二人だけの秘密
010(火)
翌朝、何となく不快感に目を覚ますと、部屋はすっかり明るくなっていた。壁の時計に目をやると、もう七時半を回っている。
まずい、遅刻ギリギリの線だ。
慌てて起き出そうとして、下着にベタつきを感じた。どうやら寝ている間に下着を汚してしまったらしい。
そういえば、長いことそういうことをしていなかった。これではまるでほんとの中学生だ。
はっちゃんと布団が汚れていないことを確認して、急いでシャワーを浴びて家を出る。朝飯を食べている暇もない。
慌ただしいおかげで小宮さんがいないことを寂しく思う暇がないことは良かったのかもしれない。確かに昨日はいい夢を――良すぎたのだろうが――見ることができたような気がする。
会社に向かう電車の中でメッセージを送った。
<寝坊した。今日は朝ごはん抜き>
ショートメッセージに返信があったのは十時を随分回ってからだった。
<おはよう。お腹すいてない?>
きっと小宮さんは低血圧に違いない。
<おはよう。お腹鳴りっぱなし>
<お昼まで頑張ってね!>
こんな短いメッセージに顔がニヤける。
頑張るしかないじゃないか。
ガシャン!
ドアの開く大きな音にハッとして顔を上げた。
「朽木くん!」
ドアの隙間から覗く小宮さんの顔色が青い。立ち上がろうとして足が滑った。浴槽の中で横になっていたんだ。
「ああ……」
状況が思い出せない。
「もう、あんまり静かだから心配しちゃったよ」
「ああ、もう上がるよ」
体を起こすと小宮さんは慌てて顔を引っ込めてドアを閉めた。
なんで私は風呂に入ってるんだ?
身体を拭いて脱衣場に置いてあった洗いたてのパジャマを着てダイニングに向かった。
「ごめんごめん」
「なに? 寝てたの?」
「そうみたい」
違う。帰ったら小宮さんはいなかった。
何もなかった。そうだ、小宮さんがいたという事実の全てがなかった。昨日、大量に作って「明日も食べよう」と言っていたカレーの残りも何もない。それで、途方に暮れて、風呂に入ったんだ。
確か……、そうだったような気がする。
「もう、溺れちゃうよ」
小宮さんが笑う。
いや、いるじゃないか。こんなに愛らしい。
「さ、食べよ」
幻のはずがない。
これ程美味しい晩御飯が。一晩寝かせたまろやかな甘口カレーが。
「そうだ、きょう、洗濯してくれたんだね」パジャマも洗い立ては気持ちいい。
「えっ、ああ……、うん、洗濯物溜まってたし、お天気良かったから……」
「ごめんね」本当に家事をやってくれてるんだ。
「あ、えっと……、ううん、大丈夫だから」
ん? 大丈夫? 洗濯物!? あっ!
あの汚れた下着を洗濯籠に放り込んだままだったんだ。
「……ごめん!」
「大丈夫、ちゃんと手洗いしてから洗濯機入れたからね」
そういう意味と違う。全く大丈夫じゃない。小宮さんにあれを手洗いさせたのか。
この様子だと、彼女はあれが何かをわかっているようだが。中学二年生なら女の子でも知識として知っているのか。
「ごめん、気を付けるよ」
「気にしなくていいよ。ちょっとびっくりしただけだから」
だめだ、謝れば謝るほど小宮さんがあれを手にしたときの具体的な情景が頭に浮かんでくる。それ以上は黙ることにしたが、それはそれで気まずい雰囲気が残ってしまった。
食事が終わって、小宮さんに風呂を勧めて後片付けにキッチンに立った。
彼女はまだ子供だ。背も低いし幼い顔立ちでパジャマ姿など小学生でも通用する。中学生なのは知識と体重ぐらいのもんだ。
そんな子にあんなものをいきなり掴ませるなんて。
もし年頃になった茉弥花が男の汚れた下着を洗わされたらと思うとゾッとする。
しかも私はそういう少女に対して、思いを遂げたいという淡い――いや結構強い気持ちがあるのだ。
彼女は家族でも親戚の子でもない。私が男として初めて好意を抱いた女なのだ。お互いが淡い思いでいられる時代を私だけが過ぎてしまった。全てを知っているのに知らないことにできない。いずれ私は小宮さんを穢してしまうに違いない。けれども、彼女にはそこから逃れる術はないのだ。
私は、大人としてちきんとした対応を取らなければならない。
パジャマ姿の小宮さんがリビングに戻ってきた。
「小宮さん、ちょっといいかな?」
私は彼女を誘った。
ベッドルームの廊下を隔てた向かいは茉弥花が産まれたときに子供部屋にしようと考えていた部屋だが、実際には離婚する三月ほど前から家庭内別居の妻と子供の部屋になっていた。
「この部屋、空いてるから使っていいよ」
扉を開けて中に勧める。
「子供が来た時に使うかもしれないと思ってこの間も掃除したから綺麗だし」
もちろん、茉弥花が泊まることなど一度もなかったが。
「小宮さん、女の子だし、いろいろ、プライベートな場所も必要だと思うし」
「あ、うん……」
「自由に使っていいから」
「今日からここで寝るの?」
「どうする?」
狡い言い方だと思う。心の中で「一緒がいい」という彼女からの回答を望んでいる自分がいる。
「うん」
小宮さんが小さく頷いてベッドに腰掛ける。
私はおやすみを言って部屋を出た。向かいの部屋に入ってベッドに潜り込む。
はっちゃんも、もちろん小宮さんもいない。
わずか十日前まではこんなに広いベッドで寝ていたんだ。
<朽木くん、ありがとう。おやすみなさい>
小宮さんから届いたメッセージ。
<おやすみなさい。小宮さん>
少し待ってもそれ以上の返信はなかった。
011(水)
夜中に何度も目を覚まして、明け方近くに諦めて起き出した。
小宮さんのために朝食を準備する。ダイニングテーブルにラップを掛けておいた。
出しなに彼女の部屋をそっと覗いてみる。ベッドの中ではっちゃんがまるで私の分を開けているかのように右側を空けて寝ている。
黒丸と赤い裂け目。
両頬の笑窪。
はっちゃんの寝息が聞こえるような気がする。昨夜、あの場所にはっちゃんを寝かしたのはきっと私なのだ。
「行ってきます」
起こさないように、小さく声を掛けた。
「朽木くん、何やってるの!?」
背中から怒鳴られてハッとする。振り返ると小宮さんが驚いた顔で部屋の入口に立っていた。
「えっ、何って……?」
周りを見ると、小宮さんが使うことになったベッドルームだ。手にはハンガーを通したままの彼女の制服があった。
「もお、やめてよ!」
彼女は私をクローゼットから引き剥がすと制服を奪い取ってハンガーラックに掛け、クローゼットの扉を勢いよく閉めた。
「ああ、ごめん、ぼうっとしてた……」
状況がまだ飲み込めていない。
「ぼうっとって……」
小宮さんが私の顔を覗き込む。
「……ほら、晩御飯にしよ」
彼女が私の背中を押して部屋から追い出した。
「ねえ、お仕事って大変なの?」
「えっ、いや、そんなことはないけど?」
「ほら、いろいろ、ストレスとかあるのかなって……」
「まあ、仕事だからね。でも、そんなにきつくはないよ。どうして?」
「朽木くん、会社から帰ってきたら、なんか、いつも変なんだもん」
変。
今日、会社から帰ると小宮さんがいなかった。そうだ、いなかったのだ。家の中を探し回って、小宮さんの痕跡を探そうとしたが、どこにも見つけられなかった。小宮さんに使ってもらっていた部屋もベッドにはっちゃんが転がっているだけの空っぽで、クローゼットを開いて元妻が置いていったハンガーを呆然と手に取っていたのだ。
決して小宮さんの下着を物色しようとしたのではない。
「小宮さん、僕は、妻も子供もいなくなって、一人でも平気だと思ってた。けど、小宮さんが家に来てくれて、すごく幸せなんだ。もう、小宮さんがいない世界なんて考えられない。だから、不安なんだ、小宮さんがいなくなってしまうんじゃないかって」
「私は、どこにも行かないよ。行くところなんてないし……」
「そう」
「あ、でも、仕方なくているんじゃないからね。私、朽木くんのところだからいるんだから」
「うん、ありがとう」彼女が笑窪を見せてくれたことにほっとした。
ベッドに入って隣を見た。左側を空けてしまっていることに気付く。
小宮さんが寝たら、はっちゃんを連れてこようか。どうせ、もうすぐまた現実の世界に戻るんだ。
静かな部屋にスマホのメッセージ着信音が鳴った。ヘッドボードに置いたスマホに手を伸ばした。
<朽木くん、起きてる?>
小宮さんからだ。
<起きてるよ>
<そっちに行ってもいい?>
<いいよ>
しばらくして隣の部屋のドアの音が聞こえた。体を起こして待った。
それからまた、少しの間を置いて扉をノックする音が響いた。ドアの前で逡巡していたのだろうか。
「どうぞ」
パジャマ姿の小宮さんはいつもより小さく見えた。
「どうしたの?」
「あのね、こっちで寝てもいいかな?」
ここにはベッドはひとつしかない。
「ああ、いいけど」
「うん」
私が空けていたベッドの左側に彼女が滑り込んできて身を横たえた。
「朽木くん、私のこと、好き、だよね?」
「うん、もちろん、とても……」
「私も、朽木くんのこと、好き、だから」
「小宮さん……」
彼女が何を言おうとしているのか、酷く不安になった。
「朝起きてから朽木くんが帰ってくるまで、ずっと一人で、お料理とかお洗濯とか、家のこといろいろしながら朽木くんが帰ってくるのを楽しみに待ってるの。それなのに夜も向こうの部屋で一人でいるのは寂しいよ。私はまだ子供だけど、朽木くんはもう大人だから、いろいろと…… そう、我慢してるんでしょ? 私、そんなので朽木くんと気まずくなっちゃうのは嫌なの。だから、いいの……」
この子は昨日の下着の汚れのことやクローゼットの制服に抱きついていたことを気にしてるんだ。こんな女の子に気にするなという方が無理なほど、ショックな事だったろう。
「小宮さんが僕のことを好きだ、一緒にいたいって言ってくれたのは凄く嬉しい。でも、その好きって、そういうことをしたいって思うような好きってことじゃあ、まだないよね」
「でも、大丈夫だと思う」
「小宮さんの体も僕の体も、欲望を満たすための道具じゃないんだ。心の形なんだよ。ゆっくり仲良くなろう。そういったじゃない? 僕は小宮さんの笑顔が欲しい。だから……、お願いだから、傷つかないで」
「うん」
少しほっとする頬にうっすらと笑窪が覗く。
「ありがとう、でも、ホントにいいの?」
「うーん、ちょっと残念。かっこつけすぎた」
小宮さんの目がはっちゃん並にまんまるくなった。
「ねえ、小宮さん。手、繋いでもいい?」
「えっ、うん」
布団の中で小宮さんの手が動く気配がする。
私も左手を動かすと小宮さんの腰の辺りの柔らかなパジャマに触れた。彼女がその手をそっと掴んできた。
初めて触れた小宮さんの手だった。
サテンの布地じゃない。柔らかで暖かくて小さな手だ。
「小宮さんの手だ」
握った彼女の手の甲を親指でなでる。
「そうだよ」
少しくすぐったそうに笑う。布団の中で彼女と指を絡め合った。
「朽木くん、これって、コイビトツナギっていうんだよ」
「僕たち、恋人同士かな?」
「うーん、内緒」
小宮さんがふふっと笑いながら視線を逸らして天井を見る。
「内緒?」
小宮さんがにっこりと頬を緩ませる。
「そう、秘密なの」
「秘密かぁ」
「うん、二人だけの秘密」
私たちは、ゆっくり仲良くなっているんだろうか?
「小宮さん」
呼びかけにこちらを向いた、柔らかそうな頬の笑窪。黒いフエルトのまん丸ではない、奥二重の細い目。赤く縢られた裂目ではない、淡いピンク色の薄くて大きな唇。細くてしなやかな真っ黒な髪。フルーツの香りじゃない、優しいシャンプーの匂い。
全部小宮さんだ。
小宮さんがゆっくりと瞬きをした。
「おやすみ」
握った手にキュッと力を込めた。
小宮さんがふっと吹き出すように笑う。
「ん?」なにか可笑しいことを言ったかな。
「キスされるのかと思っちゃった」
「えっ、いいの?」慌てて体を向けた。
「ダメだよ、ダーメ」
彼女の気持ちがわからない。
「おやすみなさい、朽木くん」
手にキュッキュッと小宮さんの返答が帰ってきた。私がキュッキュッキュッと三回握り返したので、それからキュッキュッの回数が増え続けて、私たちはしばらく寝ることができなくなってしまった。
012(木)
「おはよう、小宮さん」
私はベッドの中ではっちゃんの鰭を指先でキュッキュッっと摘まんだ。
はっちゃんの表情はとても優しくて穏やかだった。
そっと口づけをすると、甘いフルーツの香りが拡がった。