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名残りの薔薇  作者: かのこ
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 軽やかな足取りのウィプサニアとは対照的に、ティベリウスは気がすすまぬ様子で食堂に入ってきた。

「そんなにあの薔薇が好きなら、根元から抜いて持ち帰ってもいいんだよ」

 マエケナスが言うとウィプサニアは首を振った。

「おじさま。あの薔薇は、あそこにいるからいいのです」

「毎年見に来るだけだろう? 一輪採って帰るとか、花びら拾うとか、そういうのもしないのかい? 別にうちにはいつ来ても構わないけど、時期が過ぎたらまた来年になってしまうんだよ?」

「いいんです。おじさまのお庭に、私のお花があるのが良いのですもの」

 にこにこと笑いながらウィプサニアは答えた。

「お花を見ればおじさまはウィプサニアはどうしてるだろう、と思い出してくださるでしょう? 私もレスボスにいた頃に、おじさまのお庭で大事にされているんだってわかってましたから、おじさまにお会いできなくても寂しくないって思えましたし」

 マエケナスは苦笑した。

「まあいいか。特別だからね、ウィプサニアは」

 全くこの二人の会話の意味がわからない。マエケナスがこうなのは今さら仕方がないとして、ウィプサニアはどうしてこういう娘に育ったのだろう。

 ティベリウスがげんなりした顔をしている。

「あれは、薔薇なのですか」

 ティベリウスが言うには、そうは見えなかったそうだ。

 マエケナスはティベリウスの言い分もわかるのか、肯定も否定もしなかった。

「たぶん。どっか遠い地方の薔薇だよ。何故か知らないけどうちの庭園にあって、ヘンな季節に咲くんだ。変わった形をしているから薔薇っぽく見えないんだろうけど」

「違います。全く別ものです!」

「でもウィプサニアが薔薇だと言うのなら、あれは薔薇なのだよ。なぜなら彼女のものだからだ」

 若者は納得できないという表情をしている。年長者で義父の友であるので議論は控えていたが。アグリッパにもわからなかった。マエケナスの言っている意味はもちろん、ティベリウスがカリカリ怒っている理由もわからない。なんの花だろうと、どうでも良いではないか。

「誰か詳しい人間に見せれば、違うとわかるはずです」

 ウィプサニアが首を振った。

「だめです。ティベリウス様だからお見せしたのです。他の人はだめです」

「……何なんだこの娘は」

 思わずティベリウスがぼやき、ぎくりとしてからアグリッパを上目遣いに見た。

 ……違う。別に睨んだわけではないぞ。

 自分の娘に無礼な口をきいたとて、怒る気はない。自分だって娘の思考には、首をかしげているところだ。違うのだ、ティベリウス。


「ウィプサニアは、ティベリウスみたいに図体がでっかくて無愛想で顔の怖い男の人、恐ろしくはないの?」

 呑気にマエケナスが尋ねている。端で聞いていても「失礼な」と思う。だいたい娘の将来の婿について、そんな言い方をすることがあるか。

 ティベリウス本人が「勝手にしてくれ」となげやりな表情で聞いている前で、ウィプサニアは答えた。

「お父さまもそうですので、怖くはないです」

「あーなるほど」

「何がなるほどだ!」

「父親もヘビも、可愛いと感じる域だものねえ。そういう趣味か」

 マエケナスがしみじみと感心している。

「……さすが将軍のお嬢さんですね」

 それで自分にも物怖じしないのか、と合点がいったティベリウスが、初めて娘を称賛した。この融通の利かない青年は、世辞は言えない。本心からでないと一切誉めることができない性格をしている……。この野郎。

「そこでお前に納得されると、ハラが立つわ!」

 耐える努力はしたつもりだったが、アグリッパはティベリウスを怒鳴りつけていた。ティベリウス本人には悪気はないのはわかってはいるが、それがまた腹が立つのである。

「ティベリウス。世間じゃ英雄だの言われてても、男親ってのはこんなもんなのだよ」

 マエケナスがわかったような顔で諭している。

「面白いよねえ」

「うっさいわ!」

 ああ、この人も所詮ただの我が子を溺愛する父親に過ぎないのか、とティベリウスはアグリッパを哀れむような表情をうかべている。子供を持ったこともない若者には、みっともなく、滑稽にうつるのだ。娘への執着であればなおさら、若い男には煩わしくて理解の範疇を超える。

 違う。断じて違う。そんなくだらない話題にされるのは不本意だとアグリッパは思う。相手がこの男でさえなければ、こんなに不愉快にはならない。


 だが何故かウィプサニアは、アグリッパにはその薔薇を見せてくれる気はないらしい。マエケナスとその妻と、使用人以外でその花を知っているものは、ティベリウスだけだそうだ。はっきり理由を言わないのでしつこく理由を尋ねると。

「……えっと、お父さまを褒めてくださったから……」

 何故そこで、もじもじとする。他に理由でもあるのか。

「ティベリウス様はお父さまのようになって、アウグストゥスのお役に立てるようになりたいのだそうです」

 それは知らなかった。よくぞ短時間でティベリウスからそれだけのことを聞き出したものだ。ティベリウスが、何故か自分を見てから顔をそらした。

「余計なことを言うな」

 マエケナスが「変だなあ」と首をひねっている。ウィプサニアと親しくさせたくて呼んだはずが、ティベリウスはアグリッパの反応ばかりを気にしているのだ。

「まあいいか。いいだろう。うん」

 どういう意味だ、マエケナス。


 最初はウィプサニアが一人で話し、マエケナスが答えていると思っていたが、よくよく見るとティベリウスがぽつぽつと語っていた。今日おびき出された書物についてのことらしい。この娘は母方の祖父の影響で、そちらの教養も多少ある。が、それだけではなく人とのやり取りがうまいのだ。

 話を聞きだすウィプサニアは、おっとりとはしているが、なかなかに賢い娘だとアグリッパは思う。時として聞き手の方が豊富な知識や寛容さを必要とするからだ。複雑であったろうに、アグリッパの後妻のマルケラともユリアとも衝突せずにうまくやってくれたことには、感謝している。

 ――それだけに、心配になるのだ。この娘の優しさは、人の感情を直撃で受けてしまう。ティベリウスのように自分を賢いと知っている男は、ウィプサニアのように素直な人間を愚直と見なす傾向がある。さらに「所詮は騎士階級の娘」と見なして扱うとしたら。ウィプサニアの心にも限界はあることを思うと、やりきれなくなる。それでも娘には「耐えなさい」と言うしかないのだ。

 婚約者がたてた武功について聞き知っていたウィプサニアが、それについても質問している。ウィプサニアは物心がついて以来、この男が自分の結婚相手だと言われて育ってきた。相手を少しでも知りたいと思うのは当然のことだ。

 だがティベリウスは「その手は食うか」と意地を張る。ただの男ならばいい気になり、尾ひれまでつけて自慢する場面だが、これがマエケナスの「罠」であるのだし、ティベリウスの経験はアグリッパの前ではかすんでしまう程度ものでもある。だが全く大人げがないし、人間味も感じない。

 誰も冷やかすそぶりはしなかったのだが、若者はピリピリとしている。しだいに無言で飲むようになり、ウィプサニアも無理して語りかけはしなくなった。


「またおいでよ、と言ってもなあ。次にウィプサニアを呼んでも、君はおとなしくは来そうにないよね」

 マエケナスは屋敷の玄関先まで見送りに出て来た。

「その時の気分によるだろうな」

 小雨の降ってきた空を見上げて、ウィプサニアがティベリウスを心配している。

「書物さえ濡れなければ、私自身はどうでも良い」

「でも」

「酔いも醒める」

 本人はあきれ返るほど飲み続けていたが、顔色一つ変わっていない。すぐにでも屋敷を辞そうという勢いのティベリウスをとどめ、ウィプサニアがマエケナスの使用人に頼んで、雨天用の外套を用意させている。

「ティベリウス様はローマにとって大切な方なのですから、お身体を大事になさらなくては」

 手を掴まれたティベリウスは、恐怖に硬直している。言われ慣れていないのだろう。

「お前は一体、なんなのだ」

 アグリッパが睨んでいると思ったらしく、ティベリウスは慌ててウィプサニアの手を振り払った。マエケナスは呆れたように笑った。

 世界を手に入れた。

 感傷にひたる気はない。失ったものを数えて嘆く趣味もない。

 信じて、望んで、この手でつかんだ。この現実こそが全てだ。何一つ後悔する気もないし、あの頃の無力な若さなどに未練はない。今の自分と引き換えにして取り返したいものも、今のところはない。だが。

 何があの頃描いていたものと、違っているのだろう。鮮やかな色彩を持つはずの現在は、今の景色のように、くすんだ色をしているように感じられた。


「よい、私はこれで」

 ティベリウスが「失礼します」と簡潔な挨拶をして、雨空の中マエケナス邸を辞そうとする。

「ティベリウス!」

 それをマエケナスが呼び止めた。

「上官に礼を払うだけで、婚約者や、招待した私には挨拶なしかね」

 アグリッパから見れば当人とて常識をわきまえているかは怪しいものだが、マエケナスは自分が外交で活躍していた経験上からか、若者の礼儀に関しては厳しかった。今後のローマを支える人材であるなら、なおさらである。

「すいません」

 ティベリウスは慌てて立ち止まり、振り返って謝罪を述べた。うむ。自分たちの友人の息子なのだ、容赦なくビシバシ躾けてやることは正しい。

 過去を懐かしむのには、まだ早すぎる。確かに未来を語るべきだ。

 一応、触れないわけにはいかないだろう。

「今後のことだ。どうだろう。時期的なことを考える気になったか?」

 ティベリウスはそこで顔をあげ、アグリッパを見つめた。何かを計算する顔つきになり、一瞬考えたのちに「これだ」と思ったらしい。

「……私は半人前の身です。将軍に認められましたら、その時にお任せいたします」

 どうだ、と言わんばかりの表情をしていた。マエケナスが「そうきたか」と呟いた。ティベリウスには「私ではなく、将軍がご不満のようです」といい逃れる機会を与えてしまったのだ。

「私の意向に関しては、ご配慮いただくには及びません」

 ウィプサニアがティベリウスを見上げた。たいした意味はなかったのだろう、ウィプサニアの視線に気づいて怪訝そうな表情をしている。

「確かに今の君を見てたら『今すぐ』って言ったら『ふざけるな』って怒鳴られそうだし『いつでもいい』って言ったら首絞められそう」

 マエケナスが言う。つまりアグリッパの態度はそういう風に見えているということなのだろう。

「わかってる。別に怒ってるんじゃなくて、それが君の『地』だってことは。でも怖いんだよね。ティベリウスがウィプサニアに話しかけられるだけで不機嫌そうな顔見るはめになるの」

 自分の初婚の時の岳父には、気に入ってもらいたいと思っていた。尊敬していて、彼の娘であったから結婚したようなものだ。「君ならば他にも良縁はあるだろう」と言われたが、そういうことではなかった。娘を託すに足る男として認めて欲しかったのだ。――実際その娘との結婚生活の結果は、苦いものだったが。

「わかった。私が決めることにする」

 確かにティベリウスの問題ではない。アグリッパの気持ちが整理できるまでの、時間の問題なのかも知れなかった。どう考えてもこの男が結婚するとか、そもそも娘が誰かの妻になるとかいう実感はわかなかったが。


 ウィプサニアはティベリウスをつかまえトガの上に外套を羽織らせていたが、どうしても背伸びをするのでティベリウスは屈んでやっている。雨よけのククッルス (フード)を頭にかけると、ティベリウスは「ありがとう」と礼を述べた。気が楽になったのか、ウィプサニアに抵抗するのを諦めたようだった。

 見上げるようにして「またお会い下さいますか?」と娘が言ったのには、ティベリウスを含むその場の皆が驚いた。「うん」とティベリウスは簡単に返事をして、マエケナスに向き直った。

「マエケナス殿。ご招待ありがとうございました。楽しかったです」

 社交辞令は一切言えない青年である。ウィプサニアが小さく手を振って見送るのに対し、ぎくしゃくと頭を下げて、ティベリウスは雨の中を去って行った。



 ウィプサニアは「せっかくお父さまといられるのに輿で帰るのはもったいない」と言って、小雨なので平気だと歩きたがった。こういうところも変わった娘だと思う。護衛で連れてきた者たちも従うことになる。

 徒歩での帰り道、アグリッパは「お前はどうなんだね」と娘に尋ねてみた。返事を聞くのが少し怖かったのだが、今を逃すと二人で話す機会も持てそうになかった。もしも本人がティベリウスを嫌ではないのなら。今でさえ結婚していてもおかしくはないのだし、多忙なティベリウスが更にローマに滞在できることも少なくなることを考えれば、早めに結婚させなければならない。

 今のままではアグリッパの子供たちの中の一人にすぎず、充分に接してはやれない。ではティベリウスにとってただ一人の嫁として扱われた方が、まだ幸せなのではないのか。……あまり幸せだとも思えないが。

「……マエケナスおじさまの心配して下さるお気持ちは嬉しかったです。でも今日はお父さまといられたのがもっと嬉しかったです。ティベリウス様はお父さまにいつか本当に『認めて欲しい』とお考えのようですし、私はもう少し、お父さまといたいです」

 ウィプサニアはそう返事をして、アグリッパの腕に抱きついてきた。

 やれやれまだ子供のままなのかと思いつつ、まだ気にかかった。

「何故私には、薔薇を見せてくれないんだ。ティベリウスだけ特別なのか」

「……特別です」

 今日のことで何か思うことがあったのか、娘は小さな声で言った。

 面白くなかった。


古代ローマ人は雨の時って傘さしたのでしょうか。当時日傘はあっても、洋傘が雨具になったのはもっと先のことのようです。絵的には相合傘にしたかったなあ。

アグリッパたちが「落ち着かない大人になってしまったなあ」と思います。ただ「若い頃は良かった」的なことは書く気はなかったです。

ちなみにアグリッパとアッティクスの娘の縁談をまとめたのは、マルクス・アントニウスだそうです。意外ですけどそういうご縁もあったんですね。

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