大森林への出発前
オフィーリア先生の屋敷に魔方陣を使って訪問してから数日が経過した。気持ちとしてはすぐにでもフォレスティアへと向かいたかったが、さすがに旅の疲れを落としてからでないとすぐには動けない。
俺はこの間、ごろごろしていたりアリーの鍛錬に付き合ったりしていた。羽を伸ばしていたというよりも完全に弛みきっていたな。直近でやらないといけないことがなかったからだ。レサシガムは観光するまでもなくよく知っているし。
アリーはひたすら剣術の稽古をやっていた。俺が出会って以来ほぼ毎日やっている気がする。旅の途中でも暇を見つけては剣を振っていたよなぁ。その甲斐あってか剣裁きはこの数年でかなり向上している。
スカリーは毎日魔法学園に通っている。正確には学内にあるペイリン邸にだ。そこで両親から学校運営の仕事について教えてもらっているそうだ。本格的に関わるのはフォレスティアから戻ってからになるので、今は概要だけ学んでいるらしい。
クレアは光の教団のレサシガム教会へと毎日通っている。残念ながらクレアもフォレスティア以後は一緒に旅ができないが、俺達と関わるための実績作りをしているらしい。はっきり言うと治療院での治療だ。レサシガム共和国での布教活動はなかなか進展していないそうなので、いい宣伝になるだろう。
「師匠、いつフォレスティアに向けて出発するのですか?」
「う~ん、そうだなぁ。もうそろそろ出発しようかなぁ」
稽古の合間、アリーが重要な問いかけをしてきたが、俺は間延びした声で返答する。俺とアリーはいつでも出発できるけど、スカリーとクレアは区切りのいいところで旅立つ方がいいだろう。
夕飯時は必ず四人全員が揃うから、このときにいつ出発したらいいのかスカリーとクレアに尋ねてみた。
「スカリー、クレア。そろそろフォレスティアへ出発しようと思うんだけど、仕事はいつ頃区切りがつきそうだ?」
「うちはいつでもええで。概要はおとーちゃんとおかーちゃんからもう聞いたし、今は雑用をやってるだけやさかいな。明日は無理でも明後日なら行けるわ」
「わたしはあと二日だけ待ってもらえますか。半年前にノースフォートでやったことを治療院の皆さんに教えているんです」
半年前のノースフォートと聞いてあのときのことを思い出す。俺はひたすらインフルエンザもどきの患者を治療していた記憶しかないけど、クレアはその隣でディアナさんと一緒に色々活動していたんだっけ。そのときの経験をレサシガムの治療院にも伝えようとしているわけか。
一方、スカリーの方の返答は少し意外だった。てっきりまだ何日もかかるんじゃないのかと思っていたからだ。特に根拠があったわけじゃないけど、短期間にまとめて叩き込まれているっていう印象を勝手に持っていたから。意外とのんびりとしているようだ。
「それじゃ出発は四日後にしよう。三日目は全員休憩に当てること」
俺とアリーには必要ないが、働いているスカリーとクレアには休みが必要だ。全員それがわかっているから俺の言葉に頷いてくれた。
夕飯のときに宣言してから四日目の朝、俺達はフォレスティアへと向かって出発した。季節は既に十一月の半ばなので、朝晩の冷え込みが厳しくなりつつある頃だ。
ペイリン本邸からの出発は随分と素っ気ないものだった。学園長とサラ先生はそもそも学内のペイリン邸で寝泊まりしているからこちらにはいなかったし、見送りは執事さんひとりだけである。
「よっしゃぁ、ほな行くでぇ!」
そして出発するスカリーの方も随分と気軽だ。まるでちょっと近くの別荘にいくかのような感じしかしない。フォレスティアへの道は本当に険しいものなんだけどな。
フォレスティアへ向かうために、俺達は一路ウェストフォートへと足先を向けた。経験上、今も昔も人間界ではもっともフォレスティア行きの拠点にしやすいからだ。
移動手段はペイリン本邸の馬車を借りた。かつて同じ行程を荷馬車で進んだことがあるが、快適さは段違いだ。専用の御者が馬車を操ってくれるというのもあるが、お尻が痛くなったら自由にほぐせるというのが地味に嬉しい。
クロスタウンで一日休んで更に東進し、二週間ちょっとでウェストフォートへと到着する。時は既に十二月だ。この辺りもすっかり寒い。
「課外戦闘訓練のとき以来だから、この街も二年半ぶりなんだよなぁ」
思わず感慨に耽ってしまう。そういえば、ジョンのパーティはうまくやっているだろうか。滅多なことではやられないと思うんだが。
試しに冒険者ギルドに顔を出して探してみたものの、見つけられなかった。もしかしたら小森林へ遠征に行っているのかもしれない。
会えなかったのは残念だが、こっちはこっちで準備をしないといけない。
今回、フォレスティアへと向かうための順路は、前世でライナス達と一緒に行ったときと同じ経路をたどる予定だ。すなわち、小森林沿いに妖精の湖を縦断し、大森林に入ってフォレスティアまで向かうのである。口にするだけなら実にあっさりとしたものだが、もちろん実際に踏破するとなると生身の人間ではかなり厳しい。
長くなるが、俺達がこれからたどる経路がどういったところなのか説明したいと思う。
最初に妖精の湖だが、この名前の由来はかつて数多くの水の妖精が目撃されたかららしい。三角形の形をしており、北端がウェストフォートの南約七十オリクに位置する他、南東の頂点が南方山脈に、南西の頂点がドワーフ山脈に接している。また、南岸は大森林、北東の岸は小森林と接している。そのため、人間がこの湖に近づくときは北西の岸からしか近づけない。
もちろんこの湖にも生き物は生息している。それは、鰐、水蛇などの獰猛な生物だけでなく、人魚の生息地域としても有名だ。人間を見つけると多数の人魚に襲われると伝えられているが、実際は酷いことをした場合のみである。かつては人魚の幼女と接することができたけど、今は人間に転生したから警戒されてもう近づけないだろうなぁ。
この湖上を精霊で作った船で渡るつもりなんだけど、北端から真南へ向かうのではなく、小森林に沿って南下する。わざわざ遠回りをする理由は、人間には生理現象というものがあるからだ。真冬の湖上で吹きさらしの風に晒されても尿意を覚えないというのは無理がある。起きている間だけでも二時間か三時間ごとに上陸するべきだろう。
その小森林だが、二年半前に北側に何度か入ったことがある。中央山脈と南方山脈に挟まれた場所に位置するこの広大な森は、聖なる大木と呼ばれるヤーグが小森林の主となって管理している。北側は世間一般でいう森に近いのだが、南側は熱帯地方の密林に近い。もちろん夏に南側へ入ると地獄だ。ただ、今回は小森林の中へは入らないので直接関係はない。それが救いだ。
小森林と接することになるとすれば、妖精の湖の岸辺になるだろう。冬の季節は基本的には冷えるのだが、南側の大森林の中は真冬でも暖かい。そのため、大森林と妖精の湖の境界となる岸辺は、風向きによっては冷えたり暖かかったり、はたまた生ぬるかったりと意外に気温の変化が激しい。そのため、場合によっては霧も発生するから注意が必要だ。
そうして妖精の湖を渡りきると、いよいよ大森林だ。
大陸の南部一帯に広がるこの森は、北を南方山脈、東を竜の山脈、西をドワーフ山脈によって隔てられている。一般的には妖精の古里と呼ばれており、妖精が多数住んでいる。それ以外にもたまに精霊が彷徨っていたり、エルフが住んでいたりする。
そして、この中は完全に密林だ。とにかく暑苦しい。精霊に乗って移動するだけだったにもかかわらず、ライナス達も相当参っていたよな。ただ幸いなことに、人間が食べられる果物なんかはたくさんあった記憶がある。だから、食料については妖精の湖を渡るまでの数日間掛ける二倍を用意すればいいだろう。
俺はかつての経験を引っ張り出しながら、休暇も兼ねた準備期間に色々とみんなに教えていった。
ウェストフォートを出発する前日、俺達は食堂を兼ねている宿屋の一階でテーブルを囲っていた。日没の早い冬場なので外はすっかり暗くなっているが、この食堂は宿泊客と一部の来客でまだまだ賑わっている。
「しばらくはまともなご飯は食べられないからな。ここでしっかりと腹に収めておくんだぞ」
これから行こうとしているところは人の住むところではない。そんなところに長期間行くわけだから、人間の料理にはしばらくありつけるわけがなかった。だからこそ、今のうちに人の手によるものを味わっていてほしかったのだ。
俺の声に元気よく応えた三人は、目の前に置かれた料理に早速手を付け始めた。俺も小ぶりの魚を丸焼きしたやつをひとつ取り、頭からかじる。俺はこいつの歯ごたえが好きなんだ。
そうやってしばらく黙々と食べてある程度腹を膨らませてから、ようやく話ができるようになる。
「なぁ、ユージ先生。ここからフォレスティアまで一ヵ月くらいで行けるって、ほんまなんか? いや、前世で行ったことのある先生の話なんやから、そうなんやろうけど」
最初に口を開いたのはスカリーだった。ウェストフォートに着いてから必要なことを大体教えたものの、未知の領域へと進むから不安が消えないようだ。
「前は大体それくらいで着いた記憶がある。理論上だと二週間くらいで着くはずなんだけどな」
「いくら何でも早すぎませんか? それってレサシガムとウェストフォートの片道分くらいですよ?」
「妖精の湖の上を精霊に乗って、一日中移動するって話はしただろう? 大森林でも二十四時間精霊に乗って移動し続けたらそれくらいで行けるんだ。計算上の話だけどな」
確かライナス達は、寝るときくらいは地面で寝たいって言ってたな。歩くよりかはましとはいえ、気温と湿度が高すぎてじっとしていても体力を消耗してしまう。だから、せめて寝るときはゆっくり地面で眠らないといけなかった。ライナス達でもこんな状態だったんだから、スカリー達が強行軍なんてできるとは思えない。
「師匠、大森林の獣や魔物には襲われることはないそうですが、食べ物は森の中の果物だけで足りるのですか?」
「たまにはお肉も食べたいもんな」
アリーの質問にスカリーが乗りかかる。気持ちはわかるんだけどな。
「食べる物ということについては全く心配しなくてもいい。そこら中に、とまではいかないが、食べられる果物や木の実は充分にある」
「せんせ~、お肉はどうなん?」
「それは諦めて。手を出した後にどうなるかわからないからな」
肉にこだわるスカリーであったが、それは人間の世界に戻ってから好きなだけ食べてもらえばいいだろう。少なくとも大森林の中では御法度だ。
「スカリー、ほら、元気出しなさいよ。このお肉あげるから」
「それ大皿にあったやつやん。しかも残りもんやんか」
筋っぽいところをクレアからもらってげんなりしたスカリーだった。しかし、食べ物は粗末にできないのか、口に放り込んで延々とかみ続ける。
「そうだ。師匠、もうひとつ質問があります。迷ったら妖精にフォレスティアの方角を聞けということですが、妖精はみんなフォレスティアの場所を知っているのですか?」
「う~ん、知っているのかどうかはわからないんだけど、どの妖精に聞いてもちゃんとフォレスティアの方向を教えてくれたんだよなぁ」
それこそひとりの例外もなくだ。ジルもやたらと勘が良かったから、妖精全体がそうなんだろう。あれだけ考えなしに動き回っていても平気なのは、何か特殊な能力があるのかもしれない。
「ユージ先生、わたしからもまだ聞きたいことがあります。これはアリーについてなんですけど、フォレスティアって魔族は入ることができるんですか?」
「答えにくい質問をするな」
俺もわずかに懸念していたことをクレアが指摘してくる。ノースフォートの治療院で最初の紹介のときのことを思い出したのかもしれない。あのときは結局何もなかったけど、フォレスティアではどうかわからないもんな。
「そもそも魔族と妖精はほぼ接点がないから、好きも嫌いもないと思っていると予想しているんだけどな」
「私も師匠の意見に賛成です。魔族にとっては妖精は別世界の生き物ですから、まず想像することからして難しいです。それは妖精にとっても同じではないかと考えています」
「更に言うと、俺の師匠のうちのひとりが妖精なんだが、そいつはオフィーリア先生のことは平気だったしな。いきなり嫌われることはないはず」
過去に何かやらかしたジルでさえ、魔族のオフィーリア先生とうまくやっていたんだ。アリーも俺達と同じようにフォレスティアへ入ることができるはず。
しかし、ここで俺はふと思った。前世で初めてフォレスティアに行ったときは、確か旧イーストフォートの死んだ領主からの預かり物があったからすんなりと入ることができた。でも今回はどうなんだろう。俺って人間に転生してしまっているから、向こうからしたら赤の他人にしか見えないんじゃないだろうか。
「何か、俺が守護霊の生まれ変わりだっていう証拠になるようなものが必要かな」
俺がぽつりとつぶやくと、他の三人は全員がこちらに視線を向ける。そして、最初にその意味を理解したスカリーの表情が微妙なものになった。
「ユージ先生、ヤーグの首飾りは証明にならへんの?」
「少なくとも敵とは思えなくなるんだろう。でも、それ以上はどうだろう」
初めてエルフに接したときに、警戒しつつもそんなことを言われた記憶がある。そうなると、いきなり攻撃を受ける心配はないだろう。でも、中に入れてくれるかはわからない。
「話をすればわかってもらえないんですか?」
「話す相手によるだろうな。二百年前に俺やライナス達と話をしたのって誰だったか」
ジルやレティシアさんの他に誰がいただろう。う~ん、はっきりと思い出せない。
「とりあえず、行ってみるしかないと思います、師匠」
「うん、そうだよな。たぶんここで延々と考えていても始まらないと思う」
フォレスティアの目の前まで来て追い返されると、精神的にかなりきついものがあるだろう。でも、とりあえずは行かないとどうにもならなさそうだ。
みんなの不安を和らげるために話をしているはずだったのに、とんだ難問を掘り起こしてしまったようだ。