パジャマ
009(月)
朝、目が覚めるとはっちゃんが腕の中にいた。
いつもと同じ、心地よい眠りだった。
赤い裂け目に口付けをして、柔らかな肌をそっと撫でた。ふんわりと甘いフルーツの香りがする。
いつもと変わらぬ一週間が始まる。パンとコーヒーと目玉焼き、か。
そうだ、パンがない。一枚残っていたヤツがあったはずだが見当たらない。まあ、あったとしてもとっくに消費期限は過ぎていただろうけど。
あいつ、お腹が空いてこっそり食べたんじゃないのか?
小宮さんが意外と食いしん坊だということは食事の様子でわかってる。
そうだな、彼女が食べたのであって欲しい。
そうだとしたら彼女がここにいたということになる。
とりあえず、飯でも炊くか。味噌汁はインスタントでいい。
ご飯が炊けるまでの間、シャワーを浴びてみたが、浴室から出ても小宮さんはいなかった。
酷く、酷く侘しい一人きりの朝食だ。
インスタントの味噌汁をすすると口の中にしみて、舌で探ったら唇の裏に口内炎ができていた。
あれ、どっかでぶつけたっけ?
余計に気分が落ち込む。
痛みに耐えながら味気ない朝食を済ませて家を出た。
スマホのメッセージ着信音が鳴ったのは午前の仕事中だった。
いつもはサイレントモードにしているのだが、昨日はっちゃんにスマホの説明をしてて設定を解除していたのだった。
<おはよう。朝ごはんありがとう>
小宮さんの分の目玉焼きをダイニングのテーブルにラップを掛けて置いておいたのだ。
<小宮さん、会いたい!>
<真面目にお仕事して下さいね>
小宮さんがいる。家にいる。はっちゃんのスマホは家に置いたままだ。誰がそれを使える? 小宮さんだけじゃないか。
やっぱりいるんだ。帰りたい。帰って確かめたい。小宮さんに会えるなら、昼から早退したっていいじゃないか。
いや、もう仕事なんかやってる場合じゃない。理由なんか適当でいい。
一時間ほど自問自答を繰り返し意を決して席を立ったらスマホのバイブが鳴った。表示を見て慌てて画面をタップする。
「はい」
『あ、小宮ですけど……、朽木くん?』
「うん、どうしたの?」
『あのね、あ、いまお話してて大丈夫?』
「うん、もう昼休みだから」まだ十分ほど前だがどうでもいい。
『あのね、これからお買い物に行ってもいいかな?』
「買い物?」
『うん、いろいろ、買いたいものとかあって』
「買いたいもの?」
『あの…… いろいろ……』
先日の買い物で迷っていたドラッグストアでの様子を思い出した。
「ああ、いいけど、一人で大丈夫?」
『大丈夫だよ。ジャスコだし』
「ああ、ジャスコね……」彼女の中では永遠のジャスコなのだろう。
『それでね、あの、お金がね……』
「ああ、ごめん、気が付かなくて」
家に現金は置いてなかった。銀行のカードは自分が持ってる。
「えっと、ベッドルームのクローゼットに小さい引き出しがあるんだけど、分かるかな?」
『引き出し? ちょっと待ってね……』
小宮さんが動き出した気配を感じる。
『と…… あ、あった、あったよ』
「それの上から三段目にゆうちょ銀行の通帳があると思うんだけど」
『あ、うん、これかな? ゆうちょ銀行……。郵便局の?』
「ああ、そう、それにカード挟んでない?」
『うんと……お、うん、あるある』
「それで郵便局のATMでお金下ろしてくれる?」
『えっ、いいの?』
「いいよ、暗証番号は……」
さすがに暗証番号を口にするのはまずいだろう。
「後でショートメッセージで送っとくから」
『うん、幾らぐらい下ろしたらいい?』
「えっ、そだね、とりあえず五万ぐらいでいい?」
『あ、でも、そんなにいらないよ』
「残ったら普段の買い物にでも使えばいいよ。欲しいものがあったらなんでも買っていいからね」
『うん、ありがとう』
「お金、落とさないようにね」
『えーっ、緊張するう』
「まあ、楽しんでおいでよ」
『うん』
「……」
なにか、言いたい。もう少し、声を聞きたい。
『あ、あのね、朽木くん』
「なに?」
『今日の晩御飯、カレーにしようと思うんだけど、朽木くん、辛いの大丈夫?』
「うん、大丈夫。辛いの好きだよ」
『じゃあ、ちょっと大人のカレーにするね』
「楽しみにしとくよ」
『早く帰ってきてね』
早く帰ってきてね。
早く帰ってきてね。
早く帰ってきてね。
…………。
彼女の愛らしい声が、私の中で繰り返し響いた。
定時で終えて駅までの道を全力で走りきると、いつもより一本早い電車に飛び乗ることが出来た。
これなら六時半過ぎには帰れるだろう。
『早く帰ってきてね』
家に私を待っている人がいる。
早く帰りたい。小宮さんに会いたい。
最寄り駅からも膝に鞭を打った。
家のドアの前に立ったのは、まだ六時半になっていなかった。荒れた息を整えながらバッグから鍵を取り出す。鍵を開けようとして、ふと思い立ってドアホンを押してみた。
こいつを自分で押したことなんか一度でもあっただろうか。
部屋の中からチャイムの音が漏れ聞こえるが、中からの反応はない。
いない? いや、多分、カレー作りに集中してるのだろう。
キーを回してドアを開いた。
「ただいま」
灯りの点いていない部屋の中は酷く静かだ。
「小宮さん?」
急いでリビングに飛び込む。ダイニングにもキッチンにも、小宮さんの姿は何処にもない。
ベッドルームに駆け込むとベッドには朝出掛けたときと同じようにはっちゃんが布団の中で転がっていた。
私はクローゼットを開けて引き出しの中を確かめた。そこには通帳や印鑑、部屋の合鍵などが放り込んである。その中のゆうちょ銀行の通帳を開いた。
カードを挟んだページの記帳記録は二ヶ月前が最後のままだった。
「小宮さん……」
布団を捲ってはっちゃんを胸に抱きしめた。それで、そのままベッドに倒れ込んで、何度も何度も柔らかな赤い裂け目に口付けを繰り返した。
「……くん」
呼んでる?
誰かが体を揺すっているようだ。
「朽木くん」
名前を呼ぶ声にハッとして目を開いた。
「小宮さん……」
愛らしい笑窪が私を覗き込んでいる。
「ほら、ご飯だよ」
起き上がって当たりを見回した。私の部屋のベッドの上だ。
「もう、着替えてくるってこっちにきたまま戻ってこないんだもん」
「ああ、そうか」
確かに着替えてはいない。
「すぐ行くから、先行ってて」
小宮さんが少し不機嫌な顔で部屋を出ていくと、クローゼットの引き出しの通帳を開いた。カードを挟んだ二ヶ月前の記帳の記録の次のページに繰越があった。
『出金五万円』
頭が痛む。さっきは次ページの繰越を見逃していたのか?
リビングに入るとはっきりとカレーの香りに包まれる。
「ああ、朽木くん、いま用意するから座ってて」
キッチンからトレーを持って小宮さんが出てきた。
「ありがと……」
彼女がトレーをテーブルに置いてカレーの盛りつけられた皿を並べた。
「さあ、食べよう」
カレーは野菜と肉がたっぷりと入ったとろみのある家庭のカレーだ。丁寧に作ったのだろう、しっかりとしたやや甘口のカレーだ。
「どう? 辛くない?」
「えっ? ああ、大丈夫、美味しい」
「家、ずっと甘口だから」
「僕の家は中学に入ったら中辛だったかなぁ」
「わたしだって中二だよ。来月にはもう十四歳になるんだから、絶対辛口だよね」
女の子の家ってそういうものなのかな。
「あ、でも、ちょっと辛いね」
小宮さんがコップの水に手を伸ばして笑う。
二年の春のキャンプのときもカレーを作ったっけ。あのときも、小宮さんは向かいに座って、辛いってハアハア水を飲んでいた。
「今日は、買い物に行ったの?」
「あ、うん、着替えを少し……」
小宮さんの服は制服のままだ。着替えというのは下着のことなんだろうか。汗をかく季節だ。着ていた一枚だけというわけにはいかない。
どんなのを買ったのか、興味が湧いてくる。
「いろいろ、服も買えば良かったのに」
「でも、結構高かったから」
「ずっと制服だと困るだろ?」
「うん、そうだけど……」
「せめて上下、そうだな、とりあえず三、四枚ずつは買っとこうよ」
「じゃあ、今度のお休みに一緒に買いに行って」
「それはいいけど、それまで着替えがなくてもいいの?」
「うん、実はパジャマ、買ったの。でも、ちょっと高くて……」
小宮さんがちらっと舌を出す。それで服を買うのを躊躇ったのか。
「気に入ったんならいいじゃない。どんなの?」
「えっ、あ、後でね」
少しはにかむ頬が染まった。
まあ、楽しみは後に取っておくのもいい。
小宮さんが使ったお金は一万円に満たなかった。テーブルに出してきた四万幾らかのお釣りとレシートをそのまま小宮さんに返した。レシートを見れば小宮さんが何を幾つ買ったのか分かってしまうのが、良くないように思ったからだ。
「小宮さん、家にいるなら家計簿付けてよ」
「家計簿?」
「うん、お小遣い帳みたいな簡単なのでもいいから。僕の通帳と、給料も渡すよ」
「うん、やってみる」
「もう、長いことお金の管理なんてしてないからなぁ……」
「なんか、ホントに主婦って感じだね」
「頼りにしてるよ」
「朽木くん、頼りないもんね」
あの頃はそんなふうに思ってたのだろうか。
風呂上がりの小宮さんは私に新しいパジャマを披露してくれた。
襟のない丸首の半袖パジャマは赤いギンガムチェックで子供らしい可愛さがあった。そういえば、あの日の小宮さんもギンガムチェックのパジャマだったっけ。
背の低い彼女が着ると小学生に見えなくもない。
いや、これはあの時のパジャマだ。たまたま、同じようなのを売っていたのか。
体型に合わせてゆったりサイズなのか、大きく開いた首元は動きによっては目のやり場に困るところも同じだ。どうも寝るときはブラをしないようだ。
「すごく可愛いよ」
素直に感想を述べると、少し得意げにポーズをとった。彼女が『高かった』というそのパジャマはイオンタウンの専門店街で三千九百八十円だったらしい。
リビングの灯りを消して、二人でベッドルームに向かう。
小宮さんは今日の買い物のことを楽しそうに話す。当たり前のようにベッドに入って隣に私のスペースを開けてくれる。
私は彼女の隣に滑り込んだ。
灯りを消しても、小宮さんは隣でおしゃべりを続ける。
パジャマを買うのに二時間近くも迷ったこと。
消費税が高くて驚いたこと。
仕事を頑張ってる私のために、カレーの肉をワンランクアップしたこと。
息がかかるほど近くにいる、無邪気に話をするあどけない横顔。私はこの少女といったいどうしたいのだろう?
「じゃあ、そろそろ寝ようか?」
腕を横に伸ばすと、彼女はその腕にサテン地のサラサラとした首を乗せて枕にした。
「うん」
頬っぺたの笑窪が微笑む。抱き寄せると腕の上をはっちゃんがころころと転がって私の胸に飛び込んできた。
「好きだよ」
黒丸を見つめながら赤い裂け目に唇を合わせるとフルーツの甘い香りに混じってカレー匂いがした。