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雪色エトランゼ  作者:
第2部
82/115

Act:82

 ぽつりと水滴が頬に当たった。その冷たい感触にはっとする。

 ぽつぽつと降り注ぐ雨の下、俺は左腕を胸に掻き抱くように目前の2人の黒騎士を見つめていた。

 あっと言う間に、雨足はざあっと激しくなり始める。

 大きな雨粒が、容赦なく世界を、庭園を、俺の髪を、服を濡らしていく。頬にべっとりと髪が張り付いて、顎の先から水滴が滴り落ちて行った。

「グゾッ、ヂグジョウ、ナンデ、ガガ、グギ」

 ヴァンだった黒騎士に首を絞められたラブレが、苦痛の呻きを上げた。

 ギリギリとヴァンが力を込めて行く。鎧が砕ける音がバリバリと響く。

 ラブレは、ヴァンの腕に手を掛けながら足をばたばたさせ、もがいていた。

「得た力の本質を理解しない愚か者が」

 凍てつくように冷たいヴァンの声が低く轟く。

「黒の中で目覚めたその意識、無に帰せ」

「グオ、ギギギギ、グガッ!ゴ……」

 一際大きな声を上げたラブレが、脱力したように手足をだらりと伸ばし、動かなくなった。

「ああっ……」

 俺の口から声が漏れる。

 まるで雨粒に溶かされてしまうかのように、ラブレの足から先が、黒い粘性を帯びた液体になってドロリと崩れ始めた。その液体が落ちた地面が、黒く変色する。

 ヴァンは、動かなくなったラブレを無造作に投げ捨てた。

 ヴァンがこちらを振り向く。

 無感情に輝く赤い目が俺を捉えていた。

 その黒い兜の庇から、雨が滴る。

「カナデ。怪我はないか」

 言葉とは裏腹に何の感情も込められていない低い声に、俺は恐怖以外は感じられなかった。

「アネフェア、久しいな。我は戻って来たぞ」

 ヴァンががしゃりと鎧を鳴らして、俺に腕を伸ばして来た。

 おかしい。変だ。

 どうなっているんだ?

 俺にカナデと声を掛けた次には、アネフェアと呼び掛ける。

 アネフェア。

 ヴァンが晩餐会の会場で言っていた、かつて仕えていたという女性。

 黒騎士化したヴァンは、そのアネフェアと俺を混同してしまっているのか?

 俺を見ている様で、違う人を見ている。

 意識が混濁しているのか?

 ……おかしくなって、いるのか?

「さぁ、アネフェア」

 ヴァンが伸ばした手が、俺の濡れた髪にそっと触れた。

 俺は思わず顔を背ける。

 逃げなきゃ!

 でも足に力が入らない。

 ペタンと両脇に足を開いて座り込んだまま、俺は全身をガクガクと震わせていた。

 髪から頬に、ヴァンが触れる。

 雨なんかよりもずっと冷たいその感触に、背筋がぞっと冷たくなる。

 うう……!

「ヴァンさん、あなたは……」

「カ、カナデ!」

 お父さまが頭を振りながら立ち上がろうとしていた。

 ヴァンがギロリとお父さまを見る。

「駄目です、お父さま!ヴァンさん、止めて!」

 嫌な予感に、俺はとっさに叫んでいた。

 お父さまの方に、赤い剣が向く。しかしヴァンは、そこでピタリと動き止めた。そして、雨粒の降りしきる暗黒の夜空を見上げる。

 無限にも思える沈黙の中、ざぁっという雨の音だけが俺たちを包み込んだ。

「……ようやく、目覚めたか」

 何も見えない夜空を見上げ、ヴァンがぼそりと呟いた。

「北の島……。因果だな」

 北の……島。

 胸がざわつく。

 優人。

 優人の向かった場所だ!

 ヴァンがぬっと俺を見た。

「アネフェア。我は行かねばならぬ。我々が出会ったあの島にな」

 黒騎士ヴァンが再び俺に手を伸ばす。

 俺はびくりと震え、身を離そうともがいた。

 ヴァンはしかし手を触れず、赤い目でしばらく俺を見据えた後、踵を返した。

 がしゃりと鎧が鳴る。

「カナデ!」

 お父さまの声。

「カナデさま!」

 遠巻きに黒騎士を包囲し、状況を窺っていた騎士たちの声。

 ヴァンは振り返らず、ゆっくりと闇の中に消えていく。

 打ち付ける雨の中、俺はその背を見送るしかなかった。



 しばらく雨に打たれっぱなしだったので、もう全身がぐしょぐしょだった。

 ラブレとの戦闘でボロボロになった上に雨を含んで重くなったワンピースを脱ぎ捨てて、脱衣籠に投げ込む。

 うわ、下着までべっちょりだ。

 俺は髪を纏めることもせずに、タオルだけを持って、てててっと浴室に駆け込んだ。

 リリアンナさんが準備してくれた湯船が、柑橘系の入浴剤の良い匂いを漂わせながら湯気を上げていた。

 俺は、恐る恐る湯船に爪先から足を入れる。

「ひやっ!」

 ううぁ、し、沁みる!

「カナデさま、どうかされましたか!」

 脱衣場からリリアンナさんの声が聞こえた。

「だ、大丈夫ですよ」

 俺はリリアンナさんに声をかけてから、再び湯船に足を入れた。

 擦り傷だらけの足がピリピリする。

 あわわわ。

 お湯につかりながら、その刺激にぐっと耐えた。

「わふぅぅ」

 肩まで浸かると、しかし体に凝った緊張の固まりが抜け出して行く感触に、思わず声が漏れた。雨に濡れて冷えた体に、温かいお湯が気持ち良かった。

 入浴剤のオレンジに染まったお湯の上に、俺の銀の髪が広がって漂う。髪、だいぶ伸びたなと思う。

 お父さまは、無事だった。

 体は傷だらけで、骨にヒビが入っている可能性があるらしかったが、安静にしていれば問題はないそうだ。今はマコミッツ先生とアレクスたちが付いてくれている。

 騎士団のみんなにも、幸い死者はなかった。ただし最初に救援に来てくれたカリストたち銀気持ちの騎士たちは全員負傷していた。今も3名が意識不明の重体だった。

 何かを察知したヴァンが去ってくれた後、何とかよろよろと立ち上がる事が出来た俺は、取り敢えず考える事を止めた。まずは、お父さまと負傷者たちの救護をしなければいけないからだ。

 お父さまを、恐る恐る出て来たメイド軍団さんたちに預けて、俺は怪我を負った騎士たちに駆け寄る。

「マコミッツ先生を早く!みんなが休める部屋を用意して下さい。ライラ、水と清潔なタオルを用意して」

 俺はメイドさんたちに声をかけながら、騎士の傍らに跪いた。

「お嬢さま、大丈夫か」

 そこにシュバルツが近寄って来た。額の傷から血を流している。その垂れる血に、片目を瞑っていた。他に外傷は無さそうだ。

 シュバルツは、濡れ鼠の俺にはっと息を呑む。そして恥ずかしそうに顔を背けた。

 俺は指を折ってちょいちょいとシュバルツを招く。同時に、近くを通り掛かったメイドさんからタオルを受け取った。

「しゃがんで下さい」

 おずおずとしゃがむシュバルツの頭を、ぐいっと引き寄せる。

「ぐお、お嬢、近い、透けて、見える!良い匂いする!」

 胸元でシュバルツが何か叫んでいるが、気にしない。

 俺はタオルでそっとシュバルツの額の血を拭った。

 嫌だ。

 本当に、嫌だった。

 お父さまも。

 シュバルツも。

 カリストも。

 騎士たちも。

 みんなが傷付くのが嫌だった。

 医者じゃない俺には、こうして血を拭ってやるぐらいしか出来ない。

 疲労のせいか、ぼうっとしてしまったシュバルツを離し、次の騎士に向かおうとする。

 そこで、後ろからバスタオルを広げたリリアンナさんに捕まられた。

「カナデさま。こちらに」

「リリアンナさん、あの、私……。まだ負傷者がっ」

 バスタオルにくるまれながら、私の声は少し震えていた。

「そのお姿では、風邪をひかれます。こちらに」

 そのまま抱きかかえられるように、俺はリリアンナさんに連れて行かれる。そして浴室に放り込まれたのだ。

 俺は鼻までお湯に浸かり、ぶくぶくと息を吐く。

 黒騎士。

 あの黒騎士がヴァンだった。

 そして、ラブレも黒騎士だった。黒騎士になった?

 ヴァンの事はわからないが、ラブレは確かに死んだ筈。それが黒騎士になって復活を果たした。

 女王型に呑まれたというラブレ。

 闇に、障気に飲み込まれた人間のなれの果てが、黒騎士なのだろうか……?

 その辺りは、ラウル君と話してみないといけないかもしれない。

 そしてヴァンが口走った北の島。

 恐らくは優人たちが向かったオルヴァロン島。

 そこで何かが起こったのだ。

 でも……。

 きっと優人なら大丈夫。

 きっと大丈夫だから……。

 俺はお湯の中で膝を抱く。

 そして、エリーセお姉さまの事……。

 ユナやメイドさんたちから聞いていたエリーセお姉さまの病状。そして、ラブレの台詞。

 恐らくエリーセお姉さまは、侯爵領弱体化の一歩として、ラブレに使役された黒騎士によって呪いをかけられたのだ。

 そして、病に倒れ、そして……。

 俺たちがこの世界に流れ付いてからの一連の魔獣騒ぎの最初の犠牲者が、エリーセお姉さまだったのだろう。

 もし唯の力で黒騎士の呪法を破っていなければ、お父さまも同じ運命を辿っていたのかもしれない。

 もしお父さまを失っていたら……。

 そう思うだけで、目の前が真っ暗になりそうだった。

 エリーセお姉さまを失って、お父さまはそんな悲しみと絶望を、何度も何度も味わったに違いない。

 オルヴァロン島で何かが起こっているならば、またそんな悲しみに晒される人が増えるかもしれない。

 俺は握り締めた手にさらに力を込める。

 王都に、戻らないといけないかもしれない。



 雨の次の朝。

 緑が濃くなり始めた街路樹には、雨粒がきらきらと輝いていた。

 雨は昨晩のうちに止み、今日は朝から気持ちのいい光があまねく世界を照らし出している。心なしか、草木が生き生きしているような感じがした。

 季節は間もなく雨期か。

 これからは、昨夜のように唐突な雨が増えてくる季節だ。

 夕立のような激しい雨は嫌いだが、しとしとと大地を潤してくれる小雨は気持ちいい。それに、雨期の降水量によって農作物はその出来が変わって来る。

 昨年から今年の初めは、度重なる戦闘の繰り返しで莫大な戦費を費やしている。農作物の出来映えは、そんな苦しい侯爵領の財政にも直結して来るから、軽視出来るものではない。

 俺はそんな事を考え、眉を寄せながら、何となく馬車の窓から外を見ていた。

「どうした、カナデ」

 対面席のお父さまが声をかけてくれる。片腕を布で吊り、黒のジャケットを羽織った痛々しい姿だった。

「難しい顔だな。そんな顔をしていては、シリスティエール殿下に嫌われるぞ」

 シリスは関係ないし。

「いいですよ、別に」

 腕を、揃えた膝の上でピンと伸ばす。

「嫁に行けんぞ?」

 お父さまが悪戯っぽく笑う。

 よ、嫁とか、そんなあからさまに言って良いことではない!

「いいです!そしたら、お父さまの所にずっといますから!」

 俺はふんっと頭を振った。ポニーテールにした髪が、ふわっと揺れる。

 俺は今、黒色のフレアスカートに、黒のブラウス姿だった。スカートが少し短い感があったが、今日はリリアンナさんたちに文句が言えない。

 昨日の戦闘で痛めた肩の打ち身のせいで、左腕が上げられなかった。マコミッツ先生曰わく大した怪我ではないらしいが、おかげで1人で服も着られない。そのため、子供のように、リリアンナさんたちメイドさんに着替えを手伝ってもらっていたのだ、情けない事に。

 人に着替えさせてもらっておいて、服に文句なんか言えなかった。

 結果、パーティーに行くわけでもないのに、こんなフリフリスカートや、レース飾りのついたブラウスを着せられる羽目になってしまったが……。

 ちょっとスカートの裾を整える。

 短いスカートは得意じゃないんだ……。

 そして、顔を上げる。

「お父さま、もうすぐ到着って、うわっ!」

 何故かお父さまが泣き笑い顔になっている。緩んだ表情が、普段精悍なお父さまとは別人だった。

 何でだ、どうしたんだ?

 俺、何か言ったのか?

 俺たちを乗せた馬車は、騎士隊に護衛されながらインベルストの街の外れに向かっていた。街を取り囲む城壁のすぐ下。深い緑に抱かれたインベルストの墓地に。

 墓守たちによって整然と整備された墓地の中を、馬車は進む。そして、墓地の最奥部。四角い石の塔が立つ広場で馬車が止まった。

 下馬した騎士たちが、さっと周囲に散って警戒態勢を敷く。

 その中を、馬車を降りた俺は、俺はお父さまを支えながら進んだ。

 控えていた墓守が、広場奥の鉄扉を開けてくれた。

 俺は大丈夫な右手をお父さまに回して、その中に入る。

 そこは、左右を木々に囲まれた森の中の小径だった。石畳の小径が、緩やかにカーブしながら奥に続いていた。先は薄暗くなって見えない。

 微風に枝々が揺れると、小径を行く俺たちのところまで昨夜の水滴が落ちてきた。

 やがて、石造りの塔と祠が見えてくる。その左右には、ずらりと無数の石碑が立ち並んでいた。

「ここは、歴代リムウェア侯爵家の者たちが眠る場所だ」

 リムウェア侯爵家のお墓……。

 お父さまは、俺の手を優しく解くと、その左前、一番新しい石碑の前に膝をついた。湿った地面にズボンが濡れるのも厭わずに。そして、その石碑の上に乗った落ち葉を優しく払いのける。

 お父さまは何も言わない。

 ただ、そのエリーセお姉さまの墓碑の前で、静かに頭を垂れていた。

 静かだった。

 ただ、木々が風に揺れる音だけが、私たちを包み込む。

 私は、石碑とお父さまの背中をただ見守り続ける。

 お父さまは何を話しかけているのだろうか。

 エリーセお姉さまの死の真相だろうか。

 でも、その背中が寂しげで、儚げで、俺は手を握り締めながら、込み上げて来るものを必死で堪えていた。

 風が吹く。

 一際大きくしなった木々が、さらにざわざわと音を上げる。

 俺は風に揺れる髪をそっと押さえた。

 その時。


 私たちのお父さまをお願い、ね。


 声が聞こえた気がした。

 とっさに振り向く。

 薄暗い霊廟の小径の向こうには、光が射し込む広場が見えるだけだった。

 私は、そっと目を瞑る。

 わかりました。

 心の中で、そっと答えを返す。

 私のお姉さまへ。


 2日後。

 王都から俺の帰還を命ずる早馬が到着した。

 インベルトスに別れを告げ、また旅立つことに。

 またきっと、帰って来れるはず。


 ご一読、ありがとうございました。

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