晩御飯
002(月)
ぐっすりと眠れた。
清々しい気分で目覚めると、はっちゃんにしがみついていることに気付いた。久しく感じたことのない熟睡感だ。家の中がゴタゴタし始めてから毎日のように襲われていたしつこい頭の痛みと首筋の凝りを今朝は感じない。
噂には聞いていたが、抱き枕にこれほどの安眠効果があるとは思いもしなかった。正確に言うと、抱きぬいぐるみなんだろうけど。
予想と違って、悪夢を見ることもなかった。
体を起こしてぬいぐるみを見下ろすと、黒丸と赤い裂け目が微笑んでいる。
「おはよう」
一晩安眠を与えてくれたせいかどことなく愛嬌があるようにも見えてきて、もうナメクジの怪物には思えなくなっている。
それに、コイツは絶対に『お友達でいましょう』なんて冷たいことは言わないだろうし。
005(木)
それからの数日、非常に爽快な日々が過ぎた。
最初は目覚の良さが心地よかっただけなのだが、いつの間にか晩飯や風呂もそこそこに、ベッドに入ってはっちゃんにしがみつくようになっていた。
落ち着く。
心の底からリラックスできる。
なにより、はっちゃんの奥から漂う淡い優しい香りが私を癒やしてくれる。
この歳になって、母親に甘える子供のような気持ちを味わうことになろうとは思いもしなかった。
『男はみんなマザコン』
そんな言葉がふと頭に浮かんで、頭を振った。
私は別にママのおっぱいが恋しいわけじゃない。
そう考えて、ふとあの子の胸を思い浮かべた。紺色の制服に包まれた彼女のシルエットは全体がまあるくて、その年頃の女の子が十分に気に病むぐらいふっくらとしていた。
あの頃は、教室でドキドキしながら盗み見ていた彼女の制服の膨らみに触れることばかりを思い描いていたっけ。
そうだ、男ならただ、普通におっぱいは恋しいと思う。何しろ、久しくそういうものに触れていないのだ。
腕に抱いたはっちゃんの胸がどの辺なのかよく分からないが、左右の鰭の間辺りをそっと撫でてみた。ほんの控えめな隆起があるように手のひらに感じる。
黒丸と赤い裂け目が呆れ顔で私を見ていた。
006(金)
週末の晩飯もいつものコンビニ弁当だ。
一人になってから、私は自炊をしていない。そういう気力がないのだ。それまでは、自慢できるほどではないが、台所に立つこともあった。
だが、突然の離婚は、私からあらゆるものを削ぎ落とした。
食事は『餌』になった。
作るのは朝の目玉焼きぐらいなものだ。あとは、レンジで加熱するか、お湯で暖めるか、あるいはお湯を注ぐかぐらいなもので、もう長い間包丁も握っていない気がする。
ああ、封を開ける、とか、そのままかじる、という調理方法ももちろんある。晩は、たまにご飯だけを炊いて惣菜を買って来るときもあったが、たいていは外食で済ませていた。
コンビニ弁当にするのは、新しい『ママ』が家に来たからだ。
寝に帰るだけの家が帰りたい家になった。部屋の雰囲気も明るくなった気がする。
持ち帰って食べるなら、コンビニ弁当はお手軽だ。味もなかなかいける。しかし、良くないとは思いつつも、つい高カロリーの物を選んでしまう。もういい歳なのに今日もボリューム感たっぷりの唐揚げ弁当だ。パックに貼られた『大盛り』という金色のシールに釣られた。
レンジで弁当を温めながら、ふと思い立ってダイニングテーブルの向かいにはっちゃんを座らせてみた。一本の棒状なので安定はしにくいが、イスの背もたれに立てかけるようにすれば行儀よく座っている感じに見える。
茉弥花がいたときにはこんなままごと遊びにも良く付き合っていた。
温めた弁当とインスタントの味噌汁をテーブルに並べる。正面にはっちゃんを見ながら弁当の蓋を開け、割り箸を割った。
ただ座らせとくのもつまらないか。
冷蔵庫からプリンを出してはっちゃんの前に置いてみる。茉弥花が来たときに食べさせるつもりで買っていたものだが、賞味期限はまだ十分にある。
それで、ふと、彼女がリンゴも好きだったことを思い出して野菜室からリンゴを取り出した。
『はっちゃんの好きな物』よくそんなことを覚えていたものだ。
プリンにリンゴに、チョコレート……。
チーズケーキやメロンパンはいま家にない。
冷蔵庫を開けたついでにビールも掴んだ。今日はそういう気分だ。
二十年振りの同窓会じゃないか。
テーブルに戻って缶を開け、はっちゃんの分をグラスに注ぐ。
プリンとリンゴとグラスに入ったビールを並べるとまるでお供え物のようで苦笑いがでる。
「とりあえず、乾杯しますか?」
手を伸ばして缶をグラスに当てる。鈍い音だが久しくなかった気分だ。
どうせならこっちもグラスにすればいい音が鳴るに違いない。キッチンに戻って自分のグラスも用意して、改めてグラスを合わせた。
今度は澄んだいい音が響く。
「二人の夜に乾杯」
こういう歯の浮くようなセリフは相手がいるとなかなか言えない。
グラス半分ほどを空けて継ぎ足すと、もう缶は空になる。
当然ながら、はっちゃんのグラスは減っていない。飲み足りなければ、はっちゃんの飲み残しを貰うか。
そう考えて『間接キス』という懐かしい言葉が頭に浮かんだ。
いや、はっちゃんは口を付けてない。
いや、そういう問題でもないか……。
向かい側で黒丸が笑っている。
こういう夜にコンビニ弁当を一人で食べるのは味気ない気がしてきた。
「小宮さんも、食べる?」
小宮初子、中学二年生、十三歳。
一月一日生まれで初子だ。分かりやすい。女子はみんな『はっちゃん』と呼んでいたが、男の私は『小宮さん』としか呼んだことがない。
キッチンから小皿を出して割り箸を割って唐揚げを取り分けてあげる。
「結構美味しいんだよ」目の前がますますお供え膳のようになってしまった。
まあ、いいか。
私も、弁当の唐揚げを口に運んだ。ビールと良く合う。
相変わらずはっちゃんはグラスに口を付けない。
「もしかして、ビールはダメだった?」
そうか、中学生だもんな。大人しくて真面目な彼女がビールに手を伸ばすわけがない。
「ごめん、つい……」
つい、自分と同じように歳を重ねていると思い込んでいた。冷蔵庫にジュースのペットボトルが入っていたはずだ。
バャリースだ。
「小宮さん、炭酸苦手だったよねー」
覚えてるぞ。なんの会だったっけ? 気の抜けたコーラを美味しいと言って飲んでいたんだ。
バャリースをグラスに注いで……。そうだ、冬だけど氷が入れてあった。
「だいたい、なんで『お友達でいましょう』なんだよ?」
赤い裂け目がいつものように1センチほど開いている。はっちゃんは口呼吸だな。そういえば鼻がない。
「それに、なんで次の日にはクラス中の女子がみんな知ってたんだよ」
黒丸がとぼけたように視線を逸らす。
放課後、彼女の家に行ったのに翌朝にはみんなが私が小宮さん家に行ったことを知ってるって、SNSも流行らない時代に一体どうやってたんだ。
まったく、女子って不思議だった。
コンビニの唐揚げ弁当を食べながらの昔話だ。
彼女とは中二で同じクラスになって、何故か可愛いと思った。
『何故か』というのは、つまり彼女が一般的な中学生男子の好む容姿をしていなかったからだ。
なのだが、惹かれた。そういう気持ちに理由は必要ない。強く意識したのは二学期に隣の席になってからだ。
クリスマスデートがしたくて、冬休み前に思い切って『好きです』と告げた。
「結構、真剣だったんだぜ」
何を話し掛けても笑ってるだけだ。
心地よいのか、侘しいものか。
時間をかけて弁当を食い終わった。
はっちゃんの前のお供え物はそのままだ。
「リンゴ、剥いてやろうか?」
黒丸を見て、頷いたことにする。
リンゴを取ってキッチンにまわる。皮剥きは苦手ではない。いや、むしろ得意な方だ。
家にリンゴがあるのも茉弥花が来たときに私の手技を見せてやろうと考えていたからだ。
「パパ、すごーい」と。
バカか……。
まあ、誰かのためにリンゴを剥くのも悪くない。
八つにくし切りにして小皿に盛った。皿をテーブルに置いて、はっちゃんの座っているイスの背もたれに手を掛けた。
「小宮さん、リンゴ好きだったよね」
学校の家庭科でリンゴの皮むきテストがあったときだ。丸ごとではなく四分の一にカットしたのを先生に渡され、各自がそれをもう半分のくし切りにしてから芯取りと皮を剥く。たったそれだけなのだが、それでもみんな案外苦労していた。
隣の小宮さんは自分の親指を削ぎ落とそうとしているみたいな危なっかしい手付きで包丁を握っていた。それで、彼女のリンゴはでかい芯と分厚い皮が切り取られ食べる部分が少なくなっていた。
先生の評価のあと、それをとても大事そうにリスみたいに両手で抱えて幸せそうに食べる。
「半分、やろうか?」
八分の一カットが乗った皿を小宮さんの前に滑らせた。
彼女はパッと顔を輝かせて「ありがとう」と言うと躊躇うことなくリンゴをつまみ上げてパクッと齧り付いた。
小宮さんは満面の笑みで、私も彼女を喜ばせてあげられたことが嬉しかった。
けれど、私たちが中学二年生であり、しかも周りにクラスメイトがたっぷりといた状況のせいで非常にからかわれる羽目になった。二人が特別な関係にあるかのような言葉の数々が投げかけられた。彼女はひたすら俯いて頬を赤く染めている。私はいろいろと彼女を弁護する言葉を発していた。
「いいだろ、好きなんだから!」
『リンゴが』という言葉をきちんと入れるべきだった。
結果的に、私と小宮さんは耳まで真っ赤にならざるを得なかった。
幸いだったのはそれが授業中だったということだ。先生のおかげで直ちに騒ぎは収束へ向かった。
先生の言葉は「小宮さん、フォークがあるんだからそれを使いなさい」だった。
あのときと同じような八分の一カットのリンゴをきちんとフォークに刺してはっちゃんの口元に運ぶ。
「今日は誰もいないし、食べさせてあげるよ」
1センチ開いた赤い裂け目にリンゴを差し込む。見ようによっては食べてるように見えなくもない。
あのとき、もし、こうやって食べさせてあげてたら、みんなどんな反応だったろうな。
「美味しい?」
黒丸が「美味しい」と言っていると思う。
が、もちろんリンゴが減っていくわけではないし、黒丸の形が変わるわけでもない。
半分ほど差し込んだリンゴをゆっくりと引き抜いたら、一瞬、小宮さんの口にリンゴを抜き差ししているような気がして、エロティックな光景を思い浮かべてしまった。
フォークに突き刺した食べかけの――いや、食べてない、ぬいぐるみの赤い裂け目に突っ込んだだけじゃないか――濡れた果実がある。惹かれるようにそのリンゴにかじりついた。
はっちゃんが口に含んだリンゴだ。
黒丸がびっくりしたように丸くなる。その眼差しに、全身が総毛立った。
これはもうリンゴではない。甘美な蜜に浸かった禁断の果実の味だ。
皿には聖なる果実がまだ七つも残っている。
視界に映る、ぽかんと開いた赤い裂け目と皿に盛った果実が頭の中で重なり合って、もう一つにフォークを突き刺した。それをまた、はっちゃんの口元に運ぶ。
体の震えに背中に一筋の冷たいものを感じて、息を整えた。全身が冷や汗でびっしょりになっている。
いい大人が間接キスぐらいでなにをドキドキしてるんだろう。
いや、キスなんかじゃない。
ぬいぐるみじゃないか。
黒丸がふくれっ面だがそんなわけはない。
赤い裂け目をぎゅっとつぐんで睨んでいるようにも見えるのは角度のせいだ。すべてが布地でしかない。笑窪が見えないのも見る方向のせいなんだ。
が、黒丸の下にある裂け目は、なぜか愛らしいあの頃の小宮さんの口元だ。
私はいったい何をしてるんだ? 何をしようとしてるんだ?
はっちゃんの肩を――どこが肩かなんてもうどうでもいい――抱き寄せて、赤い裂け目に唇を重ねた。
唇に触れたのは布だけど布ではない。柔らかな、唇? なのだろうか。それとも、ただの中綿の弾力なのか。
はっちゃんの奥からフルーティーな香りが甘い吐息となって湧き上がってくる。
驚いて顔を離すと黒丸と赤い裂け目が呆然としている。あの日「好きです」と伝えたときの小宮さんの表情だ。
「ご、ごめっ……」
言葉が絡まって上手く出ない。
沸騰したみたいにはっちゃんの芳香が部屋中に満ちて、私を見つめる黒丸から目を離せなくなってしまった。