第二章
数日後、報告書を書き終えた僕は、列車でロンドンに向かった。報告書を衛生局へ提出するためである。
ロンドン・パディントン駅に到着し、徒歩で衛生局を目指した。馬車を使ってもよかったが、別に使わなくても行ける距離だし、第一馬車代を食費に回せる。
数分歩いた矢先、ある災難に見舞われてしまった。
「あれ? 何か落ちる音が……」
しかし、気付いた時には遅かった。
なんと、目の前にいきなり少年が落ちてきて、報告書が入った封筒を盗られてしまったのだ。
「あっ、待て!」
逃げ出す少年をすぐさま追いかけた。
――ああもう、こんなことなら馬車代ケチらなければよかった!
そう思ったが、後悔先に立たず。今は盗まれた書類を取り返す方が先決だ。
顔はよく見えなかったが、服装はよく覚えている。白い長そでのシャツに、茶色い半ズボンとサスペンダー、そして帽子。
一言で言ってしまえば、子供版ホームズみたいな感じだ。
そのような覚えやすい特徴であったから、追いかけるのは楽だ。
だが、ロンドンに関しては、このウェストミンスター地区以外あまり詳しくない。それに、ウェストミンスター内であったとしても、路地裏などに関しては知らないことが多い。
ハッキリ言って、見失ったらそれでアウト。絶対に撒かれてはならない。
にもかかわらず、災難が続いた。
「おわっ!?」
「うっ!?」
不覚なことに、人とぶつかってしまった。
「いたた……すみません、お怪我はありませんか?」
「いえ、私は大丈夫……って、フレディじゃありませんか!」
僕もその声を聞き、ぶつかった人物が知り合いであることがわかった。
「あ! ゲイリー! どうしてここに?」
そう、ぶつかったのは、僕にハムの調査を依頼し、これから報告書を渡そうとしていた相手、ゲイリー・レストンだった。
「こんなとこでって、それは昼食に出ていたからに決まってるじゃないですか。今お昼時なんですし。あなたこそ、そんなに急いでどうしたんですか?」
「実は、さっき報告書を奪われたんだ」
「私に渡す予定の報告書ですか!? 人相は覚えてます?」
「いや、顔はよく見えなかった。ただ、服装はよく覚えている。ホームズの子供時代みたいな恰好だった」
「ホームズの子供時代……? わかりました。付いてきて下さい」
そう言うとゲイリーは通りかかった馬車を止め、僕達はそれに乗り込んだ。
ゲイリーは、おそらくロンドン警視庁に向かい、捜査をお願いするのだろう。なにせ、衛生局は企業の食品偽装を暴き、摘発する。その行為には警察の協力が必須で、衛生局とヤードの結びつきは深い。
当然、ゲイリーも例外ではなく、ヤード内の高級警察官とは何人かと知り合いだ。だから、彼らに頼み込んで非常線を張ってもらうのだろう。
ところが、ゲイリーが御者に放った一言に、僕は驚愕した。
「一番近いイースト・エンドの入口へ向かってください」
……え? イースト・エンド? ヤードじゃなくて?
「おい、ゲイリー」
「心配ご無用です。その子の事は心当たりがあるので、先回りするんです」
そういうことなら、ゲイリーの言う通りにしてみよう。
イースト・エンドの入り口近くに着いた僕達は、物陰に隠れて犯人を待ち構えた。
しばらく待っていると、息を切らして走ってくる子供の足音が聞こえた。
「いいですか、打ち合わせ通りに」
「わかっている。タイミングを合わせてステッキを出すんだよな」
「そろそろですね、いきますよ。三……二……一……ゴー!」
ゲイリーの合図で、お互いにステッキを突きだした。
「うわっ!?」
作戦成功。少年は足をステッキに引っ掛け、見事に転んだ。
「今です、フレディ! 取り押さえて!」
「よし、任せろ!」
「くそっ!」
すると少年は、どこからともなくナイフを取り出し、斬りかかってきたのだ!
「のわっ!」
多少驚いたが、身体が勝手に動き、ステッキでナイフを受け止められた。
実は学生時代、日本人留学生がルームメイトになっていたことがあった。その時に色々と日本の文化を教え込まれたのだが、そのうちの一つに日本の剣術がある。
その剣術のおかげで、ちょっとしたチンピラに絡まれてもサクッとやっつけられるし、今回の様に不意を突かれても難なく受け止められるのだ。
「君みたいな坊やがそんな物騒なモン持ってるとは……。少しお仕置きが必要かな」
そして僕は、目にもとまらぬ速さでステッキによる三連撃をお見舞いした。
まず一撃目でナイフを叩き落とし、二撃目で相手のみぞおちを突いて怯ませ、三撃目で思いっきり叩き飛ばす。
吹っ飛んだところをすかさず追いかけて相手の右胸を押さえつけ、捕まえることに成功した。
「全く、手間取らせやがって」
「あ……あ……」
少年は何か言いたそうだったが、構わず僕は続けた。
「しかし、君も運が良かったね。僕のステッキは特注の仕込み杖なんだ。僕のステッキから刃物を取り出した瞬間、君の命はなかったかもしれない」
ここで、ゲイリーが割って入ってきた。
「あのー、お取り込み中すみませんが、そろそろ許してあげた方がいいのではないでしょうか?」
「何言ってんだ、ゲイリー。こいつは僕の報告書を盗った泥棒だぞ?」
「いえ、私が言いたいのは、取り押さえ方の問題です」
「取り押さえ方……?」
「単刀直入に言いまして、その子、女の子なんですよ」
「女の子……?」
「ええ。証拠をお見せしましょう。ほら」
ゲイリーはその子に近付くと、その子の帽子を取った。
中から出てきたのは、ブロンズのツインテールだった。
これで確信した。この少年は、実は女の子だったと。
しかし、取り押さえ方の問題って……? 確か、今僕は彼女の右胸を抑えつけて……って、右胸?
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「この、変態いいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
「ぐふっ」
耳をつんざくような叫び声と腹を蹴られたのとで、後ろに転がってしまった。
「あんた、人の弱みに付け込んで、手込めにする気だったんでしょ!? それが紳士のやることなの!? それともあんた、いわゆる『変態紳士』!?」
その少女は、先程と打って変わってマシンガンの様に罵声を浴びせ続ける。
僕も突然の出来事で、恥ずかしさと罪悪感とで頭が混乱していたが、例の日本人の友達から『禅』を教わっていたおかげで一分と経たないうちに落ち着きを取り戻した。そして、彼女に反論を試みた。
「まあ、知らないこととはいえ、あんなことをして申し訳なかった。でもなぁ、そもそもお前が悪いんだろうが! 人の大事な書類を盗んどいて!」
「それは悪かったわよ。でもね、あたしが問題にしたいのは、人の弱みに付け込もうとするあんたの行為よ!」
「だから、僕はお前の事を男だと思ったから、別に問題ないと思ってたんだ!」
二人の言い争いが泥沼化しかけたところで、ゲイリーが仲裁に入った。
「まあまあ、続きは衛生局の会議室でやりませんか? 大通りで馬車を呼んでおきましたし、目当ての物もこの通り、受け取ったので」
ゲイリーの手にあったのは、さっき僕がそこのガキに盗まれた書類だった。
しかし、いつの間にそんなことをやったんだ? こいつ、普段から日本の仏像みたいな微笑みを崩さず、何考えてるかわからないが、時々すごいと思うことがあるんだよなぁ……。
「なるほど、酸とアルカリを検出、それに抜けやすい骨と不審な加熱処理の痕跡ですか……」
あの後、僕達三人は馬車で衛生局に向かった。その後会議室に通され、件のハムの分析結果と今後の動きについて話し合っているところだ。
「で、どこまで行動に移せる?」
「おそらく、一斉摘発は難しいでしょう。別の用途で使う物が思いがけずに混入した、と言い訳されればおしまいですから。加熱処理に関しても、『これはわが社独自の製法だ』と言われればお手上げです。ですが、あなたの努力は無駄ではありません。この結果を裁判所に提出すれば、少なくともガサ入れの許可だけは下りると思います。そこで動かぬ証拠を発見できればよいのですが」
「わかった。後はそちらにお任せしよう。ところで……」
僕は隣に座っている人物をちらっと見て、続けた。
「そろそろ、こいつの説明をお願いしたいんだけど」
仕事がひと段落した今、僕が最も知りたいこと。それは、男の子のふりをして報告書を盗んだ、このおてんば娘の正体だ。
「わかりました。その子はシャロン・ウィシャート、十四歳。イースト・エンド在住で、警察や私の様な警察関係者の間ではそれなりに有名ですよ」
「有名と言うと、何度も捕まって警察に厄介になっているから?」
この発言に、隣の少女――シャロンが猛烈に反論してきた。
「何言ってんのよ、あんた! あたしがそんな人間に見えるワケ?」
「当然。見ず知らずの人間の大事なものを盗む、しかも建物の上から飛び降りて襲うなんて、窃盗の常習犯以上だろ!」
「なによ! 大体、あたしが泥棒だったら、そんな紙切れじゃなくてもっと金目のものを盗むわよ!」
「バカヤロー! 紙に書いた情報の方がなぁ、宝石よりも価値を持つことがあるんだよ!」
と、争いが不毛になってきたところで、ゲイリーが割って入ってきた。
「まあまあそれくらいにして。フレディ、その子が警察界で有名なのは、厄介になっているからではなく、むしろ役立っているためです」
「役立っている?」
「ええ。彼女、自称探偵をやっているんですが、相当腕が立つようでして。ヤードが取り逃がしてしまう犯罪者を、どこからともなくボッコボコにしてしょっぴいてくるんですよ」
そういえば、さっきシャロンに斬りつけられそうになった時、僕が時々相手にするストリートファイターからは感じられない気迫を一瞬感じた。明らかに戦い慣れてる。
「ところで、シャロンに家族は?」
この質問をした時、シャロンが少しビクッとしたような気がしたが、この時はあまり気にも留めなかった。
「確か、一人だったと思いますよ」
「マジで!? イースト・エンドに十四歳の女の子が一人暮らしって、危なくないか?」
イースト・エンドは、貧困者が集まっており、治安は最悪。女の子が一人で暮らしていくには危険すぎる。
「心配はいりませんよ。先程も言った通り、彼女は腕が立ちますし。それと風の噂ですが、彼女の自宅に侵入しようとした輩は一人残らずヒドイ目に遭わされるとか……」
ヒドイ目って……一体どんな目にあわされるのか、少し気になる。
「ふ~ん、なるほどね。じゃあ、シャロンの事がわかったところで、今日の事について質問しよう。まず、なんで男装した?」
「そんなの当然、あんたが追ってこれなくなるようによ。まず髪を帽子の中にしまって男の子っぽくして、あんたに『男の子が書類を盗んだ』と思い込ませる。で、イースト・エンドに着いたら変装を解いて女の子に戻る。そうすれば、あんたは延々と存在しない男の子を追いかけ続け、書類は取り戻せなくなる」
「結構頭を使っているようだな。だが、僕がお前の事を知っているゲイリーとばったり出くわし、先回りされて御用になってしまった、というわけか」
「まだ御用になってないじゃない! それに、まだあたしはあの事を許してないんだからね!」
「だから、それは男だと思ってたからだって、何度も言ってるだろう!?」
「だとしても、あのタイムラグはおかしい! 普通触ったらすぐわかるはずじゃない!」
「残念ながら、わからなかった。ハッキリ言って、胸だけに限って言えば男っぽい」
「こ・の・ヤ・ロー、言わせておけば……」
と、議論がドロドロしてきたところで、ゲイリーがまた仲裁に入った。……って、気づいたら、なんだかパターン化している気がする。
「はいはい、そこまでにして。まあ、胸の事は仕方がない部分があると思いますよ。なにせイースト・エンドみたいな劣悪な環境に住んでいたら、成長するものも成長できなくなりますからね」
「ああ、納得」
「何言ってんのよ! あんたも納得すんじゃないわよ!」
「いや、ゲイリーの説はなかなか合点がいく。それによく見れば、体全体が十四歳にしては幼く見える。十歳と言われれば信じてしまうレベルだ」
「あんたねぇ!」
「ハハハ、それよりフレディ、肝心なことをまだ聞いていないと思いますが」
あ、そうだ。一番重要なことがまだだった。
「シャロン、お前、なんで報告書を盗んだ?」
「う……」
この質問を投げかけた途端、それまで饒舌にしゃべっていたシャロンが口ごもった。
「だっておかしいだろ!? いつもは犯罪者を捕まえているお前が、法に抵触するようなことをするなんて」
「それは……」
会話が全く進展せず、とうとう沈黙状態になってしまった。
その沈黙を破ったのは、ゲイリーだった。
「もしかして、ミルトン精肉に何か関係があるのでは?」
「え?」
僕は聞き返した。
「だってそうとしか考えられないじゃないですか。この報告書には、ミルトン精肉社製のハムについて書かれているんですから」
「じゃあ、ミルトン精肉の社長をとっ捕まえるつもりだったのか?」
「いえ、証拠がそろっているわけではありませんから、そんなことをすれば不法拉致でシャロンの方が捕まってしまいます。そのことは、警察に長くかかわっている彼女なら、よくわかっていると思いますよ」
つまり、シャロンの業務からすれば、何の得にもならないわけか。
「じゃあ、なんでミルトン精肉にこだわっているんだ?」
「これは私の推測ですが、おそらく、シャロンの家族に関わることではないかと」
「家族?」
ふっと隣を見ると、シャロンはうつむいたまま小刻みに震えていた。
「ええ。さっき私は彼女の事を紹介しましたが、その過程で家族の事に少し触れましたよね?」
「ああ、確かに」
「その時、一瞬彼女がビクッとなったことに気が付きませんでしたか?」
そういえば、そんなこともあったような……。
「何か反応していたのは知っていたけど、そこまで気には留めていなかった」
「ダメですよ、そんなんでは。ホームズの言葉を借りれば『些細なことこそ重要』ですよ。まあ、そういう理由で、家族関係の事だと思った次第です」
「なるほど、そうだとすれば、合点がいく」
「ちょっとなんなのよ、さっきから!」
一瞬、寿命が縮まるかと思った。ゲイリーと討論していたところに、シャロンが突然大声で叫んだのだから。
「え!? え!? 何が?」
「何がじゃないでしょ! さっきから聞いていれば、人の事詮索しすぎじゃない?」
「それは、お前の事を心配して……」
「そういうのを余計なお世話って言うんじゃない!」
「でもなぁ、今回の場合、余計なお世話で片づけられる問題じゃ……」
「ああもう! だったらあたしの助手になりなさい! そうすれば、あたしの事情がおのずとわかってくるはずよ」
「はぁ? 助手!?」
相当むちゃくちゃな条件に抗議しようとしたが、意外なことにゲイリーがこれに食いついてきたのだ。
「いいんじゃないですか? 助手になれば」
「ゲイリー、お前なぁ」
「いやね、シャロンはこういう性格ですから、無茶しかねません。ですから、ストッパー役が必要なのです」
「で、その役を僕にやれと?」
「あなたなら適任でしょう。それなりに腕も立つようですしね」
「決まりね。じゃあ会議はお開きということで。さあ、行くわよ!」
「頑張ってください」
「お、おい」
なんだかなし崩し的に、シャロンの助手になってしまった。まあ大学の方は一週間休みだからいいが、出来ることなら早く解決してほしい。




