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「まあ、お父さままで」
マエケナスのいる母屋から庭へ出られる戸口は、家人や使用人が使うものらしい。生活感のある道具類や、庭から中に運び込まれた物が置かれていた。積まれた薪の陰には、確かに子供の腕ほどの太さのヘビがいて、無言で人間の侵攻を阻んでいた。季節的に冬眠中のはずが、何かの手違いで出てきたようである。人間に反応する動きも鈍いようだ。娘が用心して歩けば、あるいは通り抜けられたかも知れない。だが娘はそこまでする勇気はなかったのだろう。
「ティベリウス様、戻ってきて下さったのですね」
とウィプサニアはティベリウスに向かって言った。
同い年で既に子もいる女もいる中で、ウィプサニア・アグリッピナは十五になる娘とは思えぬほどあどけない表情をしている。小柄なためか、さらに幼く見える。
ティベリウスがムッとした。娘はティベリウスの顔を覚えていて、最初から相手が誰かを知っていたのだ。気まずいのだろうし、名乗るべきだとでも言いたいのだろうが。
「待てと言ったのに、来ないとでも思ったのか」
「いいえ。いらしてくださると思っておりました」
安眠中を叩き起こされた男のように不機嫌なティベリウスを見ても、娘は怯えもせずににこにこ笑っている。我が娘ながら度胸があることだと感心する。
「それでマエケナスおじさまは、このヘビを逃がしてもよろしいと仰って?」
おそらくウィプサニアが「飼っているヘビかも知れない」と突拍子もないことを言い出し、ティベリウス本人は(屋敷に仕えている娘の言うことだし、マエケナスの趣味を慮るにさもありなんと考え、)「飼っているヘビかどうか」の個体の判別に行ったつもりであるのだ。
「飼ってないそうだ」
「まあ。じっと見ていたらとてもおとなしくて、可愛らしい気がしてきたので、もしかしたら飼いヘビなのかも、と思っておりました」
「可愛いのか」
そのヘビを叩き殺す気で戻ってきたティベリウスは、ウィプサニアに呆れている。確かに大きさといい模様といい、愛玩するにふさわしいヘビとは言いにくい代物である。
「はい。お父さま、おうちで飼ってもよろしいかしら」
「……異母妹が幼いからな」
この娘は。何故こういう風に育ったのだろう。大丈夫なのだろうかと思うくらいにおっとりしている上に、どこかずれている。
「そうですわねえ。ユリア様ももしかしたら、ヘビはお嫌いかも」
疑問に思うまでもなく、好きではあるまい。
「子供の頃にユリアの部屋に、これより小さいのが入り込んでいて、大騒ぎになったことがある」
ユリアの義理の兄であるティベリウスが即答した。
「でもユリア様、ヘビの模様の腕輪をお持ちですよ」
「金でできたものなら、ヘビでもワニでも好きだろうよ」
「私、ワニは見たことないです。可愛いのかしら」
「私は好かぬし、見ても気持ちの良いものではないと思うが」
「まあ、どちらでご覧になったのですか?」
「……外に出すぞ」
アグリッパはバカバカしくなった。
ティベリウスが、乱暴に木の扉を蹴り開けた。そのまま革靴でヘビまで踏み潰すか、蹴り出すか、という勢いであったので、アグリッパは慌てて制止した。娘が心を痛めるような気がしたのだ。
お別れに、せめて飼えなかったヘビを撫でてみたいと言う娘を叱りつけ、ちょうど良いことにマエケナスが気を利かせて寄越した奴隷に言いつけて、ヘビを(再び冬眠させるために)どこかに埋めるように命じた。
よくよく考えるとローマが誇る武将二人の関わることではない。
「……似てますね」
何か言わないといけないと思ったのか、ティベリウスが珍しく話をふってきた。
「何が?」
「アグリッパ将軍と、お嬢さんが」
「……どこがだ」
それは年頃の娘に言うことか。
アグリッパは絶望的な思いにとらわれた。
普通に考えて、自分のようにいかつい、不恰好な男親に似ていると言われて、傷つかない娘がいるとでも思うのか。
「嬉しいです」
「は?」
振り返ると娘はにこにこしてティベリウスを見上げている。
「私、そう言われると嬉しいんです。お父さまが大好きですから」
娘よ。少しそこで、悩んでも良いと思うが。
アグリッパは時々、ウィプサニアが本当に自分の娘なのかと疑問を感じる。非常に心根のやさしい、愛情深い娘であることもそうだが。考えていることが理解できないのだ。世代の差ではあるまい。根本的に思考が違うのである。
「お父さまはやさしいし、強いし、力持ちだし、背も高いし、お馬にも乗れるし」
と、ウィプサニアはアグリッパの腕に抱きついてきた。幼児の頃に片足に抱きついていたような癖だ。言うことも幼いままだった。
「それに、お声が好き」
「おいウィプサニア」
「鎧姿で、マントをつけている時なんて、本当に素敵で」
娘の子供じみたたわごとに呆れるだろうと思ったが、大真面目な顔のティベリウスはひとつ、首を縦に振った。
「うん。立派な方だ」
ん?
娘は一人で話し続け、ティベリウスは黙りこくってしまった。
マエケナスのいる食堂にはアグリッパ一人で戻った。
「あれ、ティベリウスは?」
「娘が花を見せるのだと、引っ張って庭に連れて行った」
「凄いな。あの娘は自分のやってること、わかってないよね」
娘の性格は自分にも母親にも似ていない。彼女の祖父譲りなのかも知れないと思うことがある。非常に温厚で大らかで、多くの人に慕われた立派な人だった。ただ信じられないくらい意思の固い人で、その死には泣かされたものだった。自分が死ぬと決めたら、断固として死ぬと言い張って、絶食の末に亡くなったのだ。娘にはそこまで似て欲しくはないと思う。
「本人、嫌そうだった?」
「尋常ではないほどな」
だが娘の父アグリッパの手前、怒鳴りつけることも出来ずに動揺しながら、ティベリウスは連れて行かれたのだ。自分から男の手を取って強引なことをするのには、我が娘ながら呆れたが。馬鹿力のあるティベリウスが本気になれば、ただの怪我では済まないところだ。
「やっぱりいいねえ。過去の話ばかりするのは辛気臭い。若者たちの輝かしい未来について語ろうじゃないか」
「だから人の娘のことに、口を出すな」
「いやあ、アグリッパも実は、娘を嫁にやりたくないお父さんなの? ティベリウス本人は結構見込んでるのに。なんかウジウジしてるよねえ、お父さん」
「俺はお前の父親ではない!」
「ウィプサニアは可愛いからねえ」
「ああ悪かったな、可愛い娘で!」
「マルケラやユリアの子より可愛い?」
「うるさい」
「私は可愛いな。あの娘は気立てが良い。別に私は若い女の子に甘えられてデレデレしてるんじゃないよ。あんな歳で私や妻のような年長者にも、うちの使用人たちにも心からの気遣いの出来る、賢さを賞賛しているんだ。すばらしい美徳だよ。ティベリウスにはもったいない。不憫だよ。幸せになって欲しいんだけどな」
うるさいうるさい、うるさい。
貴様に言われるまでもない、とアグリッパは思う。
だいたい、あの男は。ウィプサニアを「アグリッパの娘」としか認識しようとはしない。
あの娘の健気さを理解することもなさそうな男に、くれてやらねばならないのかと思うと無性に腹が立ってくる。
しかもティベリウスだから、二人にして置いてきたのだ。少しは自分の婚約者に興味くらい持て、と。
何故そんな非常識なことをしてるのだ、とアグリッパ自身疑問に思う。
だがそこで娘をたしなめ、引き離すようなことをしたら、あの男がロクなことを考えるわけはない。妙な想像をして、いじけるに決まっている。娘だってこの婚約が父親にとって不本意であったのかと気にするだろう。
「私だって寂しいさ。可愛いウィプサニアがバケモノの生け贄になるくらいなら、どこぞの勇者にさらってってもらいたいなあ、とか思うよ」
マエケナスは酷いことを言う。
アグリッパはそこまであの青年を嫌っているわけではない。たぶん。
今日、ここに来ることになったのは、半分は娘のことが気に掛かったからだ。
両親の事情で実母とは別れ、ウィプサニアには姉のような年齢の継母が家の中に入ってきた。それも二人目だ。いずれは嫁にやるのだし、幼い妹もいる。ユリアの妊娠がわかったこともありついついないがしろにしてしまうし、妻の手前、元妻の娘を必要以上に可愛がるわけにもいかない。
一番の理由は年頃になった娘と、どのように接すればいいのかわからなかったからだ。まさか抱き上げて振り回していいものでもなかろうから。
マエケナスの屋敷に招かれていると聞いて、「では送っていこう」と言っていたのは、そんな機会でもない限りはウィプサニアのために何かしてやることも、誰かの元を訪問することも、既に稀だったからだ。
さきほどのようにウィプサニアが自分に抱きついてくることも、無邪気にこんな父親を大好きだ、と言っていたのも幼い時を思い出したほどだったから、かなり久しぶりのことだ。それだけ相手にしてやっていなかったということなのだろう。
初めて警吏を引き連れた姿を見た時、幼いウィプサニアは泣き出したものだった。甲冑姿の父を見送るのを嫌がって母親にたしなめられていた娘は、今でも好きではなかろうに、父親を気遣ってあんな言い方をするようになっていたのだ。
「なにが心配なの?」
うるさい。アグリッパは我にかえった。娘のためにここに来たはずなのに、どうしてこうも煩わしい男二人に関わっているのだろう。
「あの娘なら、大丈夫だと思う」
臥床にゆったりと横たわるマエケナスは、のほほんとした表情で予言じみたことを述べた。
「何を根拠に」
「何故かそう思うんだ。ティベリウスにも、彼女の価値がわかるだろう」
「何の説得力もないぞ」
「お父さんてば。心配しすぎだよ」
本来であれば父親であるアグリッパが気にしなければならないことだった。多忙を理由に娘のことを後回しにしてきたことを、友が気遣ってくれている。それに対してまだ礼は述べていないが、どうもそういう会話にはなりそうになかった。