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婚約破棄された天然令嬢、追放先の辺境伯に「悪女」と呼ばれながら溺愛されていることに気づかない

掲載日:2026/07/24

婚約破棄を言い渡された瞬間、私が最初に思ったのは「今夜の夜会の軽食、まだ食べていなかったな」だった。


王太子殿下が何やら長い演説をしている。隣でマリア王女が泣き崩れる演技をしている。涙は左目からしか出ていない。器用な方だ。


「エルシャ・クロイツ。貴様の悪行の数々、もはや看過できぬ。辺境の迷宮都市オルトへの追放を命ずる」


悪行。心当たりがない。先週、図書館で借りた本の返却が一日遅れたことくらいだろうか。あれは確かに反省している。


「追放先では、オルト辺境伯レオン・レーヴェが貴様の身柄を引き受ける。あの冷徹公爵のもとで、己の罪を悔い改めるがいい」


冷徹公爵。迷宮都市。なんだか冒険小説みたいで少しわくわくする。


マリア王女が私の腕を掴んだ。爪が食い込む。


「エルシャ、あなたには分かっているでしょう? 殿下の隣に立つべきは、あなたではないの。身の程を知りなさい」


「ええ、もちろん。マリア様のほうがずっとお綺麗ですもの。殿下もお幸せでしょうね」


マリアの顔が引きつった。嫌味を言ったつもりはない。本当にそう思っただけだ。



迷宮都市オルトは、王都から馬車で十二日の距離にあった。


街に近づくにつれ、地面が微かに振動していた。地下の迷宮に棲む魔物の鼓動だと御者が教えてくれた。面白い。


オルトの城門で、一人の男が待っていた。


黒髪を後ろに撫でつけ、灰色の軍服を隙なく着こなしている。目つきが鋭く、口元は引き結ばれていて、笑った形跡がない。


「レオン・レーヴェだ。オルト辺境伯を務めている」


「エルシャ・クロイツです。このたびはお世話になります。素敵な街ですね。地面が動いていて、まるで生きているみたい」


レオンは一瞬だけ目を見開いた。それからすぐに無表情に戻った。ただ、視線だけが私の顔から離れなかった。三秒。五秒。長い。


「城に案内する。一つ言っておくが、俺はお前を妻として迎えるつもりはない。追放された悪女の世話を押し付けられただけだ」


「まあ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。でもご安心ください、私、家事は得意なんです。お掃除もお洗濯も」


「使用人がいる。お前が手を動かす必要はない」


「それでは、何をして過ごせばよいのでしょう」


「好きにしろ。ただし迷宮には入るな。死ぬぞ」


「迷宮に興味があるのですけれど」


レオンの眉間に深い皺が刻まれた。馬車から降りる際に手を差し出してくれたのだが、私が両手で彼の手を握って「温かいですね」と言ったら、手を引っ込めて背を向けてしまった。耳が赤い。寒いのだろうか。



城は思っていたより広かった。窓からは迷宮の入口である巨大な裂け目が見える。


案内されたのは、城の最上階にある一室だった。天蓋付きの寝台。絹のカーテン。暖炉には火が入っている。窓辺には花が活けてあった。白い百合。


「ここがお前の寝室だ」


「広い。とても素敵です。レオン様のお部屋はどちらに」


「隣の書斎で寝る。夫婦の寝室を共にするつもりはない」


私は部屋を見渡した。天井が高い。寝台は四人は眠れそうなほど大きい。シーツの肌触りを確かめると、上質な綿だった。枕が三つもある。


「レオン様は書斎がお好きなのですね。本に囲まれて眠るのは、きっと落ち着くのでしょう」


「……好きで寝ているわけではない」


「では、なぜ」


「悪女と同じ部屋で眠れるか」


「なるほど。私が夜中に寝言を言うからですね。母にも注意されたことがあります」


レオンは何か言いかけて、口を閉じた。それから踵を返して書斎に消えた。ドアを閉める直前、振り返って私の顔を見た。一瞬だけ。彼の表情が、何かを堪えるように歪んだ。すぐにドアが閉まった。


私は寝台に腰かけて百合の花を眺めた。百合は私の好きな花だ。なぜここに百合が活けてあるのだろう。偶然だろうか。


書斎のドアの隙間から、明かりが漏れている。レオン様は、こんな広い寝室を私に譲って、あの狭い部屋で眠るのだ。なんて律儀な方だろう。



翌朝、食堂で朝食を取っていると、レオンが入ってきた。目の下に薄い隈がある。書斎の長椅子は、あの体格には短すぎるのではないか。


「おはようございます、レオン様。よくお眠りになれましたか」


「問題ない」


嘘だ。首を左に傾けている。寝違えたのだろう。私がパンにバターを塗っていると、レオンの視線を感じた。顔を上げると、彼はすぐに自分の皿に目を落とした。食事中ずっとそうだった。私が飲み物に口をつけるたびに、こちらを見ている。見ていないふりをしているが、フォークが皿の上で空振りしているので分かる。


毒味の確認をしてくださっているのだろう。管理者としての責任感が強い方だ。


「本日は迷宮の視察がある。城から出るな」


「迷宮にご一緒してはいけませんか」


「駄目だ」


「では、城の庭を散策してもよろしいですか。昨日、薬草に似た植物が生えているのを見かけました」


レオンのフォークが止まった。


「なぜ薬草だと分かる」


「クロイツ家の領地には薬草園がありました。幼い頃から祖母に教わっていたんです」


レオンは黙って私を見つめた。灰色の瞳は冷たいが、どこか奥に揺らぎがあるように見えた。気のせいかもしれない。


「庭なら構わない。ただし護衛をつける」


「ありがとうございます」


護衛についたのは、老兵のハンスという男だった。ハンスは私が薬草を摘んでいる間、ずっと黙って見ていた。


夕方、城に戻ると、玄関先にレオンが立っていた。腕を組んで壁に寄りかかっている。待っていたように見えるが、きっと偶然だろう。


「遅い。日が暮れる前に戻れと言ったはずだ」


「申し訳ありません。薬草に夢中になってしまって」


私が薬草籠を見せると、彼の目が籠ではなく私の手に向いた。棘で小さな切り傷ができていた。


「怪我をしている」


「これくらい大丈夫ですよ」


レオンは無言で私の手首を掴んだ。指先が震えている。傷口を確認するように手のひらを返し、しばらく見つめてから、はっとしたように手を離した。


「消毒しろ。使用人に言え」


そう言って足早に去っていった。掴まれた手首が、まだ温かい。


ハンスが背後で、ぼそりと言った。


「旦那様が、花を活けろと言ったのは初めてでしたよ。それも百合を指定して」


「まあ。レオン様がお花を?」


「あんた、クロイツ伯爵家のご令嬢でしょう。旦那様は昔、社交界であんたに会ったことがあるそうです。あんたが百合の花冠を被っていたのを、まだ覚えているんでしょうな」


私は足を止めた。社交界。百合の花冠。十年前、父に連れられて初めて王都の夜会に出た日のことだ。確かに庭の百合で花冠を作って被っていた。あの日、誰かに話しかけられた記憶がある。黒い髪の、不愛想な少年に。


あれが、レオン様だったのだろうか。



三日後、王都から書状が届いた。


マリア王女の署名入りで、内容はこうだった。迷宮最深部に存在する稀少魔石「星涙石」を三十日以内に献上せよ。応じなければオルトへの交易路を封鎖する。


レオンの表情が険しくなった。星涙石は迷宮の第十五層以深にしか存在せず、採掘には精鋭の冒険者隊が必要だ。現在オルトに駐留する部隊では、第十二層が限界だと聞いている。


「レオン様、交易路が閉ざされると、この街はどうなるのですか」


「食糧の三割を王都経由の輸入に頼っている。封鎖されれば、冬を越せない家が出る」


「それは大変。何かお手伝いできることはありませんか」


「お前にできることはない。部屋にいろ」


私は部屋に戻った。けれど、じっとしていられなかった。


翌朝、護衛のハンスに頼んで迷宮の入口まで連れて行ってもらった。巨大な裂け目の縁に、見覚えのある薬草が密生していた。月光苔。強い鎮静作用を持ち、魔物の興奮状態を抑制する効果がある。祖母の薬草事典に載っていた。


三日かけて月光苔を大量に採取し、乾燥させ、粉末にした。それを革袋に詰めて迷宮の入口に置いた。


「ハンスさん、この粉末を迷宮の通路に撒きながら進めば、魔物の攻撃性が下がるはずです。冒険者の方々に試していただけませんか」


ハンスは半信半疑だった。だが試してみると、効果は劇的だった。月光苔の粉末を撒いた通路では、魔物が眠ったように動きを止めた。冒険者隊は三日で第十五層に到達し、星涙石を採掘して戻ってきた。


レオンが私の前に立ったのは、冒険者隊が凱旋した夜だった。


「なぜだ」


「何がですか」


「なぜ、あんな危険な真似をした。迷宮の入口付近にも魔物は出る。お前が襲われていたら」


「でも、ハンスさんが護衛についてくださいましたし、月光苔の採取は入口のすぐ近くですから」


「そういう問題ではない」


レオンの声が震えていた。怒っているのだと思った。けれど、彼の手も震えていた。怒りとは違う種類の震え方だった。


「心配、してくださったのですか」


「するに決まっている。お前は俺の」


言葉が途切れた。レオンは顔を背けた。耳の端が赤い。首筋まで赤い。


「お前は俺の管轄下にある人間だ。勝手に死なれては困る」


管轄下。なるほど、行政上の責任ということだ。律儀な方だ。


「ありがとうございます。レオン様はお優しいですね」


「優しくない。業務だ」


「業務で手が震える方は、きっと誠実な行政官なのですね」


レオンは何も言わずに踵を返した。廊下の角を曲がる直前、壁に額をつけて立ち止まっているのが見えた。



星涙石は王都に送った。だが、マリア王女からの要求は止まなかった。次は魔獣の素材。その次は迷宮産の宝石。


けれど、レオンは静かに手を打っていた。オルトの魔石を王都を介さず周辺諸国に直接輸出するルートを開拓していたのだ。


「レオン様、王都からまた書状が」


「読まなくていい。交易路の封鎖は、もうこちらの痛手にならない」


レオンがそう言った時、彼の口元がわずかに緩んだ。笑みとは言えない。けれど、鉄のような無表情に初めて亀裂が入った瞬間だった。



その夜、私は寝室で本を読んでいた。


ノックの音がした。


「入ってもいいか」


レオンだった。こんな時間に彼が私の部屋を訪ねるのは初めてだ。


「どうぞ」


彼は扉の前に立ったまま、中に入ろうとしなかった。


「書斎の長椅子が壊れた」


「まあ。それは困りましたね」


「今夜だけ、この部屋の隅を借りる。床で構わない」


「床なんてとんでもないです。寝台は広いですから、端を使ってください」


レオンの耳が、また赤くなった。


「それは無理だ」


「なぜですか」


「なぜと言われても」


彼は長い沈黙の後、結局部屋の隅に毛布を敷いて横になった。私は寝台から「おやすみなさい」と声をかけた。返事はなかった。


けれど、翌朝目が覚めた時、枕元に白い百合が一輪置いてあった。


あの花は、いつ摘んだのだろう。城の庭の百合は、まだ蕾だったはずだ。ということは、どこか別の場所から。暗いうちに、私が眠っている間に。


ハンスの言葉が蘇った。あの不愛想な少年が、十年経っても百合の花冠を覚えていること。私に最上階の一番広い部屋を与え、自分は狭い書斎で背中を丸めて眠っていたこと。


ああ、と思った。


これは冷遇ではなかった。


レオン様は最初から、不器用なだけだったのだ。悪女と呼ぶのも、寝室を分けるのも、全部。


私は百合の花弁に指を触れた。朝露がまだ残っている。夜明け前に、あの人が摘んできたのだ。


王都のことは、もう関係ない。


朝の光が窓から差し込んで、百合の花びらを白く照らしている。隣の書斎から、長椅子を修理する槌の音が聞こえる。壊れたのではなかったのか。


たぶん、壊れてなどいなかった。


私は笑った。それから寝台を降りて、朝食の支度を手伝いに行った。今日はレオン様の好きな紅茶を淹れよう。茶葉の種類は知らないけれど、ハンスさんに聞けば教えてくれるだろう。


この街は、地面が動いている。迷宮の鼓動が足裏から伝わってくる。生きている街だ。私は追放されたのではなく、ここに来たのだと、今は思う。

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