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再開

052(火)


 私の入院生活は、四週間でようやく終えることができた。

 ただ、あの大きさの動脈瘤によるくも膜下出血で後遺症も全くなく術後の経過も順調で、たった一ヶ月足らずで退院出来たことは、担当医に言わせると奇跡的なことだったようだ。


 久しぶりの外の世界は降り注ぐような眩い光に溢れていた。入院中ももちろん外の空気に触れる機会はいくらでもあったが、やはり病院の敷地から外に出るという解放感はまるっきり違う。



 医大病院から、記憶を頼りに電車とバスを乗り継いで、そこに辿り着くのに二時間以上かかってしまった。

 管理棟前のバス停から石畳の急な坂を登っていく。前に来たときには坂の両側にうっすらと雪が積もっていたように記憶していたが、いまは日差しに照らされた木々の緑が眩しいばかりだ。

 坂を登り詰めた最上段のエリアだったことは覚えてはいるが、細かい位置まではあいまいで、幾度か迷いながら、ようやく目的の場所に巡り合うことができた。


 落ち着いた明るいグレーの扇形の御影石に『光の矢』と彫られている。可愛らしい洋風デザインの墓石だ。

 これは、彼女の好きだった言葉なのだろうか。それともなにか宗教的な意味合いがあるのかもしれない。

 墓はたったいま誰かが墓参したみたいにきれいに洗われ、花が供えられている。

 思い付きで訪ねてきたので、線香や数珠、花など何にも持ってきていなかった。管理棟の売店に色々売っていたことを思い出したが、でも、それを買うほど、私は現実を受け入れられていない。未だに、ここに来てさえ、だ。


 まあ、とりあえず、話のきっかけだ。手ぐらいは合わせよう。



――――さて、二十年ぶり、かな?

 それとも、ついひと月ほど前まで、一緒に暮らしてたんだっけ?

 心配させたかもしれないけど、もうすっかり良くなったよ。

 ずっと、守ってくれてたんだよね。

 ありがとう。

 お墓の前で言うのも変だけど、小宮さんは、元気にしてるのかな?

 茉弥花の親権も取れそうなんだ。

 向こうが認めてくれてね。

 まあ、調停なんで、最終的には裁判所の判断だからどう転ぶか分からないけど。

 そしたら、僕も、本当のお父さんになるよ。

 ねえ、お母さんはどうする?

 なってくれるって、約束したよね…………。

 …………もう、何にも言わないんだな。


 なあ、朽木くんって呼んでくれるんじゃなかったっけ?

 風呂にだって一緒に入ろうって言ってたよね。

 あっ、また後になって、聞こえてたなんて言うなよな。

 ……言ってもいいんだよ。

 ねえ、小宮さん…………。


 好きだ、会いたいという意識を心の奥底に抑え込んだ。そんな叶わぬことを願うのはずっと守っていてくれた彼女に申し訳ない気がしたからだ。


 ここは、風も通って気持ちいいね。

 確か、この先は展望台みたいになってたよな。

 一緒に見に行こうよ――――。


 私は立ち上がって、墓石の頭をぽんぽんと叩いた。それで、小宮さんが一緒に来てくれるような気がした。



 そこは、遠くに海が見える高台だった。

 二十年の間に、その場所は本当の展望台に整備されて、小さな芝生の広場には洒落た木のベンチが並べられていた。

 その一つに、紺色の制服を着た女の子がまるで誰かを待っているみたいに、こちらに背を向けてポツンと座っていた。

「小宮さん!」

 思わず叫んだ声に振り返った少女の頬に愛らしい笑窪が覗いた。


 ここにいた。ここで待っていてくれたんだ!

 だから私はここに来たんだ。


 彼女は私を認めると、驚いたように立ち上がった。

「小宮さん」

 呼び掛けながら急いで駆け寄ると、その子は小宮さんとは違う人だということが分かった。

 紺色のスーツ姿が小宮さんのことを考えていたせいで中学の制服に見えたのだ。年齢も彼女より少し上で、もう十分に大人の仲間入りをしているようだった。

「ああ、すみません、知り合いに似てたもので……」そうだ、小宮さんがいる筈ないんだった。

「あの、ひょっとしたら、うちのお墓にお参りに来て下さったんでしょうか?」

「えっ?」

「あの、小宮です」私はもう一度その人の顔を見直した。笑窪だけじゃない、何処か見覚えのある顔立ちをしている。

「あ、ああ、それじゃあ、ひょっとして、たまちゃん?」小宮さんが言っていた妹。遠いあの日お母さんに手を引かれていた小さな女の子。

「はい、そうですけど。あの、すみません、どちら様でしたでしょうか?」

 その子は怪訝そうな顔で首を傾げた。〝たまちゃん〟ではなく〝妹さん〟と言うべきだったか。いきなり知らない男に呼び名を口にされたら不審に思うだろう。

「あ、すみません。僕は、小宮さん……、初子さんの中学時代の同級生で、朽木といいます。きょうはちょっと思い出すことがあって、訪ねてきました」

「ああ、姉の……、どうもお参りくださってありがとうございます」たまちゃんが深くお辞儀をする。

「妹さんだったんですね。一瞬、初子さんかと思ってしまって」

「そんな、会いたくても出てきてくれませんよ」

「そうですよね」

 そうだな、出てきたらゾンビだ。世界一可愛いゾンビだろうけど。

「私、姉に、似てるんですか? いままで一度も言われたことなかったですけど、姉は、どんな子だったんですか?」

ただの勘違いだ。どことなく面影はあるが、似てるというほどではない。頬の笑窪はそっくりだけど。いや、小宮さんが可愛く綺麗に大人になったらこういう顔立ちになるのかもしれない。

「どんな子? うーん、そうですね。背がちっちゃくて、そう、これぐらい、あなたよりだいぶ低いかな。まあ、中学生ですからね……」私はあの頃の小宮さんのことを思い浮かべた。彼女の姿はすぐに思い出された。何しろ少し前まで一緒に暮らしていたんだから。

「……本人は百四十五はあるよって言ってるけど、多分3センチはサバ読んでますよね。可愛いって言うと背が低いことを言ってるんだろって膨れるんだけど、たぶんそれは照れ隠しですよね。でも、体重は、あなたよりあるかも知れませんね。お腹周りがちょっとね……、あ、これは内緒ですよ。性格は真面目で、クラスでは大人しくてあんまり目立たない方ですね。勉強は、どうかなって感じだけど、僕よりはできたかな。通知表とかテストの点数とか、チラッと見せてくれるんですけど、お互い、あんまり褒められた成績じゃなかったけど、それでも僕が勝った試しがなかったですね。ああ、正義感だけは強いんですよ。いまでいうインテグリティってやつですね。誠実で高潔で。なんか、人間は良く生きるべきだって、清く正しく美しくですよ、全く。自分は3センチサバ読んでるのにねえ。『朽木くんはそれでいいの!』って叱られてね。でも、それが不思議と息苦しくないんですよ、全然。なんか諭されてるみたいな感じで、心地いいんです。あー、そうかって思って。まあ、好きだから何言われても嬉しいんでしょうね。僕が生きてる中身の八割がたが初子さんだったから」

「姉と、付き合ってたんですか?」

屈託のないストレートな質問に、一瞬返事に詰まる。

「あ、いや、一度告ったんですけどね、なんか曖昧に友達でいましょう的な感じで。中学生でも分かるじゃないですか、これはやんわりと断ってるんだろうなって。結構、僕が初子さんのことを好きなんだろうなって、クラスのみんなは知ってたみたいなんですよね。日直、一緒だったし、班活動ってあるじゃないですか、キャンプとか校外学習とか、いろいろグループ分けする時なんか、同じ班になれるように必死でしたからね。小宮さんも、なんか一緒の班になろうよって感じもあって、たいてい隣にいてくれてたし、これは告白しても大丈夫かなってね。普通、女子って、そういう噂とかになったら嫌がったりしますよね。よその班に行って! みたいな。それが、みんなに冷やかされても頬っぺた赤くしながら普通に接してくれてたから。そうそう、家庭科でリンゴの皮剥きやったとき、初子さんに僕の剥いたリンゴをあげようかって言ったんですよ。ほら、彼女、リンゴ好きだったでしょ? ……好きだったんですよ。そしたら、ありがとうってパクって食べて。授業中で周りにみんながいるんですよ。いいよ、とか、いらない、とか冷たい返事じゃなくて、ニコニコ顔で食べるから、もう、みんなから夫婦夫婦ってからかわれて大騒ぎで、そりゃ僕は嬉しかったけど。それでも付き合えなかったなあ……」途中で喋りすぎだと思っても止められなかった。彼女のことを話したくて仕方なかった。

「それって、あらたまって告白するまでもなく、もう付き合ってたんじゃないんですか?」

「ええっ? そうですかねぇ?」そんなふうに思ったこともなかった。

「はい、どう見てもそうですよ」

 あの頃の私たちはそんなふうに見られていたんだろうか。〝夫婦夫婦〟か…………。

「そうか。そうか、だったらいいなあ」

「そんなに思われてたら姉もきっと喜んでますよ」

「でも、こんなに言ったって、小宮さんをずっと思い続けてたわけじゃないし、いまはバツイチだけど結婚しちゃいましたしね。裏切り者! とか呪い殺す! とか草葉の陰で思ってないのかなあ。いや、ちょっと思ってて欲しい気もするなあ。それだけ特別だったってことになるんだから…………」

 私は、こんな初めて会ったような妹さんに何を言ってるんだろう…………。

「あの、朽木さん、ひょっとしたら、ぬいぐるみを買ってくださいませんでした? 〝フレッシュ!〟の、こんな。変な、でっかいの」たまちゃんが両腕を広げて1m程の間を開けてみせる。

 私が買ったぬいぐるみ? フレッシュ!、デパート、買ったのははっちゃんだが……、こんなやつ? 変なの!?

「えっ、たまちゃん、玉木さん。ああ、そうかあの時の店員さん!?」

彼女が「はい」と嬉しそうに元気に頷く。

「ああ、やっぱり。朽木さんだったんですね、なんか、そうじゃないかって気がして。よかった」

「よかった?」どういう意味だろう?

「お会いしたかったんですよぉー」深呼吸のように語尾を伸ばして息を吐いた。

「会いたかった?」さっきのよかったと併せて、なおさら不思議な気がする。

「あの、良かったら、母に会ってもらえませんか? いま海外にいるんですけど、週末こちらに帰ってくることになってるんです。姉の話をすればきっと喜ぶと思うんです」

「ええ、それはいいですけど」一瞬、あの厳しく冷たい顔が頭に浮かんだ。確かに、お母さんなら小宮さんの昔話はしたいのかもしれないだろうけど。

「で、そのとき、あのぬいぐるみを持ってきて下さいませんか?」

「あの子を、ですか?」

「はい、母にもう一度見せてあげたいので」

「まあ、構いませんけど……」たぶん、はっちゃんはベッドで寝たままだ。ひょっとしたらあの騒ぎで床に転がっているのかもしれないが。

「あのぬいぐるみ、実は、母のお気に入りだったらしくて…………」

 あのぬいぐるみは、密かにお母さんも欲しいと思っていたらしい。しかし、ディスプレイ用ということで見るだけに留めていたようだ。非売品ならずっと売れるものでもないし、デパートに行けば会えるわけで、展示期間が過ぎれば払い下げみたいになって、無理を言えば手に入れることもできるかもしれないと思っていたんだそうだ。それが急に販売することになって、しかもたまきさんが半ば強引に、私に売り付けてしまったことで、後で見に来たお母さんに叱られてしまったのだという。

 私がクレジットで買っていれば連絡先がすぐに分かったのだけれど――多分それはデパートの販売員が勝手にやってはいけないことだと思う――、現金での購入だったのでどうしようもなかったということだ。

 お母さんも、あのぬいぐるみが欲しかったってことは、あれに何かを感じていたんだろうか?

 そういうことなら、彼女に会わせてあげるのもいい。

 私の話を信じるかどうかは別として、はっちゃんとのことを話してやろう。

 いや、お母さんならはっちゃんのことをちゃんと知るべきなんだ。


「じゃあ、詳しい予定が決まったら連絡しますので。朽木さん、ラインはされてます?」

「いや、僕はやってないんですよ。ショートメッセージかメールでなら。直接電話でもいいんですけど」メアドや電話番号は直接の連絡先の交換になる。若い女性なら抵抗があるかもしれないが、いまは一切のSNSを捨ててしまっているので仕方ない。

「えっ、いいんですか?」

「もちろん!」意外に明るく笑窪をみせてくれたことに、つい喜んでしまった。

 女の子との連絡先交換なんて、そういえば元妻以来のことだ。

「でも、玉木って、名前なんですよね?」連絡先を伝えながら、小宮さんが妹を『たまちゃん』と呼んでいたことに首を傾げた。

「ああ、うちのデパートはみんなビジネスネームなんですよ」

 個人情報を守るために本名は使わないらしい。彼女から『小宮(こみや)(たまき)』という名前を聞いて頷いた。



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