第三章
衛生局を後にした僕とシャロンは、馬車を呼んでシャロンの家があるイースト・エンドへ向かった。
イースト・エンドに着いてから数十分歩くと、シャロンが止まった。
「ここよ」
テムズ川からは離れずとも遠からずといった場所。ここにあるほったて小屋らしき建物が、シャロンの自宅らしい。
「さあ、上がって」
「じゃあ……おじゃまします」
シャロンに促され、家の中に入っていく。玄関には、中央に○印が描かれてあるマットがあった。
「あ、そうそう、そこのマット、踏んでもいいけど○のマークは踏まないでよ」
「え……?」
もう少し早く言ってくれ、と思った時には遅かった。
何か落ちる音がしたかと思うと、ガァンと何かが脳天に直撃した。
「ぐはぁっ! ……くううぅぅぅぅ~~~~~~」
その結果、卒倒&悶え苦しむことになってしまった。
「だから言ったのに。今度から、気をつけなさいよ?」
「も……もう少し……早く……言ってくれ……」
悶絶している時にちらっと横を見たが、そこには今まで存在しなかった巨大なタライが転がっていた。どうやらこのタライが直撃したらしい。
不幸はまだまだ続いた。
大分痛みも治まった頃、家の中の空気がよどんでいることが気になっていた僕は、窓を開けようとした。
そして、窓を開けた途端、
「ダメー! 伏せて!!」
「え!? おわっ!!」
なんと、頭の後ろから何かが飛んできたのだ。
僕はシャロンの叫び声のおかげで間一髪回避できた。
飛んできた物は窓の外に突き刺さったらしい。窓の外をのぞいてみた僕は、一気に血の気が引いた。
「な……なんだ、これは?」
突き刺さっていたのは、捕鯨用の巨大なモリだった。しかも地面には相当深く突き刺さっている。
もし僕にこれが命中していたら、確実に頭部を粉砕されていたか、首をもぎ取られていただろう。
「ったくもー、危ないから、そこのイスでおとなしく座ってなさい」
「……そうする。ところで、これは一体どういう仕掛けなんだ?」
「窓にピアノ線が張ってあるでしょ? それをたどりなさい」
そう言われてピアノ線をたどっていくと、天井に発射装置らしき物体が設置されていた。どうやら窓が開くとピアノ線が引っ張られ、発射装置が作動するらしい。
イスに座って落ち着いたところで、シャロンに聞いてみた。
「あのさあ、シャロン。もしかして、これ、全部お前が作ったのか?」
「当然よ。もともと工作は好きだったし、イースト・エンドに来てからはあの手この手で自分の身を守る必要性が出来たしね」
「なるほど。それじゃあ、さっきみたいなトラップも……」
「もちろん、他にもたくさんあるわ。例えば、あそこを見て」
シャロンが指差したのは、暖炉だった。
「あの暖炉はね、人間一人分の重さを感知すると、でっかい剣山がせり出すようになってるわ」
ここまで聞いて、大体わかった。ゲイリーの言っていたことが。
「それじゃあ、この家に侵入してきた輩が遭ったヒドイ目って……」
「ええ、八割方これらのトラップにやられたのよ。死者が出たこともあったけど、警察沙汰になる前にテムズへ捨てといたわ。今頃白骨化してるんじゃない?」
……コワッ! あのトラップの性質からして死人が出ることはなんとなく予測できたが、シャロンの後始末の方がとんでもなく恐ろしい。
あの(外見だけは)かわいい顔してるのに、やることがえげつない。
「と、ところで……『八割方』って、言ってたけど……後の二割は?」
すると、シャロンは平然と答えた。
「そんなの、自分の力で撃退したのよ。決まりきったことじゃない」
「……ああ、そうだったな」
シャロンは、イースト・エンドに逃げ込んだ犯罪者を捕まえては警察に引き渡している。それに、僕と一戦交えた時、感じた。
――あの動きは、決してチンピラやそれに類する者の動きじゃない。
つまり、見かけによらずシャロンは相当強い。だから、トラップを強引に突破してきても、コテンパンにやられてしまうのは宿命らしい。
ところで、一つ疑問が浮かんだ。
「あのさ、一つ質問なんだけど……」
「何?」
「僕と戦った時、お前、どこからナイフを出したんだ?」
あの時、シャロンは手をポケットや懐に入れる仕草は見せていなかった。あのナイフは、一体どこから出したんだろう?
「ああ、それはね、これよ」
と言うと、シャロンは右手を突きだし、手首を内側に曲げた。
そうすると、驚くべきことに袖からナイフが、柄側から出てきたのだ。
「どう、驚いた? これはね、あたしの中指にピアノ線が付いているの。それを、手首を曲げて引っ張ることで、腕に付けてある装置を作動させる。すると、さっきみたいにナイフが飛び出すのよ」
「……ああ。全く、この家の罠といいナイフといい、お前、すごいな」
「でしょ? ちなみに、ナイフの柄の先は開くようになっていて、中にはピアノ線が入っているの。このピアノ線を指にはめてナイフを投げれば、敵をからめ捕ったり、木や壁に引っ掛けたり、色々な戦術が可能になるわ」
こいつ、ただ作ってるだけじゃなくて、色々考えてるんだな。
「そうだ、お前、これからどうするんだ? 動機はわからないが、ミルトン精肉を調査するんだろ?」
すると、シャロンは不敵に微笑んだ。
「そのことなら心配ないわ。すぐに呼ぶから」
「呼ぶ?」
「会えばわかるわ。じゃあ、始めるわよ」
そう言うと、シャロンは棚からビンを取り出した。そのビンの蓋を開け、薬さじの様なもので中身の粉末をすくい取る。そして、その粉末を暖炉に投入した。
その瞬間、なんと煙の色が白から緑に変わったのだ!
「こ、これは一体……?」
「集合の合図よ。これが出てから、遅くとも三十分すれば来ると思うわ」
――三十分後――
「お呼びですかい、アネゴ?」
「来てもらって悪いわね、ウィギンス」
やってきたのは、十数人の少年少女達だった。
その中でも『ウィギンス』と呼ばれた少年がリーダー格らしい。
「フレディ、紹介するわ。この子たちは『ロンドン・イレギュラーズ』。イースト・エンドに住む七~十二歳の子供たちで構成された組織で、いつも情報収集を頼んでいるの。で、そこにいるのがロンドン・イレュラーズ最年長でリーダーを務めているウィギンス・ベイカーよ」
「よろしく頼むぜ、旦那」
と言って、ウィギンスは手を差し出した。
「フレデリック・アームストロング。フレディと呼んでくれ」
僕も自己紹介がてら、握手を返す。
それにしても、ロンドン・イレギュラーズ、か……。どっかで聞いたことある名前なんだよなぁ……。
「さて、それじゃあ商談と行こうぜ。アネゴ、今回の依頼は?」
「あんた達に頼みたいのは、ミルトン精肉についてよ。ミルトン精肉に関する情報を集めてきてほしいの。報酬は、いつもの通りよ」
「日当一シリング、有用な情報を入手した時のボーナス一ギニー、必要経費はアネゴ負担ですね」
「そうよ。で、これは五日分の契約料、五シリングよ」
「へい、確かに。それじゃあみんな、行くぜ!」
『オ――――――!!』
そうして、ロンドン・イレギュラーズの面々が去ろうとした、その時だった。
ウィギンスがフッと振り返り、言葉を投げかけてきたのだ。
「そうだ、アネゴ。フレディの旦那って、もしかしてアネゴのコレですかい?」
そう言いながら、小指を突き立てた。
……ええと、つまり、これは……恋人だと思われてる!?
「ぶっ!!」
思わず吹き出してしまった。
一方、シャロンは猛烈に否定していた。
「な、な、な、何言ってんのよ、あんた! こいつはただの助手よ、ジョ・シュ!!」
「シャ、シャロンの言う通りだ。べ、別に君が期待しているような、関係では、ない」
「ふーん。ま、そういうことにしときやしょう。今は」
そう言い残し、今度こそ本当に、ウィギンス達は去っていった。
「…………」
ロンドン・イレギュラーズの面々が帰った後、僕はテーブルに座り考え込んでいた。
「何考えてんの?」
「ああ、色々引っかかることがあるんでな」
「ミルトン精肉の事?」
しかし残念ながら、シャロンの答えは不正解だ。いずれはミルトン精肉について考えなければいけないが、今は考えられるだけの情報はない。
「いや、ロンドン・イレギュラーズの事だ」
するとシャロンは赤面し、
「ま、まさかあんた、ウィギンスが言っていたことを間に受けて……」
「ち、ちがうわ! そういうことじゃなくて……ええと……考えがまとまるまで待ってくれ」
少々平常心をかき乱されたが、冷静になって考えてみよう。
そもそも、ロンドン・イレギュラーズが気になる理由はなんだ?
それは、どこかで聞いたことがあるような事ばかりだからだ。じゃあ、その聞いたことがある事とは?
――そうだ、グループ名と料金だ!
僕の記憶が間違っていなければ、確かシャーロック・ホームズに似たようなのが出ていた。
「待たせたな。整理がついた」
「ご苦労様。じゃ、聞かせてもらおうじゃない。引っかかることってのを」
「ああ。心して聞けよ」
僕は深く息を吸い込み、話しだした。
「まず、彼らの賃金についてだ」
「日当一シリング、有用な情報に対してボーナス一ギニー、必要経費支給ね。あたしが決めた料金だけど」
ちなみに、一ギニーは一ポンド一シリング。一ポンドは十二シリングなので、シリングに直すと一ギニーは十三シリングということになる。
「そうだったな。実はその料金設定、どこかで聞いたことがあるんだが……結論を急ぐ前に、もう一つの気になることについても話しておこうか」
「へ、へえ~、もったいぶっちゃって。じ、じゃあ、そのもう一つの気になることも、話してもらいましょうか」
この時、シャロンは多少動揺しているようだった。この反応に気付いた時には、すでに僕はある結論にたどり着いていた。
「二つ目に気になったことは、グループ名だ。『ロンドン・イレギュラーズ』……。どっかで聞いたことある名前だと思っていたが、思い出せなかった。だが、お前の服装を見て思い出せたよ」
「う……」
「それは、シャーロック・ホームズに出てくる、ホームズの協力者であるストリート・チルドレン集団『ベイカーストリート・イレギュラーズ』だ。さっきの料金設定もベイカーストリート・イレギュラーズのものと同じだから、まず間違いないだろう」
「た、確かに、チーム名とか料金とか、一部参考にしたけど、それだけなの? だったらこの話は終わりね」
確かに、ここで終わらせるつもりだった。しかし、僕はすでにある結論に達してしまっている。これを言わずにはいられない。
「まだあるぞ。ロンドン・イレギュラーズといい、お前のホームズみたいなファッションと言い、どう考えてもこれは……」
「ちょ、ちょっと、それ以上は……」
しかし、僕は構わずに続けた。
「明らかに十四歳特有の『なりきり病』だな」
「きゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
僕が結論をきっぱりと告げると、シャロンは叫びながらテーブルに突っ伏し、拳をテーブルにダンダンと叩き続けた。そんなに恥ずかしいなら、やらなきゃいいのに。
しばらくすると、開き直ったように面を上げた。
「ええ、そうよ、そうですよ! あたしはホームズにあこがれているの! あの鋭い観察力と分析力、犯人を手玉にとって泳がせて、そして華麗に捕まえる……誰だってあこがれるでしょ?」
ものすごい剣幕で迫られたため、僕は控えめに返事をした。
「う、うん……誰でもあこがれると思う。それに、『形から入る』人もいるワケだし……」
「わかればよろしい。ところで……」
「まだ、何か?」
ちょっとこれ以上詰め寄られると、精神的に持たない気がする。
「おなかが減った。何か作って」
ああ、そういうことか。なら、とっておきの場所に連れて行こう。
「わかった。こういうことがなければ行くはずだったレストランがあるんだ。そこに連れていくよ」
「本当に? やった!」
「ああ。僕はグルメだから、期待していいぞ」
やってきたのは、ウェストミンスター地区のはずれにある隠れ家的レストラン、『レイク・ディストラクト』。
「ふ~ん、意外と小さいお店ね」
「ま、知る人ぞ知るって感じだからな。だが、味は保証付きだ。入るぞ」
店に入ると、ベテランのウェイターさんが出迎えてくれた。
「これはこれは、ミスター・アームストロング。ようこそいらっしゃいました」
ウェイターさんがこのような出迎え台詞を言うのは、僕がここの常連だからだ。
「あ、今日は二人なんで、よろしくお願いします」
「かしこまりました。では、こちらへ」
案内されたのは、店のほぼ中央にあるテーブル。僕達は席に着くと、そのまま注文した。
「ご注文は?」
「オススメ三種デザート付を二セットで」
「かしこまりました」
そしてウェイターは、厨房へと姿を消した。
「ねえ、ちょっと」
「どうした、シャロン?」
「オススメを二セットって、あたしの分も?」
「そうだけど、何か?」
「何か? じゃないでしょ! なんであたしの希望を聞いてくれないの?」
「そうだ。ここはオススメと言っとけばハズレはない。前に自分でメニューを指定したことがあったが、その時はあまりパッとしなかった」
「へ~、そういうことなら、仕方ないわね」
――十数分後――
「お待たせしました。自家製ロールパンと特製バター、トード・イン・ザ・ホール、野菜スープのセットです」
「ありがとうございます」
「デザートは食後、お持ちします。では、ごゆっくり」
おお、やはりこの店はどれをとってもうまそうだ。クォリティが高い。
ロールパンは素朴さが逆においしさを際立たせるように見えるし、付け合わせのバターの香りもいい。
トード・イン・ザ・ホール……やはり、名前の通りカエルの肉がうまそう……というのは冗談。この料理は、ヨークシャープディングというパイ生地っぽいものにソーセージを混ぜて焼いたものだ。これがまた、パイの香りとソーセージに入っているハーブの香りが絶妙にミックスされていて食欲がそそる。
野菜スープは、一見すると、どの家庭でも作れるようなものだ。具もキャベツ、にんじん、玉ねぎ、ベーコンと至ってシンプル。しかし、このスープはとにかく色が濃い。どうやら火加減が上手く調節されており、食材からエキスを最大限に出し切らせているのだ。そのため、スープが尋常じゃないほど濃厚なのだ。その味を想像しただけで、よだれが出てしまいそうだ。
「あのさ、お楽しみ中のところ、申し訳ないんだけど」
妄想中に、シャロンから声をかけられた。
「うわっ、びっくりした。なんだ、突然?」
「これ、全部家庭料理なんだけど」
「うん、そうだけど」
「あたし、あんたが自分の事をグルメだって言うから期待したのに」
ああ、言いたいことがわかったぞ。
「もしかして、シャロンはフランス料理のフルコースみたいなのを想像していたのか?」
「そう」
やっぱりそうか。こいつも一般人の例に漏れず、グルメ=美食家=フランス料理のコース、という図式を想像していたクチか。
「確かに、グルメと言えばフランス料理、という美食家は多い。でも僕は、それとは異質な美食家なんだ」
「異質?」
「ああ。僕は田舎料理や家庭料理の方が好きだ。別に見下す訳じゃないけど、キャビアやトリュフが少し乗っているからといって興奮する連中とは違うからね。僕はね、真のおいしさは、誰でも作れる、オーソドックスな料理にこそ存在すると思っているんだ」
「どういうこと?」
「ほら、家庭料理ってさ、誰でも作れるはずなのに、人によって味が変わるだろ? だから、僕は家庭料理には無限の可能性があると思うんだ。僕が家庭料理にこだわるのは、そういうワケさ」
「言われてみれば、この何の変哲もない家庭料理……なんかおいしく見えてきたかも」
「そうだろう? さあ、冷めないうちにいただこうか」
まずは、ロールパン。少しちぎって口の中へ運ぶ。うん、さすがだ。この焼き加減といい、テーブルに運ばれた時の温度といい、小麦の香りと味を最大限に引き立たせている。緻密な計算の下に作られているのは言うまでもない。
そして、このバター。さすがは特製と言うだけあって、バター特有の香りが鼻を刺激する。クリーミーさと塩加減が絶妙で、しかもパンの魅力を食うことなく、それでいて自らは存在感を消してはいない。これほど完璧なパン用バターを、僕は他に知らない。
次に、野菜スープ。これも、スープの見た目に違わず濃厚だ。様々な具材の味が絶妙なバランスの下に抽出され、お互いに魅力を引き出し合っている。具材自体も、極限までエキスを抽出されているにもかかわらず、むしろ他の具材のエキスを吸い込むことによって、味わったことのない味を体現することに成功している。さらに、具は簡単に崩れることなく、触感も適度な硬さを保持している。まさに、いい意味で矛盾している逸品だ。
最後に、トード・イン・ザ・ホール。食べやすい大きさに切った瞬間、ハーブと小麦とバターの香りがさらに増強され、食欲を促進させる。一口食べてみると、ヨークシャープディングのサクサクさとソーセージの食感がグッドコラボレーション。さらに、ソーセージに含まれているハーブの香りが口いっぱいに広がり、味わいをより一層深めている。
と、ここまで夢中で食べていたが、シャロンはどうだろう?
ふっと顔を起してみると、シャロンは今まさに完食しようとしていたところだった。
「…………」
「どうした? そんなに黙りこくって」
「……おいしい」
「気に入ってもらえて何より」
「ほんとにおいしいよ、これ! これが家庭料理だなんて信じられないくらい!!」
正直、ここまで興奮して喜んでもらえるとは、想定外だったな。
「そうだな。ここは、湖水地方の契約農家・漁師・ハンターから直接買い付けているんだ。だから、素材も混ざりモノなしの一級品ばかりだし。それにシェフの腕もいいから、中途半端なフランス料理店より圧倒的においしいんだ」
「ああ、だから『レイク・ディストラクト』、つまり『湖水地方』なんていうまんまな店名なのね」
「そういうことだ。さあ、そろそろデザートが来るぞ」
数分後、ウェイターがデザートを運んできた。
「お待たせしました。本日のデザート『アップルケーキ』でございます」
おお、これまたうまそうなケーキだ。
素朴な外見でありながら、なぜか食欲をそそる魔力。こいつはそれを持っている。
ケーキの先端を少し切り取り、それを食べてみる。すると、濃厚なリンゴの甘酸っぱさが口の中を一気に支配した。さらにケーキ生地がリンゴの協力者となり、口内支配圏拡大に一役買っている。
ここのレストランのデザートはどれも強力な猛者ばかりだが、天下ならぬ口下統一の最短記録を、このアップルケーキはたたき出した。
「…………」
ところが、シャロンの方を見てみると、シャロンは一切ケーキに口を付けていなかった。
「どうした? リンゴが嫌いだったか?」
「いえ、なんでもないわ。今からいただくところよ」
シャロンがケーキを一口食べた瞬間、彼女の目から涙が出た。
「……一体どうした?」
「……ちょっと……お母さんの事を……思い出して……」
「おまえのお母さんの事?」
「うん……アップルケーキはね、お母さんの得意料理で……あたし、よく食べさせてもらっていたわ。このケーキ、お母さんの作ってたものと、似てる……」
「へえ、ということは、お前の母さん、料理が相当上手だったんだな。いつか僕も食べてみたいな……」
「それは、無理な話よ」
一瞬、ドキッとした。こいつの母親の料理が食べられないということは、最悪の場合……。
いや、今はやめておこう。ゲイリーと一緒に話していた時、こいつは明らかに家族の話を嫌がっていた。急を要しない限り、このことはシャロン自ら話せるようになるまで待つべきだ。
「それは残念。じゃあ、さっさと食べてしまおう。明日から本格的な捜査に入るんだから、早めに寝ておかないと」
「……うん、そうだね」
その後、食後のコーヒーを飲み終えた僕達は、レストランを出て馬車に乗り、シャロンの家へと向かった。
「……え? ちょっと理解できなかった。もう一度言って」
「はぁ!? あんた、一回で理解しなさいよ! こっちだって、言うの恥ずかしいんだから!」
イースト・エンドにあるシャロンの家に帰ってきた僕とシャロンは、少しモメていた。
それは、就寝直前になってのことだった。
僕はどこに寝ればいいのか聞いたが、シャロンの返答が突拍子もなかったからである。
「あたしと一緒に、ベッドで寝て」
これがシャロンの答えである。
それに対して僕が先程の様に聞き返したため、こうしたプチトラブルが起こったのである。
「いや、言ってることは理解できる。理解できないのは、お前の思考回路だ!」
「だって、仕方ないじゃない! ここにはソファはないし、ハンモックを吊るそうにも仕掛けが多すぎてそんな余裕はない。イスに座って寝るのは論外ね。あれは昼寝にはいいけど、夜の就寝には足りないわ。寝不足になること請け合いよ」
……つまり、僕には最初から選択肢は一つしかないわけだ。
「わかった。お前の言う通りにする」
「ようやく理解できたようね。あと、何かあたしに変なことしたら、コレだからね」
そう言って、僕の心臓に右腕を突き付けた。シャロンの右腕には、ナイフが仕込まれている。つまり、命はないという意味か。
「お前が僕の事をどう見ようが一応『紳士』だ。そんなことは絶対にない」
「頭に『変態』が付かなければいいけど。じゃ、もう遅いし、寝ましょ。おやすみ」
「おやすみ」
――それから、どのくらい時間がたっただろうか。
寝るのは得意なはずなのに、なかなか寝付けない。それは家の外で止むことのない喧嘩の罵声からなのか、それとも女の子と一緒に寝ているという緊張感のせいなのか。どちらなのかはわからない。
だが、とにかく寝られないというのは確かだ。
その時、シャロンが寝言を発した。
「……お父さん……お母さん……マイラ……」
これは……家族の名前!? それに、マイラって誰だ? まあ、おそらく姉妹なのだろう。
そういえば、ゲイリーはシャロンがミルトン精肉を追いかける理由として、家族に関することだと推理した。
そうだとすれば、過去、シャロンの身に一体何が起こったんだ?
そういう事をいろいろ思案している内、いつの間にか深い眠りに落ちていた。