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海の生き物

 001(日)


「ぬいぐるみ…………、だよな?」

 これは、巨大なナメクジだろうか。いや、ウミウシかナマコかも知れない。

 およそ1mはあろうかというほぼ紡錘形の物体。ところどころにある緩やかな隆起部が全体に有機的なフォルムを与えている。先端に3cm程の触角のようなものが二本生えていて、そこから30~40cmところには僅かな括れがあり、頭部と体幹部とを分けているように見える。

 その頭部らしきところに黒い円形のフェルトが二つ丁寧に縫いつけられていて、おそらく目であることを示している。その下には横一文字に切れ込みがあり縁取りが赤く唇のようにかがられて手を突っ込めるほどのポケット様になっている。

 非常に曖昧だがこれは顔だ。

 体幹部には手か羽のつもりなのだろうか、取って付けたように魚の鰭のような形をした突起が生えている。

 擬人化したナメクジのぬいぐるみ?

 抱き枕にはちょうどいい大きさかもしれないが、青と赤と緑の絵の具でマーブリングされたような全体の色彩に光沢のある表面の布地が見る角度によって微妙な色の変化を与え、さらにコイツの異様さを際立たせている。

 これを抱いては、悪夢を見ることはあっても安眠などできそうにない。

 都心にある有名デパートのフロアの一角に新しく設けられたブランドショップの中央にそいつは他のぬいぐるみたちに囲まれるように飾られていた。

 こんな物を誰が買うんだろう。いや、こんな物が売れると思って作ったのだろうか。

〝フレッシュ!〟というフランスのブランドなのだが、ほかのぬいぐるみはどれも普通の動物を擬人化した個性的だが愛らしいものたちばかりだ。

 このブランドの作品では特に『オーレリー』というキャラクターが有名で黄色い帽子を頭に乗せた羊の女の子の活躍は、日本でも絵本や、アニメにもなって子供から大人まで幅広い人気がある。そのオーレリーの物語に出てくるキャラクターのぬいぐるみは、一つ4、5千円の25センチほどの大きさのものがよく売れているようだ。目の前でも、若いカップルや家族連れが手に取って品定めをしている。しかし、だれもこのナメクジには手を出さない。

 当たり前だ。

 ひょっとしたら他の売り場の商品が紛れ込んできているのかもしれない。

 そう思って、コイツのタグを確かめてみたところ弓矢を象った〝フレッシュ!〟のロゴが入ったブランドタグと併せて『DISPLAY用』というデパートの商品タグが付けられていた。

 なるほど、これはショップの飾り付けとしてデザイナーが気紛れに作ったぬいぐるみなのだ。注目を集めさえできればいいのだ。きっと売り物じゃない『非売品』だ。

 とはいうものの、そのタグには¥マークに続いて88,800の数字も記されている。これが6なら見事な獣の数字(オーメン)だが。値段があるということは売り物でもあるというのか。どういうことだろう。

 実際に抱えてみるとその存在感に圧倒される。生地は化繊のサテンでキラキラとした光沢を放ち肌触りが滑らかで高級感もある。中綿のしっかりした弾力も全く安っぽさがなく、この重さはかなりぎっしりと詰まっているに違いないのに触れるとふんわりとしている。

 しかし、いったい、こんなものに消費税を加えて十万円近くも払うヤツがいるのだろうか? どんなものにもコアなファンというのはいるらしいが。


 そんな派手なナメクジを抱えている私たちの姿に、羊売りの接客が終わった若い女性店員が近づいてきた。

「こちら、お気に入りですか?」

 まだ高校を出たばかりのような初々しさの残る店員は私たちに向かってにっこりと笑窪を作って見せた。

 確かに、よほどこのナメクジが気に入ったように見えたのだろう。なにしろさっきから15分近く、そいつを抱いたり持ち上げたり裏返したり遠目に眺めたりして、熱心に品定めをしているのだから。

 胸に『玉木』という名札を付けたその店員の説明はこうだ。

 このデパートで新しく〝フレッシュ!〟の直営ショップをオープンするにあたって、ディスプレイ用に季節に合わせたオリジナルのぬいぐるみを作ってもらうことになった。このぬいぐるみはこの夏に向けた『海の生き物たち』シリーズの一つで、他にクラゲやイソギンチャク、ヒトデなど十三種類があった。

 当初はディスプレイ用ということで販売する予定はなかったのだが、お客様からの問い合わせが多くあったためメーカーと話し合って特別な許可を貰って販売することになった。けれど、どれもあっという間に売れてしまって、いまはもうこれ一点しか残っていないということだそうだ。

〝フレッシュ!〟のブランド直営ショップはここが日本初出店で、こういった特別なぬいぐるみはここでしか手に入らないらしい。

「実はこちらのショップは私が提案した企画なんですよ」

 こちらに少し顔を寄せて小声で打ち明け話をする彼女はちょっとしたお手柄を自慢したい子供のようで、それが決して嫌味ではなく微笑ましく感じるのはふっくらとした頬の笑窪のせいかもしれない。

 なるほど、道理で若いにしては受け答えが堂々としていた。商品知識も完ぺきなはずだ。敬虔なオーレリー教の信者だったってわけだ。オーレリーの頭に乗っている黄色いのが実は帽子ではなくダンゴムシだという貴重な情報を初めて知ることができた。

 因みに、このぬいぐるみが何の動物なのかを尋ねたところ、

「海の生き物なんですよ」と、愛らしい笑窪でごまかされてしまった。

「〝フレッシュ!〟のオリジナル作品で、しかも一点物で! このサイズでこのお値段はとてもお値打ち品ですよ」

 そうだろう、そうなのかもしれない。

「とっても可愛らしいお顔をしてますよね」

 ぬいぐるみのパーツを私たちに指し示す様子はまるで赤ん坊を自慢する母親のようだ。

「これは、なんですかね?」

 私はさっきから気になっていた顔の部分を指さした。

「ああ、この子、笑窪ちゃんなんですよ。いっつも笑顔なんです」

 やっぱりそうなのか!

 赤い裂け目の両側にある内側から縫い付けたような小さな窪みは縫製ミスなんかじゃない。

彼女がその窪みを赤ん坊をあやすように人差し指で優しくちょんちょんと突く。

「確かに、笑窪がある子は可愛いですよね」

「ですよねぇ」にっこりと私に笑窪を向ける。

 確かに、この店員も愛らしいは愛らしいが……、天然なのか?

 ひょっとして、この出来損ないのナメクジはこの店員が自分で作って密かに並べたのではないかという疑念が頭に浮かんだ。


 結局、私たちはそのぬいぐるみが何という生き物を模したものなのかを知らないまま、デパートを後にした。

 なぜ私がこんなにもこのぬいぐるみに拘っているかというと、娘の茉弥花(まやか)のためだ。今日は茉弥花の4歳の誕生日だった。久しぶりに娘と二人で出かけたデパートで誕生日プレゼントを選んでいたときに目に止まったのがこの異様なぬいぐるみだったのだ。

 あの売り場で茉弥花は足を止めた。そして動かなくなった。娘があれほど物を欲しがったことは今までになかった。他のぬいぐるみも玩具も、フルーツの乗ったお洒落なパンケーキさえも彼女を動かすことはできなかった。

 いったい何が気に入ったのだろうか――――。

「お誕生日だからね。きょうはなんでも好きなものを買ってあげる」

「なんでも?」

「ああ、なんでも」

「おっきいぬいぐるみでも?」

「ああ、茉弥花よりでっかいのでもね。でも、パパのお財布に入ってるお金で買えるものだけだよ」

 私は『なんでも買ってやる』という茉弥花との約束を果たすために、あらゆる楽しさを彼女に与えてやろうと用意していた財布の中身をほぼ使い果たさなければならなかった。

 それで、私の部屋のベッドにコイツが寝転がっているのだ。

 茉弥花はこのぬいぐるみをあれほど欲しがったのに連れては帰らなかった。

「パパのおへやにおいとく」

 ひょっとしたら自分の代わりに私のそばに居させるアバターにしようと思ったのだろうか。それともさすがにこんなものを連れて帰ったら母親に叱られると思ったのかもしれない。あるいは、私の愛情を測るために我儘を言っただけだったのだろうか。何しろ、自分一人では抱えるのもやっとの大きさだったのだから。

「パパがさびしいから」とも言っていた。

 迎えに来た妻の――元、だが――車にさばさばとした態度で乗り込んで手を振ったあの子は、親の離婚という現実をどのように受け止めているのだろうか――――。

「このこはね、はっちゃんだよ」

 茉弥花は初めから決まっていたかのようにナメクジの名前を告げた。

「はっちゃん?」

 8が並ぶ値段から適当に思いついただけなのかもしれないが。

「パパのね、あたらしいママなんだよ」

 そうか、茉弥花には新しいパパができるのだ。できたのだ。いや、いたのだ。近々に「おひっこし」するのだとも言っていた。

 一人になった部屋でベッドに転がって、改めて巨大なナメクジを顔の前に持ち上げてみた。茉弥花とほぼ同じ身長なのに今更気付いた。

 目の前の二つの黒丸と赤い裂け目が笑窪のおかげか不思議と笑っているようにも見える。

「はっちゃん?」

 呼びかけて、急に涙が溢れ出して極彩色のナメクジを抱きしめた。そいつの中から甘く爽やかな桃に似た香りが溢れてくる。

 茉弥花が、おそらく適当に付けたであろうそのぬいぐるみの名前が、私の中学時代の初恋の少女の愛称と同じだということなど、きっとあの子には思いもよらぬことだろう。

 それで、遠いあの日、淡い思いを伝えた私に『お友達でいましょう』と告げた彼女との別れの日のように私は声をあげて泣いた。

 私の涙は、こんなものに97,680円も使ってしまったせいなどでは決してない。

 あの頃のはっちゃんと同じように、茉弥花とも、もう二度と会うことは叶わないのだ。



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