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容疑者と被害者

017(火)


 茉弥花(まやか)はジュースを飲みながらテレビで動画配信のアニメを見始めた。

 小宮さんが僕に顔を寄せてきて、声を潜めた。

「ねえ、さっき言ってたの、アレだよね?」

「ああ、たぶん」私は頷いた。

 茉弥花の新しい親は彼女の前でそういう行為をしている。しかも、この子が恐怖を感じるほどに。

「なんか嫌だよ……」

 親の行為を何かの拍子に子供が目にすることはあるだろう。しかし、それが恐怖であってはいけない。これは、あいつに注意してやる必要がある。

「そうだ、あの子、ずいぶん汗かいてたから一緒にお風呂入れてやってよ」

「えっ? 私?」

 小宮さんとお風呂に入ってる間に、あいつに電話したい。言い争いになりそうな気がしたからだ。

 頷いたら、意図をわかってくれたのか、頷き返してきた。

「茉弥花、はっちゃんとお風呂入るか?」

「うん、はいる」

 茉弥花は嬉しそうに立ち上がった。


リビングに一人残って、ソファでスマホを握った。

「茉弥花が家に来てる」先ずは冷静に、慎重に言葉を選ぼうにも他に言うことがない。

『えっ? またなの? やっぱりあなたが連れ回してるんじゃないの』

「僕が連れていったなら電話なんかしないよ。それより、やっぱり父親があの子に酷いことをしてるんじゃないか?」

『そんなこと、何もしてないわ』

「あの子の目の前で動物みたいに……、その……、ヤッてたりしてないか?」適当な表現が見当たらなかった。

『あ、あなたには関係ないでしょう!』やってないという否定はしないみたいだ。

「あの子にとってどれほど酷いことかお前ならわかると思うんだけどな」

『とにかく、彼が気付かないうちに直ぐ迎えに行くから』

「返してやれるかどうかは、君次第だ」

『とにかく、直ぐ行くから、ね、お願い』

 電話が切れた。

 あいつとは少し話しただけでもぐっと疲れる。これからそれが来るのかと思うとそれだけで気が重い。

 が、あいつが茉弥花を厳しく叱ったことなんかいままでも見たことなどなかった。少なくとも、あの子に対しては愛情深く接していたはずだ。男のせいなのだ。

「お願いってなんだよ」あいつが私にそんな弱い面を見せてくれたことはいままでだってあっただろうか。

 もう少し、優しい言葉でも掛けてやればよかったか。そう思うと心がぐらつく。



 しばらくして、リビングに茉弥花が駆けてきた。

「茉弥花ちゃん、髪、乾かさないと」

 小宮さんがバスルームからこちらの方に顔だけを突き出している。まだ自分の着替えが済んでないのだろう。白い肩が覗いた。

 茉弥花がソファに上がってしがみついてきた。確かに、タオルドライもまだのようだ。

「綺麗になったか?」

「ピカピカ!」

 髪の雫が私のズボンにぽたぽたと落ちる。

「はっちゃんとお風呂は楽しいだろう」

 茉弥花がにんまりと頷いて、耳元に口をくっ付けてきた。

「あのね、はっちゃんね、おけけがちょびっとなんだよ」

 いきなりの貴重な小宮さん情報に戸惑う。

私もあの頃は大して生えていなかったと思うが。

「そっか、はっちゃんもまだ子供だもんね。でも、はっちゃんのひみつを言っちゃったらはっちゃんが恥ずかしいよ」

「おとうさんはどうしてはっちゃんとおふろにはいらないの?」

 お風呂でなにかそういう話題になったんだろうか。

「そうだね、まだはっちゃんをお嫁さんにしてないからね」

「はっちゃんね、おとうさんのこと、だいすきって!」

 小さな子供に話したことなんだから話半分で聞き流した方がいいんだろうけど、つい嬉しくはなる。

「お父さんだって、はっちゃんのこと大好きさ」

「おとうさんはいっしょにおふろはいりたい?」

「そうだね、いつかね」

「何、内緒のお話してるの?」

 小宮さんがバスタオルを広げながらやってきて、茉弥花の頭を包み込んだ。

「おとうさんがはっちゃんとおふろにはいりたいって!」

 早速、私の気持ちを伝えてくれる。

「あらあら、お父さん、大人なのに甘えんぼさんなのかなぁ」セクハラまがいの言葉に小宮さんが母親らしいスッキリとした返答をする。

「はっちゃんはおとうさんとはいりたい?」

「それはね、ひみつ」

「えーっ、ひみつなの?」

「そう、ひみつ。お父さんとはっちゃんは大好き同士だからね、言わなくても分かっちゃうの」

「そうなの?」

「そうだよ、大好きだから、お父さんがどうしたら嬉しくなるかとかどうしたら悲しくなるかとか、頭にピッて分かっちゃうの。あっ、お父さんはっちゃんとお風呂に入りたいんだなって」

「すごーい」

「すごくないよ。茉弥花ちゃんだって、はっちゃんのことが大好きだったら、頭にピッて来るかもしれないよ」

「あっ、はっちゃんもおとうさんといっしょにおふろにはいりたいんだ!」

「あーっ、バレちゃった?」

「でも、およめさんじゃないからがまんしてるの」

「しーっ、それは内緒」

「しーっ」

「頭にピッてくるのは大好きな人からのひみつの言葉だから、声に出して言っちゃダメなんだよ」

「うん」

「だって、もし私がお父さんとお風呂に入りたいなんて分かったら、お父さんウキウキしすぎてなにか失敗しちゃうかもしれないでしょう?」

「ホントだ!」

「さあ、あとはドライヤーで綺麗にしましょ」

 そういう会話を私の目の前でするのは何故だ? 二人の会話を聞いていると思わずニヤケてしまうじゃないか。

 茉弥花がバスルームに駆けて行くと、はっちゃんがこちらに向き直った。まさか今夜のお風呂に誘うんじゃないだろうか?

「ねえ、朽木くん、あの子の体、アザだらけだよ」

「えっ!?」一瞬、アザの意味がわからなかった。

「それに、あの子ね、いつもパパの体を()()()()洗わされてるみたいなの……」



 元妻と茉弥花についてじっくりと話し合うつもりだったが、そうはならなかった。

 ドアホンを押したのは警察官だった。

 玄関を開けると、二人の警官と一組の男女、その後ろに元妻と男――会ったことはないが、間違いなく新しい旦那なんだろう――が立っていた。

 訪問者は全部で六人。

 このマンションの廊下に多すぎる。

 制服の警官は一人は年配の男でもう一人はまだ若い婦人警官だった。警官は私に身分証を見せると、私の名前を確認し、中に茉弥花がいるかを尋ねた。

 簡単な質問だったが、後ろで旦那が騒ぐせいで何度か聞き返さなければならなかった。リビングのソファーで寝ていると伝えると、婦警さんともう一人の女が「確認させていただきますね」と中に入っていく。女は地元の警察署の刑事だった。もう一人の私服の男も刑事のようだ。

 騒いでいる旦那も押し入ろうとしたが、警官に押し戻されて怒鳴り散らし、元妻が間に入ってなだめている。おおかた、ここに来るときに娘が誘拐されたなどと警察に通報したのだろう。あいつの愛した男はこんな詰まらない奴だったのか。

 いや、私はそれ以下の男ということか。しかし、茉弥花を取り戻して二度と私に会わせないようにするには効果的な方法だったのかもしれない。

「とっととこの誘拐犯を逮捕しろよ!」

「ご主人、まあ落ち着いて。いま確認していますから」刑事が肩を抱くようにして旦那をなだめる。あんなヤツを相手に、大変な仕事だと思う。

 家の中では刑事さんたちが茉弥花から話を聞いてるのだろう。あの子はしっかりしているし、優しそうな警察官だったから、大丈夫だろうが、小宮さんはどう対応してるのだろうか。警察の制服にオロオロしてなければいいが。

「すみませーん、遅くなりました」

 廊下の声に顔を向けるとエレベーターの方から三十手前ぐらいの女が重そうなカバンを抱えてこちらに歩いてきていた。

 大量の人間に少し驚いているようだ。もう一人の刑事が「ああ」と片手を上げたところを見ると、関係者なのだろうか。

 警官が「この人」と私を手で示すと、その女は私の前に進んでバッグから大きな手帳を取りだした。

「朽木さん、ですね。児童相談所のなかせこころです」手帳に挟んだ名刺を一枚抜いて丁寧に差し出してくる。

 名刺には中瀬美音とある。美音と書いてこころと読むのだろうか。物腰が穏やかで保険の外交員の風体だが、児童相談所とはどういうことだ。

「虐待の恐れのある女の子を保護してくださってるということですが、中ですか?」

「はあ、はい」

 保護? そうか、小宮さんがヤツの非道に我慢ならなくて通報したということか。

「確認しますんで、一緒に。いいですか?」

 最後の「いいですか?」は私にではなく刑事に向かっての言葉だ。(容疑者)茉弥花(被害者)を対面させていいかどうかの確認なのだろう。

 刑事が「どうぞ」と頷くと、中瀬さんは私に向かって穏やかに微笑んだ。優しい、気持ちが穏やかになる顔だ。この笑顔なら子供が心を許す気になるだろう。確かに美音(こころちゃん)だ。私もこの殺伐とした雰囲気の中で、ほっと一息つくことが出来た。

 美音(こころちゃん)と中に入り、リビングに向かう。後ろから刑事もついてきている。私が暴れたりしたら後ろから撃ち抜くつもりかもしれない。

 リビングでは茉弥花がソファーに座り、その隣に私服の女性刑事が座って何かを話している。茉弥花の表情はリラックスしているようだ。茉弥花の胸にははっちゃんが抱き抱えられている。

 つまり、小宮さんは、いない。

 茉弥花は私を認めると手を挙げた。手を振っているのか手招きしてるのか分かりにくいのは抱えたはっちゃんが大きすぎるからなんだろう。

 リビングの入口に立っていた婦警さんに止められて、美音(こころちゃん)だけが入って女刑事になにか話をしている。美音(こころちゃん)はここにいる警察官全員と面識があるようだった。すぐに女刑事から許可が出て、私の入室が認められた。ほっとして茉弥花の前に進んだ。

「お姉さんとお話してたの?」

「あのね、お姉さん、お巡りさんなのにお洋服が違うの」

「そう、悪いヤツに正体がバレないようにしてるのかな?」

 悪いヤツとはつまり私のことなんだろうか。

「茉弥花、こんどはこっちのお姉さんがお話したいって、一人でできるかな?」

「中瀬美音と言います。お話できる?」

「こころちゃん? はっちゃんと一緒でもいい?」

「はっちゃん?」

「ああ、この子です」ぬいぐるみの頭をポンポンと叩いて示した。

「ええ、もちろん。いいわよ」

「茉弥花、お父さんのお部屋に案内してあげて、お父さんはここで待ってるから」

「うん、お巡りさんと仲良くまっといてね」

 茉弥花ははっちゃんを肩に担いで美音(こころちゃん)と女刑事を引き連れて威風堂々廊下を歩いていく。婦警さんはリビングの入口近くで立ったままだ。

 ついてきていた刑事が私の前に進んで来た。

「少し、お話をお聞きしていいですか?」

「はい」頷いて、()()()ダイニングテーブルに向かい合った。




 茉弥花は児童相談所で一時保護されることになった。

 私は茉弥花を誘拐したという通報があったため、引き続き任意で取り調べを受ける羽目になったが、逆に、通報した方の男は虐待で訴えられることになりそうだということだ。

 茉弥花の体に残る無数のアザ、目の前で行われているであろう性行為、お風呂での性器への執着、裸への強い関心。小宮さんが僅かな間に見聞きして気付いた胸苦しくなるような虐待の数々を、美音(こころちゃん)なら茉弥花の心を解してもっと生々しい実態を聞き出していくだろう。

 元妻と旦那は茉弥花と顔を合わせないように警官に連れられて先にいなくなっていた。

 茉弥花は美音(こころちゃん)がすっかり気に入ったみたいで「新しいお母さんになる?」なんて言いながら仲良く手を繋いでさばさばとした感じで出ていく。あの家に帰らなくて済むことでホッとしてるのかもしれない。ひょっとして、あの子の母親観も虐待の影響なのだろうか。

 ひとまず、あの子にとっては安心かと思うが、いろんなことがありすぎて、頭の痛みがぶり返してきた。こちらは厄介だ。いまからでも病院に行った方がいいか。

 玄関で茉弥花に手招きをされて顔を近付けると、首に腕を回して頬を寄せてきた。

 久しぶりに頬っぺたにキスでもされるのかと思ったら、耳元で声を潜めてきた。

「台所の下だよ」

 顔を離して、いたずらっぽく微笑むと、「バイバイ」と軽く手を振って美音(こころちゃん)と連れ立って行ってしまった。

 廊下からマンションの下を見下ろして、パトカーが出ていくのを見送ると、部屋に戻ってキッチンに向かった。

 そこにあるのは畳一枚分ある大型の床下収納庫だ。ひょっとしたらこの中に小宮さんが隠れているのか?

 取っ手を起こして指を掛ける。

 箱の中に横たわる小宮さんの姿が頭をよぎった。


 二十年前……。

 友達でいましょう。

 寒い朝。

 公園。

 待ち合わせ。

 白い小宮さん……。


 うっ、頭が、痛いっ、割れるっ!

 甲高いノイズのような音が耳の奥で鳴り続け、目の前が真っ白にぼやけた。



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