幕間 ―アラン・リ・クロレタリア―
最初に会った時、明らかに貴族の令嬢と分かる格好と雰囲気に、面倒事を持ち込まれてはかなわないと思って助けた。
くすんだ金色の髪に茶色の瞳。服装が少し古めで装飾品もほとんど付けていないというところはあるが、どこにでもいる貴族の令嬢といった風な装いで特に目を惹かれるところはなかった。
だが、その後、その考えは消し飛ぶことになる。
なぜなら、彼女の目は、昔の俺がしていたような、世界に絶望した目をしていたから。
だからだろうか、俺は少しだけ彼女に手を貸そうと思った。
もちろん、兄上の王位が決まるまでは、貴族に干渉するのは得策ではない。
それでも、彼女に不利益が無いようにその親に口添えをするとともに、家族で助け合って欲しいという意味も込めて侯爵には娘の良いイメージが付くような言葉を送っておいた。
彼女の父親が帰るのを見届けると、ゼクスは俺に聞いてくる。
『情報が必要ですか?』と。
だが、俺はそれを断った。王位が決まるまでは表立って動くことはできない。
それに、食うに困るような人はたくさんいて、最低限命の保障のある彼女よりももっと救うべき人がいる。
俺の両手が全てを救えるわけでは無いのだから。
◆◆◆◆◆
次に彼女の話を聞いたのはそれからしばらく経ってからだった。
最初、ゼクスから俺に会いたがっているという話を聞いた時は断るつもりだった。
優しくしたことによって変な勘違いをされたかと思って。
だが、聞いているうちに驚かされる。
「つまり、彼女は俺を追って中層や下層に来ていたということか?しかも、護衛もつけずに」
虫がいるだけでも泣き叫ぶような貴族の令嬢がいることは知っている。
どうやら、彼女は相当胆力があるようだ。思いがけない話に思わず大きな声が出る。
「そうなります。ただ、かなり警戒心が強く、用意も周到なので並の奴じゃ逃げられるとは思いますけどね」
ゼクスはそう軽く言うが、こいつがこんなことを言うだけでも普通ではない。思わずため息が出る。
「彼女の家は暗殺者か何かなのか?」
「いえ、そういうわけじゃなさそうです。動き自体は普通の女性ですからね。恐らく、生まれ育ってきた環境によるものでしょう」
「…………そんなに環境が悪いのか?」
「父親は無関心、母と妹には嫌がらせをされ、外に出たら悪意に晒される。実際、最初の社交界では手痛い洗礼を受けたようです。まあ、下層の者に比べたら待遇はいいですけど令嬢としてはどうなんでしょうね」
ほとんどの貴族に良い感情を持たないゼクスが、肩を持つような雰囲気すら伺わせている。
俺は、それに少し興味を覚える。
「お前らしくないじゃないか。彼女にはお前が惹かれる何かがあるということか?」
「どうなんでしょう。俺は下層で生まれ、戦場で育ち、たくさんの人間を見てきました。彼女と同等やそれ以下の境遇なんてそれこそ山のようにあります。まあ、そいつらの大概は腐っているんですが」
ゼクスは過去を振り返るような目でそう言う。そして、言葉を少し切って再び語り出す。
「でも、どうやら彼女は違うようだ。社交界ではその振舞いから氷の令嬢とか呼ばれることもあるようですが、詳しく調べると全てが正当防衛でした。それも、最低限の。そして、仕返しする能力が無いかと思えば、むしろ優秀過ぎるほどです。腐った果実の中でも腐らずにいられる。そんな彼女にちょっと興味を惹かれるのは当然では?」
俺が興味を惹かれることをわかっていてそう話しているのが分かる。
こいつには、全てお見通しだなとため息を吐くと、俺は彼女に会うことを決めた。
◆◆◆◆◆
時計台で彼女に会った時、相変わらず昔の俺に似た目をしているなと思った。
そして、思う。彼女は悪人ではない、もしかしたらその本質は逆なのかもしれない。
彼女からは交渉事の香りはしない。そんな状態で自分に手を差し伸べる意味は無い等と言う人間が悪人なわけがなく、必死に自分を悪く言う彼女に思わず苦笑してしまう。
そして、全てを諦め、全てを拒み、自分から再び絶望した世界に戻ろうとする彼女を見て無性にもどかしい気持ちになり、つい助けたくなってしまった。
その日から彼女を色々なところへ連れ出した。
明らかな力仕事は流石に任せられないため、女性でもできる仕事を主として。
最初、彼女は浮いていた。その言葉遣いや雰囲気もあり、周りが近づこうとしなかったからだ。
だが、真面目で勤勉な姿を見て、その距離は徐々に近づいていく。
最初は俺を通してだったのが、俺と一緒に、そしてやがて俺がいなくても回るようになっていた。
後になって思うが、彼女は人の気持ちを読むのがとても上手だ。人がやる気を出せるように手配し、疲れる頃には気分転換をさせる。
その上、誰よりも働き、慣れてきてから出し始めた指示も的確。全ての者の能力に合わせて計画を立て、排除するのではなく、補い合えるようにする。彼女には確かに人の上に立つ素養があるようだった。
それは当然の帰結だったのだろう。今では彼女を悪く言う人などほとんどおらず、逆に慕っているほどだ。
それに、俺の心も徐々に変化していった。
最初は、どちらかと言えば同情の気持ちが強かった。
だが、こちらが言わずとも理解し協力してくれる賢さ、率先して自分から動く真面目さに俺は好意を覚えていった。
そして、今は、ふとした拍子に見せる優しい笑みにどうしようもなく心惹かれてしまっている。
俺が、それを他の男に見せたくなくて、力づくで遠ざけているのには皆は呆れてしまっているようだが。
だから、今の俺は、彼女を心から助けたいと思っている。彼女が笑顔でいられることを、幸せになれることを強く願っているのだ。
◆◆◆◆◆
しばらくそんな日常を過ごしながら迎えた、兄の誕生日。パーティがまだ続いていると思われる時間に兄が俺の部屋を訪ねてくる。
今日のパーティは欠席することを伝えていたはずだが、なんだろうと思いつつも招き入れると、兄は真剣な顔をして話し出した。
「アラン、お前は僕が王になることに対して不満は無いか?」
その唐突な言葉に俺の頭は真っ白になる。そして、そんな俺の様子には構わず兄はなおも言葉を重ねていく。
「アランが僕を王にしようと色々と動いてくれているのは分かっている。だが、それに対して僕はお前に優る要素を何ら持っていない。昔から何一つ勝てたことが無いのがその証だと思っている。だから、一つだけ聞かせてくれ、お前の心に不満は無いか?王位を欲しいと思ったことは無いか?」
兄は冗談を言っている雰囲気は無い。そして、俺の頭の理解が追いついていったとき、猛烈な怒りが生まれた。
「ふざけないでください!!優る要素が何もない!?そんなことは無い!!兄上は、俺を助けてくれた。救ってくれた。こんな身勝手な奴、放っておいてもよかったのに……。今の俺はもう子供じゃありません。色々なことを経験し、学んできた。そして、あの時以上に強く思うようになりました。兄上は素晴らしい人だと」
「だからこそ、私は貴方こそが王位に相応しいといつも信じています」
沈黙が流れる。これでも伝わらないというなら今度は俺から殴ってでも伝えなきゃいけないだろう。
だが、その決意は必要なかったようだ。兄は、しばらくして、いつものように穏やかな笑みでこちらに笑いかけた。
「ありがとう。王位を前にして、少し弱気になっていたらしい。でも、これで覚悟が決まった。僕は王位を継ぐ、そして、二度と揺らがないことを誓う」
その顔には強い意志を感じる。俺は体の力を抜きつつ尋ねる。
「何かあったのですか?」
「そうだね、後でまた話に来るよ。今はパーティの締めに話すことがあるから。でも、君のお姫様に関わることとだけ教えておこうかな」
兄は含み笑いをしながらそう言い放つと、速足に部屋を出て行った。
お姫様?……クレアのことか?彼女が何を?
兄が戻ってくるまで、しばらく、俺の頭は混乱し続けていた。
◆◆◆◆◆
兄が再び訪ねてくるや否や、俺は掴みかかる勢いで部屋に引き込んだ。
「先ほどの話を早くしてください」
俺の態度を見て、兄は苦笑するような笑みになるが、知ったことではない。
早く話せと急かし続ける俺に、兄は笑みを浮かべながらゆっくりと話し始めた。
「偶然、クレア嬢と中庭であったんだ。そして、お前の実情を知っている相手との会話につい口が軽くなってしまってね、気づいたら不安を口にしてしまっていた。アランが本当は王位を継げないことに不満を思っているんじゃないか、周りの貴族のように笑顔の下に悪意をもっているんじゃないかとね」
俺は、今まで兄がそんなことを考えていたことを知らなかった。兄を信頼し、わかってくれていると信じ込んでいた。
だが、俺はまた間違えたらしい。後悔から自分を殴りつけたくなる。
「そんな顔をしないでくれ。これは、僕の弱さで、お前は何も悪くはないんだから。それに、クレア嬢が教えてくれた。僕が王位に相応しいとお前が心から信じてくれていることを。さっきのはその確認のための問いかけだったんだよ」
クレアは不用意に誰かの秘密を話す人じゃない。むしろ、今日まで俺の秘密が守られていることを思えば口が堅い方だろう。
恐らく、言わざるを得なくて、それを言ったに違いない。そして、それをしてくれたからこそ、今俺は兄上の本心を聞けている。
「……クレアは、それを言った時、どんな様子でしたか?」
「倒れそうなくらい真っ青な顔をしていたよ。それに、震えて、汗もとめどなく噴き出していたようだ。でもそれが逆に彼女の必死さを教えてくれた。彼女曰く、僕らの関係は『とても美しいもの。とても貴重で、素晴らしいもの』なんだそうだ」
「そうですか…………」
いつも冷静な彼女のそんな姿は想像がつかない。だが、彼女がそれだけ俺のために動いてくれたということに心が温かい気持ちになる。
「そして、彼女はこうも言っていた。それは、『私には手に入らなかったものだから』とな。お前はその言葉を聞いてどうする?」
試すような、揶揄うような目で兄は俺に問いかけてくる。そんなことは決まっていると知っているのに。
「俺は、彼女の手を引きます。兄上が俺にしてくれたように…………いえ、それにも勝るくらい力強く」
「そうか。まあ、ほどほどにな」
再び苦笑する兄の姿が目に映るが、最早そんなことは意識の外に追いやられつつあった。
その時、俺の心はかつてないほどに力強く、そして熱を帯びていたのだから。




