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ジャスコとイオン

007(土) PM


「ねえ、ジャスコ行こう」

 小宮さんが洗い物のスポンジを握り締めてキッチンから叫ぶ。

「ジャスコって……、もう十年以上も前にイオンタウンに変わったよ」

「えっ、イオン……。そうなの?」

「いま、ジャスコなんて言うとオバサンって笑われるよ」

 オバサンどころか婆さん扱いだ。

「なんか、みんな変わっちゃったんだ……」

「小宮さんは変わらない。いまでも可愛いよ」

「ばーか」

 不満げに唇を尖らせる。

 小宮さんは可愛いんだ。とても。

 ダイニングからキッチンに回って洗い物をする彼女の後ろに立った。

『ゆっくり仲良くなろう』

 ゆっくりって、どれぐらいのスピードなんだろう。

 小宮さんの肩に手を置いた。

 はっちゃんのサテン地の滑らかな肌触りと柔らかな弾力にめまいを感じた。

 振り向いた黒丸が笑ってる。



 気が付くと、リビングのソファに座っていた。

 左腕ではっちゃんの肩を抱いている。たぶん、この辺りは肩だ。だいぶ慣れてきた。

 いつの間にか寝ていたようだ。

 はっちゃんは爆睡しているように見える。

 右鰭をパタパタと揺すったら、黒丸を眠そうにぼんやりとこちらに向けた。

「僕たち、やっぱりただの友達なのかな?」

 途端にぬいぐるみの顔になる。

 急に涙が溢れてきて、はっちゃんを強く抱き締め、あの甘いフルーツの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「小宮さん……」

『もう、早く買い物に行こうよ』

 彼女の抗議が聞こえてきそうだった。



 妻が――元だ――買い物に使っていたトートバッグを戸棚から引っ張り出してはっちゃんを突っ込んで買い物に出た。バッグは幅が50cmはある巨大なものだが、それでもはっちゃんの上半身がはみ出している。

 ここがパリの街中ならバゲットだとうそぶいてもいいんだけれど、いかんせん地方都市のローカル鉄道の駅前通りだ。

 異様な姿に振り返る人も多い。

 行先は20年前はこじんまりとしたジャスコだった巨大なイオンタウンだ。

 買い物は食料品を中心に、家にあるべきもので私の家に欠けているもの。

 ショッピングカートに乗せた買い物かごの中身は肉や野菜など、今日の献立が何なのか分からない品揃えになっていった。

 どうやらはっちゃんは明確な献立も決まってないまま、ただ買い物を楽しんでいるだけのようだ。

 鼻歌が聞こえてきそうだ。歩けるならスキップしているだろう。

 最初、私は彼女がどうやって欲しいものを買うのか疑問だったが、店内を回ってすぐに分かった。彼女が欲しいものや興味のあるものの前で引っ張られたり動かなくなる感覚が伝わってくるのだ。

 買い物をしていると、中学の時に感じていたのと同じく彼女が真面目で堅実な性格だということがよく分かった。

 食材は安いものや特売品を選ぶ。でも、いくら安くても、質の悪そうなのは手に取らない。

 鶏肉コーナーで彼女は鶏モモ肉を買おうと立ち止まった。そこには美味しそうな国産のブランド地鶏がある。

 私は鶏肉が好きだ。

 迷わずそれを手に取ると、はっちゃんが激しく抗議した。隣の若鶏モモ肉にしろというのだ。この若鶏もちゃんと国産肉で安心なんだと。

 その場でしばらくの押し問答の末、私が負けた。そもそも口論で女子に勝てるわけがない。しかも相手は想いを寄せる小宮さんなのだ。私は引き下がるしかなかった。

 一方で、お菓子売り場では二十年前にはなかった商品を珍しげに眺めていたが、カゴに入れようとはしない。

「何か買ってもいいよ」

『ホント!?』

 そううわずって言ったように感じるぐらいはっちゃんから強い感覚が頭にピッと伝わってきた。

 小宮さんはチョコレートが好きだった。

 そう思い出して様子を見ていると、ある商品に強く惹かれているようなのが分かったが、実際に選んだのは普通の板チョコだった。

 理由はわかる。

 魅力あるチョコレートは高いのだ。

 新商品のくちどけのいいチョコレートは297円。板チョコの三枚分の価格だ。

 が、そのくらいの値段で躊躇うところがまじめな中学生らしいではないか。

「こっちでいいかな?」

 新商品をかごに入れる。

 はっちゃんが震えた。

『えっ、それじゃないよ』

「こっちがよかった?」

 板チョコを指さす。

『だって……』

「それぐらい良いんだよ、食べてみたかったんでしょ」

『でも朽木くんには地鶏買ってあげなかったのに……』

「それ、気にしてたんだ!?」

 お菓子売り場で思いっきり笑う、ぬいぐるみを抱えた男を、近くにいた小学生ぐらいの姉妹が不思議そうに眺めていた。

 さて、卵は大量に買った。三パックだ。これで一週間の食事に十分に足りるだろう。

 専門店街のドラッグストアでは、はっちゃん用の歯ブラシとか、洗顔料などを選んでいたのだが、生理用品コーナーで非常に迷っている様子に見えた。

 気付かぬ振りをしては見たものの、買ってあげた方が良かったんだろうか。でも、果たしてそれはこの子に必要なのだろうか。



 家に帰って、ソファにはっちゃんを寝かせる。はっちゃんとの買い物はそれなりに楽しかった。イオンでの出来事を思い出しながら、肉や野菜を冷蔵庫に詰め込む。

 しかし、よくよく考えれば、これを誰が調理するのだろうか。

 小宮さんは『わたしがやる』と言っていたが、はっちゃんに話しかけても、体を撫でても、強く抱き締めても、あるのはふかふかとした弾力による癒しだけだ。

 あの、小宮さんの部屋で告白したことや、朝食を共に食べた記憶は本当に夢だったのだろうか。

 私には確かに目玉焼きを二個食べた実感がある。シンクには彼女が洗い物をしたスポンジが濡れている。なにより、生ゴミ入れに卵の殻が四個分捨ててあるじゃないか。

 私が寝ている間にはっちゃんが小宮さんに変わっているのか。どうすれば、小宮さんが出てきてくれるんだろう。

 寝てみるか……。

 夢を見ればいいのか。

 寝室にはっちゃんを連れて行き、ベッドに転がって胸に抱いて目を閉じた。

 優しく口付けして、背中をなでる。柔らかで暖かい。はっちゃんの香りに包まれる。

 フルーツに混じって微かな醤油と卵の匂い。そういえば、食事の後に歯磨きしてなかったっけ。 歯ブラシを買ってよかった…………。



「朽木くーん」

 小宮さんの声に目か覚めて、顔を上げた。

 まだぼうっとしている。ベッドの隣にはっちゃんはいない。声はおそらくキッチンの方からだ。

 時計を見ると、まだ六時過ぎだった。

 ふらふらとリビングダイニングに向かう。

「おはよう。早いね」

「もう、なに寝ぼけてるの? 晩御飯だよ」

 ああ、なんだそういう時間か。

 ダイニングには既に食器が並べられている。メインはグリルしたチキンだ。後は、ご飯と味噌汁とスクランブルエッグ。玉子の調理法は違っても、その組み合わせは朝と変わらないようだ。

 食卓に着くと、絶妙のタイミングでご飯と味噌汁が運ばれる。

 また、向かい合って『いただきます』をした。

 スクランブルエッグにはキャベツの千切りがたっぷりと添えてある。

 それで、メインのグリルチキンがすこぶる美味い。塩胡椒と今日買ったいくつかのスパイスやハーブが安いモモ肉をレストランの味に変えている。

「ごめんね、偉そうなこと言ったけど、隣にママか料理の本がないと自信なくて。色々材料は買ったんだけど、結局、この子、焼いただけなの」

「いや、すごく美味しいよ」

 鶏肉をこの子と言う感性は気になるところだが、これならわざわざ高い地鶏でなくてもいい。味噌汁も大根、人参と油揚げの入った真面目な家庭科の味だ。確かに猛特訓しただけの事はある。

 私のお嫁さんになるために特訓してくれたのなら嬉しいのだけれど。

「お料理の本とかでもっと勉強するね」

 健気な言葉に感激してしまう。



 食事の後片付けが終わって、小宮さんをリビングのソファに誘った。

「いいのがあるよ」

 わたしは小宮さんの隣に座ってスマホのレシピサイトを見せた。

「えーっ、すごい、いま携帯電話ってこんなのがあるんだ」

 隣に座った彼女がスマホの画面に感心する。

「小宮さんにもスマホ、買ってあげるよ」

「ホント? でも高いんでしょ?」

「いいよ、それぐらい。明日買いに行こうよ」

「だったらわたし、朽木くんのと同じのがいいなぁ……」

 液晶画面を慣れない手つきで撫でる小宮さんの無邪気な横顔が愛らしい。

『ゆっくり仲良くなろう』

 思い切って小宮さんの肩に腕を回して抱き寄せた。

 サテン地の柔らかな肌触りとちょっと驚いたような黒丸。赤い裂け目に唇を合わせた。




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