お嫁さん
007(土)
部屋に差し込む陽光で目が覚めた。
壁の時計は八時を過ぎている。
えっ、ヤバい、学校、遅刻だ! なんで母さん起こしてくれないんだ!?
焦って飛び起きたが、今日が土曜日なのを思い出した。
そうだ、昨日は告って、振られて、それで……、ん? 木曜日じゃなかったか…………。
横を向いたら、腕の中にはっちゃんがいた。
ああ、そうか、夢だったか。
悪い夢ではなかった。長い年月の間に記憶違いが生まれたのか、それとも願望が夢になったんだろうか。振られはしたけど、それほど悲惨なこともなかったみたいだ。公園で泣くこともなかったし。
あの、公園の記憶はなんだったんだろう?
黒丸と赤い裂け目の様子では、はっちゃんはまだ眠っているようだ。
これは、無音だがきっと大鼾をかいているに違いない。鼻でも摘まんでやろうかと思ったがこの子には鼻がない。
そっと枕にしている腕を抜いて体を起こした。布団を捲ってはっちゃんの身体を見る。ギンガムチェックのパジャマではないが、もちろん裸というふうにも見えない。
私はこの子とどんな関係だったんだろう。
寝ているはっちゃんにキスをすると、ぼんやりと黒丸の目を開いた。
「おはよう」
こちらの挨拶にフルーツの香りで返事をする。
まだ眠いようだ。
「小宮さんの夢を見たよ」
ベッドに仰向けに転がって、はっちゃんを胸に抱き上げた。頬っぺたの笑窪が愛らしい。もう一度キスをして、ぎゅっと抱き締めた。
「やっぱり、可愛かった」
はっちゃんの背中をなでながら、仄かな香りに包まれる。
「あのマスコット、欲しかったなぁ」
あの後も、あの人形を私が手にすることはなかった。
昨日の夢を思い出しながら、ふかふかの身体に触れて、口付けを繰り返した。
『ゆっくり仲良くなりましょう』
抱きしめたりキスしたりするのは良くなかったかな?
黒丸に赤い裂け目とふたつの窪み。
きょうの肌触りもサテン地ですべすべと滑らかだ。
ぬいぐるみ。
どこまでいっても布だ。
この子を抱いて寝ていたせいで見た、自分の都合のいいような、そうあって欲しいという願望の混じった夢だ。
それで、これはただのぬいぐるみか抱き枕だ。
「小宮さん……」
どんなに抱いても、布は肉に変わらない。
「朽木くん、もう起きて」
頭に何かがぶつかって目が覚めた。
ベッドの傍に小宮さんが腰に手を当てて立っている。顔をあげて、いまぶつかってきたのが枕だと気付いた。
「もう、お腹すいた。朝ごはんにしよう」
彼女は意外と手荒なところもあるようだ。
体を起こすと小宮さんは納得したように「早く来てね」とベッドルームから出て行った。
ベッドから降りて周りを確かめる。私の家の私の部屋だ。部屋の中にはっちゃんはいない。
はっちゃんがいなくて小宮さんが現れたということは、これは夢なのか。
『こんどは朽木くんの家にも遊びに行っていい?』
本当に私の夢の世界に遊びに来てくれたのか。
顔を擦るとざらざらした無精髭がリアルだ。パジャマをベッドに脱ぎ捨てて、シャツとズボンに着替える。
夢感が全くない。
ふと気になってクローゼットを開けてみた。がらんとした中にハンガーに掛けられた紺の制服の上着とエンジのボータイが吊るされていた。上着に触れると、しっかりとした布地で実物感がある。鼻を近付けるとはっちゃんの匂いに似た、仄かに甘く優しい香りに混じって、汗と砂埃のような匂いがする。
「朽木くーん、起きてるぅ?」
リビングの方から小宮さんの声がする。
「すぐ行く」
大声で返事をして、クローゼットを閉じた。
リビングに入ると奥のカウンターキッチンに小宮さんの姿があった。
小宮さんが両手に皿を持って手前のダイニングスペースに出てきた。白の丸襟ブラウスに紺のプリーツスカートは母校の制服だ。腕まくりをして生き生きと動く彼女のスカートの裾の揺れ方が余りにもリアルだ。
私が服装に注目していると思ったのか、立ち止まってこちらに向かって両腕を広げて見せた。
「これしかなかったから……」
「でも、可愛いよ」
「そう? いつもの制服だよ」
この歳になると女の子の制服姿を可愛く思うものなのだ。
「小宮さんはいつも可愛いんだよ」
「もお!」
からかわれたと思ったのだろう。頬を膨らませるのも愛らしい。目の前にいるのは間違いなく中学二年の小宮さんだ。
私の言葉に気を悪くしたのか足の裏に力を込めて大股で歩き始める。私がテーブルに着くと目の前に目玉焼きの乗った皿を乱暴に置いた。
卵を二つ使った目玉焼きだ。
「ああ、豪華だね」
「冷蔵庫の中、お米と卵ぐらいしかなかったよ。お味噌汁もインスタントだし」
「朝はいつもパンとコーヒーなんだ」
「だって食パン、一枚しかなかったんだもん」
昨日の帰りの時点では、まさか二人分が必要になるとは思ってなかったんだ。
「小宮さん、ご飯、ありがとう」
小宮さんが後ろに回り込んで耳元に顔を近付けてきた。
「分かればよろしい」
ポンと軽く肩を叩かれた。
「あ、うん」
私に触れた手の感触がはっちゃんの鰭のように柔らかで、振り向いたときには、彼女は軽い足取りでキッチンへ向かっていた。
「なんか新婚さんみたいだね」
声をそろえて『いただきます』をした小宮さんがテーブルの向こう側で薄紅に染った笑窪を見せてくれる。
ご飯と味噌汁と目玉焼きだけの食卓が、とても華やかだ。いつもは目玉焼きとバターを塗った食パン一枚にインスタントのコーヒーだった。
「うん」
私の結婚生活にもこんな時期があったのだろうか。笑顔の食卓はこんなにも心を満たしてくれるものなのだ。
目玉焼きに醤油をどばどばと掛けた小宮さんが私の目玉焼きの横に醤油差しを置いた。
「はい」
家では目玉焼きは塩胡椒だった。妻の主義で、ずっとそれに従ってきたのだ。一人の生活になっても、その生活から抜け出せず、ずっと塩胡椒で食べていた。
醤油差しを手に取って、目玉焼きに一筋掛ける。黄身の部分を箸で切り取り、口に放り込むと、とろりとした黄身の甘みと醤油の香りが口の中に広がる。
「美味しい?」
思わず頷く。
白身に焦げ目もなく、焼き加減が絶妙だ。
「料理、上手なんだ」
褒めるとちょっと得意そうに「へへっ」と笑う。目玉焼きで料理の腕前を推し量っていいものかどうかは分からないが、少なくともリンゴも剥けない女の子とは思えない。
小宮さんは卵一個分の目玉焼きをご飯の上に乗せ、黄身を箸で突き崩して黄色く輝くご飯を口に運んだ。
幸せな顔だ。
行儀が悪いといえなくもないが、だが、卵好きにとってあの食べ方が美味しくないはずがない。急いで自分も目玉焼きを切り取ってご飯に乗せ、醤油を追加する。この食べ方なら醤油は多めがいい。
「あ、朽木くん、真似するのずるい!」
向かいからの口調がまるっきり子供だ。
「この食べ方は美味いに決まってるだろう」
「なら最初からそうすればいいじゃん」
「小宮さんの前だからちょっと上品に食べなきゃいけないかなって思ったの!」
「そんなふうに気を使ってたらね、結婚生活なんて上手くいかないんだよ」
どこで仕入れた情報なのか知らないが、少なくとも結婚生活に関しては、私の方が豊富な知識と経験がある。が、そう言われると言い返せない。確かに、妻なら――元妻だが――絶対に認めない食べ方だろう。
そうだ、私の結婚生活はお互いに素顔を見せることがなかったんだ。
小さくため息が出てしまった。
「あ、なんか、そんなつもりじゃ……」
中学生に気を遣わせるのは情けない。
「いま、僕に気を遣ってる?」
「ふーんだ、新婚のうちだけ。特別なんだよ」
新婚さん……。
おままごとのように、あまりにも無邪気にその言葉を使うこの子と本当に二人で暮らしていけたらどんなに幸せだろうか。
「朽木くんも、お代りは?」
「ああ、貰おうかな」
朝におかわりをするなんてもう記憶にないほど遙か昔のことだ。
小宮さんが大盛にしたふたつの茶碗を持ってダイニングに戻ってきた。一体、朝から何合炊いたんだろう。
そういえば、小宮さんのお昼のお弁当箱が非常に小さかった記憶がある。
「そんなので足りるの?」
「えっ、いつもこんなだよ」
澄ました顔で少食をアピールしてた、あれはなんだったんだ?
白米をもりもり口に運ぶ満面の笑顔に、猫を被る、という言葉が頭に浮かんだ。
本当に、彼女は私に全く気を使っていないようだ。
「ね、お昼からどうする?」
彼女の問いかけに、壁の時計を見るともう十一時前で、なるほどこれが朝ご飯とは言えない時間になっている。
「特に予定はないけど」
「じゃあ、お買い物行こう。冷蔵庫の中、空っぽだったし」
「ああ、ずっと弁当か外食ばかりだったからなあ」
「これからはわたしがご飯作るからね」
「料理、できるの?」
目玉焼き以外で? リンゴの皮剥きでも危ういのに。
「ね、前にリンゴ事件って、あったでしょ?」
「あ、うん」
夕べ思い出したばかりだ。どうやら、あれは彼女の頭の中では『リンゴ事件』と呼ばれているようだ。
「あれからね、朽木くんを唸らせるために、家で猛特訓してるの。ママにも『そんなことじゃ、ちゃんとお嫁に行けないよ!』って言われて!」
毎日台所に立って、包丁の使い方からしっかりマスターしたらしい。血の滲むような――実際に何度も指先から血が滲んだ――努力だったそうだ。
「小宮さんの手料理なんて、夢みたいだな」
「もっといい夢、見せて、あ・げ・る」
語尾にハートマークが付いていそうだ。小宮さんがこんなキャラクターだったのは予想外だが、なんとも下手くそなウインクに体が熱くなる。
「けど、無理しなくていいよ。家事は二人で分担すればいいんだからさ」
「でも、わたし、専業主婦がいいな。お仕事だってまだ行けないし、学校だって……、ねぇ」
「そっか」
「うん、頑張るよ。お料理もだけど、ほら、掃除、洗濯、えっと買物、んと、育児とか」
小宮さんが家事を挙げながら指を折る。
「育児?」
「あ、だからそういうんじゃなくて!」
小宮さんは笑窪の回りを真っ赤にしながら、
「家事一般って意味だからね」と食べ終えた食器をガチャガチャと纏めるとキッチンへ行ってしまった。