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記憶の部屋

 気が付くとベッドに腰掛けていた。

 いつの間に寝室に来たんだろう。

 微かな頭痛と首筋に凝りを感じる。首の後ろを揉みながら隣を見るとはっちゃんはいない。

 どこかいつもと違う雰囲気に周りを見渡した。

 淡いピンクに統一されたベッドメイキング。陽の差し込む窓際の学習机に、壁のフックに掛けられた紺色の制服。あの特徴あるフロントファスナーのジャケットとエンジ色のボータイはうちの中学のものだ。そうだ、彼女のプリーツスカートは膝の隠れる少し野暮ったい、真面目な子の長さだった。

 遠い記憶の中にある部屋。

 女の子らしい可愛らしい雰囲気があってスッキリと綺麗に片付けられている。机の横に置かれたスクールバッグに下がったマスコットの人形は間違いなく小宮さんのものだ。

 なるほど、夢だ。これはあの日の夢なのだ。

 私は自分の姿を確かめた。夢でなければ私が中学生の頃の姿で小宮さんの部屋にいるはずがない。

 私が女の子の家を一人で訪ねたのは生まれて初めてのことだった。小学校の頃、クラスメイトのお誕生日会で女子の家に呼ばれたことは幾度かあったが、それは男女数人ずつが集まる賑やかなものだった。

 いまは、とても静かだ。

 なにか、いい匂いがする。どこかで嗅いだことのあるような匂いだ。

 甘い、フルーツの香り、桃……? そうだ、これははっちゃんの匂いだ。

 あのとき、小宮さんは私をこの部屋に通すと、

「ちょっと待ってて」といって部屋を出ていった。確か、その後、彼女は飲み物を持って戻ってきたんだ。

 グラスに入ったバャリース。よく覚えてるもんだ。

 壁には丸いシンプルなアナログ時計が掛かっている。

 時刻は3時10分。

 確か、冬休み前の短縮授業で、一旦家に帰ってからだから、こんな時間だったか。

 ドアハンドルのまわる音がして、そちらに目をやった。

 小宮さんがトレーを持って部屋に入ってきた。

 赤いギンガムチェックのフランネルのパジャマ。

 どんどん記憶が頭の中に湧き上がってくる。

 ピンポンを押すのに何分も迷って何度も家の前を往復したこと。

 ドアホンに向かって「朽木といいます」と言ったら「えっ?」とだけ応えてぷつっと切れたこと。

 慌てたように勢いよくドアを開けた彼女のびっくりした顔。

 ギンガムチェックのパジャマ。

「お昼寝してたの」とばつが悪そうに手で髪を撫でつけながら頬を染めていた。

「ちょっと、話があって」緊張してボソボソと喋る私を自分の部屋に案内してくれた。

 二階に上がる急な階段を昇る彼女の後ろ姿に――ほとんどお尻しか見ていなかった――喉がヒリヒリした。

「いま、ウチ、誰もいなくて」

 二人だけの彼女の部屋。寝ていた。パジャマ。甘い香り。

 自分が赤くなっていくのが、内側からわかる。耳が焼けるように熱かった。

 彼女がトレーからグラスを取って「はい」と手渡してきた。グラスを受け取ると彼女も自分のグラスを手にしてトレーを学習机の上に置いた。それで机から椅子を引き出してベッドの近くに寄せるとこちら向きに腰を下ろした。

 前髪がパッツンで肩口にかかるぐらいのストレートヘア。

 ふっくらとした丸顔にいつも笑みを絶やさない口元。

 愛らしい笑窪。

 ちょっと上を向いた小さな鼻を他の男子たちがよくからかっていたが、懐かしいこの笑顔が私が学校に通う目的のほとんどを占めていた。

 これから私が伝えなければならないことを思うと、教室の隣の席と変わらない距離なのに酷く緊張する。

 早速、手の中の冷たいグラスで喉を潤した。

「美味い」

 いままで飲んだことのないようなスッキリとしたオレンジジュースの爽やかな甘さにほっとする。

 小宮さんもグラスに口を付けると、ほわっと頬をゆるめた。

「やっぱり、バャリースとは違うね……」

 バャリースと違う? バャリースじゃなかったのか? 記憶の中では「バャリースだよ」そう言ったと思っていた。多分緊張のせいだ。

 彼女は、こくこくとグラスの半分ほどを飲んで「おいし」とそれをトレーに戻した。

 私はあまりの喉の乾きに飲み干してしまいたかったけど、我慢して彼女のと同じぐらいを目分量で残した。グラスをトレーに置こうと手を伸ばしたら、彼女が両手で受け取ってくれた。

 よく気の付く優しい子なんだ。

 そういった彼女の言葉や仕草のひとつひとつ全てが自分に対する好意だと思っていた。

 グラスをトレーに並べながら、

「やっぱりこっちにしてよかった」と独り言ちた。

「で、きょうはなに?」

 手を腿の下にはさんで少し前かがみに首を傾げる。女の子らしい仕草に、上のボタンをひとつ外したパジャマから白い胸元が輝いて見えて、もう少しさっきの飲み物が欲しくなった。

 彼女はこの状況で何を思っているんだろうか。いきなり訪ねてきた男子を親の留守中に、しかも寝起きのパジャマ姿で部屋まで通すんだからきっと好意を持ってくれているはずじゃないか。きっと、上手くいくはずだ。

 私はありったけの勇気を振り絞った。

「あの、僕は、小宮さんのことが好きなんだけど……」

 彼女の目が黒丸みたいにまん丸になった。ぽかんと開いた口元は一筋の赤い裂け目のようだ。

「……だから、僕と付き合ってください」

 言い切った。

 緊張のせいで『……だから~』がごにょごにょとして、はっきり言えなかったように記憶していたが、ちゃんと告白していたんだ。

「えっ、私?」

 小宮さんが自分の鼻の頭を指さす。

 私は三回頷いた。

「あ、でも、えっ? なんで、私……?」

 身体を背もたれに預けて両腕で自分を抱くように腕組みをすると、右手の拳で口元を叩いた。

 彼女との距離が少し離れる。

 その分、私はちょっと前屈みになって少しでも近付こうと試みた。

「小宮さんは真面目で優しいし、すごく可愛いくて、ホントに、大好きなんだ」

 そうだ、一度『好きだ』と口にしてしまった以上、もう畳み掛けるしかないんだ。頑張れ、私!

 小宮さんは信じられないといった感じで、それを否定するように小さく首を振った。

 彼女はクラスの男子からからかわれやすい体型をしている。容姿も幼くそこそこで、真面目だが成績はそれに追従していない。性格だって、みんなからは、ただの堅物扱いだ。

 異性からの好意の告白を素直に受け取れるだけの自信を持ち合わせていないのかもしれない。

「ホントにさ、あの、クラスの友達ってだけじゃなくて、もっと特別な付き合いがさ、小宮さんも僕のことが好きだったらって、ね……」

 よし、押せ、もう少しだ、押せ、私!

「ずっと、友達と思ってたから……」

 小宮さんが口元に手を当てたまま長考に入った。

「ん…………」少し困ったような撥音がどことなく艶めかしさ感じる。

 もやもやした気持ちのまま長い十五秒が過ぎる。

 いきなり小宮さんが椅子から立ち上がった。押し出された椅子が後ろにあった学習机にぶつかって派手な音を立てる。

「うん!」一人納得したように大きく頷いた。

「やっぱりお友達でいましょう。そのほうがいいと思う」

 一瞬、彼女の反応に『OK』の気配を感じていただけに次の言葉が出てこない。

 固まっている私を他所に、彼女はトレーに乗ったグラスをもう一度手に取って、一気に飲み干した。

 私は考える力を奪われて彼女の所作をぼんやりと見ているだけだった。

 あっけなく用件が済んでしまって、のそのそと立ち上がった私に、小宮さんは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんね」

 私の記憶はそれで終わっている。この後、家に帰って泣くつもりが、途中の児童公園で泣いてしまったんだった。

「ねえ、もうジュースはいい?」

 小宮さんがトレーに乗ったグラスをとって私に向けた。

「あ、ありがと」

 受け取って飲み干すとトレーに乗った小宮さんの空のグラスに並べた。

 これは、ずっと思い出せなかった記憶が夢の中でよみがえっているのか。

「あの、朽木くん、ごめん、もうすぐお母さん帰ってくるんだった」

 彼女が壁の時計をみあげた。

 僕も彼女の親に見つかるのがまずいだろうことは分かる。

 追い立てられるように部屋を出て、階段を降りた。一段降りる度に彼女の私に対する評価がずんずん下がっていくように思われて、このまま暗い地の底に押し込められてしまうような気分になっていく。

「ごめんね、せっかく来てくれたのに。ウチ、親が厳しいから、男の子が来たなんて分かったら、私、きっと、ママに殺されちゃう」

「女の子って大変なんだね」

 あまりに落ち込んでいる私を気遣ってくれてるようでもある。

「ね、こんどは朽木くんの家にも遊びに行っていい?」

「えっ?」

 振り向くと、こんなときにも小宮さんの笑窪が眩しい。

「うん、いいよ」

 急ぐように玄関を出て振り返った。

「じゃ、さよなら」

 今日のさよならは学校で別れるときと比べて非常に特別で重く感じる。

「朽木くん、あの、これね、お土産」

「えっ、これって、小宮さんの?」

 いつの間に持ったのか、差し出されたのは小宮さんのカバンにいつもぶら下がっているマスコットの人形だった。

「あのね、来てくれて、嬉しかったから」

 受け取って、マスコットの意味を頭で探った。

「いいの?」

「なんか、上手く言えないんだけどね、私たち、ゆっくり仲良くなりましょう。ね?」

「うん、ずっと大事にするよ」

「あ、でも、学校には持って来ないでね」

「うん、そうだね、ありがとう」

「あっ、そうだ、ちょっと見てもらいたいのがあるの、ね、待ってて」

 小宮さんはいきなり思い出したようにそう言って、僕の返事を待たずにドアを閉めてしまった。

 仕方なく、手にしたマスコットを眺めた。

 小さな帽子を頭に乗せた女の子が笑ってる。たぶん、小宮さんの手造りなんだろう。不器用なりに丁寧に縫った一生懸命さが分かる。

 どことなく小宮さんに感じが似てる。

 これは大切なものじゃないのかな?

 これをくれるのって、明確に友達になった印なのかな?

 それとも、友達から進んで行こうって約束なのかな?

『ゆっくり仲良くなりましょう』

 振られたけど、喜んでいいんだろうね。

「ね、そうだよね?」

 話し掛けたマスコットの笑顔に、少し、頬が緩む。

「何か、ご用ですか?」

 背中からの声に驚いて振り返ったら、女の人が門のところに立っていた。

 小さな子供の手を引いたそのおばさんは固い笑顔で僕に笑窪を見せた。

「あの、山中で小宮さんと同じクラスの朽木といいます」

 歳はわからないが、きっと、小宮さんのお母さんだ。この人が怒ると彼女の命が危ない。ガチガチに緊張して震えながら気を付けの姿勢で答えた。

「ウチの初子に……」おばさんが何かを言おうとしたとき、勢いよく玄関ドアがガチャっと音を立てた。

「おまたせ、朽、あっ、ママ」

 僕は小宮さんとお母さんの間に挟まれる格好になった。

「あの、小宮さん、これ、学校に忘れてたから、届けにきた」

 とっさに、手にしていたマスコットを小宮さんに差し出した。

「あ、ああ、ありがとう」

 彼女は瞬間で、全部を理解したみたいにマスコットを受け取ってちょこんとあごを引くように頭を下げてくれた。

「初子、何、そんな格好で!」

 お母さんがパジャマ姿を見た言葉はさっき小宮さんが言った通り厳しい口調だった。

「ごめんなさい」

 小宮さんの笑窪の頬っぺたが赤くなる。手にしていたノートみたいなのを隠すようにお尻の後ろに回した。

「さ、早く中に入りなさい」

 お母さんは僕の横に来て、

()()()()届けて下さってありがとう」と、柔らかく睨みつけてきた。

 頷くふりで俯いて目をそらすと、下にいるこちらを見上げている小さな女の子も頬っぺたに笑窪がある。

 小宮さんはお母さんに家の中に押し込められながらもマスコットを持った手をこちらに向けて振ってくれた。

「ありがとう、またあしたね」

「うん、あした」

 手を振り返すときにはもう小宮さんの姿は見えなくなっていて、残った小さな女の子が代わりに笑顔で手を振ってくれていた。けど、お母さんは僕を睨んだまま頷くような会釈をしてドアを閉じた。

 小宮さんが命を失うようなことにならなきゃいいけど。僕は心の中でそう祈った。



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