところって緊張しない?
ともかく、西日が強くなり始めた頃に屋敷へと着いた。門番に来訪を告げると、しばらくして中から使用人が出てくる。俺は案内されるがままに応接室までついていった。
「よう来たな~」
「待っとったで。さ、こっちに座って」
サラ先生とスカリーの親子が揃ってソファを勧めてきた。そしてなぜだか、クレアとアリーまでいる。何の集まりなんだろうか。
「今日は朝にサラ先生から、俺のことで話があるって聞いているんだけど、三人も関係あるのか?」
「今回はペイリン家やのうて、クレアとアリーが中心なんや」
俺は怪訝な表情をスカリーに向ける。あれ、もしかして個人じゃなくて家の方の話なの?
「えっとですね、ユージ先生。実は、わたしの実家であるホーリーランド家から、ユージ先生へ招待状が届いているんです」
「師匠、私もオフィーリアお婆様から招待状を預かっています」
横合いから本題を突きつけられた俺は、怪訝な表情のままクレアとアリーに顔を向ける。
「そういえば、そんな話があったな」
確か去年の秋頃、俺の正体がばれたときだったっけ。いや、年末年始だったか? どちらにせよ、一回二人の実家に行くっていう話だったよな。
二人からその招待状というものを見せてもらう。クレアのは家の正式な招待状らしく、白を基調として金箔で装飾された仰々しいものだった。ここまでされると怖くて受け取れない。一方、アリーのは上質な封筒ではあるものの、普通の手紙のように見える。個人的な招待だからこうなるのだろうか。
いずれにせよ、ついに正式な招待状が届けられたわけだ。これでもう行かないわけにはいかない。
まずはクレアの方の招待状から見ることにした。何十もの包装用紙に包まれているのかと思いきや、表面の包装を解くとアリーのところと似たような封筒が現れる。これが正式なのかそれとも略式なのかはわからないが、何度も包装用紙を解く手間が省けるのは助かる。
スカリーからペーパーナイフを受け取って封筒を開けると、これまた金箔で装飾された招待状が出てくる。ご丁寧に家紋らしきものまであった。
それで肝心の中身だが、これがよくわからない。いや、文章自体は一応読めるんだけどね、頭になかなか意味が入ってこないんですよ。ほら、『日本語としては読めるけど、何が書いてあるのかはわからない』ってやつです。正に。
ただ、最後に来年の春にお待ちしていますというところだけはわかった。それで充分だろう。
「来年の春に待っているっていうのはわかった」
俺はそう言いながら、クレアから順番に招待状を回し読みしてもらう。みんな十秒もしないうちに次々と次の人に回し、すぐ俺のところへと招待状が戻ってきた。
「あれ、みんなちゃんと読んだ?」
「あはは! ユージ君、こうゆうなんはね、一番最後だけ読んだらええんやで」
「そうやで、長ったらしい前置きなんてじっくり読む必要なんてないで。どうせ意味のない文章なんやし」
なんと、知らなかった! まぁ、こんな貴族の招待状みたいなのに関わることなんてなかったんだから当たり前なんだけど。
「ということは、卒業したわたしと一緒にノースフォートへ向かうことになるんですね」
「たぶんそれを想定しているんだろうな」
「次はオフィーリアお婆様からの招待状を読んでください」
アリーに促された俺は、オフィーリア先生の手紙を手に取る。こっちは二枚あるな。一枚目はクレアのところと同じ招待状だ。とはいっても、あれみたいに仰々しいものではなく、同窓会の招待状のように簡素なものである。こっちは来年、アリーと一緒に是非来てほしいということが記されていた。
もう一枚の方は、俺に対する私信だった。最初の村で別れて以来今日まで会うことがなかったが、無事人間に転生できて良かったこと、何も知らない俺に魔王と対峙させるように仕向けて申し訳ないこと、そして会って今までのことを色々話したいことなどだ。
そっか、そういえばオフィーリア先生とは、ライナス達が村を離れたとき以来会っていないんだっけ。随分と長いこと会ってないなぁ。
「なんや色々表情が変わっておもろいな、先生」
「ほんまやね~。どんなことが書いてあるんやろ?」
おっと、表情にそのまま表れていたらしい。
俺は感慨耽るのをやめて、一枚目の招待状だけ他の四人に回す。そして、今度もやっぱりすぐに返ってきた。
「オフィーリア先生の方は、来年アリーと一緒に来てほしいと書いてありますね」
「せやな。ということは、最初にクレアちゃんの実家に寄って、それからアレクサンドラちゃんの実家に寄ることになるな~」
クレアのところは来年の春とある程度期間が限定されているのに対して、アリーのところは来年ならいつでもいいと読み取れる。個人的な招待なので、気長に待てるということなのかもしれない。
「ということは、三月にクレアとアリーを連れてここを出発して、最初にノースフォートへと向かう。そこでクレアの実家の人と会ってから、魔界か」
「ノースフォートからですと、デモニアまで一ヵ月半から二ヵ月くらいですね」
俺の言葉を受けて、アリーが旅にかかる日数の計算をしてくれた。森と山を越えないといけないからそんなものか。
「何もなければ、私の両親と会ってもらって、前世が守護霊であることを証明してもらえればいいだけですから、一日あれば充分ですよね」
「また四系統七属性を披露すればいいだけなら、証明はすぐできるけど」
「あ、ホーリーランド家や教会の後ろ盾が必要なことってあります? もし必要なら、色々と面倒なことになっちゃうんですけど」
「いらない。大体、そんなご大層な後ろ盾を何に使えばいいんだよ」
クレアが念のためにと確認してきたが、不要と即断する。一介の研究室管理者にそんな過大なものは必要ありません。
「だったら、数日逗留するだけで済みそうですね」
「そうなると、四月中にノースフォートを出発することになるだろうから、デモニアに着くのは六月くらいかな?」
頭の中で簡単な旅程を組み立ててみた。うん、大体そんなもんだな。
「わかりました。それでは、私は来年の六月頃に到着するとお婆様に伝えておきますね」
「なら、わたしは四月ね」
アリーとクレアが伝えるべきことを確認すると俺に向かって頷いた。これで必要なことは決まったか。
「いや~ちゃんと決まって良かったな~」
「全くですね。あれ、でもそうなると、俺がいない間の研究室は誰が管理するんですか?」
俺の問いかけにサラ先生が笑顔のまま凍り付く。
「あ、あれ?」
「ユージ先生、さっきの予定やと、帰ってくるんは早くても八月くらいになるんやな? 遅かったら九月か」
「えーっと、そうなるかな?」
うん、大体そんなもんか。俺が暢気に考えていると、顔を青くしたサラ先生がクレアとアリーに身を乗り出して質問する。
「なぁ、そっちの方がレサシガムに来ることはできひんの?」
そうきたか。気持ちはわかるけどさすがにそれは無理だろう。ほら、二人とも申し訳なさそうに首を横に振っている。何しろ一家の一番偉い人なんてそうそう動けるものじゃないもんな。
「一応、来年までに従業員だけで何とか仕事を効率よく回せるようにはしてお……」
「ユージ君、できるだけ早う帰ってきてな!」
来年にはどうにかできる目処はついていたので話をしようとしたが、途中でサラ先生の声に遮られてしまう。
「いや、ですから従業員だけでもなんとかなりますって」
「クレアちゃんとアレクサンドラちゃんも、ユージ君には余計なことはさせんといてな! でないと、うちが大変なことになってまうねん!」
そんなんこの二人は知らんがな。思わず内心方言で突っ込んでみたが、もちろん効果はない。隣でスカリーが宥めているが、この世の終わりとばかりにサラ先生は取り乱していた。それを見たクレアとアリーはどん引きだ。
後でスカリーに聞いたところ、最近学校運営の仕事が更に増えたらしい。ご愁傷様である。何とかひとりで頑張ってほしい。