第一章「境界線の向こう側」
プロローグから続きです。
読みやすい文章目指して書いてます。
「ここは君のいるべき世界ではない」
男はそう言った。
黒い外套を深く被っていて、顔はよく見えない。
誰がどう見ても不審者だ。
真夜中の人通りの少ない道という状況も、怪しい雰囲気に拍車をかけている。
「そうだと思うだろう?」
「………………」
関わり合うべきではないと早々に判断した彼は、無視してそのまま立ち去ることに決める。
「――エスピルシェ」
が、その一言に全てを奪われた。
歩もうとする足の力も。
無視しようとする意志力も。
呼吸という無意識に行える活動さえも、奪われた。
それほどの威力を持った言の葉だったのである。
「その名前を、君は知っている筈だ。……そうだろう?」
彼、梶家鷹鳴はその男を改めて注意深く観察した。
薄汚れた外套に身を包んでいるため、身長以外の特徴が掴めない。身長は鷹鳴よりもほんの少しだけ高い。声から男だと判断したのだが、それ以上の情報を得ることが出来なかった。
「アンタ、何者だ?」
「ユーリ……、ただの時の旅人だよ」
そう言ってユーリと名乗る男は笑う。
「彼女に会いたくはないか?」
「どうしてアンタがエルシェ……。いや、エスピルシェを知っているんだ?」
「質問に質問で返すのは感心しないね」
「答えろよ」
踏み込む。
男との距離は手を伸ばせば届く距離に。
「境界線の向こう側に行かせてあげよう」
「答えになってない。もう一度聞く、なんでアンタはエスピルシェを知っているんだ?」
拳を握り締める。
次にまともな回答が返ってこなければ、全力で殴るつもりだった。
それ程、鷹鳴にとってエスピルシェとは重要な意味を持つ名前なのだ。
「君の知る彼女に会うのは簡単なことじゃないだろう」
地面を踏みしめて、その顔面に拳を振り抜く。が、それは空を切り。
気付けば。
視界が回転していた。
空が足元に。地面が真上に。
次いで衝撃。
「か、――はっ」
肺の空気を吐き出すように呻いた。
どうやら、ユーリに投げ飛ばされたらしい。
地面にうつ伏せで横たわる鷹鳴は、衝撃で視界が真っ白に染まっており状況の確認が出来ない。そんな中、腕を取られる感触だけ伝わり、これはマズイと立ち上がろうとした時には既に遅く、全て終わっていた。
身動きがとれない。
どうやら関節技を決められたようだ。
「喧嘩を挑む相手はしっかりと選ばないと」
「――っ、強いなアンタ、俺も素人じゃないんだけどな」
格闘技は一通り経験している。体格が良いだけの喧嘩屋など相手にならない実力は持ち合わせていた。
それも全てはエスピルシェの為に。
しかし、このユーリという男には全く通用しなかったのである。
「一度はこの世界に絶望する程に理不尽な不幸を強いられた君だ。独りを共有した彼女は何よりも大切な存在だろう?」
「アンタ、どこまで知って――っ」
「それでも尚、彼女に背を押されて君は戦った。戦って勝ち取った。それを――」
ひと呼吸置き、ユーリは一際低い声で言い放つ。
「君は全て捨てた」
握り締めた拳から血が流れる。
「全て捨てれば境界を超えられるとでも? 代わりに幾ばくかの力と知識を手に入れたようだが、その力も僕如きにすら通用せず。ましてや知識は境界の向こうでは役に立ちはしないだろう」
「……だからなんだってんだ」
「問おう。……それでも境界を超える覚悟はあるのか?」
何を問われているのか分からない。
境界とは一体なんなのだろうか。
狂った人間の妄言に付き合う必要はない。
しかし。
しかしだ。
実のところ。エスピルシェに再会出来ると言うのならば、それ以外など鷹鳴にとっては瑣末な問題でしかない。
故に、答えはいとも簡単に決まった。
「覚悟なら、ある」
それも八年前からだ。
「良い答えだよ。梶家鷹鳴」
ユーリが呟く刹那。
街灯が一斉に消えた。
ただでさえ薄暗いそこは一切が闇に包まれ、星明かりだけがその場を薄く照らしている状態だ。
音も消えた。
先程まで聞こえていた車の音や風の音が一切聞こえない。まるで時間でも静止したかのようである。
「神魔器。君がこれから集めるべき可能性だ」
そう言ってユーリが見せたのは一枚の栞だった。
薄茶色の栞で、両面にびっしりと文字のようなものが書き綴られている。
見たことがない文字だった。
「僕の神魔器は【トラベル】時空と世界を超える魔法が組み込まれている」
組み伏せられた鷹鳴の目の前にある栞。それが淡く輝き出す。
「これから君を境界線の向こうに飛ばす」
「あの世界に行けるのかっ?」
「君の知るエスピルシェに会うのは簡単なことではない。それでも尚、彼女に出会うことを求めるのならば、神魔器の使い手を集めてピリオドを止めるんだ」
ユーリが言い終えると視界が歪んだ。
目に見える景色が捻れていくのだ。栞を中心に。
輝きは増していくばかり。
捻れは加速し、全てがうねるように歪んでいく。
突如襲う浮遊感。それと同時にありえない程の加速。
それが鷹鳴の意識を強く揺さぶり。耐えようと必死に堪えるも、あまりにも呆気なく彼は意識を手放した。
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懐かしい空気に涙がこぼれ落ちた。
求めていた世界に来た。根拠のない確信が鷹鳴に活力を与える。
重い瞼を開き、眩い光を受け入れた。
その先に、彼が望む景色があると信じて。
「嘘、……だろ?」
八年間。
彼が望み続けて遂に手に入らなかった光景が。
そこにはあった。
あの夕暮れの線上。
沈む太陽の光と、それを飲み込む暗闇。
その境界である黄昏の向こう側が、幼き少年の迷い込んだ世界ならば。
確かにそこは境界線の向こう側だ。
ユーリは言った。
境界線の向こうに飛ばす、と。
ここは世界の狭間の向こう側。決して交わることのない世界の反対側。何故か幼き鷹鳴が迷い込んだ世界そのものだった。
見覚えのある黄金色の草むらは記憶そのままで。
少しだけ彼の知る世界とは違う空気と、澄み切った美しい青空。肌を撫でる優しい風に、彼女とよく遊んだ大きな樹。
あれだけ巨大だと思っていた樹も、成長した鷹鳴から見ればそうでもない。
視界を奪っていた黄金の草むらも今や彼の身長の方が高く、遠くまで見渡すことができた。
記憶にある思い出の樹。その根元に、一人の少女が座り込んでいる。
見覚えのある銀髪だ。
彼女は――。
思考よりもはるかに早く、彼の体は弾かれたように飛び出していた。
全力で地面を蹴る。
黄金の草むらをかき分けて、肌を切るのを気にもとめず。幼い頃長い時間をかけてようやく駆け抜けた草むらを、僅かな時間で通り抜ける。
目指すは思い出の樹。
その根元にいる彼女だ。
喉が潰れてもいい。その覚悟で叫ぶ。
「エルシェっ!」
彼女の下まであと少しというところで、足元の突起に躓いた。
視界に入ったのは地面から飛び出した樹の根っこだった。どうやらそれに足を取られたらしい。
あっという間に視界は回転する。
左肩に強い衝撃。反射的に受身を取るも、その勢いは殺しきれず。無様に転がって、何か硬いものに背を強かに打ち付けた。
視界が真っ黒に染まる。
肺の空気を全て吐き出し、上手く呼吸をすることが出来ない。
暫く悶絶し、どうにか瞼を開けるようになった頃、徐々に状況を確認することが出来た。
全力で走り、その勢いのまま躓いて転がり、樹に体を打ち付けたようである。道理で痛い訳だ。
「………………」
驚いた顔でこちらを見る少女が一人。
記憶の中の少女よりも幾分成長していた。それはそうだ、あれから八年が経過した。互いにあの頃よりも成長していてしかるべきなのだ。
言葉を失う。
八年越しの再開に感情の本流が思考を完全に狂わせていたのだ。
「貴方は誰?」
どうやら、彼女は鷹鳴のことを覚えていないらしい。それは正直かなりへこむ事実ではあるし、心の折れる音も確かに聞こえたが、それで怯む鷹鳴ではない。
怯みはしないが、圧倒的な感情を前にして整理が追いつかず何を言っていいのかが分からない。
救ってくれた感謝を伝えるべきか。
再開した喜びを伝えるべきか。
否。
断じて否だ。
最も重要なのは、謝罪。
彼女に己の罪を告白し、謝罪すること。でなければ、彼女との間に何かが始まることは決してないし、それは絶対に許されるべきではない。
「あ、――、俺は、……か、梶家、鷹、鳴って、言って、その……」
呼吸が多すぎて言葉にならない。
下手をすれば過呼吸になりそうである。
「タカナリ?」
聞き覚えがあるのだろうか。
少女は名前を聞いた瞬間表情を険しいものに変えた。
やはり恨まれているのだろうか。いや、致し方ない。鷹鳴はそれだけのことをしたのだ。あの心優しい少女を怒らせる程に。
逃げずに、その事実を受け入れなければならない。
「ああ、確かにそうかもしれない。貴方がタカナリなのね……」
久しぶりの再会のようでありながら、同時に初対面であるかのような不思議な反応だった。
「俺を、覚えているのか?」
「――少なくとも、私の記憶に貴方はいないわ」
覚えていないらしい。
それはそうだろう。
鷹鳴にとっては何物にも代え難い大切な記憶だが、彼女にとってもそうとは限らない。何せ八年も前の僅かな期間の出来事なのだ。
「エルシェ、俺は八年前にここで君と出会った」
「知ってる」
「は?」
彼女は鷹鳴のことを記憶にないと言う。が、直後に彼女と出会ったことは知っているとも言った。
矛盾している。
意味不明だ。
「ちょっと待ってくれ、俺のことは知っているのか?」
「知ってはいるわ。多分、生きている人間ではこの世界で一番よく知ってる」
「どういう意味だ?」
一際強い風がその長い銀髪を散らした。
美しい妖精を思わせるような幻想的な銀髪。その髪には枝毛も切れ毛もなく、艶があり、光沢さえもある。
記憶のままの、彼女の髪だ。間違いない。
「貴方は一つ勘違いをしているわ」
「勘違いだって?」
嫌な汗が額を伝った。
あまり、その先を聞きたくはない。
本能が訴えていた。
それ以上知るな、と。
「私は貴方の知るエスピルシェという人物ではないの。……私はエルシェじゃない」
「嘘、……だろ?」
「事実よ」
嘘だ。
髪だけではない。
その碧く輝く空色の瞳。
きめ細かい芸術品のような肌に。
絵画に出てくる美少女のように整った顔立ち。
聴き心地の良い凛としたソプラノも、その全てが記憶の彼女にとてもよく似ている。
記憶との誤差は、成長による違いの筈だ。
「なら、……お前は一体誰なんだ?」
彼女は目を細めた。
長い睫毛が強調される。
そして睨まれた。魂の底から凍りつくような、酷く寒い殺意を包容した瞳である。
「私はエス。エルシェの妹よ」
妹。確かに血縁者であれば似ることもあり得るのだろうが、あまりにも似すぎている。これでは双子と言われた方がしっくりくる。
もしかしたら双子の妹なのかもしれない。
「なあっ、君が彼女の妹だって言うなら、エルシェの居場所を知っているのかっ!」
「……知っているかどうかと問われれば、一応知っていることにはなるわね」
非常に曖昧な言い回しだが、エルシェと出会える可能性が僅かにでもあるならば、鷹鳴にとってはどうでもよいことだった。
重要なのは彼女と再会し、謝罪すること。
それだけだ。
「俺をエルシェに会わせてくれっ! 頼むっ!」
「いやよ」
「へ?」
即答で断られるとは思っていなかったため、変な声が出てしまった。が、よくよく考えれば当然である。
詳しく知りもしない、出会って数分の男に姉を紹介しろと言われて素直に従う人間は、あまりにも警戒心が無さ過ぎるだろう。
「俺は怪しい者じゃないっ」
「怪しい者が私怪しいですって自分から言うと思う? 私は逆に怪しい人なら私は怪しくありませんと言うと思うけど」
「あ、いや……。だから、俺と君の姉は昔に出会っていて。それで、そう。俺は彼女に謝りたいんだ」
「……どうしても会いたいの?」
「ああ、命を賭してでも」
その言葉に、エスと名乗った少女は酷く歪んだ笑みを浮かべた。
綺麗な顔をしているだけに、言葉に出来ない凄みがある。
「命を賭してでも。……そう言ったわね?」
「言ったな」
「なら、賭してもらいましょうか」
笑顔がさらに花開く。とても美しい、全ての男を虜にする魔性の微笑みだ。
けれど、その凄絶な笑みには恐怖しか感じない。
底なし沼のような深淵が垣間見えた気がしたからである。
「――貴方の命を」
底冷えするような瞳に見つめられる。逸らそうと思っても、その視線から逃れることが出来ない。
嘘でも冗談でもなく、心根の真実を語っていると雰囲気から察せられる。
エルシェに会いたければ命を賭せ。そう、彼女は言っているのだ。
上等である。
この命は一度捨てたもの。拾ったエルシェに捧げることに何の抵抗もない。
張りつめた空気。
それを壊したのは草むらを掻き分ける音だった。
音源に素早く目を向けたエスに釣られ、鷹鳴も茂みに視線を移す。
そこにはその身を真っ赤に染めた、一人の少女がいた。
今にも死にそうな顔で、それでも必死に体を引き摺るようにして歩いている。
鮮烈な光景であった。
いったい何を経験したらここまでの姿になるのだろう。鷹鳴の貧困な想像力ではとても思いつかない。
「――――っ」
何かを言うべきなのかもしれない。しかし、何を言葉にしていいのか分からないのだ。
まるで死人のような姿なのにも関わらず、その眼光は鋭く。奥底に圧倒的な輝きを宿している。
整った美しい顔は汗や泥、もう固まってしまった血や、今もなお流れ出ている血で汚れ。同じように汚れた髪の毛が張り付いている。
そんな汚れを帯びて尚、それでも美しさを隠しきれない藍色の髪の毛はきっと、普段は言葉に表せない程に美しいのだろう。それを後頭部で結んでおり、いわゆるポニーテールという髪型にしていた。
彼女は身の丈の二倍はあるだろう長い棒を支えにしていた。いや、棒ではない。先端に取り付けられた鋭利な刃から考えるに、あれは恐らく槍だろう。
そしてその身に纏うのは西洋風の鎧だった。それもかなり露出が激しい。
金属製の鎧で守られている部分は急所を中心に最低限しかなく、それ以外の場所は惜しげもなく肌色を晒していたり、薄布で覆われているだけだったりとやけに頼りない。
地肌は銀色だっただろう鎧も赤黒く染まっており、自らの血であそこまで鎧を汚すのは不可能に近いことを考えれば、あの血は他の誰か。つまりは返り血であると想像するのは自然な流れだろう。
そう、まるで彼女は戦場帰りの兵士を連想させる姿をしていたのである。
「――ぅ、くっ、……大丈夫ですかっ!」
何とか絞り出した第一声がそれだった。
「っ! こんな辺境になんで一般民がっ」
彼女のその声は悲鳴に近いものだった。
「速く逃げろ、すぐに追手が来る」
息も絶え絶えに叫ぶ。
追手とはなんなのか、その思考を遮るようにエスが呟く。
「覇王の軍勢がここまで。……ということは都市が落ちましたか」
思考がついていけていない。
良く分からない状況に混乱するしかなかった。
「何をしているっ! 速く逃げろ、ここは私が食い止めるっ!」
血まみれの体で。
傷だらけの体で。
息も絶え絶え、いつ死んでもおかしくないような状態で。
それでも美しい少女は叫んだ。
両足を前後に軽く広げ、しっかりと大地に立ち。茂みの向こうに向けて槍を構える。
が、次の瞬間。
「かっ、――かはっ、ごほっ……」
咳と共に多量の血を吐き出して、まるで糸が切れた操り人形のように倒れこんでしまった。
放ってはおけない。
考えるよりも体が動く方が早かった。
慌てて駆け寄り、彼女の体を抱き抱える。
「おい、しっかりしろっ」
「愚か者が……。はぁはぁ……、私を置いて早く逃げろ。これでも女の端くれだ、男の注意くらい暫くは引き付けられる」
それはこれから来るだろう者に体を差し出すことを意味していた。
どうやら彼女は自分の体を犠牲にしてまで、鷹鳴とエスを助ける気らしい。見知らぬ相手に何故そこまで、と。そう叫びたくなる。
「んなこと出来るか、逃げるなら一緒に連れて行くぞ」
「馬鹿を言うな、私には民を守る義務がある。……私に貴方達を守らせてくれ」
彼女の切実な願いもむなしく、再び茂みの奥から音が聞こえてきた。それも一つではない、複数の茂みを掻き分ける音がどんどん近付いてくる。
「手間かけさせやがって、仲間の恨みきっちり晴らさせてもらうぜ」
「おい、奥にもう一人女がいるぞ。それもかなり若けぇ」
「ありゃ若いなんて通り過ぎて幼いだろ。……それよりも俺はこの少年を頂くぜ」
酷く品の悪い連中がぞろぞろと姿を現した。
やはりその全員が鎧を身に纏い、片手に両刃の剣を持っていた。どう考えても兵士である。
「手遅れか……っ」
今にも死にそうな少女と、恐らく無力だろうエスという少女。そして、多少の格闘技の心得はあるが、人を殺せる武器を持った相手には役に立たないだろう鷹鳴。それに対し、相手は目を血走らせ、武装した男が六人もいる。なるほど、確かに絶望的なまでに絶体絶命だった。
これは夢か。
否、夢ではない現実だ。
この世界の空気を鷹鳴は確かに過去の記憶にある空気と同じと感じた。
それを否定することは彼女との出会い、それそのものを否定することに他ならない。それだけは認められなかった。
断じて、認めることは出来ない。
生き残らなければ。
エルシェと再会するために。
如何なる手段を用いようとも。