おかあさんとママ
015(日)
「ねえ、ちょっと短くない?」
小宮さんがスカートの裾を引っ張って、太腿を隠そうとする。
「可愛いよ、それぐらいが」
「そうかなあ……」
「短いって言っても中はパンツになってるんだから下が見える心配もないだろ?」
見た目はスカートだけど、中がショートパンツの二重になってるパンツインタイプだ。
「そうだけど、なんか小学生みたいじゃない?」
「涼しげでいいよ。上ともあってるし」そもそも見た目は小学生だし。
「ならいいけど」
「絶対可愛いって。お許しがあればハグしたいぐらい」
「ありがとう。でも、お許しはしないよ」
小宮さんはその場でくるっと回ってもう一度全身を見せると私の隣に腰を下ろした。ソファから投げ出した両脚が眩しいくらいに白い。短いボトムスだと小宮さんの脚でも長く見える。
急に彼女が座り直して腿に手を置く。
「もお、朽木くん、あんまり見ないで!」
注視していたのがバレたようだ。
「ああ、つい……」
やっぱり十代の肌のハリは違う。そう思う私は十分中年が入ってるか。
「太いから恥ずかしいの……」
「そんなことないよ。綺麗だよ、小宮さんの脚」
小宮さんがぴょんとソファから立ち上がってこちらに振り向く。
「朽木くんのエッチ」
拗ねたように口を尖らせる表情が愛らしい。短いスカートの裾がヒラヒラと揺れて、確かにエッチな気持ちにはなる。
「さ、襲われないうちに晩御飯の支度しよっと」
それって、支度ができたら襲っていいってことなのだろうか。
「ねえ、今日はどこかに食べに行かない?」
ふと思い立った。新しく買った服の小宮さんと出掛けたい。一緒に服を買いに行ったはずなのに、出掛けた記憶が曖昧なのだ。
「えっ、いいの?」
「ああ、なんか食べたいものとかある?」
「あっ、じゃあ、吉野家!」
「吉野家って、牛丼の?」
「うん」
外食なら回転寿司かファミレス、焼肉なんかを考えてたが、牛丼とは意外だった。
「そんなものでいいの?」
「一度食べてみたかったの」
牛丼はずっと食べてみたかったけど、牛丼屋はオジサンが行く店というイメージがあったし、お母さんが絶対に連れて行ってくれなかったらしい。どうやら私と一緒なら大丈夫だと思ったようだ。つまり私はオジサンということか。
「じゃあ、駅前の吉牛に行くか」ついでにスタバにでも寄ってのんびりして帰ろう。
「やったあ」
小宮さんが駆け寄ってきて、健康的な脚がすぐ手の届くところにきた。
「可愛い格好の小宮さんとデート……」
小宮さんの顔を見あげようとして首筋に痛みが走った。
「……つっ」
「どうしたの?」
「ああ、ちょっと筋がつったみたいで……」
首の後ろを手で揉む。
「大丈夫?」
「僕も歳かな……」
「もう、朽木くんだってまだ十三でしょう」
それは早生まれの小宮さんの歳だ。私はもう十四になってる。いや、それはあの頃の話だ。
「僕はもう三十三だよ、十分におっさんだ」
加齢分を強調してやる。だいたいさっきは僕のことをオジサンだと評価してたんじゃないのか。
「うそ!? それじゃあ家のパパと変わらないじゃん」
「えっ? 小宮さんのお父さんって幾つ?」
「えっと、四十三……、だったかな?」
随分違う。下一桁が同じという感覚に余計頭が痛くなる。だいたい、同い歳の親だと『お嬢さんを下さい』とは言い難いじゃないか。
「じゃあ、お父さんにマッサージしてあげる」
小宮さんがソファの後ろに回って肩に手を置いた。肩から首筋に掛けて少し力を入れて揉んでくれる。これは、ヒレの感じとは違う、ちゃんとした手の圧力だ。
「ああ、気持ちいい……」
盆の窪の奥辺りがジーンと染みる。
「もう、朽木くん、おじいちゃんみたい」
小宮さんの笑い声が手を伝わって頭に心地よく響いてくる。
「長生きしてよね、おじいちゃ――――」
016(月)
気がついたら布団の中ではっちゃんを抱いていた。壁の時計はもう朝であることを示している。
昨日、小宮さんにマッサージしてもらって、それからどうしたんだろう。
「牛丼は美味しかった?」
黒丸が満足気に笑っている。赤い裂け目に口付けをしてフルーツの香りを浴びる。
また、朝のルーティンだ。小宮さんの痕跡を探して、クローゼットを開く。昨日買った数点の衣装も見当たらない。着替えただろう洗濯物のひとつも籠の中にはなかった。
小宮さんはこの世界のどこにもいない。
そうか、私は何を惚けてたんだ。
写真を撮れば良かった。
昼休みにスマホを眺めていて思いついた。待ち受けに小宮さんの画像を貼っておこう。
そうだ、それがいい。
自分に頷いたとき、いきなりスマホが震えて着信を知らせた。
一瞬、小宮さん、と思ったが、見慣れた、意外な名前が表示されている。少し迷ってから画面をタップして電話に出た。
「もしもし」自然と声が低いトーンになる。
『ああ、パパ、いまどこ?』
茉弥花が生まれ、パパ、ママと呼び合った四年間は重い。
離婚したといっても、意識していないと何気なくそう呼んでしまうのだろう。別の呼び方を考えるのが面倒なだけかもしれないが、向こうは二人もパパがいたらややこしいだろうに。
「どこって、会社だよ、どうしたの?」
『茉弥花がいなくなったの、そっちに行ってない?』
そっちというのは『家に』ということか。
「いや、保育園は?」
『ちょっと、今日は休ませたの。そしたら、目を離した隙にいなくなって……』
「隙にって……、どこか具合でも悪かったのか?」
まるで監視でもしてたようなニュアンスを感じる。
『もしそっちに行ったら連絡ちょうだい』
「分かったけど、警察に連絡しといた方がいいんじゃないか」
『警察は、まだいいわ、心当たりを探してみるから』
一方的に通話は切れた。
茉弥花はまだ四つになったばかりだ。電車に乗って家まで来ることは難しいが、不可能ではない。駅周りでも探した方がいいかもしれない。
主任に事情を話し、午後から早退して家に戻ることにして、同僚に引き継ぎを済ませたとき、またスマホが震えた。
小宮さん!?
急いで通話をタップする。
『あ、朽木くん、いま茉弥花ちゃんが来てるんだけど……』
「あっ、かえってきたぁ!」
玄関のドアを開くとリビングから茉弥花が駆けてきた。後を小宮さんが追ってくる。
「おかえりなさい」
こんな状況なのに、誰かが迎えてくれる家はいいものだと心にくるものがある。
「ただいま」
茉弥花の頭を撫でながら靴を脱いだ。
「あのね、おかあさんがホットケーキやいてくれたの!」
「お母さん?」
小宮さんが照れ臭そうに自分の顔を指差す。
なるほど、と頷いてみせた。ママじゃないわけだ。
「はっちゃんがおかあさんだったら、おとうさんもさびしくないでしょ?」
茉弥花が、当然でしょ、という顔をする。そうか、向こうが新しくパパになったら私はお父さんか。先日、小宮さんに『お父さん』と呼ばれたことを思い出した。おじいちゃんよりましか。
「茉弥花ちゃん、急がないとクリームが溶けちゃうよ」
小宮さんが茉弥花に微笑みかける。
「わっ、おとうさんもはやくきて!」
茉弥花が慌てた様子でリビングに走っていく。後を追いかけようとしたら、小宮さんに肘を掴まれた。
「朽木くん」
潜めた声で顔を寄せてくる。
「茉弥花ちゃんから聞いたんだけど、パパにひどく叱られたんだって……」
茉弥花を膝に抱いて雑談のように話を聞く。茉弥花はこちらの問いかけに、どれも「新しいパパに叱られた」と言う。
「悪いことをした」
「いうことを聞かなかった」
理由を尋ねると、そう返事をするのだが、具体性がない。どんな悪いことをしたのか、どういうときにいうことを聞かなかったのか、答えが返ってこない。
多分、茉弥花は自分が叱られる理由が分からないのではないだろうか。幼いなりに、言葉にできない理不尽さを感じているのだろう。
理不尽な叱責。
行き過ぎた躾――虐待。
再婚相手の男に連れ子を虐待される話はよく耳にする。しかし、茉弥花の場合は単なる連れ子じゃない。それを望んで親権を持ったはずだろう。
「とにかく、あいつには連絡しないと」
「大丈夫?」
「ああ、心配ないよ」
子供に聞かれないよう、ベッドルームに移動して、アドレス帳の元妻のナンバーを叩いた。
待ち構えていたのだろうか、一度のコールですぐに出た。
『はい』
「茉弥花が家に来てる。一人で来たみたいだ」
『えっ、いま家なの?』
「ああ」
『あなたが連れ出したんじゃないでしょうね』
「違うよ、連絡があっていま戻ったところだ」
『連絡? 家に誰かいるの?』
「いいだろ、別に、そんなこと」
『ええ、いいわよ。あなたが家に誰を連れ込もうが』
別れたと言っても家に誰かがいることは気分が悪いらしい。
「そういう言い方はやめてくれ」
『とりあえず、すぐに迎えに行くから』
「それより、茉弥花がずいぶんひどく叱られたそうだけど」
返事に間が空く。
『あなたには関係ないでしょう!』
「新しい旦那が虐待なんかしてるんじゃないだろうな」
『そんなこと、ないわ!』
「こんな遠くまで一人で来るなんてどう考えてもおかしいだろう!」
『他人がとやかく言うのはやめて!』
「他人だって!?」思わず声を張り上げた。
『いますぐ行くから!』
電話が切れた。
リビングに戻って小宮さんに中身のない電話のことを話す。
「朽木くん、どうするの?」
「まったく、頭が痛いよ……」
首筋に鈍い痛みを感じる。
くそっ、またか……。