Act:13
俺は木剣を捨てると屋敷に走った。リリアンナさんとガレスもついて来る。
「父上の容態は?」
「意識は回復されました。お話も大丈夫な様です」
リリアンナさんが後ろから答えてくれる。
とりあえずは安心なようだ。
屋敷に入と、俺は自分の部屋に向かった。この土と汗に汚れた恰好では、病床に入れない。
「医者の手配は?」
「城詰めのマコミッツ先生に看ていただいております」
俺は手早く服を脱ぎ捨てる。
下着一枚の羞恥心は今は湧かない。
控えていたメイド軍団さんに濡れたタオルをもらい、汚れを拭き取る。
「父上はまだ行政府に?」
「先ほどお戻りになりました。今はお部屋に」
普段着となりつつある白のワンピースを纏い、髪をまとめ直しながら部屋を出る。
足早に父上の寝室に向かうと、部屋の前には行政府から付いて来たのだろう、警護の騎士と執政官達が集まっていた。
俺はリリアンナさんを引き連れ、彼らに会釈してその間を通り抜ける。
彼らの中には不安を隠そうともせずに俺を見詰める者もいる。ついこの間エリーセさんの事があったのだ。もしかして父上も、と思うのは、しょうがない事かもしれない。
「カナデさま…」
不安そうに呟く執政官に、俺は微笑んで頷いて見せた。
リリアンナさんの教えその3。他人から注目を浴びるものは、いつもどっしりとにこやかに。
父上の寝室に入る。ここは初めて父上と対面した場所だった。
あの時は夜。
今はまだ夕刻。
窓から差し込むオレンジ色の陽光が、斜めの線を作って、部屋の片隅を照らし出していた。締め切られたバルコニーへとつながるガラス戸が、床の上に市松模様の影を作り出す。
部屋には、先にやって来たガレス、アレクス、マコミッツ先生と不安な表情を浮かべるメイド軍団さんが2人待機していた。
俺はヴェールを掻き分け、父上のベッドに近付く。
初めて会ったあの時の様に、クッションに埋もれた父上が横たわっていた。
「…カナデか。心配をかけたな」
「いいえ、父上」
俺はアレクスが運んできた椅子に腰掛ける。
父上の顔には覇気に満ちていた大貴族の面影はなく、落ち窪んだ目と痩けた頬、血色の良くない肌が、一目で普通の状態にない事を告げていた。
「騒ぎすぎなのだ、周囲が」
それでも父上はそう言って不敵に笑う。
何かの粉末の薬を調合していたマコミッツ先生がサイドテーブルにそれを置くと俺を見た。
「ひとまずは問題ないでしょう。候はお疲れのようだ。しばらくは無理なされないよう養生された方がよろしい」
「…ありがとうございます」
俺は頭を下げる。
「お嬢さま。我々は隣室に控えております。何かありましたら、呼び鈴でお知らせを。主様についていてあげて下さい」
アレクスの申し出に頷くと、全員が一礼して退室していった。
部屋には父上と俺だけが残された。
「カナデ、最近頑張っているそうだな」
「…はい」
父上は俺を見上げて微笑む。
「たまには父の執務室にも顔をだすと良い。執政官共よりは、身になる話ができよう」
父上は冗談めかして言うが、その声にはいつものようにお腹に響くような迫力はない。
「…父上、もうあまり喋らないで下さい。ゆっくり休んで下さい。私がここにいますので」
「ふっ…」
俺の言葉に、父上は遠くを見るような目をする。
「…顔が似ている上に、エリーセと同じ事を言う」
…エリーセさんと同じ台詞。
きっと彼女も心配でたまらなかったのだろう。今の俺と同じように。
「わしがお前を見出したのは、容姿が似ているだけではない。その生き方…ではないな…。何というか、あり方、と言うべきか。それが似ている気がした。その直感は正しかったという事が、日に日に確信出来る」
エリーセさんが俺に似ている?
優しく優秀で純粋なお姫様が、男で、さらにただの学生に過ぎなかった俺に?
その遠くを見て、そのまま遠くに行ってしまいそうな視線に、俺は祖父の最期の日を思い出してしまっていた。
うだるような残暑が厳しい夏の終わりの日。
俺たち家族は病院から祖父を連れ帰った。
最期の時を自分の家で迎えたいという、祖父の希望だった。
それから俺は、布団の上で殆ど動かなくなった、弱って痩せた祖父の隣に毎日座り、取り留めのない話をした。
学校の話。剣道の話。友達の話。ニュースの話。俺の話に返事してくれたり、頷いてくれる時もあったが、だんだんとじっと目を閉じて、寝ているのか聞いてくれているのか分からない時間ばかりが増えた。
俺はどこか信じられなかったのだ。
俺にとっての強さの象徴であり、規範の象徴だったあの祖父が、間もなく力尽きようとしていることに。
まだ子供な俺には、意味は分かっても実感出来なかった。
近しい家族がいなくなるという事実に。
だから。
ある朝、祖父が冷たくなっていたその場で、俺は泣く事はなかった。
ただ呆然と立ちつくだけだった。
もう二度と戻らないだろう喪失感だけが、まるで夏休みの夕方に響くヒグラシの音の物悲しさのように、しんしんと胸の奥に積み重なっていたのだ。
父上の皺だらけの硬い手が、そっと頬に触れて来る。
「愛娘にそのような悲しい顔をされては、治る病も治らぬ」
俺は父上のその手をそっと握り、ベッドに戻した。
温かい手だった。
「…申し訳ありません」
そして小さな声で呟く。
マコミッツ先生は大事ないと言っていた。突然の出来事に、俺がナーバスになっているだけだ。
そう思った瞬間。
「うっ…!」
父上が突然胸に手を当て苦しむ。
「うう…がくっ…」
そして突然弛緩した。
「お父さま!」
俺は慌てて立ち上がり、その顔を覗き込む。
胸の奥がすっと冷たくなる。
「やはりその呼び方の方がしっくり来るな」
父上が悪戯っぽく片目を開いて、俺を見上げた。
…このクソオヤジ。やっていい事と悪い事があるぞ
「そう怒るな、カナデ。エリーセは、その膨れた頬をぷっと押してやると、きゃっきゃっと喜んだものだぞ」
父上は人差し指を持ち上げるが、俺は無造作にその指を払いのけた。
いったいエリーセさんが幾つの時の話だ…?
「…エリーセはそんなに乱暴ではなかったぞ」
まったく、心配して損した。
「…ふざけてないで、ゆっくり休んで下さい!」
笑みを湛えたまま、楽しそうに目を閉じる父上。
元気そうに見えてやはり蒼白なその顔に、俺は胸の奥のもやもやを拭い去ることができなかった。
窓から吹き込む冷ややかな風に身震いして、俺は目を覚ました。
父上のベッドの脇に付き添いながら、いつの間にかウトウトしていたらしい。
辺りはもう真っ暗だったが、部屋の中の照明は灯されていなかった。
これなら、まだ星明かりのある外の方が明るいぐらいだった。
夏場とはいえ、病人にこの寒さは良くない。俺は開けっ放しのバルコニーに向かう。
ガシャリ。
微かな音が聞こえた。
気のせいかとガラス戸に手を掛け、ふと気がついた。
バルコニーの手すりを黒い手甲が片方、握っていた。
ガシャリ。
音が大きくなる。
虚空から生えだして来たかのように、もう一本の腕が伸びて手すりを掴む。
ガシャリ。
俺は突然の事に立ち尽くす。バルコニーから吹き込む冷気と得体の知れない悪寒のせいで、身動きできない。
そして、黒い鎧の両の手は、ぬっとその体を持ち上げた。
全身を包む漆黒の鎧。覗き穴などないのっぺらな面防。側頭部から生えた牡牛のような角が、禍々しく前方を突き刺している。。
ガラス戸の前で硬直する俺の事などお構いなしに、黒鎧はバルコニーに登りきった。
そして、そこからさらに変化が起こった。
すぶりと、まるで底無し沼に引き込まれるように、漆黒の鎧がそいつの体の内側に沈み込む。
ずぶり。ずぶり。ずぶり。
その、もはや何者か分からなくなった黒い人の形は、ゆっくりと部屋の中を父上の方に歩き始めた。
関節が外れたような、ぎこちない動きに思わず嫌悪感と本能的な気持ち悪さを抱いてしまう。
そいつは、一歩進むごとに己が内側に鎧を飲み込む。
そして俺の前まで来た時には、もはやただの人型の黒い塊になっていた。
人の形にくり貫かれた闇のように、しかしそれは進んで行く。俺の事など気がついていないかのように、真っ直ぐ父上に向かっていく。
俺は膝が震えた。
あれは、正視してはいけないモノだ。
決して認識してはいけないモノ。
正対した瞬間、俺は必ず…殺される。
体中が震えていた。
おぞましい。
見るな。
関わるな。
さもないと死ぬ!
黒い影の塊は、身悶えるような、打ち震えるような奇妙な動きですらりとベッドのヴェールを潜ると、眠る父上の胸の上にかがみ込んだ。
そして両の手を上げると、その指(と思われるもの)を蠢かせ、父上の胸の上に這わせる。
いけない!
俺は本能的に感じた。
別に刃物を突き立てている分けでもない。殴りつけているわけでもない。
ただ指を蠢かしている影の塊。
醜悪な例えをするならば、父上の体を鍵盤に見立ててピアノを弾いているようでもある。
しかし、ダメだ!
あれでは、あれでは父上が連れて行かれる!
俺は何故かそう思った。
止めさせなければ!
しかし体は動かない。自分のものではないかのように、緩慢にしか動かない。
クソ…!
エリーセさん!
どうか力を貸してくれ!
あなたの、俺たちの父上を守る力を!
「くっ…」
俺は力の限りに叫ぶ。
「やめろ!」
その瞬間、黒い塊は初めて俺を認識したようだ。
目も何もない頭部(のような箇所)が俺を見る。
そして、巻き戻しのようなぎこちない、しかし素早い動きで俺の前まで戻ると、恐怖で引きつった俺の顔を覗き込んだ。
その瞬間、真っ赤な目と三日月のような口が開いた。
俺を嗤う。
声にならない悲鳴が体の中を駆け抜けた。
「…デさま」
頭が痛い。
「カナデさま!」
肩を揺さぶられる振動で俺は目を覚ました。
隣には心配そうに俺を覗き込むアレクスとリリアンナさん。
いつの間にか俺は、父上のベッドに突っ伏して眠ってしまったのか。
起き上がり胸に手を当てる。
柔らかな感触の向こうで、心臓が早鐘のように鳴っていた。
首筋を流れた汗が、胸元に流れていく。その冷たい感触に、あの恐怖がじわじわと蘇ってくる。
夢…だったのか。
夢だろうな…。
そうだ、父上は!
俺はベッドに横たわる父上の頬に触れる。
温かい。
あの日の祖父とは違う。
俺は安堵の息を吐いた。
「カナデさま」
リリアンナさんが腰に手を当ててメガネを光らせる。
まずい。
これはお説教される兆候だった。
「カナデさま。主様がこのような折に、あなたさままでお体を壊されてはどうされます?リムウェア侯爵家は、いまやあなたさまと主様が…」
「まぁまぁ、リリアンナ。カナデさまもお疲れなのだ。お務めに頑張ってらっしゃるからな。さぁカナデさま。ここはリリアンナに任せて、ご夕食になされませ。主様の看病はまた後ほど」
アレクスが優しく告げて、俺を立たせてくれた。
「さぁ、参りましょう、カナデさま。そうそう、リリアンナ。バルコニーのガラス戸は締めておいてください。閉めておいたはずなんだが…。主様に夜気は良くないからな」
俺はアレクスについて歩きながら、夢の事を思い出していた。
あの赤い目。
ざっくりと裂けた赤い口。
そっくりだ。
あの森で襲われた魔獣に。
今回は病気の方がいらっしゃるので、暗めの展開でした。
明るく行きたいものですねぇ。次回こそは。
ご一読いただいた方々、ありがとうございました。
よろしければ、またお立ち寄りください!