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雪色エトランゼ  作者:
第1部
6/115

Act:6

 夕食を終えた俺は、リリアンナさんに案内されてレグルス侯の執務室に通された。

 食事の間中、優人が何か言いたげにチラチラと俺を見ていたが、構ってる余裕はない。

 俺はこれから真剣勝負に挑まなければいけないのだから。

 執務室の扉が開かれる。

 左右の壁面は全て本棚。分厚い背表紙の本がぎっしりと並ぶ。

 正面は全面窓。開け放たれ、涼やかな夜風が流れ込んでいた。

 窓の外には夜闇に沈む庭園。その向こうには篝火に照らされた城塞が浮かび上がる。

 その夜景を背景に、大きな執務机で書類を眺めていたレグルス侯が顔を上げた。

 高級そうなパリッとしたシャツにタイ。まるで大企業の社長の様だ。

 左手には執事のアレクス、無精髭の騎士、そしてそこにリリアンナさんが並ぶ。

 俺は緊張の足取りでレグルス侯の前に進み出た。

「答えを聞こう」

 頬杖を突いたレグルス侯の鋭い眼光が俺を捉える。

 聞く者を有無を言わせず従わせる迫力のある声だった。

 俺は大きく息を吸い込む。


「このお話、お断りさせて頂きます」


 誰かが息を飲むのが聞こえた。

 獲物を見つけた肉食獣のように、レグルス侯の目がすっと細まった

「…ふむ、そうか。残念だ。理由を聞こうか?」

 抑揚のないレグルス侯の声に、冷や汗が流れる。

「…リムウェア侯爵さまのお話は、この世界に来たばかりの俺達にとっては本当にありがたいものです。俺がエリーセさんになれば、俺自身も優人も、そして侯爵さまも助かる。良いこと尽くめに思えました。でも…」

 俺はゆっくり瞬きをして息を整える。

「俺にエリーセさんの姿を見た時の反応。エリーセさんへの思い、そして侯爵さまの、娘を思う眼差し。それが大事な事を思い出させてくれました。

 俺がエリーセさんの名を名乗ると言うことは、今まで生きてきた、色んな人に愛された本物のエリーセさんの名を消してしまうと言うことに。

 俺はエリーセさんにお会いした事はありませんが、彼女の生きた人生は、そんなに簡単に否定されるべきではないはずです。彼女が生きた証、エリーセという名は、誰のものでもない。エリーセさん自身のものだ。エリーセさんを示すものとして、守り続けていかなければならない。侯爵さま。あなたの思い出と一緒に」

 俺は一息に語り、大きく息を吐いた。

 沈黙。

 言いたい事がきちんと伝えられたか、段々と不安になる。

 思いを口にするのは難しい…。

「お前は…」

 レグルス侯は片目を閉じ、眉間に皺を寄せた。

「自分自身の利益やわしらの都合よりも、エリーセの名を、名誉を守りたいというのか?」

「はい…!」

 俺は自信を持って頷いた。

 感情に流されず状況に流されず。

 祖父の教えを思い出して考えて考えた、これが俺の信じる道だ。

 俺が今、守りたいと、守らなければならないと思ったものだ。

「侯爵さま。色々とお世話になりました。このご恩は必ずお返ししたいと…」

 レグルス侯の提案を蹴った今、ここにはいられない。

 俺はそこまで言って、俯いたレグルス侯の肩が小刻みに揺れているのに気がついた。

 だんだんとそれは大きくなっていく。

「くっくっくっ…」

 笑っている。低音を響かせて老侯爵が。

「くっくっくっ、はっはっはっはっはははっ!」

 そしてとうとう堪えきれなくなったというように、レグルス侯は天井を仰ぎ見て声を上げて笑い出した。

 俺は呆気に取られ、呆然とレグルス候を見守るしかない。

「名を重んずるか!面白い!見上げた心構えだ!お前が男であったなら、さぞ高潔な騎士になれたであろう!惜しい、実に惜しいわ、なぁガレス?」

 いや、まぁ、男なんだが。中身は…。

 問い掛けられた無精髭の騎士ガレスは、一歩進み出ると、不適な笑みを浮かべた。

「御意でございます。近頃の若いものはその辺を理解しているものがおりません。実利よりも己が主君への忠と名誉を重んじる事こそ騎士道の本懐!その娘、私に下されば、立派な女騎士に致しますがいかがでしょうか?」

 なっ!このおっさん、人を物みたいに…!

 俺が抗議の声を上げるより早く、笑いを治めたレグルス侯がすっと手を挙げた。

「ならぬ。この娘はわしのものだ」

 レグルスは椅子に深く腰掛け、俺を見る。

「カナデ。お前を我が娘とする。これはレグルス・リムウェアの名における決定だ」

 レグルス侯の目にも声音にも厳しいものはない。小さな子供に言い聞かせるような口調だった。

「侯爵さま、しかし俺はエリーセさんにはっ…!」

「良い、皆まで言うな。お前の考えは理解した。わしはその心根が気に入ったのだ」

 レグルス侯は笑う。楽しそうに。


「エリーセとしてではなく、カナデとして、わしはお前を我が娘に迎えよう」


 俺がその言葉の意味を飲み込むのに、少し時間が掛かった。

 俺が俺のままレグルス侯の養子になる。

 急に言われても実感できるものではない。

 でも、一つ確かめる事があった。

「…優人の支援のお話、お願い出来るのでしょうか?」

 侯爵の提案を蹴っておいて、自分でも厚かましいと思うが、これは重要な事だ。これからこの世界で生きていく上で。この見知らぬ世界で唯一の親友のために。

「我が娘のためだ、果たそう」

「もう一つお願いがございます」

 レグルス侯は目で続きを促す。

「この世界には、あと三人、友人が流されている可能性があります。侯爵さまのお力で探索していただけないでしょうか?」

「わかった。それだけで良いのか?」


 俺は…ゆっくりと頷いた。


「ならば決まりだ」

 複雑な気持ちではあった。

 俺はこれからまだ良く知らないこの人の子になる。

 大丈夫だ。

 エリーセさんの名を守り、優人や唯達の支援も確保出来た。

 大丈夫。

 俺は自分に言い聞かせる。

 きっと後悔はしない。

「アレクス、至急エリーセの出生記録を改ざんしろ。実は双子であったとな。小さい頃に遠方に養子に出していた事にでもしておけ」

「御意に」

 ん、どこかで聞いたような設定が…。騎士フェルドの妄言が現実化している…!

「それと宴の準備だ。中央ホールに家中の者を全て集めよ。皆にカナデを紹介したい」

「これから、でごさいますか?簡単なものしかご用意出来ないかと…」

「よい。正式な式典は後日だ。酒の準備をしておけ」

「御意!」

 アレクスが綺麗な角度で一礼し、足早に執務室を出て行った。

「ガレス白隣騎士団長に命ずる。騎士団に召集をかけよ。馬を出し、執政官共を連れてこい。各ギルドの長、市民長たちもだ。わしの名を使え。それと、警備の兵にも酒を回してやれ。適量にな。その他の者は全てホールに集合せよ」

「承知致しました」

 騎士団長ガレスは頷くと、鎧の金属音を響かせながら悠々と歩み去った。

「リリアンナ」

「はい」

「カナデの準備をしてやれ。お披露目だ。恥ずかしくないように、な」

「承りました」

 リリアンナさんが丁寧に一礼すると、突然の事態に呆然とする俺を見た。

 彼女の鋭い視線に、俺は嫌な予感が頭を過る。嫌な予感、全開だ。

「カナデさま。ご準備致しますので部屋でお待ち下さい」

 リリアンナさんの唇が微かに弧を描く。彼女が笑ったところを始めて見たかもしれない。

 俺にも一礼したリリアンナさんは、メイド服のスカートの裾を翻して執務室を出て行った。



 三人がいなくなった執務室には俺とレグルス侯だけが残された。

 開け放たれた窓から、夏の虫達の声が微かに聞こえる。椅子を軋ませたレグルス侯は、背もたれに深く体を預け息を吐いた。

「わしは、それほど信心深くはない」

 俺の顔を見上げながらレグルスは続ける。

「しかし今は神々に感謝しよう。この良い出会いに」

 レグルス侯の目は、策を講じる際の厳しい眼差しでもエリーセさんを思う憂いたものでもなく、ただ俺の顔を映していた。

「…これからよろしくお願い致します、リムウェア侯爵さま」

 驚くほど自然に俺はそれを言葉にしていた。

 ああ、ここがこれから俺が帰って来る場所になるんだなと、何となく思えたから。

 レグルス侯は俺の言葉に苦笑いを浮かべる。

「これからはお前もリムウェアの人間だ。父を家名で呼ぶのは不自然だぞ?」

 レグルス侯は何かを思いついたようにニヤニヤ笑う。とてもあの厳しい表情を浮かべていた老貴族とは思えない人間臭い表情だった。

「…エリーセさんはなんと呼んでいたんですか?」

「お父さま、だ」

 却下だ。恥ずかしい。

「では、レグルスさまで」

「却下だ」

「おじさま?」

「む、少し惹かれるが却下だな」

「父さん」

「ふむ…」

 俺はだんだん恥ずかしくなってきて、レグルス候から視線を外した。

「じゃあ、父上で…」

 唇をすぼめて、少し投げやりに言う。

 反応がなかったので、恐る恐る顔を上げると、嬉しそうで照れくさそうな笑みを浮かべたレグルス候が俺を見つめていた。

「悪くない、な。うむ。悪くない」

 満足そうにそう繰り返すレグルス候、もとい父上。

 俺は無性に照れくさくなって、逃げるように父上の執務室を後にした。

 今回は短め。そしてシリアス調もひと段落です。

 色々大事な回ですが、上手く纏められているかどうか…。

 ご一読くださってありがとうございました。

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