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熱い日  作者: 村岡みのり
8/11

別の視点から~1~

 遺されたノートは、あくまで祖母の主観から書かれたものである。その為、祖母の思いや感じ。つまり祖母の主観からの面でしか記されていない。

 今回は別の証言等から、違う角度であの日について見てみたいと思う。




 まず『光った後、暗くなった』という証言を残された方は、かなり多い印象を受ける。

 現在と位置は変わらぬ、現、広島市中区八丁堀にある、福屋デパート様前で家族と被爆し、五十年生きた方はその節目の年、同じ証言をされていた。

 ただ『光』についての表現は人により、異なっている。


「フラッシュのよう」

「青白い」

「マッチをパッとつけたような、閃光」等々。


 この中で『青白い』という表現は、より温度が高い熱のように思える。いずれの表現も、相当に眩いものだったと思われる。




 光った後、『暗くなった』という証言も多くあるが、中には『オレンジ』や『黄色』になったと表現した証言も見つけた。これは随分と印象が異なる。被爆した当時の場所、角度が関係あるのか。それとも『光った瞬間』と記憶が混ざっているのか。判断が難しい。

 各々の主観もあるので、その点を考慮しながら実際を想像するしかない。


 光った後、『なにも見えなくなった』という証言は一致することが多い。ただこちらに関しても、あまりに眩しい光を見た後なので、目が正常に機能していない可能性もあるように思える。

 だが『暗くなった』というのは、意味がある。

 その瞬間、全てが燃え、煙があがり、空は雲で覆われ、それで単純に暗くなっただけということでもある。




 そして投下直後について調べている最中、前夜について証言を残された方の文章を見つけたが、祖母の内容と違う印象を受け、驚いた。


 その内の一人は、当時、現在で言う広島市西区草津辺り(具体的な町名は不明)で、祖母と同じく職場に泊まっていた。

 この方の証言によると、夜中の一時頃に空襲(おそらく警報と思われる)があり、朝方五時頃に解除されたそうだ。

 これは明らかに祖母の記述から受けた印象、内容と異なる。

 草津の方は、それまでの晩、何回も起こされていたので、この夜は一度だけだったとも証言されているので、ひょっとすると、いつもの夜と違い一度だけの警報だったから、祖母にとっては何事もないように感じ、そのように記したのかもしれない。


 そう考えたのだが、また別の方の証言は異なる内容であった。


 その方は現在で言う、広島市中区袋町辺りで前夜を過ごしていたが、午後九時頃から翌午前三時まで空襲警報が発令されたと、証言を残されている。

 現在で言うと東区、西区、中区。そうやって地区が異なっていたから、ばらつきがあるのか。それとも年数と共に記憶が混乱したのか、今となっては分からない。ただ確実なのは、五日の夜、広島市に爆弾は投下されなかったことだろう。空襲警報については異なるのに、この点だけは一貫していると感じる。


 他にも前夜から未明にかけ、呉市をB29が爆撃のため飛来したという証言もあるので、警報が鳴った可能性は否定できない。なお呉市についてはまだ調査中のため、実際に空襲があったか等、詳細は現時点では不明の為、私にはこれ以上語ることができない。ただ今は、そういう証言も見つけたということだけを記しておく。


 それでも前夜を過ごした地域は不明だが、B29は来なかったと証言を残された方もいる。ここでもまた、証言が食い違う。


 一体なにが真実なのか。後世、当時を知るということはかくも難しい。

 そして私の持っている資料は、あの日から何十年も経って編集されたものが多く、証言された方の記憶が完璧かどうか、その点についても実は不明である。


 この作品を書くに辺り、あの日について証言してくれる人を探したが、ある方に言われた。

 現在はっきりと証言を語れる人の多くは、子どもの頃に被爆している。だからよく覚えていなかったり、自身と他者の記憶が混同したり、あやふやな点が多いと。真実に近い証言を得たいのなら、過去の証言記録を読む方がいいと。


 確かに子どもの頃の記憶を詳細に語ることは難しい。自分の幼い頃を語れと言われても、実際思い出せないことや曖昧なことの方が多い。

 また戦後からの年数を考えると、そういった記憶に関して確実だと言いきれない。


 現にとある「語り部」の方は、自分の記憶に間違いがないとは言いきれないし、正確でないとも言われている。

 そういった記憶に関する問題も、前夜についての証言の食い違いが物語っている気がする。




 あれから約七十六年。

 あまりに長い。近いようで、遠い過去。

 それでも先人が遺してくれたものがあり、今はそれに頼るしか術はない。


 一つ一つに目を通し、統合させるしか道はない。それが『正解』なのかは分からないが、より『真実』に近づくには、そんな地道な道を歩くことしか、私にはできない。


 なお誤解されぬよう記しておくが、私は全ての体験談の内容について疑惑を抱いていない。ただ各人の主観や表現等により、内容に差異が生じているとは考えている。そして記憶の混乱等が生じている可能性も、また捨てていない。矛盾しているようだが、多くの証言が真実だと思いながら目を通し、よりあの日に近づきたいと考えている。




 なお投下された時については、あまりの衝撃に身近な場所へ爆弾が落ちたと思った。そう証言する人も多い。

 私には爆弾が投下された衝撃は分からないが、多くの人がその衝撃力の凄まじさを語る。

 吹き飛ばされ意識を失い、目を覚ますと、地獄だったと――――。




参考文献

語り:米澤鐡志・文:由井りょう子

発行所:小学館(ISBN978-4-09-227166-1)

『ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』


参考文献・1995年8月6日発行「わたしたちの8月6日」(被爆体験記編集)


参考文献・2005年5月25日発行「60年目に語る被爆市民の心 広島被爆体験集」

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