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無能と言われた男

作者: 葉沢敬一

毎週日曜日午後11時にショートショート1、2編投稿中。

Kindle Unlimitedでショートショート集を出版中(葉沢敬一で検索)

昔々、小さな街に住む男がいた。その男、田中という名前の、四十過ぎの独身男性である。田中はどんな仕事をしても結果を出せず、上司からは「無能」と言われ、同僚たちからは陰で笑われていた。彼の人生はまるで泥沼の中を歩いているかのようだった。やってみる仕事はすべて失敗し、何を手に取っても成果には結びつかなかった。毎日が徒労と失敗の繰り返しで、彼自身も自分を「無能」だと信じて疑わなかった。


そんな彼の一日の終わりは決まって、小さな居酒屋で一人寂しくビールを飲むことだった。カウンターに座り、焼き鳥をつまみながらぼんやりとテレビを見る。それが彼の唯一の安らぎの時間。しかし、ある夜、田中はいつもの居酒屋で見知らぬ老人と出会った。その老人は長い髭をたくわえ、笑顔がどこか神秘的だった。老人は田中の隣に腰を下ろし、何かしらの縁か、彼に話しかけてきた。


「君、何か困ってるようだね。心に隙間があるように見えるよ」


田中は、心の奥に突き刺さるその言葉に驚きながらも、つい愚痴を零した。「いやあ、なにもかも上手くいかないんですよ。僕はただの無能なんです。どんな仕事をやっても駄目で、周りから笑われるだけなんです」


老人は黙って田中の話を聞いていたが、やがて小さな袋を取り出した。それは手のひらサイズの古びた布製の袋で、中には何か重い物が入っているようだった。「これを持ってみるかい?運命は自分で作るものだ。少しでもいい、これを信じて行動してみなさい」そう言って老人はその袋を田中に手渡した。


田中は特に何も期待せず、ただその袋をポケットに入れた。翌日、彼はいつものように職場で過ごしていた。特に変わったことはない、いつもの退屈な一日だった。しかし、午後になって緊急の配達があり、その責任が田中に回ってきた。彼は失敗するのではと恐れながらも、例の袋をそっと握りしめてみた。


「できるさ」と心の中で呟いて、彼は自転車にまたがり、街の混雑の中を突っ走った。田中にとって配達は初めての仕事だったが、何故か今日は調子が良かった。風が心地よく背中を押し、彼は迷うことなく目的地にたどり着いた。荷物を受け取った客はとても感謝し、笑顔で田中に礼を言った。その瞬間、田中の胸の中で何かが変わった。


その日を境に、田中の態度は少しずつ変わっていった。袋が持つ魔法か、それとも単なる気の持ちようか、田中はもう失敗を恐れなくなった。何か困難なことに直面するたびに袋を握りしめ、心の中で「できるさ」と呟いた。そして、そのたびに彼は少しずつ結果を出していった。


やがて職場でも彼の努力が認められ、田中は新しいプロジェクトを任されるようになった。昔は彼を「無能」と呼んでいた上司も、今では田中を頼りにするようになっていた。そして何より、田中自身が「自分には価値がある」と感じ始めていた。彼は何も変わらないかもしれない自分を信じることで、周囲の評価をも変えていったのだ。


ある日、田中はふとあの袋を取り出してみた。袋を開けて中を見てみると、そこにはただの小さな石が入っているだけだった。それは、特別な力など持っていないただの石だったのだ。田中は微笑み、袋を握りしめた。「これが僕の力だったんだな」


彼はその石をポケットに戻し、いつもの居酒屋に向かう。そしてカウンターに座り、ビールを一杯頼んだ。人生はまだまだ続く。田中は、もう自分を無能だと思うことはなかった。


「無能なんて言葉は、もう僕には似合わない」


ビールの泡が、まるで小さな勝利の花火のようにグラスの中で弾けていた。

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