Act:41
少しひんやりとしたシーツの感触が心地良い。よく天日干しされたふわふわの布団に包まれながら、俺は眠りの淵からゆっくりと浮かび上がる。
「朝でございますよ」
遠くで良く聞き知った女性の声が聞こえた。
母さん…?
俺は頭から布団にくるまったまま、のっそりとベッドの上に座り込む。しおしおした目はまだ開けず、座ったままゆらゆら舟を漕いでしまう。
もうちょっと。
もうちょっと寝てたい…。
どうせ今日は学校休みだし。じいちゃんも許してくれるだろうし。
布団に包まれたままの俺は、そのままコテッと倒れ込んだ。
ぼふっと枕に埋まる幸せな一時。
「もう、カナデさま…。…仕方ありませんね。今朝のところは大目に見て差し上げます」
遠くで声が聞こえた。
ありがとう、リリアンナさん。
俺は胸の内でそう唱えながら、心地良い微睡みの底に沈む。
そして。
次にパチッと目を開いた時には、窓から秋の柔らかな日差しが眩しく差し込んでいた。既に朝の光といった感じではなかった。
俺は身を起こし、ゆっくりベッドから足を下ろす。ぼんやりとした頭で自分の白い素足を見つめる。
寝すぎたかな…。
昨日、俺は何とか無事に大審院を乗り切る事が出来た。その安堵と開放感と、そして最近寝不足気味だったのも相まって、こんな大寝坊をしてしまったのだ。
大審院が終わった今、今日からの予定は特にない。後はお世話になった方々に挨拶し、出来れば査察団の人員なんかも確認した後、インベルストに帰るだけだった。
じゃあ今日くらいはもう少し寝てても…。
…いや、ダメだ。
俺はふるふると頭を振った。
自堕落はよくない。よくない…。
その時、俺の眠気を飛ばすように控え目なノックが響いた。寝室のドアが開いて、リリアンナさんと2人のメイドさん達が入って来る。
「あ、おはようございます。リリアンナさん。すみません、寝過ごしちゃって」
「…本日は夜までご予定がありません。お疲れでしょうから、ごゆっくりしていただいて構いませんよ」
リリアンナさんが微かに微笑む。
おお、何だか優しいぞ。
「あれ、夜って何の予定でしたっけ?」
俺は眠気眼を擦りながら、首を傾げた。
「シリスさまのご自宅での晩餐会でございます」
あー、そうか。
すっかり忘れてた。
まぁ、いいや。
「ところでカナデさま、これからよろしければ、あたし達と一緒に王都見物に行きませんか?」
黒髪おかっぱのメイド軍団1号さんが俺の銀の髪を梳かし始めながら、鏡越しにこちらを見る。
「そうですわ。お仕事も一段落したとお聞きしましたし、是非参りましょう」
金髪をお下げにしたメイド軍団2号さんが、俺の服を準備しながら、便乗して来た。
王都見物か…。
そういえば、ゆっくりと街を見ている余裕なんてなかったよな。
天気も良さそうだし…。
「リリアンナさん?」
ベッドを整えてくれているリリアンナさんを窺うと、ふっと大きく息を吐くき、微かに頷いてくれた。
「では、シュバルツさまを護衛にお連れください。それと1つだけお約束を」
リリアンナさんが胸元で指を立てて1つを強調する。
「カナデさま。お立場をお忘れなきよう。そして無謀な事はされませんよう。それに…」
ははは…。
1つじゃないし。
俺は苦笑気味に頷く。
「そうと決まれば、早速ご準備ですね。カナデさまとお出かけなんて光栄です」
メイドさんたちが手合わせて微笑む。俺もつられて微笑んでしまった。
知らない街か。
そう思うと、何だか俺も少しだけ楽しみになってきた。
シックなコートの私服姿になったメイドさんと、これまたダークスーツ姿のシュバルツと一緒に馬車に揺られて王都中心の繁華街を目指す。
俺は黒のロングスカートに、ストールを巻いただけのラフな格好に髪も結わえず背中に流していた。屋敷の中の普段着みたいで気楽な格好だった。
秋晴れの空の下、馬車の車窓から吹き込む爽やかな空気が気持ち良かった。少しだけ冷たい風が、そっと髪を揺らしていく。
メイドさん達に誘われなくても、こんないい天気ならば、きっとどこかに出かけてみようと思っただろう。
秋日和にキラキラ輝く王都の街並みが車窓に走る。
しかし今はそんな心躍る光景よりも、俺は隣に腰掛けたシュバルツをちらちら見ながら笑いをこらえるのに必死だった。
対面の席のメイドさん達も、俺と同じように笑いをかみ殺している。
「何だよ。似合わないのは分かってんだよ」
シュバルツがふんっと不満を漏らす。
とにかくシュバルツの私服が全く似合っていない。
全く普通なデザインのスーツなのに、張り裂けんばかりにピチピチなのだ。服の上からでも筋肉の隆起がわかる。きっと力を込めれば、服が弾け飛ぶに違いない。
もしかして何か詰めてるんじゃないかと思ってそのパンパンの腕をぺたぺた触ってみる。
驚くべきことに、確かに本物だった。
「何だよ、お嬢さま。止めろよ、こそばゆいぜ」
恥ずかしそうにするシュバルツがまた面白過ぎて、俺は口元を押さえて笑う。
そうやってシュバルツを弄っていると、馬車はあっと言う間に人通りの多い賑やかな通りにさしかかっていた。
馬車や路面電車のような巡回軌道が行き交う中を、着飾った紳士淑女達が賑やかに行き来していた。
立ち並ぶ店は露天ではなく、見上げるような石造りのビルだった。
インベルストの大通りが地元の商店街とするならば、テレビで見たことのある都会の百貨店のような大型で高級そうな店がずらりと並ぶ。その中の1つ、取り分け大きな建物の前で馬車は止まった。
王城の給仕のような格好をした店員が丁寧にお辞儀して、ドアを開いてくれた。
店内はまさに百貨店だ。綺羅と輝く様々な商品で溢れていた。
その上、どれもこれもが高級品ばかりに見える。
「凄い…」
俺はその光景に圧倒され、ぽかんとしてしまう。
「さぁ、カナデさま。参りましょう」
「見て回るところは沢山ありますわよ」
メイド1号さんが俺の手を取って歩き出す。2人とも水を得た魚のように生き生きとしていた。
「噂に聞く王都のグランペリエ大商廊、是非来てみたかったんですわ」
「カナデさまにも見ていただきたくて。あ、カナデさま。あのドレス可愛いですよ」
俺の手を引いてずいずい店内を進んでいくメイドさん達。俺はただ場の雰囲気に圧倒されて、その後をついて行くしかない。
田舎者丸出してキョロキョロ辺りを見回す俺。そっと振り返ると、シュバルツが所在なさげにとぼとぼとその後を付いてきていた。
やはりピチピチのせいで周りの客や店員から奇異の視線を向けられている。
哀れだ。
哀れ過ぎて笑える。
「あ、カナデさま。このお洋服、カナデさまにお似合いですわよ」
「あー可愛いですね〜」
メイドさんが何処からか調達してきた服を次々に俺に当てていく。
「いや、私は特に…」
止めてくれ。そんな短いスカートがはけるわけがないだろう…。
ああ、それも駄目…。そんなフリフリは無理。
着せ替え人形で遊ぶ女の子よろしく顔を輝かせて服を持って来るメイドさんたちから、俺は少しずつ後ずさった。
街の見物というから、いろんな所を見て回るのかと思っていたら、これではただの買い物だ。
出来れば俺は青空の下、細い路地や家々の間の小径なんかをゆっくりと散策してみたかった。
「うわ、この靴、凄い良いですよ、カナデさま」
「こちらの髪飾りもカナデさまの銀髪にお似合いだと思いますわ」
でも、あんなに楽しそうなメイドさんたちを見ていると、そんな我が儘も言えなくなってしまう。
彼女たちが楽しいのなら、まぁ、たまにはこんなのも良いのかもしれない。
「二人とも、少し落ち着きましょうよ」
俺は苦笑しながら二人を諫めた。
「ねぇ、あそこ、下着売り場かしら」
「そうね。カナデさま、行きますよ」
マズい…。
笑顔が凍りつく。
身の危険を感じる。
2号さんが俺の手を取る。
やめろ、そっちは無理…。
俺は悲壮な顔で首を振った。その抵抗のサインはしかしメイドさんには届かない。
シュバルツに助けを求めようと当たりを見回す。
すると、婦人服売り場の前で仁王立ちしていたシュバルツが、警備員らしき人達に声を掛けられていた。
マズい。あちらもピンチだ。
「ささ、参りましょう、カナデさま」
「あ、いや、ほら、シュバルツが大変ですよ。ピチピチで大変です。私、ちょっと行って助けて来ますね」
俺は早口でまくし立てた。
「2人は買い物してて下さい。ほら、この店の隣の公園、後であそこで落ち合いましょう」
俺は素早く2人に笑いかけ、そのままさっと踵を返した。そして、警備員に囲まれつつあるシュバルツを助けに入る。
「私の連れなんです。ピチピチですみません」
「おい、お嬢さま。俺は悪くないぞ。何もしてないからな」
少し黙れ。
俺はシュバルツの手を引いて、裏口側から逃げるように百貨店を出た。
裏通りは、表側ほど大きくはないがこぢんまりとした品の良い店が並ぶ静かな一角だった。石畳と輝くショーウインド。風に揺れる街路樹が、まるで一枚の絵のように美しい景観を作り出していた。
行き交う人々の足取りも緩やかで、笑顔が満ちる穏やかな昼下がりの空気が漂っていた。
俺はそこでやっと一息ついた。
胸に手を当てて大きく深呼吸する。
「お嬢さま、これからどうすんだ?」
不審者に思われたのがそれほど心外だったのか、シュバルツがどこかぶっきらぼうに言い放った。
「そうですね。せっかくなんで、すこしこの辺りを見て回りますか」
俺はふっと笑ってそう告げる。
石畳にブーツを響かせて、近くの店から何となしに覗いてみる。
洋服屋。靴屋。鞄屋。雑貨小物に、古本屋もある。
木と石造りの店はどれも小さく綺麗で、まるでおもちゃの様に可愛らしい。
その中の1つ。
小さな銀細工や小物が並ぶ店先で、俺は足を止めた。
精緻な彫刻がすっきりと施されたシンプルなデザインが俺の興味をくすぐった。
俺は思い切ってその店に入って見た。
「いらっしゃい」
狭く薄暗い店の奥で、手元をライトで照らしながら作業を続けるエプロン姿の老人は顔もあげない。
それ以上何も言われないので、俺はゆっくり陳列された商品を見て回る。
やっぱり俺の趣味に合う素敵な小物が並んでいた。もしかしたらいいものに出会えるかもしれないと、だんだんと気分が高揚して来た。
そうだ、ここで王都に来たお土産を見繕おう。
お父さまと、お世話になっているリリアンナさんと、あとシリスにもなんかやろうかな。いつも世話になっているし。
俺は後ろ手に腕を組んで、陳列棚の間をゆっくり回って行く。古い木の床が微かに軋む。
リリアンナさんにはこれはどうだろう。
銀細工にワンポイントで赤い石が輝く髪留め。その石が猫の目のデザインになっている。一向に認めてもらえないが、きっと猫好きのリリアンナさんには喜んでもらえるはず。
お父さまは…。
俺は獅子の彫刻が施された万年筆を手に取った。
政務では長時間ペンを手放せないというのは、俺もお父さまの代役で身を持って思い知った事だ。
そのお供ができるよう、この万年筆にしようかな。
後、シリスは…。
俺は店の入り口近くに並ぶ色んな色の石が付いているネックレス群を見つけた。どうやら石の色事に効能が決まった御守り石のようだ。
これでいいや。安いし。
効果は…。
緑。
武運長久にしておくか。あいつ、一応騎士だし。
俺はその三つを持って奥の老人の元で会計を済ませる。それぞれをラッピングしてくれるように頼んだら、老人は面倒そうに溜め息を付いた。
しかし商品を手渡そうと初めて顔を上げて俺を見た瞬間、不機嫌そうだった老人が驚愕に歪む。
「あんた、その髪…」
「はい?」
俺は首を傾げた。
「ちょっと待ってくれ」
そう言うと、老人は一旦奥に入り直ぐに小さな小箱を持って戻ってきた。老人はその箱から銀に緑の石が輝く十字型のイヤリングを取り出した。細かい彫刻が施されたイヤリングは、薄暗い店内でも眩く輝いていた。
「これは俺が磨いた中でも最高のもんだ。おまけだ。あんたにやるよ」
「でも、高価なものでは?」
老人は頭を振って、片側だけのイヤリングを俺に付けてくれた。
パーティーでもないのにアクセサリーを付けるのが少し気恥ずかしい。
「貰ってくれ。あんたの髪とわしの銀。一緒にしてやりたい」
老人は初めて口を歪めてふっと笑った。
俺はお礼を言って頭を下げた。そして、なんだか嬉しくなって、ふふふと笑う。
こういうちょっとした出会いが、俺の胸の奥をぽかぽかと温める。
店を出た瞬間、眩しい日差しに目を細めた。薄暗い店内に目が慣れてしまったようだ。空を見上げると、耳元のイヤリングが軽やかに鳴った。
「待たせました。行きましょうか、シュバルツ」
店の前で退屈そうに腕組みをしていたシュバルツに声をかけ、歩き出そうとした瞬間、横の路地から突然飛び出して来た人影とぶつかりそうになり、俺は慌て飛び退いた。
スカートがふわりと広がり、ゆっくり元に戻っていく。
「お嬢!」
厳しい顔付きでシュバルツが前に出た。
しかしその人影は、必死にシュバルツにすがり付き始めた。
「助けて下さい!追われているんです!」
そう叫んだのは、まだ子供の雰囲気を残した眼鏡姿の線の細い少年だった。栗色の髪が目にかかるほど長い。普段は理知的そうな表情が、今は焦りで曇っていた。
「お嬢さまよ、どうするよ」
シュバルツが困ったように俺を見た。
俺が口を開こうとした瞬間、少年が飛び出して来た路地から、再び複数の足音が聞こえて来る。
どうやら本当に追われているようだ。ならば、ここは助けるのが…。
「追いついたか?リコット!」
はっ…?
…リコット?
「まだだよ、ユウト!」
…ユウト?
あまりにも唐突なその声に、俺は頭が真っ白になった。
そして、路地から見知ったシルエットが飛び出して来る。
最近少しシリアス気味だったので、だんだんとほのぼのしていけたらと思います。
ご一読ありがとうございました。




