常夜の一本道
2023年に、youtube図書館 奇跡の五秒前 様で朗読動画にしていただいた作品です。
https://www.youtube.com/watch?v=3bqM7NSC7To
自分の同人誌にはまとめましたが、このサイトにも本文を投稿したいと思います。
ざわざわと葉がかすれ、風が吹き抜けていく音が耳に入り、私は閉じていた瞼を開く。
まず視界に飛び込んできたのは、星がたくさん散りばめられた暗い空の海だ。とっぷりと深い闇の色に染められた空に小さな星がラメのように流し込まれ、光の影響で明るい青や藍色が滲んでいる。いつかどこかで見た気がするが、頭がぼんやりと重く、すぐには思い出せない。
柔らかな光に照らされて輪郭をあらわにした雲が視界の端に見え、視線を巡らせれば反対側には大きな月。月は温かみのある黄色味を帯びた見事な満月だ。
私は自分の体を見下ろす。見慣れた自分の掌と半袖から伸びた腕が、いつもより青白い。月明かりのせいだろうか。
柔らかな風に揺れる紺色のプリーツスカート。中学生の頃に着ていた夏の制服。そう認識した瞬間、肌寒くはないかと不安になったけれど、肌を撫でていく風に冷たさはなく、ただ、優しい。
白いスニーカーで踏みしめている地面には、名も知らぬ雑草が無数に生えていた。近所の河川敷だろうかと周囲を見渡すが、土手も川も見あたらず、どこまでも夜空と草原が続いている。
「どこへ行けばいいのだろう」
そう呟いた時、足元で雑草がサクサクと鳴り、思わず視線を下げる。
二、三歩先に、黄金色の小さな毛玉がちょこんと座って私を見上げていた。ぼんやりと光っているように見える毛はふわふわと風に揺れ、とても柔らかそうだ。耳がピンと尖って顔が細長い。犬かと思ったが子狐のようだ。
毛玉は「きゅーん」とも「ぎゃーん」ともつかない甲高くて可愛い鳴き声をあげてから、一つ瞬きをしてこう言った。
「お姉ちゃん、ぼくのお母さん、知らない?」
「え?」
思いがけない問いかけに、子狐を見つめる。すると、小さな毛皮は軽いボールのようにぴょんぴょん跳ねて、スカートや腕や肩を足場にし、あっという間に私の頭の上に乗って丸くなる。驚くほどに綿毛のように軽いそれは、人間の人差し指の先くらいの小さな前足で私のおでこをこつこつと叩く。
「ぼくのお母さん、探して」
甘えた声で母狐を探せと要求され、私は戸惑いながらも大人しくしたがった。
あてもないので、とりあえず前へ向かって歩き出す。頭の上にバランスよく乗った子狐の様子を窺うが、不満げな様子はないのでこれで良いのだと思った。
子狐はご機嫌そうに尻尾を揺らしていて、その度にふわふわの毛が私の襟足あたりを撫でてくすぐったい。
しばらく歩いてもまったく変わらない風景に不安を抱きながら空を見上げると、月も私たちについて来ているようだった。
頭の上のふわふわは、いつの間にか小さな寝息を立てている。どういうバランス感覚なのか、不安定な頭の上から落ちてくる様子はない。私は自然と頭上へ両手を掲げ、子狐が落ちないように手を添えて歩く。
そうこうするうちに気がつけば右手の方に土手が現れた。土手には等間隔に街灯が立ち、橙色の柔らかな光が一本道を照らしている。やっと見慣れたものに出会った私は安心して土手へ上がり、明るく照らされたアスファルトの道を歩き始めた。土手を挟んだ左右には依然として川も住宅地もなく、雑草の生えた野原が広がっている。
「この子、いつまで頭の上にいるんだろう?」
そろそろ腕も疲れてきて、掲げていた手を降ろそうとしたところ、子狐がパッと起き上がり、軽くジャンプして静かに道路へ降り立たった。頭の上から毛玉の感覚がなくなり、私の体は軽くなる。
子狐は、少し振り返って私を見ると、二、三度瞬きをして軽やかに走り出した。
「ついて来て!」
子狐を追って私も走る。
道の先は暗くなって見えないが、前へ進むと同時に新しい街灯が次々と現れ、光の道が続いていく。柔らかな毛は灯りを反射して光って見え、まるで子狐が闇の中へ道を切り拓いているようだ。私はその小さな光を懸命に追った。
やがて道の途中で子狐が立ち止まる。
そして、私が追いつくと子狐はくるりと振り返り、左手の方角へ鼻先をむけた。つられて見ると、まるで日本の昔話に出てくるような古い木造の家がある。街灯も何もないのに、家とその家に続く道だけがぼんやり照らされて明るく見えた。
「きみのおうち?」
と訊ねると、子狐は何も答えずまっすぐ家へ駆け出し、引き戸の前で早く来いと言うように私を振り返った。
私は急いで子狐の元へ走り、引き戸の前で並ぶ。
「入ろう」
と自信たっぷりに言うので、私がおそるおそる引き戸の板をノックすると、中から気配がした。私はそれを中へ入っていい合図だと確信して戸を引く。
その瞬間、中を見た私は息を飲んだ。
引き戸の先にあったのは私の家のダイニングで、大きなテーブルを挟んでキッチンシンクへ向かって立っている母の背中が見える。エプロンをかけている母は、流しで食器を洗っているらしい。
「おかえりなさい」
という母の声が心の中に入って来て、私は自然と中へ入り、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。子狐も一緒に中へ入り、するすると滑らかな動きでテーブルに上がると、くるりと体を丸めて眠り始める。
母は変わらずシンクに向かっていて、忙しそうだ。
自分の家なのに自分の家ではない違和感もあるけれど、私は安心していて体からすっかり力が抜けていた。
「ここ、うちじゃん……」
テーブルの上でアンモナイトのように丸くなった子狐は、お腹をゆったりと上下させながら小さな寝息を立てている。
「ねえ、きみのお母さん、どこにいるの?」
と声をかけると、子狐は片方の目だけをうっすら開けて、再び閉じる。まるで他人事のようで、自由気ままな子狐だ。
子狐との会話を諦めた私は、背中を向け続ける母を眺めた。母が家にいることに安心感を覚えるが、顔を見せてくれないことが気がかりである。一度気になると、母の顔が見たくなった。
「お母さん」
と呼びかける。しかしながら、母は振り返らない。
「お母さん、なにしてるの?」
返事すらない。けれども私は、それでもいいと妙に納得していた。
昔はよく、こうして家事をしている母のそばでいろいろな話をしていた。
今日あったこと、友達のこと、学校のこと、悩んでいること、悲しかったこと、嬉しかったこと。母はいつも相槌をうちながら一通り話を聞いて、答えを返してくれた。
ある時ふと不安に思い、母に問いかけたことがある。
「お母さんは、好きなことはないの? 大きくなったらやりたいことはないの?」
母には母のやりたいことがあるのではないかと思ったのだ。私が大人になってやりたいことがあるように、母にもあるはずだと考えて、私の存在が彼女の時間を奪っているのではないかと不安になったのである。母は幸せなのだろうかと。
母は「お母さんはもう大きくなっているのよ」と笑って、こう答えた。
「もうなりたいものになってるの」
「それはなに?」
「あなたのお母さん」
母はにっこり笑って私をくすぐった。
私ははぐらかされた気がして怒ったのだけれど、今思えばあれは母の本心であり、同時に私の知らない何かを包んで隠してしまう答えだったのかもしれない。
そして今、視界の隅でシンクに向かい続ける母は、一向に私へ顔を見せる様子がなかった。
まあいいのだ。家事で忙しいのだろう。
「あのね、お母さん」
「なあに?」と言う声を感じる。
なんだ……私の話、聞いてくれてるんだ。
私はすっかり安心して、眠り続ける子狐を撫でる。想像通り毛はふわふわで、柔らかくて温かい。
「今、外で会った子狐のお母さんを探しているの」
子狐は耳をぷるると震わせた。寝たふりをして話を聞いているのかもしれないと思い、耳と耳の間を指で掻いてみるが、子狐は目を閉じたままだ。
私はため息をついて子狐から手を離した。
「ねえ、母狐、どこにいると思う?」
と母へ向けて問いかける。
すると、ススス……とテーブルの上を何かが滑る音がした。見れば私の手元に見覚えのある便箋が1枚置いてある。花柄の入った便箋に、小さな丸い字で書かれた手紙。
「え?」
シンクを見ると、そこにはもう母の姿はなかった。
ダイニングに、私と子狐が一匹取り残されている。
私は世界がすべて遠ざかるような気がして、急いで手紙を手に取った。
それは私が生まれた頃に母が友人に宛てて書いたもののうちの1通で、十数年出されることなく押し入れの奥に忘れ去られていたものだ。
母が他界した頃、家の大掃除をした時に押し入れから1冊のレターパットが見つかった。それには何通もの書きかけや書き損じた手紙が残っていて、最後まできれいに書かれていたものが1通だけあった。
内容はどれも、特定の友人に向けられたものらしく、私が生まれたことで母が母になったという報告をするものだった。手紙を出そうとしたもののタイミングを逃し続けていたらしく、レターパットをめくる度に手紙の中の私が成長していく。首がすわり、笑い始め、寝返りをうったと思うと立って歩き始めた。
最後のページに、綺麗に書ききった1通が残っていて、そこには、「母親になれて幸せだ」と書かれていた。
その文字を見て初めて私は、私が生まれたことで母は幸せを感じていたのだと信じることができたのだ。
私が手紙を持ってダイニングテーブルを離れると、子狐もテーブルを降りて私の足元にくっついて来る。
引き戸から外へ出ると、家は跡形もなく消えてしまった。
あるのは、目の前に続く街灯に照らされた道だけである。
「きみのお母さんを探さないと」
手に持っていた手紙は、いつの間にか子狐に変わっていた。子狐は私の腕の中でおとなしく抱かれていて、嬉しそうに尻尾を振っている。
周囲はただの暗闇になっていた。その中で照らし出されている一本道をとぼとぼと歩いていく。しばらく歩くと心細くなり、私は制服のポケットを探った。スマホを持っているかと思ったが、今は子狐以外に何も持っていない。
助けは来ないだろう。自分で歩いていくしかない。
腕に収まる柔らかな毛玉をきゅっときつく抱きしめると、子狐が甲高く鳴いた。「きゅーん、きゅーん」と大きく鳴く声は、闇の中へ吸い込まれるように小さくなっていく。
「きみも寂しいの?」
鼻の頭を撫でてやると、小さな舌で指先を舐められた。
その瞬間、ふわっと柔らかい風が上から降って来たかと思うと、突風が吹いてスカートの裾が舞い上がる。私は子狐を守るように抱きしめ、風に混じった砂埃を避けようと目をきつく閉じた。嵐が来たように静かだった周囲は騒然となり、私は出来る限り体を小さくして風をやり過ごす。
木々と雑草がせわしなく鳴り、風が通り過ぎるのを待って再び目を開けると、私は黄金色のすすき野原の中にいた。
そよ風が、密集したすすきの穂を波のように撫で、それとともに小さな光の粒が巻き上がる。
ススキはどうして光っているのか。確かめようと仰いでみれば、予想通りの満月がくっきりと浮かび、それを見上げる大きな一頭の狐がいた。
真っ白で艶のある美しい毛並みの狐が、ゆったりと座って月の光を浴びている。
背中にくすぐったい獣の毛の感触を受けて振り返ると、大きく安定感のある狐の尻尾が、私の背中を優しく撫でていた。想像もしていなかった大きさに息を飲み、巨大な狐を凝視する。
「お母さん!」
腕の中へすっぽりと収まっていた子狐がもぞもぞと全身を動かして地面へ飛び出した。その後は一目散にぴょんぴょん跳ねて巨大な狐の背中を登り、耳の間のおでこのあたりにちょこんと座る。
すると母子はぴったり息を合わせて「きゃーん」とも「ぎゅーん」ともつかない甲高い鳴き声を響かせた。暗闇の先に山があるのか、やまびこのように反響している。その光景と音が不思議と心地よく、私は狐たちに見惚れていた。
子狐は幸せそうに目を細めて母狐の頭の上に鎮座している。母狐は相変わらず尻尾で私の背中を撫でさすっていた。母狐は私へ視線を落とし、尻尾を器用に操ってその先端で私の頬を撫でると地面を微かに揺らして立ち上がる。彼女は月へ視線を戻し、地面を蹴って空へ飛び上がった。
虚空の中をまるで足場があるかのように軽やかに跳ねる巨大な狐の姿は、みるみるうちに小さくなって夜空の星に紛れてしまった。あっという間の出来事に、私は夜空を眺めながら黙って見送るばかり。気づいた時には枕元でスマホのアラームが鳴っていた。
その日の私はいつもより寝覚めが良く、今でもあの美しい狐の親子を思い返すたびに心が穏やかになる。
ただそれだけの、ある日見た夢の話だ。
了