その瞬間まで①
ノートには短いが、8月5日の夜についても記されている。
その夜、祖母は会社で警戒(おそらく空襲が起きた際、対応するためと思われる。知人の親戚もその夜は会社に泊まっていた人がいたそうなので、空襲を警戒しての泊まりは珍しくないと思われる)で、事務所の前で五、六人と泊まっていた。
ゴザを敷いて、皆で色々と話しながら一夜を過ごしたと記されている。会話の内容は不明だが、特別記すこともない世間話だったのかもしれない。
――――夜は何事もなく役目を済ませ、朝食を取りに一旦帰宅したものの、また会社へ出勤。
(遺品ノートより、原文そのまま)
8月6日の朝食は、米粒は数えるくらいの大豆ご飯だった。現代でも大豆ご飯のレシピはあり、写真を見た所、米より豆が少ない。しかしノートの内容から、見た目は現代と逆転していた料理と思われる。実際にはどれほどの分量等は不明で、家庭により異なっていたのかもしれない。
食べ物が少ない時代で、大豆ご飯を炊いてくれた兄嫁、D子さんに感謝の言葉を記していた。
それというのも祖母は当時、兄家族、亡くなった姉の子どもたちと一緒に暮らし、それは大所帯だったらしい。皆が食べられるよう少ない食糧で、D子さんは工夫をされていたのだろう。そんなD子さんに祖母は、深い感謝を抱いていたようだ。
祖母の子の伴侶となったもう一人の親も、D子さんと一度だけ会ったことがあると言っていた。
結婚の報告へ行くために会ったが、かなりの高齢の方だった。祖母がお世話になった兄嫁と言われたと聞き、訪ねた住まいの地域から、D子さんに違いないと分かった。
D子さんの夫である祖母の兄、E太さんは兵隊(所属先は不明。海軍所属の兄がいたが、同一人物かはノートから確証は得られない)だった。中食(遺品ノートより、原文そのまま)に大豆ご飯を持って行っていたので、広島のどこかへ配属されていたのだろう。
空襲がなかったという意味では、平和だった5日の夜。
だが6日午前八時から仕事にかかり、少し過ぎた頃、サイレンが鳴り響いた。
そして解除のサイレンがまた鳴ったので仕事をしていると、飛行機の音が聞こえてきた。
その音をたて広島市へ向かってきた飛行機こそ、広島へ原爆を投下したB29、別名「エノラ・ゲイ」である。
エノラ・ゲイが離陸したのはテニアン。北マリアナ諸島の一つであり、サイパンに近い島。かつては日本が統治権を有していたが、後にアメリカが占領。現在(令和二年、西暦2020年)もアメリカの自治領となっている島。
5日の夜は平穏のように見えたていたが、その裏でテニアンから原爆をつんだエノラ・ゲイが離陸したことなど、広島……。いや、日本に住む人は誰も知らなかっただろう。
このエノラ・ゲイの写真を見たが、主翼には十字型のプロペラが左右二つ、むき出しに付けられており、機体は銀色に見える。
写真は古く鮮明ではないが正直な感想として、あの恐ろしい爆弾を、こんな古臭い機体が運んだのかと驚いた。
飛んでいる最中、なにかあればどうなっていたのか。操縦者は不安だったり、怖くなかったりしなかったのかと思った。
それは原爆が投下され、どうなったのか知っているから抱いた感想かもしれない。
それほど当時の機体と現代の機体は異なり、エノラ・ゲイは言い方を悪くすると、実に脆く見える。
投下前。
もし、日本へ到達する前に機体になにか起き、操縦者たちが犠牲になれば。
無事に到達しても、広島には捕虜として収容されていた自国民がいた。
その当時、広島で生きていたのは日本人だけではない。
自国民すら殺し苦しめる爆弾を投下する。その選択がひどく恐ろしく思えるのは、私だけだろうか。
参考文献
岩波書店
著:伊東壮
「新版1945年8月6日ヒロシマは語りつづける」