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名残りの薔薇  作者: かのこ
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「おじさまこんにちは!」

「やあこんにちは、ウィプサニア」

 こんなに静かな屋敷だったろうか。記憶との違いに戸惑った。

 娘が邸宅の主と、お互いの家族について尋ねあうなどして挨拶をするのを黙って眺める。こんな二人を見るのも、どれくらいぶりだろうか。娘と共に訪れると、まず友はにこやかに娘と話込んでいたものだった。

 お互いに年をとったが、意外にも笑顔の友の印象はほとんど変わっていなかった。

「じゃあまた、あとで」

 黒髪の少女はぱたぱたと屋敷の奥へと駆けてゆく。

「さすがに年頃になると女の子は変わるものだね」

 と語りかけられた客は、書斎の椅子に座ったまま見上げてくる、屋敷の主人の視線を避けるように、目をそらした。

「見かけだけだ。実際はまだまだ子供だ」

「十四? 五だったっけ。相変わらず元気がいい」

 笑いかけるマエケナスに、アグリッパは牽制するように言った。

「私は娘を送ってきただけだ」

 今にも立ち去ろうとする肩口と、動かない足先とが、複雑な心情を表している。しかしここへ来るのに地位にふさわしい数の護衛もつけていなかったし、目立たぬような私人の格好をしている。昔のように。

「そう言わずに少しつきあってくれないか。珍しい酒があるんだ」

 少女の挨拶は座って受けたマエケナスは、立ち上がって自ら友人の大きな掌を取り、珍しい手触りの陶製の杯を押し付けた。

「穀物から作った酒だそうだ。白濁した液体で、変わった風味がある」

「おい、昼間っからか」

 この放蕩者、と言わんばかりの口調を、マエケナスは笑って流す。お互いに若い頃のやり取りを思い出したのだろう。苦笑を取り繕おうとしたアグリッパに、さりげなくマエケナスがたたみかけた。こうした時に嘆願してみせるのは、いつも年上のはずの彼の方だった。

「せっかく君が来たからこそ、出したい酒もあるんだ」

 それはそのまま、ここ数年間の二人の疎遠さだった。

 共に多忙の身であるからとか、現在のお互いの持つ感情の複雑さばかりからではない。アグリッパはもともとこの男の屋敷と、その友人達の中に放り込まれて居心地の悪い思いをさせられるのが苦手だった。マエケナスの「宮廷」には、気取った言い回しを好む、奇怪な類の人種が集まる。そんな取り巻きがいるのでは、つい足が遠のくのも仕方のないことだ。

 眉間にしわを寄せているアグリッパの様子をものともせず、マエケナスは機嫌良さげに友人の手に納まっている杯に、似たような文様のついた陶器に保存してある酒を注いだ。そして立ったまま勝手に乾杯をする。

 マエケナスの母方はエトルリアの王族の血筋だと聞いている。本人は「ま、誰かさんがウェヌスの末裔ってのよりは、少し信憑性高いかな」などと笑って言うが、その言動や生活ぶりには庶民が真似をしても無理の出る典雅な嗜好が表れていて、信憑性を裏付けていた。

「上品じゃない酒だって、君なら気にしないだろうし」

「どういう意味だ」

 変わらない。歳をとろうが家庭を持とうが、落ち着く様子はない。普段の室内着なのだろうが、華やかな文様入りの上等な布地が使われている。両手の指輪の中の一つに、見た記憶のあるマエケナス愛用のものもあり、それに一瞬目を引き付けられた。過去に引き戻されるかのような感覚があった。

「そうだ。今日は別の人も呼んでいるんだ」

 まさか、という顔つきをしたアグリッパに「違うよ」と微笑んだ。だが目つきは冷めたものだった。「彼ではない」

 確かに。マエケナスの方が、「彼」に対面できる状態ではないだろうと思った。

「さすがの私もね。今回ばかりはアタマに来てるんだよ」


 ふん、とマエケナスは、アグリッパが常々邪魔ではないのかと思っている、香油を塗っている前髪をなでつけた。

「最近、あからさますぎやしないか? ちったあ反省してるかと思ったら。何度目だと思う? もう許さないって決めたから」

 現在、旧友夫妻は別居中らしい。先ほどはアグリッパの娘に尋ねられて「別荘に行っている」などど説明していたが。

「カエサル(オクタウィアヌス)よりも、どちらかと言うとお前の奥方の方に問題があると思うが……」

「うるさいな。あんなヤツをかばうなよ」

 ふと室内に控えている家内奴隷たちを見ると、一様に慎ましやかに、だがアグリッパに同情、もしくは積極的な同意をするような表情をしている。

「だいたいなあ、人の妻を寝取るなんてのは、ヒトとしてやっちゃならない、最低限の常識だろう! 苦楽を共にした友の妻ならなおさらだ!」

「確かに。たとえ友人の妻に誘惑されても、断るのが筋だとは思うが」

 お前自身は他の男にとって加害者ではないと? と思ったが敢えて言わないでやるのが人情というものだ。

「だろう? 妻を奪われたルクレツィアの夫はどうしたのだっけ? 私はずっと言って諭しているのに! あのわからずや!」

 だのに、カエサルは友人の妻と寝るのだ。

 だが救いがないのは、マエケナスの妻には貞淑なルクレツィアにたとえるべき部分が見当たらない、ということだ。カエサルに無理強いされたり、権力に泣く泣く従っているというわけではない。アグリッパから見ると、むしろ誘惑しているのが、彼の妻テレンティアの方であるようにも感じる。が、他人の家族のことには口を挟むべきではない。ましてやそれが、この友の最愛の妻のことであるなら。

「ふざけんなよ~」

 と、マエケナスは自分の杯をあおった。強い酒を無理やりに飲み干し、たん、と杯を卓上に叩きつけるように置くと、アグリッパに向き直った。

「さて、誰でしょう!」

「は?」

「これからここに来る人!」

「さあ」

 マエケナスは実際よりも酔っているふりをしていると、アグリッパにはわかっている。昔からそういうところのある男だった。人とのやりとりやその場の雰囲気に酔うのだ。酒が一滴もなくとも、美しい酒器があれば盛大に酔っ払える男だろう。

 だが若い頃には、確かに相当な量を飲んで盛り上げていたはずのマエケナスが、泥酔して寝こける男たちを見捨てて抜け出し、いつの間にか別の天幕にいて厳しい表情で書簡を書きつけていたのを見たこともある。吐き気に辟易しながら「こいつは何なんだ」と思った。わずかな灯火が照らす、悪夢のような光景だった。


「……怒らない?」

 しかし確実に歳を取って酔いの回りが早くなったのか、今のマエケナスは目元が赤くなっている。それともアグリッパの存在が、無茶な痛飲も可能だった日々を思い出させているのか。

「俺が怒るような相手なのか」

「どうかな。ウィプサニア一人で来るのかと思ってたから」

「……?」

「ティベリウスを呼んでみた」

 苛立ちまぎれに口に杯をつけていたアグリッパは、マエケナスの言葉にむせた。

「……! ……! ……!」

「大丈夫? 水いる? 口にあわなかった?」

「どうして!」

「向こうも適齢期、20とか21歳だ」

「何で!」

「あの若年寄も、『この娘なら結婚してもいいかなー』とか、思うようになるかな、と」

「余計なことをするな!」

 客人は現在のローマ軍で最高の武将、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ。若い頃からカエサルを支え、数々の軍功をあげてきた英雄だった。屋敷の主人とは同じく無名の頃から苦楽を共にした旧知ではあるものの、近年は仲を違えている、という噂もあった。最近仕えるようになった若い使用人なのか、その真相を測るかのように興味深そうな目をしている無礼者もいる。

「俺の娘だ、お前に関係あるか!」

 ウィプサニアとはアグリッパの先妻の産んだ娘で、ティベリウスとはその婚約者の名だった。ローマ市民の規範を示すために「早めの婚礼を」と考えられている中、一切進展がないとマエケナスが気を回したのだ。

 通常であれば端で聞く者の方が震え上がるところだが、ローマの軍団を動かす男の威圧感を、このローマでは無位の男は平然と受け止めた。今では驚愕の目で見られるが、本人たちには慣れた会話だった。マエケナスは手振りで命じた家内奴隷から水を受け取り、アグリッパの持つ酒杯と交換した。

「私にとってもウィプサニアは可愛いんだよ。君に初めて子供が生まれた時、すごく嬉しくて、彼にさえ『少し落ち着けよ』って言われたもんだ」

「そりゃあ生まれたばかりの赤子に、絹だの宝石だのを贈ろうとする方がおかしい」

 娘の父親はお前か、という疑いをかけられても、おかしくはない非常識さだ。

「なのにあいつだって、ちゃっかり君の娘とティベリウスを婚約させるって決めてたしさ。ずるいよな。今になって思えば、私がもらうって言っとけば良かったかも知れない」

「アホか! 誰が貴様なんぞに!」

「冗談、冗談。君と違って、自分の娘みたいな歳の嫁さんもらう元気ないし」

「殴るぞ!」

「殴ってからそれ言う癖やめろよー。酒がこぼれるよー」

 これが四十にもなる男二人の会話か、と我ながらバカバカしくなった。

 主人を気遣う使用人たちに、「大丈夫だから」とマエケナスは笑って答えて下がらせた。



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