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この世にはいない存在

016(月)


「きゃっ!」

 小宮さんの可愛いらしい悲鳴に顔を上げた。

 なんだろ?

 テーブルの向こうから彼女が身を乗り出して私の方に手を伸ばしている。

「朽木くん!?」

「えっ?」

 その瞬間、右足に焼けるような痛みが走った。

「熱っつ!」

 慌てて立ち上がると、左手から何かが落ちて派手な音を立てた。

「もう、朽木くん、何やってるの!?」

 テーブルの上に汁椀が転がって、味噌汁がぶちまけられ床にまで流れ出している。

 あれが私の脚に掛かったらしい。

 床には割れた茶碗とご飯も散らばっている。どうやら全てたったいま私がしでかしたことのようだ。


 何が起こったのだろう。

 茉弥花は?

 あいつは迎えに来たのか?

 なんで飯なんか食ってるんだ?


「ほら、どいて」

 私を後ろにさがらせて片付けをする小宮さんの姿をぼんやりと眺めていた。

「ヤケドしなかった?」

「ああ、大丈夫」

 だと思う。少しヒリヒリするが。

「茉弥花ちゃんが帰って、寂しくなった?」

 茉弥花は帰ったのか?

「ああ、そうかな……」

「やっぱりお父さんだもんね」

 お父さん……。

 頭が……、これは、痛みか? ただの混乱か?

「もう、パジャマに着替えてきたら?」

「……悪い。ちょっと休ませてもらうよ」

「うん……」


 ベッドルームに入ると、はっちゃんが寝ていた。きっとダイニングにはもう小宮さんはいないのだろう。

 パジャマに着替えて布団に入ってはっちゃんを抱いた。

 味噌汁にまみれたズボンを洗濯カゴまで持っていく気力もない。

 スマホを覗くと元妻との通話履歴があるだけだ。

「小宮さん……」

 はっちゃんのサラサラとした身体を愛撫しながら貪るように口付けをした。



 頭の奥の疼きに目が覚めた。

 冷房が効きすぎている。ヒヤッとした感覚に、いつの間に脱いだのかパジャマも何も着ないで布団も掛けずベッドに転がっていたことに気付く。

 ベッドの中に、はっちゃんはいない。サイドボードにパジャマと下着がきちんと畳まれて置いてある。それを着て、疼く後頭部を拳骨で叩いた。

 時刻は二時過ぎだ。

 昨夜脱ぎ散らかしたシャツとズボンはなくなっている。

 思い立って小宮さんの部屋を覗いてみた。常夜灯のぼんやりとしたオレンジ色の光の中でベッドに眠るはっちゃんの姿があった。黒丸の形はそのままなのに、すやすやと眠っているようにしか見えない。

 近寄ってそっと口付けをする。

 かがり縫いのザラっとした感触と中綿のしっかりとした弾力が伝わる。甘いフルーツの香りが鼻腔の奥に届くが、頭の中に靄がかかったようでスッキリとしない。掛け布団を捲ってはっちゃんの隣に滑り込んだ。

「あ、朽木くん……」

 小宮さんが目を開けてベッドの左に寄る。

「ごめん、起こしちゃった?」

「ううん、向こうで寝ようと思ったんだけど、朽木くん、裸で寝てるんだもん。びっくりしちゃった」

「ごめん、なんか、酷く暑かったみたいだ」

「ちゃんとパジャマ着て寝てよね」

「そうする」

「うん、もう寝よう。明日もお仕事でしょ」

「ああ、ねえ、手、繋いでもいい?」

「うん、いいけど……」

 左手に触れたのは柔らかなサテン地の鰭だ。

「おやすみ……」

 はっちゃんの赤い裂け目がすぐにフルーツの寝息を立てはじめる。後頭部の痺れに似た感覚にぎゅっと目を閉じた。



 いきなりスパナで後頭部を殴られ、跳ね起きた。もちろんいままでスパナで殴られた経験などない。しかし、あの形の物が後頭部を抉ったのは間違いない。両手でそこを押さえるとドクドクと熱い脈動を感じる。

 第二の攻撃を避けるために、咄嗟にベッドから転がるように降りた。

 近くに誰かがいるのか?

 ニュースでやってた連続強盗犯のことが頭をよぎる。

 小宮さん……、はっちゃんは無事なのか。

 声をあげようとしたが、息が詰まってまともに呼吸さえもできない。濡れた感覚に手を見てみるとびっしょりとかいた汗で、出血はないようだ。触っても傷口が開いている様子はない。突き抜けるような痛みを堪えて辺りを見回す。

 周りには誰もいない。

 頭を抱えてベッドの下でうずくまった。

「どうしたの?」

 小宮さんの声に顔を上げる。

彼女の驚いた顔がそこにあった。

「誰かに、殴られたみたいで……」

「えっ!?」

 小宮さんが辺りを見回して、私の頭に手を伸ばす。

「ここ?」

 患部を押さえている私の手に彼女の指先が触れる。

 小宮さんに確かめてもらうつもりでゆっくりと手を外した。

「痛いの?」

 恐る恐ると言った感じで彼女の手が後頭部を撫でる。傷や腫れを確かめているようだ。

「痛む?」

「……いや、痛くない……」

 痛みはなかった。

 全くだ。

 緊張のせいで肩から首にかけての筋が突っ張った感じがあるが、痛みがない。

「……痛くない……」

「もう、朽木くん、びっくりさせないでよ」

「ほんとに、ほんとに痛かったんだ」

「まだ早いから、ちょっと横になったら? 私、朝ご飯の支度しとくから」

「ねえ、小宮さん、一緒にいてよ」

「やだ、朽木くん、甘えてるの?」

「なあ、手を、繋ごう」

「しょうがないなあ……」

 ベッドの中で小宮さんはしっかりと手を握ってくれた。

 これは、鰭じゃない。手だ、本物の手だ。

「ありがとう」

「一度、お医者さん、行っといでよ」

「うん、そうするよ」



017(火)


 朝、起きられずにいつも家を出る時間をかなり過ぎてベッドから離れた。

 はっちゃんは隣でぐったりとしている。夕べの騒ぎだ。仕方ないだろう。首から上が全体に痺れた感じがする。

 会社には休みを貰って病院へ行くことにした。確か、近所の内科なら九時頃からやっていたはずだ。

 朝食を済ませ、小宮さんに病院に行くことを伝えようと思ったが、今朝もはっちゃんのままだ。小宮さんに用意した朝食の横にメモを書いて置いた。


 駅前の商業ビルの中にある内科・小児科は茉弥花を連れてきたことがあった。

 初診ということもあって、問診票を書かされたりしながら一時間近く待たされて、ようやく診察室に呼ばれた。

 穏やかそうな中年の女医だ。

 一通り症状を伝えて診察を受けると、病院を紹介するという。CTやMRIなどの精密検査が必要だということだ。

「今日、これから直ぐにこの紹介状をもって県立医大病院へ行ってください」

「直ぐに、ですか?」

「受付でそれを渡せば大丈夫ですから」

「はあ、はい」

「場所は分かりますか? あ、救急車を手配しましょうか?」

「いえ、自分で行けます」

 診察室のデスクにあった電話の受話器を取り上げた先生の手を制した。自分の頭の中で起こっている出来事を想像したくない。

 県立医大は二駅電車に乗るか、駅前から十五分ほどバスに乗らなければならない。面倒を考えると、なるほど救急車も一つの選択肢だったかと思う。

 駅前のロータリーに出て、バスの時間を確認すると、つい五分ほど前に出たばかりだった。次のバスを待っていたら午前の診療時間に間に合いそうにない。

 電車で行くか。

 バスなら県立医大前で降りれば正面玄関だが、電車だと二駅先で降りてそこから徒歩十分だ。

 まあ、健康のために歩くのもいい。病院に行くのに健康のためもないだろうが。

 昼前の時間帯は、いつもの通勤時間と違って、駅前もゆったりとしているように感じる。買い物に行く主婦たちに交じって、制服姿の高校生がいるのは何をやっているんだろうか。

 小さな子供の一人歩きもいる。橋上階からの階段をふらふらと降りてくる女の子は茉弥花と同じくらいの背格好で、見ていて危なっかしい。

 母親は何をやっているんだ。と、ふと昨日の茉弥花と妻を思い出した。

 そういえば、あれからどうなったんだろうか。小宮さんに聞く暇もなかった。

 それにしても、あの女の子はやけにふらついている。階段の途中で手摺に掴まって立ち止まり、肩で息をしている。体調不良か、あるいは熱中症かもしれない。

「茉弥花」

 声を掛けると、ぼんやりと顔を上げてこちらを見る。私に気付いて歩きだそうとして、階段を踏み外した。

 本当に茉弥花だ。

 危うく抱き留めたが、全身汗まみれだった。

 茉弥花を背負ってとりあえず家に戻ることにする。

「はっちゃんとあそびたい」と茉弥花がぽつりといった。

 人混みに紛れ駅員の目を盗んで電車に乗ってこの距離を二日続けてだ。昨日の味を占めてまた遊びに来たのだろうか。それとも、逃げてきたのか。何から?

「保育園は?」

 背中で首を振っている。

 家で何かあったのか。

『虐待』

 その言葉が頭に浮かぶ。

 だが、この子が懐いている小宮さんは、おそらく家にはいないだろう。

『この世にはいない』という言葉が浮かんで、慌てて頭を振った。

 昨日、帰りがけに主任から言われた「朽木さん、最近顔色が悪いよ」という言葉。

 同僚の「なんか憑いてんじゃないですか?」という冗談交じりの言葉。そんな言葉が頭の片隅に積もっている。

 馬鹿馬鹿しい、彼女が、小宮さんがそんな存在であってたまるか。

 玄関ドアを開けて、明かりの消えた仄暗い部屋の中に茉弥花を上がらせる。

「はっちゃん!」

 茉弥花が小宮さんを呼びながらリビングに走った。私は小宮さんの部屋を覗いてみた。朝出掛けた時と同じようにはっちゃんが布団の中にいる。

 掛布団を捲ってサテンの肌を撫で、そのまま抱き寄せた。

「小宮さん、茉弥花が来たんだ。助けてくれ」

 つっ、頭が、痛む。だが、きょうはもう病院には行けそうにない。

 目を閉じたまま、膝を突いてはっちゃんを胸に抱いてじっとしていると、すっと痛みが治まってきた。

「あーっ! おとうさん、はっちゃんにすきすきしてる!」

 茉弥花の声に顔を上げる。開いた目に赤いギンガムチェックが飛び込んできた。

「もう、おとうさん、甘えちゃって困っちゃうよねぇ」

 腰に回した私の腕を解いて立ち上がる小宮さんの頬が赤く染まっている。

「茉弥花ちゃん、ジュース飲もっか?」

 小宮さんは茉弥花を先にリビングに送り出して、こちらを向き直った。

「もお、いきなりびっくりするでしょう。なんで茉弥花ちゃんがいるの? 病院はどうしたの?」

「病院の帰りに駅前に行ったら茉弥花が一人でいたんだ。ああ、病院はあらためて検査を受けることになった」

「そう、大丈夫なの?」

 小宮さんが頭を撫でてくれる。

「ああ、念の為に検査するだけだから……」

 私は小宮さんの腰にすがりついた。その拍子に、小宮さんがバランスを崩して後ろにあったベッドに仰向けに倒れ込んだ。

「あっ、茉弥花ちゃん」

 小宮さんの声にドアの方に目をやると、茉弥花が怯えた目でこちらを覗いていた。

「せっくすするの?」




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