私から婚約者を奪った妹が、今度は私の新しい婚約者(公爵様)を狙って倒れるフリをしてるけど、相手にされてなくて草
「マレイア。すまないが、君との婚約は破棄させてもらいたい」
婚約者のバルサル様が、私の家の応接間で、よく通る声で告げた。
隣には、私の妹──シャルロットが儚げに俯いて、目尻にきらりと涙を浮かべている。
向かいのソファには、両親。
私と目が合うと、父は視線を逸らし、母は扇で口元を隠した。
……ああ、もう、全員、承知済みなんだ。
「シャルロットちゃんは、僕がいないと倒れてしまう。一人でも生きていける君より、僕を必要としてくれる彼女を、僕は守りたいんだ!」
一人でも生きていける君、という言葉が、不思議と頭の中に響いた。
──私、そんなに強く見えるかな。
シャルロットが「お姉様だけドレスを買ってもらってずるい」と倒れた日、私のドレスは仕立て直されて妹のものになった。
シャルロットが「お姉様だけお父様に褒められてずるい」と倒れた日、父は二度と私を褒めなくなった。
シャルロットが「私はお熱なのにお姉様だけずるい」と倒れた日、私は夜会に行けなくなった。
──全部、奪われ続けて、十八年。
そう見えるなら、そうなのだろう。
「お姉様……ごめんなさい……私のせいで……」
シャルロットが、震える声で呟いた。
計算され尽くした角度。最も儚げに見える光の向き。
……突っ込む気力も湧かない。
「わかりました。では、失礼いたします」
§
自室に戻り、上着を一枚だけ羽織った。
廊下を抜け、玄関を出た瞬間、雨が降り始めた。
傘もささずに歩き出した。
引き止める声は、誰からもかからなかった。
──どこへ行こう。
王都の街を、宛てもなく歩いた。
雨に濡れて、髪が顔に張り付いて、ドレスの裾が泥まみれになっても、足は止まらなかった。
止まったら、たぶん、もう動けなくなる。
そう思っていたのに、結局、街の外れの石畳の上で、私は崩れ落ちた。
──もう、全部、どうでもいい。
目を閉じた瞬間、頭上で、雨音がふっと止まった。
「……おい」
低い、静かな声。
顔を上げると、銀の髪が雨の灰色に滲んでいた。
「こんなところで、座り込んでいると馬車に轢かれる」
「も、申し訳、ありません。すぐに、どきます」
「いや、立てるのか、それで」
「……立てます。問題ありません」
立ち上がろうとして、膝が震えて、立てなかった。
銀髪の男は、ため息一つついて、自分の上着を脱いで私の肩にかけた。
「問題ないようには見えないな。ここで出会ったのも何かの縁だ、私の屋敷に来い」
「……どちら様でいらっしゃいますか」
「コンラート・フォン・ローエンガルド」
「……公爵閣下の」
「で、構わないか」
「……はい」
──公爵閣下のお屋敷。
普段の私なら、絶対にお断り申し上げていた。
けれど、今夜の私には、断る気力すらなかった。
§
公爵様の屋敷で迎えた、最初の朝。
私は、目覚めた瞬間に、慌てて飛び起きた。
見知らぬ天井。見知らぬベッド。柔らかすぎるシーツ。
……あ、そうだ、私、家出をしたんだった。
そして、見知らぬ公爵閣下のお屋敷に泊めていただいたんだった。
──よく考えたら、無防備すぎないかな、私。
慌てて身支度を整え、廊下に出た。出ようとしたら、扉の前に侍女が控えていた。
「お目覚めでございますね、マレイア様。閣下が朝食の間でお待ちでございます」
「あ、あの! 私、すぐにお暇しますので!」
「閣下のお言いつけで、まずは朝食をお召し上がりいただくよう、申し付かっております」
「……は、はあ」
朝食の間に通された。
大きなテーブルの向こうに、昨夜の銀髪の男が、新聞を読みながら座っていた。
朝の光の中で見ると、想像以上に整った顔立ちだった。
──公爵閣下って、絵物語の挿絵みたい……。
「おはよう、マレイア嬢」
「お、おはようございます、公爵閣下。昨夜は、お助けいただきありがとうございました。すぐにお暇いたしますので」
「朝食を食べてからにしてくれ」
「え? あ、はい、じゃあ……」
「あと、コンラートでいい」
「……それは、いささか身分違いかと」
「私の屋敷で、私が呼んでいいと言っている。問題はあるか」
「……ありません」
──この方、言い方が淡々としすぎていて、断る隙がないな。
朝食には、温かい紅茶と、桃の香りのする焼き菓子が添えられていた。
一口食べた瞬間、私は思わず目を見開いた。
美味しい。
お腹が空いていたわけでもないのに、口の中で、信じられないくらい優しい味がした。
「美味いか」
「……はい」
「給仕、追加を」
「あ、いえ、そんな! 十分です」
「そうか」
コンラート様は、それきり何も言わず、また新聞に視線を落とした。
§
朝食が終わって、私は深々と頭を下げた。
「コンラート様。本当に、ありがとうございました。お世話になりました」
「行く当てはあるのか」
「……」
「どうなんだ」
「……ありません」
家のことは、考えないようにしていた。
昨夜、雨の中を傘も差さずに出ていった私を、誰一人引き止めなかった。きっと今頃も、誰も探していない。シャルロットが「お姉様がいなくなって清々しましたわ」と影で笑っているところまで、目に浮かぶ。
ついでに言えば、私が消えたところで、書類上の体裁は妹が引き継げば済む話。父にとっても母にとっても、私は最初から「シャルロットの予備」だったのだから。
「なら、しばらくここにいればいい」
「え?」
「困っているんだろう」
「ですが、これ以上公爵様のお屋敷に泊めていただくのは」
「君がいると、私が困るのか?」
「……いえ、その、……お屋敷の評判が」
「私の評判は、私が決めることだ。君が気にする必要はない」
「……」
「他に、困る理由は」
「ありません……」
「では、いればいい」
──この方、本当に、淡々と論破してくる。
反論の余地、ゼロだ。
§
こうして私は、ローエンガルド公爵邸に居候することになった。
居候、とはいっても、コンラート様は何も要求しなかった。
家事の手伝いも、針仕事も、書類の整理も、何もしなくていいと言われた。
では、何をして過ごせばいいのか、私には正直、わからなかった。
ある日の午後、温室でぼんやり座っていた私に、コンラート様が紅茶のカップを差し出してきた。
「マレイア嬢」
「はい」
「君、暇か?」
「……はい、すみません」
「謝らなくていい。暇なら何かしたいことはあるか」
「したいこと、ですか」
「ああ」
「……何も、思いつきません」
「では、好きなものでいい。好きな食べ物は」
「……わかりません」
「好きな色は」
「……」
「好きな花は」
「……考えたこともないです」
コンラート様は、しばらく黙って私を見ていた。
表情は、相変わらず、ほとんど動かなかった。
「じゃあ明日から、毎日一つずつ、君の好きなものを探していこう」
「え?」
「明日は、好きな焼き菓子だ。十種類用意させる。全部食べて、一番美味かったものを教えてくれ」
「十種類……っ」
「足りないか」
「足りすぎです!」
「では、十五種類用意させよう」
「どうして増やすんですか」
私は、思わず、ふっと笑ってしまった。
コンラート様が、その笑みを見て、ほんの少し、目元を緩めた。
「……ようやく、笑ったな」
「えっ」
「うちに来てから、君は一度も笑っていなかった」
コンラート様の指摘にハッとする。
笑う、か。そういえば、しばらく笑ってなかった気がする。
§
翌日から、私の「好きなもの探し」が始まった。
焼き菓子は十五種類用意され、「桃のタルトです」と答えた。
紅茶は八種類用意され、「アールグレイです」と答えた。
花は、温室を一周して「すずらん、でしょうか」と答えた。
色は、仕立て屋を呼んで生地見本を山ほど広げてもらって、丸一日かけて「春の若葉のような、明るい緑が好き、みたいです」と答えた。
答えるたびに、コンラート様は短く「そうか」と言った。
そして、翌朝には、私の言った答えが、すべて私の身の回りに静かに増えていった。
朝食に桃のタルト。お茶の時間にアールグレイ。寝室の花瓶にすずらん。仕立てられたばかりの、明るい緑のドレス。
ある日、私は、思い切ってコンラート様に尋ねた。
「コンラート様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「ああ」
「なぜ、ここまでしてくださるのですか」
「ここまで、とは」
「偶然出会っただけの女に、こんなに気を遣ってくださる理由がわかりません」
「困っている人間を、放っておけない性分なんだ」
「……それだけ、ですか?」
コンラート様が、紅茶のカップに視線を落とした。
「……いや、違うな」
数秒、沈黙があった。
「あの夜、君を屋敷に連れ帰る必要はなかった。近くの宿に部屋を取らせて、医者を呼べば済む話だ。だが、私はそうしなかった」
コンラート様が、視線を上げた。
「一つ言えるのは、あの夜、君を宿に置いていく、という選択肢は、私の中に存在していなかった」
私は、紅茶のカップを置く場所を、一瞬、見失った。
「……妙なことを言ったな。忘れてくれて構わない」
「……いいえ」
私は、自分でも驚くほど、落ち着いた声で答えていた。
「忘れません。覚えておきます」
「……そうか」
コンラート様は、それきり何も言わなかった。
ただ、紅茶のカップを持ち上げて、ゆっくりと一口飲んだ。
その横顔の耳の縁が、ほんの少しだけ赤かった。
──ずるい方。
「……コンラート様」
「ああ」
「明日はコンラート様の好きなお菓子を、ご一緒に探していただいてもよろしいですか」
「私の?」
「はい。私ばかり探していただくのは、不公平ですから」
「フッ。……君は、たまに、思いがけないことを言うな」
「いけませんでしたか」
「いや」
コンラート様が、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
──この方、表情筋が氷でできているくせに、たまに、そういうことをする。
本当に、ずるい。
三ヶ月が過ぎた頃、コンラート様は、私の前で、いつもの淡々とした声で言った。
「マレイア嬢」
「はい」
「結婚しよう」
「はい」
「……早いな」
「考える時間は、三ヶ月いただきましたから」
コンラート様は、初めて、ちゃんと笑った。
§
公爵邸での生活が四ヶ月を過ぎた頃、社交界に「ローエンガルド公爵が、ヴァルトハイム伯爵家の長女と婚約」という噂が広まった。
ちなみに、この四ヶ月の間、ヴァルトハイム家から私を探す使者は、ただの一人も来なかった。家出した娘の安否より、妹の機嫌の方が大事な家なのだから、まあ、そんなものだろう。
噂は、当然、妹の耳にも届いた。
ある日の午後、私とコンラート様が温室でお茶を楽しんでいると、玄関の方が騒がしくなった。
執事が眉を寄せて入ってきた。
「閣下。ヴァルトハイム伯爵家のご令嬢が、ご面会を希望しております……。お通ししない方がよろしければ、追い返しますが」
コンラート様が、私を見た。
「マレイア。会いたくなければ、断る」
「……いえ、お通ししてくださいませ」
私は、紅茶のカップを置いた。
数分後、温室の入口に、シャルロットが現れた。
髪は綺麗に結い上げ、化粧も丁寧だ。
「お姉様……っ」
シャルロットが、潤んだ瞳でこちらを見た。
その目が、すぐに、私の隣のコンラート様に移る。値踏みするような、ほんの一瞬の光。
──もう、計算が始まっているのね。
コンラート様が、静かに立ち上がった。
「マレイア。姉妹の話だろう。私は席を外す」
「コンラート様」
「ん」
「すぐ近くにいてくださいませ」
「ああ。隣の温室にいる。何かあれば呼べ」
コンラート様が、私の肩に軽く手を置いて、温室を出ていった。
その姿が見えなくなった瞬間、シャルロットの顔から、潤んだ瞳が、すっと消えた。
「……お姉様。ずいぶん、いいご身分ですのね。公爵様と婚約だなんて。どんな手を使われましたの?」
「猫は被らないのね」
「だって、お姉様と二人きりですもの。必要ありませんわ」
「ええ、そうね」
──ほんと、良い性格している。
「それで何の用かしら」
「公爵様を、いただきにまいりました」
「そう」
「お姉様、今日中にこのお屋敷を出ていってくださいませ。私が代わりに婚約者になりますから」
「バルサル様はどうしたの」
「捨てましたわ。お姉様を捨てた男って、よく考えたら、価値ありませんもの」
「あなたが捨てさせたくせに」
「結果的に同じですわ」
ああ。
この子、本当に、何も考えていない。
いえ、考えてはいるのね。ただ、自分の都合しか考えていないだけで。
「シャルロット。一つだけ教えてあげるわ」
「何ですの」
「公爵様は、私が選んだ方ではないのよ。私を選んでくださった方なの」
「……だから何ですの?」
「だから、私が出ていっても、その椅子はあなたのものにはならないということ」
「そんなの、私が公爵様を口説けば」
「ならやってみたらいい。止めないから」
私は、紅茶のカップを置いて、軽く手を叩いた。
扉の向こうから、すぐにコンラート様が戻ってきた。
「マレイア。終わったか」
「いえ、まだです。シャルロットが、コンラート様にお話があるそうです」
シャルロットの顔が、瞬時に、切り替わった。「儚げで可哀想な美少女」の顔。
「公爵様。私、シャルロットと申します。お姉様の妹で……あの、突然のご無礼をお許しくださいませ。私、どうしても、公爵様にお目にかかりたくて」
「君の話は、長くなりそうか」
コンラート様が、無表情のまま、紅茶のカップを置いた。
「……えっ」
「結論だけ言ってくれ。私は時間が惜しい」
「あ、あの、私、公爵様に、その、お姉様より私の方が、ふさわしいと思いますの。お姉様は、地味で、面白みもない方ですから……っ」
シャルロットが、ふらりと、よろめいた。
計算され尽くした角度。コンラート様の腕に、ちょうど飛び込めるであろう絶妙な距離。
──ああ、いつものか。
私は、紅茶のおかわりを注ぐふりをして、視線をテーブルに落とした。
だって、見るに堪えない。
妹が私の婚約者の胸に飛び込もうとしている瞬間を、姉として、まともに直視できる神経を、あいにく持ち合わせていない。
「公爵様、どうか、私を……っ!」
シャルロットの体が、コンラート様の胸に向かって、ふわりと倒れ込む。
──その、瞬間。
コンラート様が、一歩、横にズレた。
ごちゃっ、と、なんとも形容しがたい音がした。
私は、思わず顔を上げた。
温室の白い大理石の床に、妹が、顔から、それはもう完璧に、激突していた。
「いっ……たあああっ! なに、なにすんのよっ!」
シャルロットが、鼻を押さえて起き上がった。
化粧は崩れ、結い上げた髪が乱れる。
顔の半分が、たぶん打ったところと怒りで、真っ赤だった。
「公爵様! ひどいですわ! 倒れた女性を支えないなんて、紳士のすることじゃ……っ」
「悪いな」
コンラート様が、氷のような声で言った。
「私が支える女性は、生涯で一人と決めている。それは私の婚約者、マレイアだ。お前ではない」
「で、でも、私はお姉様の妹で」
「それがどうした」
「だから、お姉様の妹なら、公爵様にとっても」
「ならない」
コンラート様の声は、低くて、静かで、けれど、はっきりしていた。
「マレイアの妹であることと、私が君を支える理由とは、何の関係もない。論理を飛躍させるな」
「論理、って、そんな、冷たい……」
「冷たい? 君は今、わざと私の胸に飛び込もうとした。それは姉であるマレイアを傷つける行為だ。私を冷たいと評する権利が、君のどこにある」
「……っ」
シャルロットが、口をぱくぱくさせた。
──コンラート様。普段そんなに長く喋らないのに。
──きっと、怒っていらっしゃるんだ。
その時。
温室の入口の方が、また騒がしくなった。
執事が頭を抱えて入ってきた。
「閣下、申し訳ございません。今度はバルサル侯爵令息が!」
「マレイア、どうする」
「せっかくですから、ご一緒に」
数十秒後。
温室に、ボロボロのバルサル様が転がり込んできた。
頬は削げ、目は血走り、上着のボタンは半分外れている。
シャルロットに振り回されて捨てられて、シャルロットを追ってここまで走ってきたであろう、見事な落ちぶれ方だった。
「シャルロットっ! 頼む、僕を捨てないでくれ!」
「うっさいわね、あんたなんかもう用済みなのよ!」
「シャルロットっ!」
バルサル様の目が、ようやく私に気がついた。
「……マ、マレイア。久しぶりだね。元気そうで、何よりだ」
「ええ。おかげさまで」
「君に、その、謝りたいことがあるんだ」
「あら」
「あの婚約破棄は、僕の本意じゃなかった。シャルロットに、その、騙されたというか、丸め込まれたというか」
「バルサル様」
「なんだい」
「応接間で、私に何とおっしゃったか、覚えていますか?」
「……え?」
「『一人でも生きていける君より、僕を必要としてくれる彼女を、僕は守りたい』」
「……っ」
「よく通る、立派なお声でした。あの場の全員に聞こえておりました。父にも、母にも、使用人にも」
「い、いや、あれは、その」
「私、あの言葉、一生忘れません。だって、十八年生きてきて、初めて言われたことですもの」
バルサル様が、口を開いて、また閉じた。
「私、ずっと不思議でした。なぜ家族はみんな、私が何を奪われても平気だと思っていたのか。なぜシャルロットばかり可愛がられて、私が蔑ろにされるのか」
「マ、マレイア」
「答えは、簡単でした。みんな、勝手に決めていたんです。『この子は一人でも生きていける』と」
「……」
「バルサル様。あなたのおかげで、はっきりわかりました。ありがとうございました」
「マ、マレイア、その、僕は!」
バルサル様の顔から、血の気が引いていった。
たぶん、今、初めて気がついたのだろう。自分が何を捨てたのか。
その横で、シャルロットが、金切り声を上げた。
「なに、お姉様と話してるの!? あんた、やっぱりお姉様の方がいいの!?」
「ち、違う、シャルロット、僕は!」
「ほら、やっぱり! あんた、最初から私のことなんて本気じゃなかったのね!」
「違うって言ってるだろう! そもそも僕を捨てておいて未練があるのかい!?」
「未練なんかないわよ! ただ、お姉様に鞍替えされるのはムカつくの!」
「なんて勝手な。君、そんな子じゃなかっただろう……!?」
「最初からこういう子よ! あんたが見てなかっただけ!」
──これは、見ていられない。
私は、湯気の立つカップに視線を戻した。
隣で、コンラート様が、深く深く、ため息を吐いた。
「マレイア」
「はい」
「私はそろそろ限界だ」
「私もです」
「許可を」
「どうぞ」
コンラート様が、指を、ぱちんと鳴らした。
温室の両脇から、屈強な護衛が二人ずつ、音もなく現れた。
シャルロットとバルサル様は、両脇から軽々と抱え上げられ、来た道をそのまま運ばれていった。
二人の悲鳴が、ドップラー効果のように遠ざかり、やがて、玄関の方から、何かを「ぽいっ」と捨てるような、軽快な音が、二回、続けて聞こえた。
──護衛の方々、お見事です。
温室に、静寂が戻った。
コンラート様が、何事もなかったかのように、私のカップに紅茶のおかわりを注いだ。
「マレイア」
「はい」
「君の家族関係について介入が必要ならいつでも言ってくれ。屋敷ごと買い取って、丸ごと整理してもいい」
「……まあ。加減を知りませんね」
「君に対しては、知る気がない」
──この方、本当に、ずるい。
私は、くすくすと笑ってしまった。
コンラート様の、こういう「加減を知らない」ところが、私は本当に好きだ。
「今はまだいいです。あの二人は、もう二度と近づいてこないでしょうから」
「そうか。ならいい」
コンラート様は、満足そうに頷き、自分のカップを手に取った。
温室の窓の外では、いつの間にか、雨が上がっていた。
雲の隙間から、柔らかな午後の陽光が差し込み、白い大理石の床を暖かく照らしている。
──一人でも生きていける女。
確かに私は一人でも生きていけるかもしれない。けれど、今は隣に、不器用で、表情筋が凍っていて、だけど誰よりも温かくて、私だけを真っ直ぐに見てくれる人がいる。
「……マレイア」
「はい」
「もう誰もこの温室には通させない。静かに、二人でお茶を飲もう」
私は、カップを置き、ゆっくりと微笑んだ。
「はい、喜んで。……明日も、明後日も、よろしくお願いしますね」
コンラート様の耳の縁が、ほんの少しだけ赤く染まるのを、私は見逃さなかった。
新しいドレスも、宝石も、家族の愛情も、今まで全部奪われてきた。
けれど、最後に一番大切で、一番穏やかな時間を、私は手に入れることができた。
だから、もう何もいらない。
私は、新しく注がれた温かい紅茶の香りを楽しみながら、隣に座る愛しい人の横顔を、ずっと、ずっと見つめていた。




