一難去ってまた一難
レサシガム郊外のペイリン魔法学園に戻ってきたのは、六月が終わる直前だった。この地方の梅雨はあまり雨が降らないというのに、この日に限って土砂降りだったので散々な凱旋だった。けれど同時に、住み慣れた学校に戻ってきた俺達は自然と体の力が抜ける。なんだかんだと言っても、旅先では体が緊張していたのだ。
約二ヵ月ぶりの学校は夏の景色が色濃くなりつつあった。五人の学生とともに学園の正門をくぐると、植林された木々が一層力強く葉を茂られている。本来ならもう初夏目前なので暑苦しいはずなのだが、土砂降りの雨が太陽を遮り、全身ずぶ濡れにしてくれたおかげで、少なくとも暑くはなかった。
「よし、ここで解散にしよう! 残念な最終日になってしまったかわりに、余計な訓示はなしだ! さっさと宿舎に戻って着替えるんだ!」
教員宿舎と学生宿舎の分岐点で大声を出しているのは、雨音で声がかき消されてしまうからだ。俺がいきなり暑苦しい性格になったわけではない。
背嚢、靴、手袋、服、下着、そして全身も全て雨濡れとなってしまっている五人は、すっかりあきらめ顔で俺の言葉に頷いた。レサシガムから覚悟の上で濡れ鼠になったとはいえ、唇を青紫に変化させている者もいる。さすがに騒ぐ元気はないようだ。
俺達以外に往来する人影がない中、課外戦闘訓練の授業はこれで終了した。
学生五人と別れて教員宿舎に戻ってきた俺は、玄関に入ると真っ先に水吸収の魔法を使う。個々の服や荷物をしっかりと乾かすのは部屋に戻ってからでもいいので、この時点では大雑把にだけ脱水した。
約二ヵ月ぶりに戻った自室は埃っぽかった。誰も掃除なんてしてくれているわけではないから当然だ。そのとき、モーリスが嫁探しを必死になってやっていることに少し共感できた。待ってくれる人がいるっていうのは、精神的にも物理的にも大切なんだなと思う。更にアハーン先生が結婚していることを思い出して、地味に自分の心を抉ってしまった。それ以上考えてはいけない。
ないものに思いを馳せても仕方ない。俺は背嚢を下ろし、服を脱いで全裸になる。そしてベッドに飛び込もうとして、止めた。ベッドを軽く叩いてみると埃が舞う。
「まずは掃除からかぁ」
腹の底からため息とともに暗い気持ちを吐き出した。しばらく目を閉じても何も変わってくれない。
土砂降りの雨音を聞きながら、俺はどうやって室内の掃除をしようか全裸のまま考える羽目に陥ってしまった。帰ってきていきなりだな。
学生にとっての課外戦闘訓練は学校に戻ってきて終わったが、教員にとっての授業はまだ終わっていない。いつかも説明したが、事後処理があるからだ。
俺が最初に取り組んだのは報告書の作成だ。ウェストフォートを出発してからの旅の分はまだ書けていない。事後処理の中核を成すこれがないとその先に進めないので、自室に籠もって書いた。
教員室で書かないのは、二ヵ月間の仕事が文字通り山のように待っている上に、途中で割り込み作業をねじ込まれることがわかりきっているからだ。合間に時間を作ってなんて考えていたら、いつまで経っても作れやしない。幸い、戻ってくるのは七月と伝えていたので、残りわずかな六月を使って少しでも片付けておくのだ。
そうして報告書が完成したのが七月も入って二日目の昼頃だった。右腕は腱鞘炎一歩手前である。
次は関係各所に連絡を入れないといけない。具体的にはサラ先生に課外戦闘訓練が終了したことを伝え、作った報告書を提出し、アハーン先生ほか数名の先生にも通常業務に復帰することを報告するのだ。
効率の面から考えると、サラ先生とは夕方でないと会えないはずなので、先にアハーン先生達と会うべきだろう。しかし、二ヵ月間の遠征から帰還してすぐに部屋の掃除と報告書の作成をしたんだから、少し休みがほしかった。うん、少しくらい休んでもいいよね。ということで、今日はサラ先生にのみ会うことにしよう。
そうして、ベッドの上でごろごろとして数時間の現実逃避を堪能すると、重い体を引き上げてサラ先生の教授室へと向かう。
「ユージです。課外戦闘訓練から戻ってきました」
重厚なしつらえの扉を叩いてから、その扉の向こうへと声をかける。すると、すぐに中へ入るように促す返事があった。報告書を抱えながら扉を開いて中へと移る。
「ユージ君、久しぶりやね~! スカーレットから話は聞いてんで~。随分と活躍したそうやん」
サラ先生は以前と同じように明るい笑顔で迎えてくれた。相変わらず威厳のある執務机や椅子と比べると浮いているが、今はそれが妙に懐かしく思える。何回も見たわけじゃないのにな。
俺はその執務机の前までやって来ると一礼する。
「スカリーから何を聞いたのかわかりませんけど、随分と苦労しました。思った以上に無茶でしたよ、あれ」
「それでもこうして全員無事に連れて帰ってきてるやん。しかも、きちんと冒険者みたいなこともさせて。さすがやね~」
何が嬉しいのかサラ先生は上機嫌だ。いや、娘が無事に帰ってきたのは嬉しいだろうし、話がこじれると面倒くさいことになる家出身の学生が無傷なのも喜ばしいことだろう。
ただ、なんていうのか、サラ先生が喜んでいるのは本当にそれだけなのか、変に勘ぐってしまうんだよな。たぶん、会う度に探られているような気がするからなんだが。
「それで、これが課外戦闘訓練の報告書です。二ヵ月分ありますから、結構多いですよ」
「……え?」
俺が紙の束をまとめてサラ先生の前へと置くと、その笑顔が凍り付いた。何しろ、六十枚以上もある報告書だ。そりゃ驚きもするだろう。
「これ、全部そうなん? え? ほんまに?」
わずかに硬直が解けたサラ先生が、恐る恐る報告書の束に手をかけて、ぱらぱらと適当にめくる。書くほどではないにしろ、読む方も結構大変だということは俺にもわかる。
「もちろんです。日々の報告書なんですから、それくらいになるでしょう」
「普通、報告書って重要なところでも簡単に数行にまとめるし、日々の報告なんて箇条書きでいくつか書いて済ませるもんやで?」
「え?」
今度は俺が凍り付いた。そういえば、この学校に勤めてから他人の報告書をよく目にするようになったが、どれも簡潔すぎて驚いたことを思い出す。正式な文書、契約に関する文書、犯罪調書など一部の例外を除けば、わかればいいという習慣なのだ。
それなのに、俺はつい詳細に書かないといけないと思い込んで、色々と書いてしまった。『三つ子の魂百まで』というが、日本人だったのはもうずっと昔のことなのに、まだその癖が抜けないようである。
「あれ? もしかして、そんなに苦労してまで書かなくてよかったんですか?」
「う~ん。まぁ、せっかく書いてくれたんやし、ちゃんと読むけどな。はぁ、それにしてもこれだけの量を読むのって、大変やなぁ」
何やら微妙な雰囲気がサラ先生との間に漂う。旅先で寝る時間や休みを削ってまで書いたのに、言外に不要と言われると地味にきつい。
「……今度からはもっと簡潔に書きます」
「あはは。そんなに落ち込まんでもええって。詳しく書いてくれる分にはかまへんよ。時間がなかったら読み飛ばしたらええだけやし」
慰めてくれているのはよくわかる。でも、さらっと笑顔で人の努力を無にするという宣言はやめてほしい。
「ともかく、必要なことは全部その報告書に書いてありますよ」
「せやろね。それじゃ、これについては後で読むことにするわ。それじゃ、次の話に移るな。次の後期から、講義の授業を担当してほしいねん」
「え、座学ですか?」
「うん。ほんまはな、前期から担当してもらおうかなって思ってたんやけど、課外戦闘訓練をしてもろたやろ? だから次の後期からにずれてん」
俺は首をかしげた。魔法戦士の俺は戦闘訓練を担当するために採用されたと思っていたし、実際、教員の間では俺のおつむに期待している人はいない。
「どうして座学が担当できるなんて思うんですか?」
「ほら、去年スカーレットの友達に色々教えてたって聞いたんや。何でも上級算術と上級自然科学までやれるんやろ? 助かるわぁ」
そうか、そっちから話が伝わっていたのか。スカリーからしたら隠すようなことじゃないだろうし、自分の役に立ったっていうのなら嬉しそうに話すだろう。
「実技を担当する先生だけが足りないんじゃないんですか?」
「程度の差やね。実習の授業の方がより深刻なんやけど、講義の方も足りてへんねん」
人手不足はどこも同じということか。できるのならばやってもいいけど、正直なところどれだけ教えられるかなんてわからない。実習とはまたやり方が違うだろうしな。
「確かに知識としては知ってますけど、だからといってきちんと教えられるとは限らないですよ?」
「ユージ君には補習授業をしてもらいたいんや」
「なんですかそれは?」
「毎年二月に進級試験と卒業試験をしてるやろ? そんな試験をやってると、必ず落ちる学生っておるねん。それで、そういった学生が試験に合格するように指導してほしいんや」
簡単に言うけど、それはかなり大変なことだ。教えることに慣れた先生でないと無理なんじゃないだろうか。
「普通の授業を担当するよりも大変じゃないですか。何人合格させられるのかなんてわからないですよ?」
「そうは思えへんなぁ。スカーレットの友達は全員進級させたやん」
「それ、俺じゃなくてスカリー達の手柄ですよ」
俺はあくまでも助言しただけだ。いくら何でも学生の功績までを取り上げようとは思わない。
「それでも、やろうと思たらユージ君もできるんやろ? うちとしては、そういった子らを何とかしてやりたいねん」
「まぁ、気持ちはわかりますけど、今ある授業を再度受けるだけじゃ駄目なんですか?」
「それで済むなら頼まへんって。普通の授業ってな、多人数の学生を相手にしているから、どうしても全員にしっかりと指導なんてできひんねん。そうすると、ある程度以下の能力の子はいつまで経っても試験に合格できひんままや。せやから、そういった困ってる学生って個別に授業をしてやらへんとあかんと思うねん」
確かに、問題を抱えて前に進めない学生の問題というのは千差万別だ。そのため、こういった学生をどうにか試験に合格させるためには、ひとりずつ引っかかっているところを見つけて丁寧に教えないといけない。しかし、これは実に面倒なことである。
「補習授業を開くこと自体は賛成です。一体何人いるのかわからないですけど、そんなにたくさんの学生は見られないですよ」
「ありがとう。後期からは、一回生と二回生の留年した学生の面倒を見てもらうしな。どちらも三十人くらいやし。あ、そうそう、モーリス先生も一緒な」
「え? あいつも?」
思わず俺は素の状態で聞き返してしまう。誰かに押しつけられたんだろうか。
「うん。何でもくじ引きで当たりを引いたんやって」
「うわぁ」
なんていう方法で授業を決めているんだ、ここの学校は。モーリスに同情する以前にどん引きしたぞ。
ともかく、去年の秋にスカリー達がやっていたことを、学校が正式にやるような形になったわけか。それ自体は歓迎すべきことだな。あとは、俺とモーリスがそれをしっかりとやれるかということか。
一旦引き受けた以上、俺としてもできれば全員合格させてやりたい。そのためにはどうすればいいのか考えながら、サラ先生の教授室を退出した。
翌日、俺は何事もなかったかのように教員室へと入った。二ヵ月ぶりではあるものの、だからといってどんな挨拶をしたらいいのかわからなかったからだ。
「ユージじゃないか! 久しぶりだね!」
「おお、二ヵ月ぶりですかな。元気そうでなりよりです」
ただし、モーリスとアハーン先生を中心とした何人かは、積極的に声をかけてきてくれた。こういう人がいると中に入りやすい。
「なぁ、ユージ、聞いてくれ。俺、後期から落ちこぼれを担当することになったんだ」
俺は苦笑した。土産話を聞きたがるのかなと思っていたら、いきなり自分の悩みを話し始めてきた。
「知ってる。先にサラ先生のところへ行って、課外戦闘訓練の報告をしたときに聞いた」
「ほう。では、ユージ先生もモーリスと一緒に担当するということを聞かれましたか」
「ええ。くじ引きで決めたそうですね」
二人とも俺から目をそらした。ああ、やっぱりまともな方法じゃなかったのか。
「ともかく、後期から一回生と二回生の留年した学生、各三十人ずつの計六十人を担当してもらいます。どの学生なのかは後日お伝えしますが、どう授業を進めるのかはモーリスと決めていただきたい」
合計人数が六十人であると聞くと多いように思えるな。二人で担当するならまだましだけど。
「その補習授業は週に何回行う予定ですか?」
「半日を二回です。何か要望があれば相談に乗りますぞ」
「あれ、そういえば補習授業って言ってますけど、どの授業の補習なんですか?」
「講義全般です」
うわっ、座学全体かよ! 何でもない様子で突きつけられた言葉に、俺は思わずのけぞった。
「いくら何でもそれは無茶なんじゃ……」
「ペイリン先生からは、去年経験済みだから大丈夫だと聞きましたが。何でもペイリン君の友達を全員進級試験に合格させたそうではないですか」
「それはスカリー達がやったことです。俺、ほとんどなにもしていないですよ」
どうして俺がやったことになっているのかわからないが、何やら変に評価が上がっている。
「まぁ、事実がどうであれ、既に決まったことです。できることなら私も協力しますから、補習授業の件はお任せしましたぞ」
話を切り上げられる文句を並べると、アハーン先生は自分の書類に向き直る。
言いたいことはあるが、サラ先生に引き受けると約束した以上はやるしかない。
俺はモーリスと顔を見合わせると、お互いにため息をついた。