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新しい世界に

048(金)


 あの日、救急搬送された病院で緊急手術が行われた。


 脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血。


 私が助かったのは奇跡だった……、そうだ。

 迅速な救急への通報。

 私が手にしていた、脳外科ではトップレベルにある県立医大病院への紹介状。

 その専門医がたまたま当直医で執刀に当たってくれたこと。

 動脈瘤の破裂がごく一部でしかも出血が極めて少量だったこと。


 担当医の話では、動脈瘤の大きさは3センチを超える巨大なもので、ひと月以上前から少しずつ出血をしていた痕跡があったらしい。

 完全に破裂していたら、その場で処置していても助からなかったかもしれないという。

「そうしたら、こんな風に、紹介状を受け取ったらすぐに受診するようにと、叱られることもなかったでしょうね」

 大手術の後、意識を取り戻した患者には、もっといたわりを持って欲しい。

「すみません」ベッドで身動きできない状態で、乾いて粘つく口内と思うように回らぬ舌で一番適切な言葉を探して声に出した。

「まあ、あんな状況でよくご自分で通報できたもんですよ。ほんとに、まるで、誰かが破裂しないようにぎゅっと握って押さえててくれてたみたいですからね。いま生きてることに感謝するんですね」

 私は、それが誰だったのかを知っている。



「気分はどうですか?」


 医者に。

 看護師に。

 掃除に来る女の子に。

 同じ病棟の入院患者に。

 みんなに問われる。

 その度に、世界が明るくなった、と答える。


 まるで十年ぶりに部屋の蛍光灯を新しくしたときみたいに、周りの明るさが一段上がったように感じる。世界を覆っていた薄らとした、いままで気付かなかった淡い霞が、パッと晴れてしまったかのように。頭の後ろに張り付いていた、しつこいしびれも嘘のように消えた。耳鳴りも、頭痛も、記憶が飛んでしまうことも、そんなことがあったことすら信じられないほど綺麗になくなってしまった。

 そう、()()()()()()()()()()()()()()()を、脳の中にあったあの瘤を取り去ったのと同じように、もう感じることはなくなってしまったのだ。



 児相の中瀬さんに、そして弁護士の北島さんには連絡をとった。二人とも、忙しい合間を縫って見舞いに来てくれた。

 中瀬さんは保護施設での茉弥花の様子を、北島さんは私が出ることのできなかった一回目の調停について知らせてくれた。茉弥花はとても元気であること。調停は、私が入院中ということで日程が変更になったのだが、調停員の心象はあまり芳しくないだろうということ。親権希望者がくも膜下出血で緊急入院では、普通で考えれば資格を得られそうにはない。ここは、北島先生に頑張ってもらうしかないのだろう。


 しかし、退院が五日後の来週の火曜日に決まった日の午後、思いがけない見舞い客が訪れた。

「ホントに入院してたんだね」

 ベッドの脇のパイプイスを近くに寄せて元妻が腰掛けた。

「ああ、頭の中身がぐちゃぐちゃだったみたいでね」

「開けたついでにおミソ足してもらったら良かったのに」

「それ、頼む余裕、全然なかったから」憎まれ口が嬉しい。

 簡単に手術に至った経緯について話をした。

「きっと、茉弥花が守ってくれたのね」

「なんだ、お前じゃないのか?」

「私なら、ひと思いに楽にしてあげたんだけどね」

「残念ながら。まあ、この有様だけど」

「でも、元気そうでよかった」

 彼女の頬に笑窪が浮かぶ。元妻が笑窪ちゃんだということをすっかり忘れていた。それほど久しく彼女の笑顔を見ていなかったのだ。そうか、私の女性の好みは笑窪だったか。

「ありがとう。けど、見舞いなんか来てていいの?」調停のこと、あの旦那のこと。

「いいじゃん、迷惑だった?」

「いや、不思議と嬉しい」

「私も、なんか会えてほっとしてるの」

「なんだ、いまごろ俺の良さに気が付いたのか?」

「そうかもね」

「なんだよ、やけに素直じゃん」元妻が美人だったんだということも忘れていた。

「茉弥花のこと、ごめんね」

「ん、何が?」

「いろいろ、全部」

「いやあ、もう気にすんなよ。俺らが謝んなきゃならないとしたら、あの子にだよね」

「うん、そうだよね」

「それに、俺のことへの『ごめんね』はないの?」彼女の素直さに、つい軽口を言いたくなる。

「ねえ、私たちって、またやり直せないかな?」

 彼女の言っていることを理解するのに少しばかり時間が掛かった。それで、頷きそうになる自分を止めた。

「どうしたの、急に?」

「ちょっとね、言ってみただけ」

 相手の男と一緒に暮らして分かることも多いのだろう。私の方がいいという分けではない。ただ懐かしいだけなのだ。

「いまさらお前とエッチするのもなんか気まずいだろ」一緒に暮らすって、そういうことだよねって、あの子が言ってたな。

「私ね、妊娠したの」

「俺の?」自分の鼻の頭を人差し指で示した。

「バカ」呆れたという感じで吹き出すように笑う。

「……それでね、もう茉弥花のことはあなたに任せようと思う。たぶん、あの人は茉弥花と上手くやってけそうにない」

「そだね……」きみも、と言いかけてやめた。そんなことは彼女が一番良く知ってて、一番苦しんでいるはずだ。

「自分勝手だ、とか、言わないの?」

「幸せになれよ。あの子もきっと喜んでくれるさ」きっと、この人は私が幸せにしてやらなければいけなかったんだろう。

 彼女が目を閉じて小さく頷いた。

「じゃあ、帰るね」

「もう?」

「だって、泣きそうなんだもん」情けない顔だが、笑窪は消えていない。

「じゃ、お大事に」見舞いに来た方にかける言葉じゃないかな。

「ありがとう、あなたもね」

 彼女はカーテンを閉じるとき、こちらを向いて小さく手を振った。

「バイバイ」

 何かが、大きく切り替わったような、そんな気がした。




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