Act:15
小学校の頃。漢字の書取の宿題で同じ字ばっかりを書いていると、何だかその字が変に思えて来たことがあった。同じように、だんだんと自分の署名が只の落書きに見えてくる。
ひたすら書類に自分の名前を書いていく。おかげで名前のスペルはバッチリだ。
リリアンナさんとギリアムが繰り返し持って来る書類は、事前に執政官や事務官の精査が入っているので、内容に決断は求められない。しかしいかんせん量が多いが…。
騎士団の食料買い付け。
なるほど。
インベルスト運河清掃契約。
なるほど。
主要街道の案内番更新計画。
なるほど。
ただ、書類を見ているだけでも勉強になった。
うーん、学ばなければならない事は山ほどあるなぁ。
そして。
俺の気がずしりと重くなることがもう一つ。
昨夜。
父上が俺に告げた舞踏会の件だ。
父上の容体は大分改善していた。マコミッツ先生の話だと、大事を取ってもう少し休めば仕事に戻る許可も出るようだった。そんな話に安堵しながら、帰宅の挨拶に行った俺に、父はにこやかに告げた。
「3週間後の豊穣祭には復帰出来そうだな」
「豊穣祭…夏のお祭りですね」
「そうだ。例年、祭の日に侯爵家主催の舞踏会を開催している」
舞踏会…。
ついに来たか、という感じだった。
近々あるとは聞いていた。
特訓のおかげで何とか基本のステップは踏めるようになった。…もちろん人前で踊れる状態ではないが。
でも、出来ません、だから嫌です、とは言えない。言わない。
「舞踏会には近隣の諸侯や王統府からもゲストを迎える。今年はこの場を借りて、諸侯にカナデのお披露目をする。この間は内輪だけであったからな」
「…はい」
早くも緊張して来た。
でもまだ時間はあるのだ。その時間をつぎ込んで、練習、練習、練習だ。ベストを尽くせば、きっと出来るはずだ。
俺は心の中でぐっと拳を握りしめた。
でも、そう思っても、ああ、やっぱり緊張するなぁ…。
区切りがついたので、俺はペンを置いた。思い出したら何だか緊張して、むずむずする。
落ち着くために、リリアンナさんが入れてくれたお茶のカップを両手で持ってちびちび飲んだ。
響くノックの音。
「…どうぞ」
「やぁ、カナデさま。ご機嫌麗しゅう」
執務室に入って来たのは、綺麗に口髭を整えた年配の紳士、ゴドナ地区の市民長だった。
朝議会に出た初日、民の為にと啖呵を切った事から、俺が市民の事を真面目に考えているという印象が広まっているらしい。あれからちょくちょく市民長達が面会にやって来て、話をしていくようになった。
まぁ、好意的に思ってくれるのはありがたい。
さらに、彼らの話は勉強にもなる。その地域の特色や特産を書物以上に詳しく知ることが出来た。
例えばゴドナ地区。侯爵領全体の3割を誇る麦の産地であることは知っていたが、今年の作付けは良好らしい。例年の1.5倍ほどの収穫が望めるそうだ。
「ところで、カナデさま」
市民長が髭を触りながら俺を窺う。
「私には今年15になる孫がおりまして…」
来た…。
俺のところに話に来た市民長達は、だいたい最後に自分の身内の男子を紹介して来る。
「武道にいそしむ真面目な男でしてな。カナデさまも剣術をなさるそうですから、お話が合うと思うのです」
「ははは…、そうですね…」
是非会ってくれと迫る市民長に、俺は機会があれば…と愛想笑いを返す。
あんなに恥ずかしい思いを我慢した、優人と、その、付き合っているという言い訳は、ほぼ盾の意味をなしていない。
…役立たずめと心の中で優人を罵る。
辟易していても、市民長達を無碍に扱う事は出来ない。
俺は笑顔で手を降って、ゴドナ地区の市民長を見送った。
「ふぅ」
一息つく。
相変わらず各種レッスンも難しいが、市民長達の相手もゴリゴリと精神がすり減って行く気がした。冷たくなったカップを両手で持ち上げ、ちびちびとお茶を啜る。
響くノックの音。
俺は気を取り直してスマイルを作リ上げる。
「…どうぞ」
「うわぁ、スゴい部屋だね!」
おっかなびっくり入ってくる馴染みの顔。
「さっさと入れ、夏奈」
そして優人の声。
「あっ、帰って来たのか、2人とも!」
俺は立ち上がって2人を迎え入れた。
2人とも軽鎧姿だった。その姿を見て、俺ははっとして優人に駆け寄った。
「優人、怪我をしたのか…?」
鎧からむき出しの優人の太い左腕に、包帯が巻かれていた。俺は思わず手を出して、包帯に触れて、慌てて引っ込めた。
大丈夫なのか…。
こんな怪我をするなんて…。
俺は不安と心配に顔を曇らせて、優人を見上げる。
その俺の頭に、優人がぽんっと手を置いた。
「大丈夫だ、カナデ。そんな心配そうな顔すんな」
優人は問題ないという風に左腕を回して見せる。
俺は優人に頭をポンポンされながら、ふっと安堵の息を吐いた。
「あのー」
そこに夏奈が申し訳なさそうに声をかけて来る。
「熱々のところ悪いけど…あたしもいるよ?」
「お仕事自体は簡単だったんだよ。あたしとシズナさんと優人で、依頼された薬草と薬鉱石を採集するだけ。採集場所も指定されてるし」
ソファーに座り、メイドさんが持ってきてくれた果汁ジュースを飲む夏奈。
優人は、恥ずかしさまぎれに俺がつねりあげた手の甲をフーフーしていた。
「あたしもこの世界に来て、シズナさんに助けてもらった後に受けたけど、全然難しくなかったんだよ」
「なのに、なんで怪我してんだ、こいつ」
俺は腹立たしさ半分気恥ずかしさ半分で優人を睨みつけた。
「デカい蟹男が出てきたんだよ。倒してやったけどな」
「クラブマンの巨大種だね。4メートルくらいあったかな。皆で倒したんだけど、優人がかすり傷を負っちゃったんだ」
夏奈が思い出すように上を見る。
蟹男。ヒーローの敵の怪人みたいなのかな…。4メートルはキモイな…。
「でもクラブマンはもっと北の洞窟とかにいるんだよ。それがインベルストの近くの森の中になんて…。ベテラン冒険者のシズナさんも聞いたことないって首を捻ってたしね」
北か。
やはり連想されるのは魔獣の増加かな。
「それで試験はどうだったんだ?」
「それはばっちりだったよ!」
俺の問いに、優人のより先に夏奈が答え、ニッと笑った。
「それで、魔獣対策任務で、明日、発つ事になった」
優人が俺を見る。
明日、か。
急だな…。
「大丈夫だよ。優人にはあたしがついてるし、シズナさんとかベテラン冒険者が10人以上で編成されるパーティになるんだよ。よっぽどのことじゃないとやられないって!」
夏奈が急に曇った俺の表情に、慌てたように早口でまくし立てた。
そうだな。
心配ばかりしててもしょうがないよな。
「頑張れよ、優人、夏奈。俺も父上と出来るだけ支援するから」
「…カナデも、一緒に行かない?」
夏奈が俺から目をそらして、小さな声で呟いた。
怪我をした優人。
また怪我をするかもしれない。
心配して心配して、心をすり減らして行くくらいなら…。
でも。
ダメだ。
俺には果たさなければならない約束がある。
俺はゆっくりと首を振った。
「行けないよ」
優人がふっと笑った。
「夏奈、やめとけ」
「うーん、駄目かぁ。残念、今のカナデなら一緒に連れて歩きたいのになぁ。こんなに可愛くなっちゃうんだもん」
夏奈がいたずらっぽく笑って俺を見る。俺はついっと目をそらした。
男の俺を知らないノエルスフィアの人たちになら、女の子扱いされてもまだ許容出来る。しかし優人や夏奈に可愛いだの言われた時の気恥ずかしさは、半端ではない。
「カナデちゃん、お姉さんがぎゅっとしてあげるから、こっち来てみ。さぁさぁ」
「黙れ、夏奈」
夏奈がぽんぽん膝を叩くのを、俺はばっさり切り捨てた。
「えー。じゃあ一緒にお風呂行こっか。女の子どうしだから問題ないよね。ね?」
「え、いや、駄目だろ、うぅぅぅ」
「あーカナデちゃん赤くなった!えへへ、可愛いなぁ。妹出来たみたいだよ」
背は夏奈より少し低いが、年下になった覚えはない!
「はははは…」
優人の乾いた笑いが響く。
何かそのお父さんみたいな笑い方を止めろ。
腹が立つ。
俺は恥ずかしさを全て八つ当たりに込めて優人を睨みつけた。
響くノックの音。
またか…。
「どうぞ」
扉を開けて現れたのはギリアムだ。またどっさり書類を抱えていた。
「おやおや、ご来客中失礼致しますよ。カナデさま。決裁書類の追加、よろしくお願い致します」
ギリアムはスローペースで執務机の上に書類を置くと、戻りがけに優人を見つけて一礼する。
この人は基本的に腰が低い。優人のような一介のブレイバーにもきちんと挨拶してくれる。
「これはこれはカナデさまのフィアンセ殿。ごゆっくりどうぞ」
そしてとんでもない爆弾を投下して退室して行った。
扉が閉まるのと同時に、夏奈の顔がぼふんっと音を立てて真っ赤になった。
カラクリ人形よろしくぎしぎしと俺の方を向く。
「…どゆこと?」
「えっとだな、これにはやむを得ない事情があってだな…」
慌てて弁明する俺の言葉を遮る優人。
「俺が告白した」
ぼふん。
夏奈の顔が二次爆発を起こす。
「やっぱり、そうなんだ…。実は昔からそうじゃないかとは思ってたんだ。あんたたち仲良かったし、いつも一緒だし。中学の時クラスの子に、優人と奏士は付き合ってるんじゃないかって聞かれて、笑ってごまかしたけど、あたし自身どこか否定しきれないとこがあって、でも男の子どうしだし…」
下を向いてぶつぶつ言い出した夏奈。
「違うんだ夏奈!これはカモフラージュで!」
俺の弁明は果たして夏奈に届いているのか。
クソ…。
ソファーで呑気に茶など飲んでいやがる優人に、俺はつかつかと歩み寄る。
取り敢えず制裁だ。
その頬にノーモーションでパンチをぶち込む。
くっ、相変わらず固い奴め。こっちの方がダメージがデカい!
赤くなった手を振りつつ、逆の手でもう一発。しかし今度は突然避けられてしまった。
「うわっ、ひゃあ」
空振りでバランス崩した俺は、そのまま優人の膝の上に倒れ込んだ。
ガタンとテーブルがなる。
口元を押さえた夏奈が立ち上がっていた。
「ばれたとたん、そんな大胆に抱き合うなんて…。お、男の子どうしなんだよ?…うう、信じらんない。信じらんないぃぃ!」
叫び声を上げて執務室を飛び出して行く夏奈。
「待っ…!違うんだ!」
俺の声はその背中に届かない。
絶望だ…。
絶望の始まりだ…。
「カナデ、やっぱり軽いな、お前」
あっけらかんとそんなことを言う優人。俺は奴の膝の上でゆっくりと息を吸い込み。
渾身のアッパーを放つ。
空が白み始めた頃。俺は人気のない屋敷の中を走っていた。
玄関で待っていてくれたアレクスが、一礼して扉を開いてくれた。
朝靄が濃く立ち込めていた。朝露に濡れた庭園の先、行政府の城塞までも見通せない乳白色のヴェールの中に、俺は駆け出す。
水気の多い空気の匂いが世界を満たす。濡れた冷たい空気が肌を撫でる。
「はっはっはっ」
朝の早い庭師が、駆け抜ける俺を驚いたような目で見送った。
「はっはっはっ」
髪を流し、石畳に足をとられないように。
薔薇の生け垣を通り抜けて、城塞のアーチをくぐり抜けて、正門広場に駆け込んだ。
朝靄で視界の悪い広場には、2人の人影と2匹の馬影があった。
立ち止まり、少し息を整えてからそちらに歩み寄る。
銀をあしらった真新しい鎧に身を包んだ優人と夏奈が俺を待っていた。
父上から用意された新しい鎧と馬。そして夏奈には弓のブレイブギア。いろいろ学んだ俺には、それがどれほど高価なものか良くわかる。
約束とは言え、父上に感謝は尽きない。
「おはよう」
「カナデちゃん、おはよー」
「おはよう、カナデ」
3人で笑い合う。
「優人。村のこと、よろしく頼む」
「ああ、任せとけ」
優人は俺に力強く頷いた。
昨日の夜。父上の好意で俺たちは夕食を一緒にできた。その場で俺は、優人と夏奈にお願いをした。朝議会に出ていた北部の村モリアからの救援要請。正規に騎士団が動かせないのであれば、同じ北部に赴く優人達に村の救援を依頼できないか、と。
優人達はどうせ目的の地域内だからと快諾してくれた。
…わかっている。
魔獣被害にあっている村は他にも沢山ある。なのに、たまたま聞き及んだ村だけに、それもコネで冒険者を送り込むだけ。
それは何の解決にもならないし、俺の気を済ませるだけの自己満足に過ぎないのだろう。
でも、とれる方法があるのならば、それで救えるものがあるのならば…。
「優人、気をつけて」
頷く優人。
見知らぬ村を救うために、優人や夏奈に危険を強いる俺は…。
「大丈夫だ」
「あたしもついてるしねっ」
元気良く手を上げる夏奈。
俺は色んな思いが渦巻く胸の中から、とりあえず今は目を逸らす。そして笑顔を浮かべる。
「夏奈も気をつけてな」
「大丈夫だよ。三週間後のお祭りには間に合わないけど、きっと唯姉と陸を見つけて帰って来るから」
「そうだ。必ず4人で戻って来る。カナデは、俺達の帰る場所で待っていてくれ」
今度は俺が頷く番だ。
夏奈が抱きついてくる。
俺は夏奈をぎゅっと力いっぱい抱き締めた。
ははっ、鎧が少し痛いな。
夏奈がそっと離れる。
優人が拳を突き出して来る。俺はそこに自分の拳をコツンと打ち合わせた。
俺に背を向ける優人。
連れ立って歩き出した二人の姿が、朝靄の中に消えていく。
その姿を見送り、俺は踵を返した。
これから朝議会の準備だ。
今日がゆっくり始まって行く。
今話でお話は少し区切りがついたと思います。
次回以降は恐怖の舞踏会編となろうかと…。
読んでくださってありがとうございました。
よろしければ、また次もお付き合いいただければ幸いです!