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私から婚約者を奪った妹が、今度は私の新しい婚約者(公爵様)を狙って倒れるフリをしてるけど、相手にされてなくて草

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/04/16

「マレイア。すまないが、君との婚約は破棄させてもらいたい」


 婚約者のバルサル様が、私の家の応接間で、よく通る声で告げた。

 隣には、私の妹──シャルロットが儚げに俯いて、目尻にきらりと涙を浮かべている。


 向かいのソファには、両親。

 私と目が合うと、父は視線を逸らし、母は扇で口元を隠した。


 ……ああ、もう、全員、承知済みなんだ。


「シャルロットちゃんは、僕がいないと倒れてしまう。一人でも生きていける君より、僕を必要としてくれる彼女を、僕は守りたいんだ!」


 一人でも生きていける君、という言葉が、不思議と頭の中に響いた。


 ──私、そんなに強く見えるかな。


 シャルロットが「お姉様だけドレスを買ってもらってずるい」と倒れた日、私のドレスは仕立て直されて妹のものになった。

 シャルロットが「お姉様だけお父様に褒められてずるい」と倒れた日、父は二度と私を褒めなくなった。

 シャルロットが「私はお熱なのにお姉様だけずるい」と倒れた日、私は夜会に行けなくなった。


 ──全部、奪われ続けて、十八年。


 そう見えるなら、そうなのだろう。


「お姉様……ごめんなさい……私のせいで……」


 シャルロットが、震える声で呟いた。

 計算され尽くした角度。最も儚げに見える光の向き。


 ……突っ込む気力も湧かない。


「わかりました。では、失礼いたします」



 §



 自室に戻り、上着を一枚だけ羽織った。


 廊下を抜け、玄関を出た瞬間、雨が降り始めた。


 傘もささずに歩き出した。

 引き止める声は、誰からもかからなかった。


 ──どこへ行こう。


 王都の街を、宛てもなく歩いた。

 雨に濡れて、髪が顔に張り付いて、ドレスの裾が泥まみれになっても、足は止まらなかった。


 止まったら、たぶん、もう動けなくなる。

 そう思っていたのに、結局、街の外れの石畳の上で、私は崩れ落ちた。


 ──もう、全部、どうでもいい。


 目を閉じた瞬間、頭上で、雨音がふっと止まった。


「……おい」


 低い、静かな声。

 顔を上げると、銀の髪が雨の灰色に滲んでいた。


「こんなところで、座り込んでいると馬車に轢かれる」

「も、申し訳、ありません。すぐに、どきます」

「いや、立てるのか、それで」

「……立てます。問題ありません」


 立ち上がろうとして、膝が震えて、立てなかった。

 銀髪の男は、ため息一つついて、自分の上着を脱いで私の肩にかけた。


「問題ないようには見えないな。ここで出会ったのも何かの縁だ、私の屋敷に来い」

「……どちら様でいらっしゃいますか」

「コンラート・フォン・ローエンガルド」

「……公爵閣下の」

「で、構わないか」

「……はい」


 ──公爵閣下のお屋敷。


 普段の私なら、絶対にお断り申し上げていた。

 けれど、今夜の私には、断る気力すらなかった。



 §



 公爵様の屋敷で迎えた、最初の朝。


 私は、目覚めた瞬間に、慌てて飛び起きた。

 見知らぬ天井。見知らぬベッド。柔らかすぎるシーツ。


 ……あ、そうだ、私、家出をしたんだった。

 そして、見知らぬ公爵閣下のお屋敷に泊めていただいたんだった。


 ──よく考えたら、無防備すぎないかな、私。


 慌てて身支度を整え、廊下に出た。出ようとしたら、扉の前に侍女が控えていた。


「お目覚めでございますね、マレイア様。閣下が朝食の間でお待ちでございます」

「あ、あの! 私、すぐにお暇しますので!」

「閣下のお言いつけで、まずは朝食をお召し上がりいただくよう、申し付かっております」

「……は、はあ」


 朝食の間に通された。

 大きなテーブルの向こうに、昨夜の銀髪の男が、新聞を読みながら座っていた。


 朝の光の中で見ると、想像以上に整った顔立ちだった。


 ──公爵閣下って、絵物語の挿絵みたい……。


「おはよう、マレイア嬢」

「お、おはようございます、公爵閣下。昨夜は、お助けいただきありがとうございました。すぐにお暇いたしますので」

「朝食を食べてからにしてくれ」

「え? あ、はい、じゃあ……」

「あと、コンラートでいい」

「……それは、いささか身分違いかと」

「私の屋敷で、私が呼んでいいと言っている。問題はあるか」

「……ありません」


 ──この方、言い方が淡々としすぎていて、断る隙がないな。


 朝食には、温かい紅茶と、桃の香りのする焼き菓子が添えられていた。


 一口食べた瞬間、私は思わず目を見開いた。


 美味しい。


 お腹が空いていたわけでもないのに、口の中で、信じられないくらい優しい味がした。


「美味いか」

「……はい」

「給仕、追加を」

「あ、いえ、そんな! 十分です」

「そうか」


 コンラート様は、それきり何も言わず、また新聞に視線を落とした。


 §


 朝食が終わって、私は深々と頭を下げた。


「コンラート様。本当に、ありがとうございました。お世話になりました」

「行く当てはあるのか」

「……」

「どうなんだ」

「……ありません」


 家のことは、考えないようにしていた。

 昨夜、雨の中を傘も差さずに出ていった私を、誰一人引き止めなかった。きっと今頃も、誰も探していない。シャルロットが「お姉様がいなくなって清々しましたわ」と影で笑っているところまで、目に浮かぶ。


 ついでに言えば、私が消えたところで、書類上の体裁は妹が引き継げば済む話。父にとっても母にとっても、私は最初から「シャルロットの予備」だったのだから。


「なら、しばらくここにいればいい」

「え?」

「困っているんだろう」

「ですが、これ以上公爵様のお屋敷に泊めていただくのは」

「君がいると、私が困るのか?」

「……いえ、その、……お屋敷の評判が」

「私の評判は、私が決めることだ。君が気にする必要はない」

「……」

「他に、困る理由は」

「ありません……」

「では、いればいい」


 ──この方、本当に、淡々と論破してくる。


 反論の余地、ゼロだ。


 §


 こうして私は、ローエンガルド公爵邸に居候することになった。


 居候、とはいっても、コンラート様は何も要求しなかった。

 家事の手伝いも、針仕事も、書類の整理も、何もしなくていいと言われた。


 では、何をして過ごせばいいのか、私には正直、わからなかった。


 ある日の午後、温室でぼんやり座っていた私に、コンラート様が紅茶のカップを差し出してきた。


「マレイア嬢」

「はい」

「君、暇か?」

「……はい、すみません」

「謝らなくていい。暇なら何かしたいことはあるか」

「したいこと、ですか」

「ああ」

「……何も、思いつきません」

「では、好きなものでいい。好きな食べ物は」

「……わかりません」

「好きな色は」

「……」

「好きな花は」

「……考えたこともないです」


 コンラート様は、しばらく黙って私を見ていた。

 表情は、相変わらず、ほとんど動かなかった。


「じゃあ明日から、毎日一つずつ、君の好きなものを探していこう」

「え?」

「明日は、好きな焼き菓子だ。十種類用意させる。全部食べて、一番美味かったものを教えてくれ」

「十種類……っ」

「足りないか」

「足りすぎです!」

「では、十五種類用意させよう」

「どうして増やすんですか」


 私は、思わず、ふっと笑ってしまった。

 コンラート様が、その笑みを見て、ほんの少し、目元を緩めた。


「……ようやく、笑ったな」

「えっ」

「うちに来てから、君は一度も笑っていなかった」


 コンラート様の指摘にハッとする。

 笑う、か。そういえば、しばらく笑ってなかった気がする。


 §


 翌日から、私の「好きなもの探し」が始まった。


 焼き菓子は十五種類用意され、「桃のタルトです」と答えた。

 紅茶は八種類用意され、「アールグレイです」と答えた。

 花は、温室を一周して「すずらん、でしょうか」と答えた。

 色は、仕立て屋を呼んで生地見本を山ほど広げてもらって、丸一日かけて「春の若葉のような、明るい緑が好き、みたいです」と答えた。


 答えるたびに、コンラート様は短く「そうか」と言った。

 そして、翌朝には、私の言った答えが、すべて私の身の回りに静かに増えていった。


 朝食に桃のタルト。お茶の時間にアールグレイ。寝室の花瓶にすずらん。仕立てられたばかりの、明るい緑のドレス。


 ある日、私は、思い切ってコンラート様に尋ねた。


「コンラート様。一つ、伺ってもよろしいですか」

「ああ」

「なぜ、ここまでしてくださるのですか」

「ここまで、とは」

「偶然出会っただけの女に、こんなに気を遣ってくださる理由がわかりません」

「困っている人間を、放っておけない性分なんだ」

「……それだけ、ですか?」


 コンラート様が、紅茶のカップに視線を落とした。


「……いや、違うな」


 数秒、沈黙があった。


「あの夜、君を屋敷に連れ帰る必要はなかった。近くの宿に部屋を取らせて、医者を呼べば済む話だ。だが、私はそうしなかった」


 コンラート様が、視線を上げた。


「一つ言えるのは、あの夜、君を宿に置いていく、という選択肢は、私の中に存在していなかった」


 私は、紅茶のカップを置く場所を、一瞬、見失った。


「……妙なことを言ったな。忘れてくれて構わない」

「……いいえ」


 私は、自分でも驚くほど、落ち着いた声で答えていた。


「忘れません。覚えておきます」

「……そうか」


 コンラート様は、それきり何も言わなかった。


 ただ、紅茶のカップを持ち上げて、ゆっくりと一口飲んだ。


 その横顔の耳の縁が、ほんの少しだけ赤かった。


 ──ずるい方。


「……コンラート様」

「ああ」

「明日はコンラート様の好きなお菓子を、ご一緒に探していただいてもよろしいですか」

「私の?」

「はい。私ばかり探していただくのは、不公平ですから」

「フッ。……君は、たまに、思いがけないことを言うな」

「いけませんでしたか」

「いや」


 コンラート様が、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


 ──この方、表情筋が氷でできているくせに、たまに、そういうことをする。


 本当に、ずるい。


 三ヶ月が過ぎた頃、コンラート様は、私の前で、いつもの淡々とした声で言った。


「マレイア嬢」

「はい」

「結婚しよう」

「はい」

「……早いな」

「考える時間は、三ヶ月いただきましたから」


 コンラート様は、初めて、ちゃんと笑った。



 §



 公爵邸での生活が四ヶ月を過ぎた頃、社交界に「ローエンガルド公爵が、ヴァルトハイム伯爵家の長女と婚約」という噂が広まった。


 ちなみに、この四ヶ月の間、ヴァルトハイム家から私を探す使者は、ただの一人も来なかった。家出した娘の安否より、妹の機嫌の方が大事な家なのだから、まあ、そんなものだろう。


 噂は、当然、妹の耳にも届いた。


 ある日の午後、私とコンラート様が温室でお茶を楽しんでいると、玄関の方が騒がしくなった。

 執事が眉を寄せて入ってきた。


「閣下。ヴァルトハイム伯爵家のご令嬢が、ご面会を希望しております……。お通ししない方がよろしければ、追い返しますが」


 コンラート様が、私を見た。


「マレイア。会いたくなければ、断る」

「……いえ、お通ししてくださいませ」


 私は、紅茶のカップを置いた。


 数分後、温室の入口に、シャルロットが現れた。


 髪は綺麗に結い上げ、化粧も丁寧だ。


「お姉様……っ」


 シャルロットが、潤んだ瞳でこちらを見た。


 その目が、すぐに、私の隣のコンラート様に移る。値踏みするような、ほんの一瞬の光。


 ──もう、計算が始まっているのね。


 コンラート様が、静かに立ち上がった。


「マレイア。姉妹の話だろう。私は席を外す」

「コンラート様」

「ん」

「すぐ近くにいてくださいませ」

「ああ。隣の温室にいる。何かあれば呼べ」


 コンラート様が、私の肩に軽く手を置いて、温室を出ていった。


 その姿が見えなくなった瞬間、シャルロットの顔から、潤んだ瞳が、すっと消えた。


「……お姉様。ずいぶん、いいご身分ですのね。公爵様と婚約だなんて。どんな手を使われましたの?」

「猫は被らないのね」

「だって、お姉様と二人きりですもの。必要ありませんわ」

「ええ、そうね」


 ──ほんと、良い性格している。


「それで何の用かしら」

「公爵様を、いただきにまいりました」

「そう」

「お姉様、今日中にこのお屋敷を出ていってくださいませ。私が代わりに婚約者になりますから」

「バルサル様はどうしたの」

「捨てましたわ。お姉様を捨てた男って、よく考えたら、価値ありませんもの」

「あなたが捨てさせたくせに」

「結果的に同じですわ」


 ああ。

 この子、本当に、何も考えていない。


 いえ、考えてはいるのね。ただ、自分の都合しか考えていないだけで。


「シャルロット。一つだけ教えてあげるわ」

「何ですの」

「公爵様は、私が選んだ方ではないのよ。私を選んでくださった方なの」

「……だから何ですの?」

「だから、私が出ていっても、その椅子はあなたのものにはならないということ」

「そんなの、私が公爵様を口説けば」

「ならやってみたらいい。止めないから」


 私は、紅茶のカップを置いて、軽く手を叩いた。


 扉の向こうから、すぐにコンラート様が戻ってきた。


「マレイア。終わったか」

「いえ、まだです。シャルロットが、コンラート様にお話があるそうです」


 シャルロットの顔が、瞬時に、切り替わった。「儚げで可哀想な美少女」の顔。


「公爵様。私、シャルロットと申します。お姉様の妹で……あの、突然のご無礼をお許しくださいませ。私、どうしても、公爵様にお目にかかりたくて」

「君の話は、長くなりそうか」


 コンラート様が、無表情のまま、紅茶のカップを置いた。


「……えっ」

「結論だけ言ってくれ。私は時間が惜しい」

「あ、あの、私、公爵様に、その、お姉様より私の方が、ふさわしいと思いますの。お姉様は、地味で、面白みもない方ですから……っ」


 シャルロットが、ふらりと、よろめいた。


 計算され尽くした角度。コンラート様の腕に、ちょうど飛び込めるであろう絶妙な距離。


 ──ああ、いつものか。


 私は、紅茶のおかわりを注ぐふりをして、視線をテーブルに落とした。


 だって、見るに堪えない。


 妹が私の婚約者の胸に飛び込もうとしている瞬間を、姉として、まともに直視できる神経を、あいにく持ち合わせていない。


「公爵様、どうか、私を……っ!」


 シャルロットの体が、コンラート様の胸に向かって、ふわりと倒れ込む。


 ──その、瞬間。


 コンラート様が、一歩、横にズレた。


 ごちゃっ、と、なんとも形容しがたい音がした。


 私は、思わず顔を上げた。


 温室の白い大理石の床に、妹が、顔から、それはもう完璧に、激突していた。




「いっ……たあああっ! なに、なにすんのよっ!」




 シャルロットが、鼻を押さえて起き上がった。


 化粧は崩れ、結い上げた髪が乱れる。

 顔の半分が、たぶん打ったところと怒りで、真っ赤だった。


「公爵様! ひどいですわ! 倒れた女性を支えないなんて、紳士のすることじゃ……っ」

「悪いな」


 コンラート様が、氷のような声で言った。


「私が支える女性は、生涯で一人と決めている。それは私の婚約者、マレイアだ。お前ではない」

「で、でも、私はお姉様の妹で」

「それがどうした」

「だから、お姉様の妹なら、公爵様にとっても」

「ならない」


 コンラート様の声は、低くて、静かで、けれど、はっきりしていた。


「マレイアの妹であることと、私が君を支える理由とは、何の関係もない。論理を飛躍させるな」

「論理、って、そんな、冷たい……」

「冷たい? 君は今、わざと私の胸に飛び込もうとした。それは姉であるマレイアを傷つける行為だ。私を冷たいと評する権利が、君のどこにある」

「……っ」


 シャルロットが、口をぱくぱくさせた。


 ──コンラート様。普段そんなに長く喋らないのに。


 ──きっと、怒っていらっしゃるんだ。


 その時。


 温室の入口の方が、また騒がしくなった。


 執事が頭を抱えて入ってきた。


「閣下、申し訳ございません。今度はバルサル侯爵令息が!」

「マレイア、どうする」

「せっかくですから、ご一緒に」


 数十秒後。


 温室に、ボロボロのバルサル様が転がり込んできた。


 頬は削げ、目は血走り、上着のボタンは半分外れている。


 シャルロットに振り回されて捨てられて、シャルロットを追ってここまで走ってきたであろう、見事な落ちぶれ方だった。


「シャルロットっ! 頼む、僕を捨てないでくれ!」

「うっさいわね、あんたなんかもう用済みなのよ!」

「シャルロットっ!」


 バルサル様の目が、ようやく私に気がついた。


「……マ、マレイア。久しぶりだね。元気そうで、何よりだ」

「ええ。おかげさまで」

「君に、その、謝りたいことがあるんだ」

「あら」

「あの婚約破棄は、僕の本意じゃなかった。シャルロットに、その、騙されたというか、丸め込まれたというか」

「バルサル様」

「なんだい」

「応接間で、私に何とおっしゃったか、覚えていますか?」

「……え?」

「『一人でも生きていける君より、僕を必要としてくれる彼女を、僕は守りたい』」

「……っ」

「よく通る、立派なお声でした。あの場の全員に聞こえておりました。父にも、母にも、使用人にも」

「い、いや、あれは、その」

「私、あの言葉、一生忘れません。だって、十八年生きてきて、初めて言われたことですもの」


 バルサル様が、口を開いて、また閉じた。


「私、ずっと不思議でした。なぜ家族はみんな、私が何を奪われても平気だと思っていたのか。なぜシャルロットばかり可愛がられて、私が蔑ろにされるのか」

「マ、マレイア」

「答えは、簡単でした。みんな、勝手に決めていたんです。『この子は一人でも生きていける』と」

「……」

「バルサル様。あなたのおかげで、はっきりわかりました。ありがとうございました」

「マ、マレイア、その、僕は!」


 バルサル様の顔から、血の気が引いていった。


 たぶん、今、初めて気がついたのだろう。自分が何を捨てたのか。


 その横で、シャルロットが、金切り声を上げた。


「なに、お姉様と話してるの!? あんた、やっぱりお姉様の方がいいの!?」

「ち、違う、シャルロット、僕は!」

「ほら、やっぱり! あんた、最初から私のことなんて本気じゃなかったのね!」

「違うって言ってるだろう! そもそも僕を捨てておいて未練があるのかい!?」

「未練なんかないわよ! ただ、お姉様に鞍替えされるのはムカつくの!」

「なんて勝手な。君、そんな子じゃなかっただろう……!?」

「最初からこういう子よ! あんたが見てなかっただけ!」


 ──これは、見ていられない。


 私は、湯気の立つカップに視線を戻した。

 隣で、コンラート様が、深く深く、ため息を吐いた。


「マレイア」

「はい」

「私はそろそろ限界だ」

「私もです」

「許可を」

「どうぞ」


 コンラート様が、指を、ぱちんと鳴らした。


 温室の両脇から、屈強な護衛が二人ずつ、音もなく現れた。


 シャルロットとバルサル様は、両脇から軽々と抱え上げられ、来た道をそのまま運ばれていった。


 二人の悲鳴が、ドップラー効果のように遠ざかり、やがて、玄関の方から、何かを「ぽいっ」と捨てるような、軽快な音が、二回、続けて聞こえた。


 ──護衛の方々、お見事です。


 温室に、静寂が戻った。


 コンラート様が、何事もなかったかのように、私のカップに紅茶のおかわりを注いだ。


「マレイア」

「はい」

「君の家族関係について介入が必要ならいつでも言ってくれ。屋敷ごと買い取って、丸ごと整理してもいい」

「……まあ。加減を知りませんね」

「君に対しては、知る気がない」


 ──この方、本当に、ずるい。


 私は、くすくすと笑ってしまった。


 コンラート様の、こういう「加減を知らない」ところが、私は本当に好きだ。


「今はまだいいです。あの二人は、もう二度と近づいてこないでしょうから」

「そうか。ならいい」


 コンラート様は、満足そうに頷き、自分のカップを手に取った。


 温室の窓の外では、いつの間にか、雨が上がっていた。

 雲の隙間から、柔らかな午後の陽光が差し込み、白い大理石の床を暖かく照らしている。


 ──一人でも生きていける女。


 確かに私は一人でも生きていけるかもしれない。けれど、今は隣に、不器用で、表情筋が凍っていて、だけど誰よりも温かくて、私だけを真っ直ぐに見てくれる人がいる。


「……マレイア」

「はい」

「もう誰もこの温室には通させない。静かに、二人でお茶を飲もう」


 私は、カップを置き、ゆっくりと微笑んだ。


「はい、喜んで。……明日も、明後日も、よろしくお願いしますね」


 コンラート様の耳の縁が、ほんの少しだけ赤く染まるのを、私は見逃さなかった。


 新しいドレスも、宝石も、家族の愛情も、今まで全部奪われてきた。

 けれど、最後に一番大切で、一番穏やかな時間を、私は手に入れることができた。


 だから、もう何もいらない。


 私は、新しく注がれた温かい紅茶の香りを楽しみながら、隣に座る愛しい人の横顔を、ずっと、ずっと見つめていた。

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