婚約破棄された悪役令息に「大丈夫? おっぱい揉む?」と言ってしまった私の顛末
コミカライズしていただきました!
「グレゴリー! あなたとの婚約は今日で破棄するわ!」
壇上に立つ王女の宣言に、談笑していた人たちは石像になったみたいに動きを止める。
艶やかな赤い髪と明るい青い瞳をした王女アナスタシア。藍色のドレスに身を包む姿はまばゆいほどに美しい。この国の第一王女にして未来の女王候補である彼女は、先日成人とされる18歳の誕生日を迎えたばかりだ。
建国記念のパーティに集まった有力貴族たちは、アナスタシアの発言に何が起こったのか理解できないでいるようだった。
国王と王妃は先ほど中座したばかりでこの場にはいない。アナスタシアは恐らくこのタイミングを見計らっていたのだろう。
「本気なのか」
一人の青年が人々の間を縫うようにしてホールの中央に現れる。
すらりとした長身、黒い髪に灰色の瞳。どこか冷酷そうな薄い唇が印象的な彫像のように青年は、表情を堅くしてアナスタシアを見上げた。
「ナースチャ、今の言葉は……」
「馴れ馴れしく呼ばないで。私はこの国の王女よ。公爵家令息ごときが愛称で呼んでいいと思っているの? わきまえなさいグレゴリー」
まるで練習してきたかのようにすらすらと喋るアナスタシアの姿に、周囲はようやく先ほどの発言が現実のものだと理解したらしい。観客たちがざわめきだし、会場の空気が不穏に染まっていく。
グレゴリーと呼ばれた青年の瞳が、すっと細まる。
「……アナスタシア王女。聞き間違いでなければ、あなたは先ほど俺との婚約を破棄するとおっしゃったのか」
低く、怒りのこもった声にアナスタシアはあざ笑うかのように鼻を鳴らした。
「ええ、間違いないわ。グレゴリー、あなたが私の婚約者という立場を悪用して横暴な態度をとっていたことや、若い令嬢たちと遊び歩いていたことはもうわかっているの。そして私に親切にしてくれたマキシムを陥れようとしたこともね!」
周囲が揺れるほどのどよめきが起きる。
「まさか、あのグレゴリー殿がそんなことを」
「ナザロワ公爵は息子の所業をご存じなのか?」
「王女殿下との婚約はかなり前からだというのに、まさか」
「マキシムとはミスキナ伯爵家の三男ではなかったか? 王女の護衛騎士をしていると聞いたが」
「確かそうだ。先日の剣技大会で優勝していた」
人々はグレゴリーに非難めいた視線を向け、好き勝手な発言を始める。
周囲の空気が自分に味方していることを察したのか、アナスタシアがにっこりと微笑んだ。
「グレゴリー。あなたは今日まで私をよく支えてくれたわ。そのことは感謝している。でもマキシムに害をなしたことは許せないの」
どこに控えていたのか、アナスタシアの横に一人の青年が立ち並んだ。輝く金の髪に緑色の瞳、たくましい体躯に凜々しい表情を浮かべた甘いマスクの美青年。二人が並ぶ姿は絵に描いたように神々しく、最初から一つの存在であったかのようだ。
「マキシム、貴様……」
グレゴリーが険しい表情で青年ことマキシムを睨み付ける。
マキシムはそんなグレゴリーに悲しげな視線を向け、何かを哀れむように小首を傾げた。
「残念だよグレゴリー。君はいい友達だと思っていたのに」
「何が友達だマキシム。お前はっ……」
「見苦しいわよグレゴリー!」
何かを言いかけたグレゴリーの発言を遮ったのはアナスタシアだ。マキシムを庇うようにその前に立ちはだかると、持っていた扇でグレゴリーをびしりと指す。
「あなたは私の伴侶にふさわしくないわ」
「……だから、婚約を破棄すると? そしてマキシムを選ぶのですね」
「ええ」
勝ち誇ったように胸を反らすアナスタシアに、グレゴリーは拳を握りしめて何かに耐えるように拳を震わせていた。
「王女殿下! お戯れが過ぎます!」
「両陛下はこのことをご存じなのですか!?」
ようやく我に返ったのか、王女の背後に控えていた宰相や近衛騎士たちが声を上げる。だが、アナスタシアは煩わしそうに彼らを睨み付ける。
「うるさいわね。私が決めたことよ。お父様たちだってお許しくださるわ。だって、グレゴリーよりもマキシムの方が私にぴったりでしょう?」
自分のやっていることは間違っていないと信じ切っているアナスタシアに、宰相たちは苦虫を噛み潰したような表情になるも、言うべき言葉が見つからないのか唇を引き結んでその場で固まってしまった。
「……わかりました。殿下の意思を尊重致します」
グレゴリーが悔しげに呟いた言葉に、アナスタシアは意外そうに目を丸くする。
「随分物わかりがいいのね。助かるわ」
「後ほど、公爵家から正式に王家に連絡を差し上げます」
「フフ、待ってるわ。ああそうだ、婚約破棄で全ての罪が許されると思わないでね。あなたがこれまで行ってきた悪行の数々については必ず報いを受けてもらうわ」
「……覚悟しておきましょう」
そう言うとグレゴリーは静かにきびすを返し会場を出て行く。
あとに残された貴族たちは顔を寄せ合い、何ごとかをささやき合っていた。
と、そこまでの様子を会場の隅っこで固唾を呑んで見守っていた少女が一人。
癖のある栗色の髪に少し垂れ気味の目元。目立ちはしないがよく見れば愛らしい雰囲気をまとった小柄な少女の顔色は真っ青だ。
「どうしましょう。グレゴリーが……」
瞳いっぱいに涙をため、グレゴリーが出て行った扉を見つめる彼女の名はシエナ。プリス伯爵家の令嬢で、今年で十七歳。
しばらくその場でまごついていたシエナだったが、我慢できずに気配を消して会場を飛び出す。
(あんなに愛していた王女殿下から婚約破棄を告げられるなんて)
シエナとグレゴリーはいわゆる幼馴染みだ。
公爵家と伯爵家という身分差はあったが、お互いの母親が友人同士だったことや、シエナの兄とグレゴリーが同い年であったこともあり幼い頃から交流があった。
五つ年上のグレゴリーはシエナのことを妹のようにかわいがってくれたし、シエナもグレゴリーをもう一人の兄として慕い懐いていた。
(ああ、グレゴリー。どれほど辛いでしょう)
グレゴリーが傷ついている。そう考えるだけでシエナの胸は張り裂けそうに痛む。
彼にとってシエナはずっと妹でしかなかっただろうが、彼女にとってグレゴリーは大切な初恋の人だった。
自分の一番近くにいる優しい少年が魅力的な青年へと成長していく姿をすぐ傍で見ていた少女が、恋に落ちるのは当然だった。
だが、シエナはその想いをグレゴリーに伝えたことはない。何故ならシエナが彼への想いを自覚したときにはすでにグレゴリーは王女アナスタシアの婚約者になっていたからだ。
王家と公爵家が決めた政略的な婚約ではあったが、並ぶ二人はとてもお似合いで、シエナは初恋と失恋を同時に味わい大泣きしたものだ。
(ようやく忘れられると思ったのに)
アナスタシアとグレゴリーの結婚はまもなくと言われていた。結婚式で誓いの言葉を口にする二人を見れば、この恋心と決別できると思っていたのに。
まさかあんなに手酷い形でグレゴリーが婚約破棄を告げられるなんて信じられなかった。
(グレゴリーが横暴? 令嬢と遊んでる? そんなことあるわけないわ)
シエナが知るグレゴリーは誰に対しても親切だし、紳士的だ。彼の魅力にやられて近寄ってくる女性は少なくなかったが、グレゴリーはいつだってアナスタシアを優先させていた。
(アナスタシア様がマキシム様と親しくしているのは知っていたけど、こんなのはひどい!)
悔しさに、シエナは唇を噛んだ。
(きっとマキシム様がアナスタシア様に嘘を吹き込んだんだわ)
マキシムは外見こそまるで絵本に出てくる王子のように甘く女性人気は高いが、その陰ではたくさんの娘たちを泣かせている最悪の男性だ。最近では王女のお気に入りであることを笠に着て、随分と横暴な行いをしているとも聞く。
(どうしてマキシム様の行いがグレゴリー様のせいにすり替わっているの? おかしいわ)
何もかも納得できないことばかりだ。
会場の外は静まりかえっており、人気はない。グレゴリーはどこだろうとしばし足を止めたシエナは、ある場所を思い浮かべ、走り出す。
(いた……!)
そこは王城の薔薇園だった。子どもの頃、薔薇が大好きだったシエナをグレゴリーはここに連れてきてくれていた。それがアナスタシアに会うための口実だと気がついてからは、シエナは遠ざかっていた場所だ。
昔と変わらずに色とりどりの薔薇が咲き乱れる美しい庭の中央に、グレゴリーはいた。
ベンチに深く腰掛け、握りしめた拳に額を押しつけるようにして背中を丸めた姿は痛ましい。
未来の王配として努力を重ねていたグレゴリー。その努力とアナスタシアへの愛情を一気に失った苦しみはどれほどだろう。
(なにか、元気づける言葉を……)
下手な慰めは余計に相手を傷つけることをシエナは知っている。
かつて、グレゴリーへの失恋に涙していたシエナを慰めようとした兄が「お前とアナスタシア様じゃ雲泥の差だから仕方がないさ」と言ったことがあった。シエナはその日から一週間、兄と口をきかなかった。
(男性が喜びそうなこと……なにか、なにか……)
グレゴリーとの距離を縮めながらシエナは必死に考えを巡らせる。
ちょうど兄のことを考えていたからか、数日前に酔っ払った兄とその友人たちの会話が脳裏に思い浮かんだ。
そのときは、あまりに低俗で最悪だと兄たちを軽蔑したシエナだったが「男にはたまらない提案だ」と叫んでいた兄の声が頭にこだまして離れなくなる。
(女は度胸よ……!)
だめで元々。笑ってくれればいい。
グレゴリーの前に立つと、すぅ、と短く息を吸い込んだ。
「グレゴリー様」
呼びかけにグレゴリーの肩が揺れ、ゆっくりと顔が持ち上がる。
灰色の瞳がシエナの姿を認め、驚いたように丸くなるのがわかった。
「シエナ……どうしてここに。まさか先ほどのパーティに参加していたのか」
「……はい」
「そうか……なら見られていたのだな」
困ったように眉を下げるグレゴリーにシエナの胸がきゅうっと音を立てて締め付けられた。
優しいグレゴリー。大好きなグレゴリー。彼を元気づけるためながら、多少の恥はかき捨てられる。
「大丈夫ですか? 私の、むっ、胸でも揉みますか?」
びゅうと、二人の間に大きな風が吹きすさんだ気がした。
「……………………………………は?」
たっぷり十数秒の間を置いて、グレゴリーが大きく目を見開く。
普段はきりりとしている口元をぽかんと開かせ、あっけにとられた、と形容するのがふさわしい表情を浮かべる姿に、シエナは心の中で悲鳴を上げる。
(わぁあああああああ!! 私のばか!! ばか!!)
自分の発言に対する後悔と羞恥でシエナはその場に転がり回りたくなった。
兄たちが酔いに任せて「どんなストレスも女の胸を揉めば忘れてしまう」と話していたのを真に受けたのがばかだった。
だいたい、いくら冷静さを欠いていたからと言って胸を揉むか? など聞くことがおかしいのだ。
グレゴリーを慰めようと脳みそが誤作動を起こしたに違いない。
(高潔なグレゴリー様に軽蔑された! 完全に嫌われたわ!)
真っ青になったシエナは泣き出しそうになるのを必死にこらえ、引きつった笑みを作る。
「なーんちゃって……」
どうにか冗談でごまかせないかと声を上げようとした瞬間、ものすごい勢いでグレゴリーが立ち上がってシエナの真正面に立った。
「誰が君にそんな言葉を教えたんだ、シエナ」
「ひえっ!」
先ほど、アナスタシアに婚約破棄を告げられたとき以上の迫力だった。
灰色の瞳が仄暗く光り、まっすぐにシエナを見下ろしている。
こんな怒ったグレゴリーの姿は初めてだった。
(お、怒らせた……!)
シエナの頭が絶望に染まる。
元気づけようとしただけなのに、余計に怒らせてしまった。
「あの、わ、私……」
「君にそんな卑猥な言葉を教えたのは誰かと聞いている。まさかとは思うが、俺以外にもそんな風に声をかけたことがあるのか?」
「まさか!」
シエナは思い切り首を横に振る。
「グレゴリー様が初めてです!!」
「……なるほど」
何がなるほどなのだろう。シエナは泣くに泣けずにグレゴリーからの冷たい視線を受けて立ち尽くしたままだ。
「では、他の男に胸を揉ませたことはないんだな」
「ありません!!」
ふしだらな娘と思われることだけは避けたくて必死にシエナは首を振る。
あまりに勢いよく振ったので、少し目眩がしてきた。
「あ……!」
「おっと!」
よろめいたシエナの体をグレゴリーが支えてくれる。
大きな手に肩を抱かれ、シエナは胸に秘めた恋心が暴れ出すのを感じた。
「気をつけなさい、シエナ」
「は、はひ……」
色々な意味でいっぱいいっぱいになったシエナはグレゴリーに促されながら、彼が先ほどまで座っていたベンチに腰を下ろす。そしてグレゴリーも自然な動きでその横に座った。
肩がくっつきそうなほどの距離感で並んで座っているという状況に、シエナはますます混乱してくる。
合わせる顔がなくてうつむいたまま、こぼれそうな涙を必死にこらえることしかできない。
(うえええん。どうしたらいいのぉ)
はしたない娘だと思われたあげく、迷惑をかけて、グレゴリーの邪魔をしている。
嫌われ要素のスリーカードが揃ったことにシエナは二度目の失恋を覚悟した。
「……シエナ、どうしてあんなことを言ったんだ」
(あれ?)
予想に反し、グレゴリーの声からは怒りを感じなかった。それどころかどこか切なそうな声音で。シエナは慌てて顔を上げる。
「……!」
自分を見つめているグレゴリーの表情は真剣そのもので、シエナに対する嫌悪感はないように思えた。
純粋に心配されていることに気がつき、シエナは安堵と悲しみで胸をいっぱいにする。
(喜ばせるどころか、心配されてる)
シエナの胸を差し出したところでグレゴリーは喜ばないということだ。
嫌われなかったのは嬉しいが、女に見られていないという事実を突きつけられているようで悲しくなる。
だんだんと自分のやっていることが情けなくなって、シエナは詰めていた息を吐き出しながらボソボソと素直に話しはじめた。
「お兄様がご友人と話していたんです。女性の胸を揉めば、殿方は、その、元気になると」
「………………なるほどね」
長い息を吐き出しながらグレゴリーが低い声で呟く。
その表情にはどこかすごみがあって、シエナはヒッと短く息を呑んだ。
「ごめんなさい。少しでもグレゴリー様が元気になってくださればと思って」
「俺を慰めようとしてくれたんだね」
「……はい。余計なお世話でしたが」
「いや、シエナの気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも、絶対に他の男に言っちゃだめだよ」
「もちろんです!!」
あたりまえだ。グレゴリー相手だからこそ言えたのだ。彼相手だとしても、二度と言える気もしない。
「あまり無防備だと悪い奴にさらわれちゃうからね」
柔らかな笑顔に見つめられ、シエナは心臓が変な音を立てたのを感じた。
ここ最近、間近でグレゴリーに会う機会がなかったのもあって、今更ながらに緊張してきた。
今日のパーティだってグレゴリーが参加しているかもしれないと知って、本当なら兄が参加する予定だったのに無理矢理代役をもぎ取ったのだ。
(グレゴリー様にとって私は妹でしかないのよね)
向けられる笑顔はいつだって慈愛に満ちている。さっき怒ったのだって、シエナを案じていたからだ。
「子ども扱いしないでください。私だってもう立派なレディです」
「うーん。レディはあんなこと言わないと思うんだけど」
「もう! 忘れてください!!」
最悪だ、と半べそになりながら両手で顔を覆えばグレゴリーが「ごめん」と少し慌てた声を上げる。
「あ~でもびっくりしたよ。でも、おかげでスッキリした」
「本当ですか?」
「ああ。色々考えてたことが吹き飛んで、凄くいい気分だね」
朗らかに笑うグレゴリーの笑顔には何の陰りもないが、無理をしているのではないかとシエナは不安になってくる。
だってほんの数十分前に婚約破棄をされたのだ。ショックを受けていないはずがない。
シエナはグレゴリーの横顔をじっと見つめる。
彼が政略的なものとはいえ、王女の婚約者にふさわしい人物であろうと努力していたことをよく知っている。
勉学だけではなく剣術や馬術、あらゆる分野を極めていたグレゴリー。見た目も相まって、黒の貴公子と呼ばれ社交界では知らぬものはいない人気者。
それが誇らしくもあり、さみしかった。
だが、いつか王配となるグレゴリーを応援することしかシエナにはできなかった。
なのに。
「……アナスタシア様はひどいわ」
我慢できずに心の声がこぼれていた。
婚約から今日に至るまでの長い間、グレゴリーを婚約者として捕らえておきながら、あらぬ罪で身勝手な婚約破棄をして。彼の努力や年月をあんなにもたやすく踏みにじった。
「グレゴリー様がどれほど頑張られていたかを知りもしないで……あんな……」
気がつけば、ぼろりと大粒の涙がこぼれる。
自分が泣くのは違うとわかっていたが、止まらない。
「シエナ……ああ、君は本当に優しいね」
困ったように眉を下げたグレゴリーがハンカチを取り出し、シエナの目元を押さえてくれた。
「だって……だって」
「泣かないでシエナ。俺は君の涙には弱いんだ」
「うう……」
慰めるつもりだったのに慰められていることが情けなくて、シエナはますます涙を溢れさせてしまう。
グレゴリーはさらに眉を下げて、えぐえぐとしゃくり上げはじめたシエナの背中を大きな手で撫でてくれる。
「うーん……本当はまだ黙ってるつもりだったんだけどなぁ」
弱った、と頭を掻きながらグレゴリーがため息を零す。
何のことだろうとシエナが涙で濡れたまつげを瞬かせれば、灰色の瞳が嬉しそうにきらめいて見つめてくる。
「実はねシエナ。俺はこの婚約破棄を喜んでるんだよ」
「……へ?」
予想もしていなかったグレゴリーの言葉に、シエナは泣くことを忘れて大きく目を見開く。
「あんな高慢ちき女と結婚するつもりなんてさらさらなかったのさ」
「え、えええ?」
にこり、と意地悪く笑うグレゴリーの顔は、幼い頃に兄といたずらを思いついたときと全く同じだった。
「そんな、うそ」
「嘘なものか。そもそも婚約だって俺の本意じゃなかったんだ。王家が我が公爵家との太い縁が欲しくて無理矢理ねじ込んできたものを父が断り切れなかったのさ」
饒舌に語るグレゴリーをシエナはぽかんとした顔で見つめるしかできない。
いつも紳士的で寡黙なグレゴリーがものすごく喋っている。
しかも信じられないような内容を。
驚きが二重三重と重なって、シエナはなんと言えばいいのかわからずにぽかんと口を開けたまま固まる。
「父も後悔していたよ。子どものうちは良かったけれど、あのアナスタシアはワガママな女でね。ちょっと気に食わないことがあれば泣いて喚いて我を通そうとする。人でもものでもこの世の全ては全部自分の思うがままだと思っているのさ。俺も随分振り回された。父もこの婚約は失敗だったと頭を抱えていたくらいだ」
まさかと瞠目すれば、グレゴリーは軽く肩をすくめて見せた。
「王家は王女の醜聞を隠すのに必死だからね。近しい者しか知らない話だ。だが、最近ではメイドを無意味にいびって自死間際まで追い込んだりとかなり危うい行動が増えてきて、とうとう両陛下も彼女から権力をとりあげることにしたらしい。幸いにも我が国にはまだ王女も王子もいらっしゃるからね」
「そんな……!」
あまりの事実にようやく唇が動いた。
国王と王妃が王女を溺愛しているのは有名な話だ。その二人が愛娘を見限るだなんてあるはずがない。
「ああ、勘違いしないで。けっして陛下たちはアナスタシアを嫌ったわけじゃない。その逆だよ。アナスタシアはとてもかわいそうな女の子なんだとようやく気がつかれたんだ。善悪の判断ができず、我慢ができない永遠の幼子だとね。そんな彼女を女王だなんて過酷な役職に就けるのは不憫だと決意されてね。アナスタシアは王位継承権から解放され、中央から遠く離れた穏やかな領地を与えられることになったのさ」
にこにことまるで子どもに飴玉でも与えるような口調でグレゴリーが語る内容は、衝撃的すぎる内容でシエナは何度も瞬くことしかできない。
「だが、何の理由もなくこれまで蝶よ花よと育ててきた王女を遠方に追いやるわけにはいかないだろう? だから、アナスタシアには派手に動いてもらう必要があったのさ」
「……まさか」
「そのまさかだよ。今日の婚約破棄騒動が起きることは両陛下たちも知っていた。だから中座したのさ。アナスタシアもああ見えて完全なばかではないからね。両親の前で無茶な婚約破棄を言い出せば諫められることはわかっていたんだろう」
シエナは目の前の男性が本当に自分の恋い焦がれたグレゴリーなのか信じられなくなってきていた。
彼の語ることが本当なら、これはとんでもない国家機密なのではないだろうか。
どうして自分はこんな話を聞かされているのだろうか。
「アナスタシアは愛しいマキシムをどうしても自分だけの男にしたかった。だからマキシムがこれまで行ってきた悪行の全てを俺に押しつけたのさ。人前で騒いでしまえば、あとは自分の権力でどうにでもできると思ったんだろうね。本当に哀れなほどに自分本位な女だよ」
最後の方は吐き捨てるような口調になっていたグレコリーは全てを言い終わると、はぁ、とため息を零し乱暴に前髪をかき上げた。
セットされていた髪型が乱れる様は色っぽく、シエナは今の状況を忘れて見惚れてしまう。
そんな熱のこもった視線に気がついたのか、グレゴリーが片眉と口の端をつんと上げていたずらっぽい笑みを浮かべる。
「今頃アナスタシアは俺を無実の罪で断罪し勝手に婚約破棄を宣言したことを陛下たちにとがめられているだろう。本当は戻ってその様子を見るつもりだったんだけど……」
その言葉にシエナはさっと青ざめる。
もしかしなくてもシエナが声をかけたことで邪魔をしてしまったのではないのだろうか。
だとしたら大変なことだ。
「あの、今からでも会場に……!」
「いやいや。気にしないでいいよ。陛下たちには逆に来ない方がいいと言われていたんだ。逆上したアナスタシアが俺に何をするかわからないからと」
「でも……」
「本当に大丈夫だよ。むしろ、早々に戻らなくて良かった。ここに来たことで、俺はアナスタシアの断罪以上に素晴らしいものを見れたんだから」
「へ……?」
隣に座っていただけのグレゴリーが一気に距離を詰めてくる。
シエナの腰をたくましい腕がまわり、まるで抱きしめるように引き寄せられた。
「シエナ。俺と結婚しよう」
「………………は?」
突然の求婚に、シエナは間抜けな声を上げた。
聞き間違いか空耳か。あまりの状況に頭がおかしくなって夢でも見ているのだろうか。
「なん、で、そんな急に」
「急にじゃないよ。俺はずっと君がかわいいと思ってたんだ。最初は妹のように愛しいと思っていただけだけど、君はどんどん素敵な女性に成長していって……誰かにさらわれるんじゃないかと気が気じゃなかった」
「え、えええ???」
うそだぁと声にならずに呟けば、グレゴリーは困ったように眉根を寄せる。
「嘘じゃないよ。君が他の誰かに奪われないように、俺は君の兄貴に頭まで下げて見張りを頼んだんだ」
グレゴリーが兄に頭を下げている光景を思い浮かべ、シエナは目を白黒させる。
確かにシエナは年頃にもかかわらず求婚状が届いたこともないし、パーティの類いは必ず兄がエスコートしてくれていた。個人的にはおかげでグレゴリーを思う存分想えたので楽だったが、まさかそんな理由があったなんて。
「無事に婚約破棄できたら一番に君に求婚しようと思っていたんだ……シエナ、俺のものになってくれるよね?」
「でも、でも……」
「それとも君は好きでもない男に胸を揉ませるようなはしたない娘なのかい?」
「まさか!!」
思わず言い返せば、グレゴリーは心から嬉しそうな笑みを浮かべる。
「だろう? 俺はねシエナ、君を幼い頃からずっと見てきた。君はまっすぐで純粋で優しくて……嘘や偽りから一番遠い存在だ。そんな君にあんな風に誘惑されて、俺はよく耐えたと思わないか?」
「え、ええ……」
「最初はどこの誰に入れ知恵されたのかとはらわたが煮えくり返りそうになったが、理由を聞いて納得したよ。まあ、余計なことを教えた罰は当然受けてもらうけどね」
微笑むグレゴリーから感じる剣呑な空気に、シエナは心の中で兄に謝罪した。
「元気づけるために、この無垢な体を差し出そうとするほどに俺を好きでいてくれたんだね。嬉しいよシエナ。本当に嬉しい」
壊れ物を扱うように優しく抱きしめられ、シエナの胸が愛しさでいっぱいになる。
色々と聞きたいこともあるし、彼の語った言葉の半分もまだ理解できていない。
想像していたよりもグレゴリーという人は凄い人だということだけはわかったが、そんなことぐらいで冷めるような恋心ではなかった。
「シエナ、大好きだ。結婚しよう」
「……はい」
気がついたときにはシエナはしっかりと頷いていた。
泣きたいほどの幸せを感じながら、グレゴリーの胸に頬を寄せる。
「……ところでシエナ」
「はい?」
「さっきの件、まだ有効かな」
「はい?」
何のことだろう、とシエナが首を傾げれば、グレゴリーがほんのり頬を染めてシエナを見下ろしていた。正確には、シエナの胸元を。
「胸、揉んでもいい?」
「……! だ、だめです!!」
「さっきは揉む? って聞いてくれたじゃないか」
「そ、それは元気づけようと思って……グレゴリー様はじゅうぶんお元気じゃないですか!」
「まあ確かに元気だけど、シエナが揉ませてくれるならもっと元気になれるかなぁって」
「~~~~~~!」
耳まで真っ赤に染めたシエナははくはくと口を開閉させ、目の前の愛しいグレゴリーを睨み付けたのだった。
その後。
グレゴリーの言葉通り、アナスタシアは王位継承権を剥奪され田舎領地に療養という名の永久幽閉されることが決まった。その従者となったのは他でもない騎士のマキシム。両陛下は本当にアナスタシアを愛しているらしく、彼女が最後に欲しがったものはきちんと与えてあげたらしい。彼女たちは王都から遠く離れたさみしい土地でお互いだけを頼りに生きていくことになるのだろう。
そしてシエナは無事にグレゴリーの婚約者となり、妻となった。
グレゴリーは本気でシエナをすぐに迎えに来るつもりだったらしく、婚約から結婚まではあっという間の出来事だった。シエナ好みに整えられた新居に案内されたときは、さすがのシエナも口の端が引きつったが、自分の横でにこにこと笑うグレゴリーには勝てなかった。
国王陛下がアナスタシアとグレゴリーとの婚約を破棄させたのは、グレゴリーが優秀な人間だったので田舎に追いやるのが惜しまれたからという理由もあったらしい。
アナスタシアの強引な婚約破棄で名誉を傷つけた償いだと、グレゴリーはかなり重要な役職を与えられた。将来的には国の重鎮となるのだろう。
本人は「余計な仕事が増えた」とめんどくさがっているが、やりがいは感じているらしく日々忙しそうに職務をこなしている。
「ただいまシエナ」
「おかえりなさいグレゴリー」
疲れた顔をして帰宅した愛しい夫をシエナは笑顔で出迎える。
かいがいしく世話を焼き、二人で寝室へと向かう姿はおしどり夫婦そのものだ。
ベッドに並んで腰掛け他愛のない話をしていると、不意にグレゴリーが動きを止め、熱をおびた目線をシエナに向けた。
「ねえシエナ。俺とっても疲れてるんだ」
甘えた、お菓子をねだるようなグレゴリーの声音にシエナは彼が何を欲しているのかをすぐに察する。
何年経ってもこれが合い言葉になるのなら、あのときに口にしなければ良かったと考えたこともあったが、後悔はしていない。
きっとこれからも、シエナはグレゴリーだけに告げるのだろう。
「大丈夫? 私の胸でも揉みますか?」
勢いだけで書きました。色々ふんわりです
面白かったよ!と思って頂けたら下の☆☆☆☆☆を染めて頂けると嬉しいです。