伝説の家系の重み
シャロンが望んだ授業の乗り換えも無事に済み、一ヵ月が過ぎた。残暑の季節も終わり、気づけばいつの間にか涼しく過ごしやすい気候に変化している。
今のところ、俺の周囲は順調に物事が進んでいる。学校の仕事にはだいぶ慣れたし、あの五人の仲が良いので授業は楽しいし、懸念していたマルサス先生からの嫌がらせも今のところないしな。
ということで、今の俺は楽しく教師生活を送っている。ずっとこんな状態だったらいいのになぁ。
俺は今日も仕事を早めに切り上げて図書館にいた。春から『メリッサ・ペイリン魔法大全』を一冊ずつ読んでいるのだ。この調子だと予定通り来月には全て読破できるだろう。
「しっかしメリッサの奴、よくこれだけ書いたな」
一旦休憩のために本から視線を外した際に、俺は思わず呟いた。こんな馬鹿でかい本にびっしりと文章と図表が書いてあるんだが、どれも筆跡は同じように見えるんだよな。どう考えてもひとりで書いたようにしか見えない。一体何年かかったんだろうか。
目と肩をほぐしながら休憩していると、誰かが図書館に入ってきたようだ。俺は出入り口に背を向けるようにして座っているので、誰が入ってきたのかまではわからない。
しかし、その足音はこちらに近づいてきた。気になって振り向いてみると、スカリーだった。
「あれ、珍しいな」
「そうか? うち、これでも学校に入るまでは図書館に入り浸りやってんで」
挨拶抜きで言葉を交わしながら、スカリーは俺の正面に座った。俺に話でもあるのだろうか。
「たまたまここに来たのか?」
「いや、相談したいことがあるねん。シャロンに聞いたら、図書館にいるかもしれんって聞いたから来たんや」
「そういえば、シャロンにスカリーとの引き合わせを頼まれたときも、ちょうどこんな状態だったなぁ」
「へぇ、その本を読んでたんや」
スカリーは本に少し視線をやったが、すぐに俺へと向け直した。今のスカリーが俺に相談って何だろう。
「シャロンがグループ内で何かやらかしたのか?」
「いや、シャロンは今回関係ないねん。クレアの方なんや」
「クレア?」
一体どんな相談なのか見当もつかない。自分から問題を起こすような子じゃないしな。
「クレアが勇者ライナスと聖女ローラの子孫やってゆうことは知ってるやろ? それで、一部の学生がやたらとクレアを持ち上げるんや」
あーその話か。夏休み前にモーリスとアハーン先生から聞いたことがあるな。あれっきりどこからもその話が耳に入ってこなかったから、今まで忘れていた。
「スカリーが俺に相談してくるっていうことは、よっぽどのことだよな。もしかして、お前のグループ内でもそうなのか?」
「そうなんや。夏休み前までは、尊敬することはあっても崇めることまではせぇへんかったんやけどな」
「悪化した原因はわかっているのか?」
「ほら、光の教団の聖女派って知ってるか? うちの学生の一部がそれの熱心な信者で、どうもその学生がクレアを担ごうとしとるみたいなんや」
光の教団とは、ハーティア王国では国教扱いになっている宗教団体だ。ライナス達と一緒に旅をしていたときには、既に人の間で最大勢力となっていた。現在、この光の教団はクレアの出身地であるノースフォートで聖女派という分派が発生して緩やかな分裂状態となっている。本道派と名乗っている主流派と教団内の主導権争いをしているらしい。
ハーティア王国の西側に位置するレサシガム共和国は、元々光の教団の勢力は強くなかったが、それだけに昔から布教活動は地道に行われていた。現在は聖女派がそれを一手に行っており、改宗した人々と色々と活動をしているということだ。
「学生にもその聖女派の信者がいるのか。スカリーのグループ内にもいるのか?」
「いや、夏休み中に信者の布教活動で感化されたのが何人かいるだけや。まだ信者にはなっとらんらしい。ただ、皮肉なことに、クレアと知り合いってのが引き金になったみたいやな」
「うわぁ」
夏休み中に変なのに引っかかるってのは、どこの世界でも定番らしい。そして、どんな勧誘を受けたのかは知らないが、クレアを知っていたことが感化された原因って、本人が聞いたらなんて思うだろう。
「聖女派にとってクレアは生きた伝説やさかいな。学内で布教活動するときに、担ぎ出せるんなら担ぎたいんやろう」
「それって聖女派全体の意思なのか? 一部の学生だけが舞い上がっているだけなのか?」
「一部の学生だけや。これは黙っといてほしいんやけど、クレアを入学させるときに、ペイリン家とホーリーランド家、それにノースフォート教会でクレアを政治的、宗教的に利用しないってゆう取り決めがなされとるんや。そやから、ここでクレアを担ぎ出してしまうと、取り決めに違反してしまうことになる」
「待てお前、そんな話するなよっ!」
俺は呻くように声を絞ってスカリーに抗議した。どう考えても俺が手を出せることじゃないだろう。
「事が表面化したらうちらではどうにもできひんけど、逆に表面化するまではうちらでないと手出しできひんねん。そやから、今のうちに何とかしたいから、先生に相談したんや」
「教師側にも協力者がほしいってわけか。そりゃ、できる範囲で協力するけど……」
「信じとったで、先生」
「クレアは今どうしているんだ?」
「授業を受けとる。それが終わったら、ここに来るようにゆうとるけど」
おぅ、いきなりとんでもない話が飛び込んできたな。マルサス先生なんて目じゃないぞ、これ。
「そうだ。政治的、宗教的に利用しないっていう協定があるんだったら、それを盾に止めさせるってのはできないのか?」
「それは上の偉い人同士の話や。下っ端はそんなこと知らんやろうし、クレアに目の眩んだ信者にとったら、信仰を邪魔する障害としか認識せぇへんやろ」
「クレアは説得したのか?」
「それで一応担ぎ出すのは止めてるみたいやけど、信者個人の振る舞いまでは止められへん」
本来は自分の味方だけに強く出られないのか。厄介すぎるぞ。
「ちなみに、協定に違反したらどうなるんだ?」
「少なくとも、クレアはすぐに実家へ戻ることになるやろうな」
とりあえず、クレアがやって来るまでに、俺はスカリーとどうするべきなのかを静かに話し合った。
今後どうするべきなのかスカリーと話をしていると、クレアがやって来た。俺達を見つけると嬉しそうに近づいてくる。
「お待たせ、スカリー」
「うん。クレア、先生も協力してくれるんやって」
「本当ですか。よかったぁ」
珍しく俺への挨拶も忘れて、クレアは最初に心底安心したようだ。とりあえず、精神的な圧迫感は少し和らいだのだろう。
「それじゃ早速本題に入るか。最初に現状の確認をしてから、目標を決めて、その上でどんな手段と行動をとるのかを考えることにしよう」
「はい」
クレアは静かに頷いた。
「まず現状の確認だ。クレアは入学するときに、政治的、宗教的に利用されない、または自分からそういった行動はしないという約束で入学したんだよな」
「はい、そうです」
「ただし、それはあくまでも偉い人達だけの取り決めで、学校に在籍している学生には効果がないということでいいか?」
「えっと、言ってはいけないことなのかもしれませんが、レサシガムにある教会にもその通達は届いているはずですので、本来は学生でも従わないといけないはずなんです」
「なんや、教会側でもそんなことやってたんや」
また内緒話が出てきたよ。そういう話は聞きたくないんだけどなぁ。
「つまり、レサシガムの教会とつながりがある学生は行動を控えているはずってわけか」
「どういうことや?」
「この学校には共和国のあちこちから入学しているんだから、レサシガムの教会の命令をきちんと守る奴ばっかりじゃないってことだよ」
「なんや、統制が取れとらんのか?」
「まだ共和国内の光の教団の支部同士で、緊密に協力できるだけの体制が整ってないんだろう」
「一応、よその地方からやって来た信者は、その地の教会にできるだけ協力するようになっているはずなんです」
そうなると、三年程度しかいないレサシガムの教会の命令なんて聞かない信者が出てくるかもしれない。
「大方、生きた伝説を目の当たりにして舞い上がったお子様が騒いでいるんだろうな」
「厄介やな。クレア、通達違反って罰せられるんと違った?」
「うん、だから控えてほしいってお願いはしているんだけれど……あ、でも、地方からやって来た学生は、たぶん厳重注意だけで終わるかもしれない」
「そんなんお咎めなしとおんなじやん」
俺もスカリーの意見と同じだ。直接管理する信者にしか強い権限はないのか。だから好き勝手できるんだな。
「もう一回整理し直すぞ。現状では、クレアの政治的、宗教的な活動は一切認められていない。やったら実家へ強制送還ということでいいか?」
「はい」
「それで、本来は光の教団の信者もそれに協力しないといけないが、一部地方からやって来た学生は、罰則規定が事実上ないためにクレアを宗教的な活動に使おうとしている」
「そうです」
「ということは、少なくとも周りの大人は協定を守ってくれるのか」
「クレアになんかあったら、下手すると共和国と王国の戦争になりかねへんしな」
そうか、だからわざわざ協定なんて結んだのか。
「学生については、レサシガム出身の学生はまず大丈夫か」
「貴族出身の学生もな。戦争の口実になるようなことの片棒を担いだなんて知れたら、親に大目玉どころやないで」
「だから貴族出身の学生はクレアを避けていたのか」
「はい。当然ですよね」
単に平民に反発しているだけじゃなかったのか。
「となると、地方から出てきた平民出身の熱心な学生信者が問題なんだな。こいつらさえ押さえたら何とかなるのか」
とは言っても、生き神様を目の当たりにして興奮している信者を説得なんてできるのか? クレアでさえ、自分を利用しないように押しとどめるのが精一杯だったのに。
「そうだ、信者だけで集まっているグループっていうのはあるのか?」
「まだないみたいやけど、各グループに少しずついる信者がつながり始めているみたいや。恐らく、クレアを担ぎ出せたら独立する気なんと違うかな」
「今は熱心な学生信者さん達だけが大きく動いているだけですけれど、もし私が積極的に動いたら、隠れ信者のような学生も参加すると思います」
なるほど。本当に教祖様がほしいのか。
「熱心な学生信者については、教員と一緒に対応した方がいいな」
「うちらだけでは対処できひんってゆうことか?」
「それもあるけど、対処に失敗したときに学校が被る危険が大きすぎる。下手をすると学園内で宗教戦争だぞ」
「では、わたし達にできることは、どんなことでしょう?」
「スカリーのグループにいる、感化された学生をなだめることだな。今のままだと、スカリーと会うのもままならないだろう?」
「確かにな。クレアが来る度に騒がれるから落ち着けへん」
それに、万が一の避難場所としてグループが使えないのも痛い。あと、穏便に済ませたいから、いきなりペイリン家や魔法学園という強大な権限を使うのは避けたい。そのためにも、スカリーが思うように動けるように、グループ内の問題は解決するべきだろう。
「なぁ、二人とも。スカリーのグループの感化された学生には、なんて言って注意したんだ?」
「うちは、『クレアは騒がれるのは好かんから、落ち着いて付き合ってほしい』やな。ただ、効果はあんまりなかったで」
「わたしは、『ここではみんな同じ学生なんですから、他の皆さんと同じように接してください』でした。けど、なぜか逆に感心されちゃって……」
うーん、色眼鏡を通して見る上に、脳内で都合良く相手の言葉を変換してるようだな。
「普通の学生ならそれで充分なんだろうけど、今回は相手に配慮しすぎな注意だなぁ」
「でも、あまり強く言いすぎるのも悪いですし……」
「うちもグループのリーダーみたいなことやってるけど、別に強制する権限なんてないしなぁ」
あまり強気な言い方ができないというのであれば、穏やかにクレアの意向を伝えるしかないんだが、何か学生が思い止まる理由となるものはないか。
しばらく考えていると、ふと気になることが頭に浮かんだ。
「なぁ、クレアが問題を起こしたらすぐに退学して実家に戻るってことを、学生は知っているのかな? 二人の今までの話を聞いていると、どうも知らなさそうに思えるんだけど」
「知らんかったらどうなるんや?」
「あ、そうか! わたしが宗教活動をしたら退学になってしまうって、皆さんにお話すればいいんですね!」
俺の意図を理解したクレアの声が大きく跳ね上がった。「ここは図書館です」と注意すると、顔を赤くしてうつむき加減になる。
「なるほどな、少なくともうちらが説得するときは、クレアが退学になるなんてことは説明しとらんかったな」
「わたしと一緒に宗教活動をしたいのに、それをやるとわたしが退学になってしまいますから、何もできなくなってしまいますよね」
「あと、クレアから協力を持ちかける形にした方がいいな。例えば、『宗教活動を学内ですると退学になってしまうから、そうならないように皆さんも協力してほしい』っていうようにな」
「それ、変な方向に暴走せぇへんか?」
「不安なら、平穏無事に過ごしたいから静かにしていてほしい、ってことも追加すればいいだろう」
「それ、いいですね!」
正直なところ、相手がどんな反応をするのかわからないので俺も不安なんだが、完璧な対応を思いつけない以上、不完全でも見切り発車するしかない。
「それと、最初に伝える相手はスカリーのグループに限定しよう。それも大きく騒いで注意しないといけなくなったときだ。こういうのはできるだけさりげなくした方が、相手も受け入れやすいだろうしな」
「他の熱心な学生信者もそれでいけへんか?」
「スカリーのグループの学生にそう伝えると、まず他の学生信者にも伝わるはずだ。こういう話は横のつながりですぐに広がるからな。すると、必ず事の次第が事実なのか確認しようとする学生がクレアに会いに行くだろう。そのときに、再度同じように協力を求めたらいい」
クレアだって学内でいろんな学生との付き合いがあるんだから、熱心な学生信者からの接触は避けられない。なら、その機会を利用すればいい。話がこじれたときのことを考えると、本当は先生立ち会いの下で話をするのが一番だ。けど、先生が積極的に動ける段階じゃない上に、ずっとクレアに付きっきりというわけにもいかないしな。
「なるほどな。さすが先生や。なんかそれでいける気がしてきたで」
「ユージ先生に相談して、本当に良かったです。もっと早く相談しておけばよかったな」
「まだどうなるかわからないけどな」
ともかく、今思いつく範囲で提案できることはやった。後は、実行してもらってどんな反応が返ってくるのかを見てから判断するしかない。
嬉しそうに礼を述べて去って行くスカリーとクレアの後ろ姿を見ながら、俺はこの対処がうまくいくことを願った。
後に聞いたところによると、あれからすぐにお願いする機会があったらしい。すると効果は覿面で、とりあえずはおとなしくなったそうだ。スカリーのグループ内の学生は、クレアが退学する可能性を全く考えていなかったそうである。
それと、グループ外の熱心な学生信者だが、次第にクレアへの接し方が穏やかになっていったらしい。そして俺の読み通り、クレアの本心を聞きたいと直接質問してきた学生がいたそうだ。クレアはグループ内の学生と同様にお願いをすると、とても残念そうではあったが納得してくれたという。
一方、俺の方はモーリスとアハーン先生に相談した。スカリーとクレアから相談を受けて、二人にどのような対応をするように指示したことまでだ。こういったことは、できるだけ全てを話しておいた方が後々やりやすい。
結局、今後はクレアの授業を担当している教員を中心に、事態を見守るということで話は落ち着いた。幸い事態は沈静化したので、今後は再発しないように努力することになる。
そして、この問題の主な担当者は、事実上俺になってしまった。まぁ、本人から最初に相談を持ちかけられるのが俺だろうからしょうがないんだけどな。できればクレアの在学中、ずっと平穏無事であってほしい。