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008(日)


 日曜日の朝なのに珍しく早くに目が覚めた。

 時計はまだ六時を回ったところだ。はっちゃんの鰭をパタパタと振ってみたが、起きる気配は全くない。昨日は張り切りすぎたんだろう。お疲れの様子だ。

 そうだ、小宮さんは?

 はっちゃんが寝てるということは小宮さんはいないのか。

 ベッドを抜け出してリビングに向かった。やっぱり小宮さんの姿はなかった。

 昨日の夜は、食事の後、ソファに座って、スマホを買ってあげる約束をして……。

 そのあと何をしてたのかが全く記憶にない。ひょっとしたら男女の関係があったのかもと期待したが、それらしい感覚は全くない。いや、そういう関係になっていたとしても、覚えていなければ全く意味がない。

 時間は十分にありそうなので朝風呂に入ることにした。結局、昨日は風呂に入ってなかった。けれどシャワーという気分でもない。とりあえず、湯船の中で身体を伸ばしたい。

 湯が張れるまでの間、ソファに体を預けた。

 小宮さんってなんなんだ。私が夢で見た幻影なのか。

 小宮さんは確かにいたように思うのだが、彼女に触れた感覚がない。いつも、あるのはサテン地のサラサラとした感触と中綿の柔らかな弾力だけだ。

 給湯器の湯が張れたことを知らせるメッセージアラームにハッとして顔を上げると、キッチンに小宮さんが立っていた。

「あー、おはよー」

 まだ眠いのか、欠伸を噛み殺しながらの挨拶だ。

「おはよう、起きたの?」

 いつの間にキッチンに来てたんだろう。

「うん、携帯屋さん行くと思ったら目が覚めちゃって」

 なるほど、スマホが楽しみなんだ。七時前ではそれほど早起きという時間でもないが、彼女の子供らしさに心が和む。

「でも、いまからお米研ぐとこだから、朝ご飯はちょっと待っててね」

「じゃあ、先にお風呂入る?」

「えっ、朝から?」

「結局、夕べも入ってなかったし、もうお湯入れちゃったから」

「うん、じゃあ炊飯器仕掛けたら入る」

 小宮さんは時間を掛けて丁寧に米を洗うと炊飯器のスイッチを入れた。次からは無洗米にしよう。

「じゃあ、先に入ってくるね」

「一緒に入ろうか?」

 バスルームに向かう背中にからかうつもりで声を掛けた。

「あ……、うん……」

 彼女は、立ち止まって振り向くと小さく言葉を切った。

「やっぱり……、一緒に暮らすって、そういうこと、だよ、ね」

 困ったような表情を浮かべて、真剣な目で私を見つめてきた。

「ごめん、違う。冗談だよ、ただのエッチな冗談。ほんと、ゆっくり仲良くなりましょうって約束したじゃん。教室にいるときみたいに、普通に、怒っていいんだよ」

「うん」

 ほっとしたように、表情を崩した。

 私は馬鹿だ。

『もう、朽木くんのエッチ!』

 そんな反応を期待していた。彼女は二人の生活をどう思っているんだろうか。さっきも、私が求めれば一緒に入っていたのだろうか。

 もっと他のことだって求めれば……。

 でも、それでは彼女の望む『ゆっくり仲良くなろう』にはならないじゃないか。

 ゆっくりだ、ゆっくり。

 小宮さんは、とてもゆっくりとお風呂を楽しんだ。

 中綿が水を含んで沈んでしまったんじゃないかとバスルームの近くまで様子を見に行ったら中で『だんご三兄弟』を熱唱していた。



 カウンターの向こう側でショップの店員がチラチラと私の隣の席を気にしている。無理もない。イスに置いたカバンの中から異様なぬいぐるみが見つめているのだ。しかも、この客はまるでそのぬいぐるみ用のスマートフォンを契約しようとしているように見える。

 でも、契約者も使用者も書類の上では私なので何も問題はないはずだ。

 はっちゃんはスタッフの説明に真剣に頷きながら耳を傾けている――ようには見えないが。そういえば、はっちゃんに耳のような構造はなかった。

 はっちゃんが首を傾げる時は私がスタッフに聞き直さなければならない。

 データ通信制限の説明では無制限なのに制限がかかることにどうにも納得できないみたいで、仕方なくはっちゃんに小声で、

「後で僕がきちんと説明するから」と耳打ちしなければならなかった。

 最後に手続きの終わったスマホを見つめる彼女の黒丸は非常に満足げだった。



 その後、彼女を買い物に誘ったが、早くスマホに触りたいらしく、そうそうに引き上げた。

 はっちゃんをリビングのソファに座らせて、スマホの説明をする。通話の仕方にメッセージアプリ、メールソフト。

 まるで人形相手のおままごとだ。

「小宮さん」

 微笑んだまま黒丸はスマホを見つめている。

「ねえ、『朽木くん』って呼んでくれよ」

 せっかく一人に慣れていたのに、もう一人では寂しくていられない。

「小宮さん」

 はっちゃんを抱きしめてソファに転がった。強く抱いても、何度呼びかけても、はっちゃんの香りがするだけった。



 スマホの着信音が鳴っている。

 目を開けて顔を上げるとソファの上だった。はっちゃんにしがみついたままウトウトとしてしまったらしい。

 テーブルのスマホに手を伸ばした。アドレスに登録のないナンバーからの着信だ。

 画面をタップして顔に寄せた。

「はい」

 返事がない。

「もしもし……」

『女は預かった。返して欲しければ一千万円用意しろ』

 周りを見回すと、はっちゃんがいない。

「小宮さん?」

『安心しろ、女は無事だ。今はな……』

 声色を使っているが、小学生レベルだ。

 かくれんぼか。

「どこにいるの?」

 周りを見回して、目に付く範囲にはいない。廊下に出るとトイレの灯りが点いている。

『さあ、逆らうと女の命はないぞ』

 電話の声とオーバーラップしてトイレの中から声が漏れ聞こえる。

「待って、その子は僕の命より大切な人だ。ずっと好きで、一度は諦めたこともあったけど、ようやく一緒に暮らせるようになったんだ。愛してる。もう離れたくないんだ。その子を幸せにしてやりたい。お願いだから、返してくれ」

『……そこまで言うんだったら、返してあげてもいいかなぁ……』

 トイレのノブに手を掛けてドアを開いた。

「あ、朽木くん」

 中で便座の蓋に腰掛けてスマホを耳に当てている小宮さんがいた。

「何やってるの」

 思った通りの光景に呆れる。

「だって、最初の電話は朽木くんとがいいなって思ったから」

「ああ、ありがと」

 なるほど、それなら普通の電話が良かったんだが。

「朽木くん」

「うん」

「朽木くん」

「なに?」

「朽木くん」

「なんだよ」

「朽木くん」

「だから、なに?」

「だって、『朽木くんって呼んでくれ』って泣いてたから」

 私はトイレの床にしゃがみ込んで、目の前にあった膝に額を付けた。

「聞こえてたのかよ」

「ちゃんと聞こえてたよ。朽木くん」

「なあ……」

「なあに? 朽木くん?」

「聞こえてるなら直ぐに返事をしてよ」

「それは…… ごめんね、朽木くん」

「小宮さん。ずっと、小宮さんと一緒にいたい」

「もお、こんなおトイレで告白しないで、朽木くん」

 小宮さんの膝を抱きしめた。

「ほら、リビングに行きましょ。朽木くん」

「もう、なんにでも『朽木くん』なんだな」

「嬉しい? 朽木くん?」

「ああ、すごく嬉しい」

 顔を上げると小宮さんのいたずらな笑顔があった。それで、目の前の彼女の膝に口付けをした。

「きゃっ!」

 いきなり脚を動かされて、口に膝蹴りを喰らう格好になった。

「もう、やめてよ!」

「ああ、ごめん」

 口の中に血の味がする。歯にあたって切ったようだ。

 小宮さんが立ち上がって腰に手をやる。

「ほら、もう出て出て」

 私を立たせるとドアの外に追いやった。それで、中からドアを閉めた。カチャッとロックが掛かる音がする。ノブに手を掛けたが回らない。

 思わずドアを叩いた。

「小宮さん、ごめん、悪かったよ」

「……」

「小宮さん、ねえ、ちゃんと謝るから!」

「もう、オシッコ!」

「ああ……」そうか……。

 便器の蓋の開くカタンという音。服の布地が擦れ合う音。便座に腰を下ろす音。それから……。

「朽木くん」

「えっ?」

「怒ってないからね。ちょっとびっくりしただけだからね。だからそこでトイレの音とか聞いてないでよね!」

 私は彼女が()()()()()()その場から離れた。


 リビングに戻るとソファにはっちゃんが転がっていた。テーブルには買ったばかりのスマホがショップの袋やパッケージと一緒に置いてある。

 慌ててトイレに戻ってドアを開けた。明かりの消えた中に小宮さんの姿はなかった。

 便器の蓋を開けると、僅かに水が動いている。

 しゃがんで便座に頬をつけた。仄かに人の温もりを感じる。

「小宮さん……」

 さっき、ここで用を足したのは私だったのかもしれない。

 はっちゃんのスマホにショートメッセージを送った。

<会いたい>

 その日、小宮さんが私の目の前に現れることはなかった。




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