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熱い日  作者: 村岡みのり
3/11

日時不明

 ――――兄弟嫁、A子さんはあの日建物疎開の整理へ行き、直撃を受けて帰ってきませんでした。とうとう遺品はなし。

(遺品ノートより抜粋)




 建物疎開とは空襲の際、道を広くして逃げられるように密集した家屋を取り壊す作業のことをいう。また取り壊すことで、火災の延焼を防ぐ。当時は現在と比べ木造が多く、空襲による火災から都市を守るため、その元となる建物を破壊する意味もあった。

 疎開されたことにより自宅が取り壊され、引っ越しが余儀ないことになった人たちもいる。火災から人だけでなく、様々なモノを守る活動ではあったようだが、住み慣れた自宅を失うのはどんな気持ちだったのだろう。




 さて、ノートに記されたA子さんがあの日、どこからどのように、どこへ向かったのか。それについては記されていない。ただ『直撃を受けた』と書かれてあることから、投下地点より遠くない場所ではないかと予測される。

 現在当日、建物疎開や勤労奉仕作業が行われた地域や関連する事柄を調べている最中であり、今後分かり次第、地名等について加筆を行う。また文献の地名は現在と当時が入り交じり判断が難しいので、どちらを指しているかも確認中。



・鶴見町付近(勤労奉仕、又当時と現在はほぼ差異なし)

・国泰寺町の一中の付近(廣島第一中学校? その場合、現在の国泰寺一丁目付近)

・雑魚場町(市役所の東裏、現在この地名はなし、国泰寺一丁目付近のため、一中付近と同じ可能性有)

・県庁跡(当時水主町、現在でいう加古町周辺)

・昭和町の川土手のすぐ下(京橋川の西側)

・(場所ははっきりしないが、多分)鉄砲町方面(現在とほぼ差異なし)

・中島町(当時でいう中島新町か? 本川、旧太田川(原爆ドームの西側を下る川)の東側)

・当日、江波は祭だったので舟入の人と建物疎開を交代してもらった。

・川内の人の男性は中島町へ向かった


◇追記(令和2年11月11日(水))

・御幸橋近くの町内、夜明け前から建物疎開へ出かける(行き先不明)

・宇品(翠町)にあった県病院近くに住んでおり、六日、勤労奉仕へ行く予定だった人有り(町内単位と思われるが詳細不明、また行き先も不明)

・県庁跡の建物疎開へは、西観音町の人が出掛けた。

◇追記終了


◇追記(令和3年3月10日(水))

・広島第一工業学校の生徒 → 建物疎開で、比治山橋の東側にいた。

・崇徳中学生の生徒 → 八丁堀付近、市電白島沿線で建物疎開。

◇追記終了


◇追記(令和3年6月2日(水))

・爆心地から約900メートルにあたる、小網町一帯で、建物疎開作業あり。

◇追記終了


 A子さんがあの日、どこへ向かったのか。それを調べるため、罹災者名簿が公開されるという新聞記事を読み、会場へ向かった。

 期間限定の公開で、あの日以来行方が分からない人の最期を知れるかもしれないと、その日は私以外にも訪れている人が複数いた。

 他の方々が誰の行方を知りたかったのかは分からない。血縁者か、友人か……。



「残念ですが名簿には記録がありませんでした」



 そのように告げられたある方は、途端にまるでなにかを失くし、なにか抜けたようにまるで一回りも小さくなった。それは突然親しい人の死亡を宣告されたようで……。痛々しい姿に目を逸らしてしまった。ろくに言葉を発さず、その人は会場を後にした。

 別の方も記録がみつからないと告げられ、原爆で死んで死没者として認められているのに、なぜ記録がないと怒っているような口調だが、泣いているように見えた。


 そして私も記録はみつからなかったと告げられた。


 直撃、遺品はなし、そう書かれていたことから即死の可能性が高く、記録はないと思っていた。それでも、もしかしたらという思いがあった。やはり記録はなかったのか、仕方がない。そう思っているのに勝手に口は動き、A子さんについて語っていた。



「親のおじのお嫁さんで……。子どもがいたんです。建物疎開の整理へ行ったんです。どこで被爆したのか分からなくて、どうやって亡くなったのか分からないんです。他になにも書かれていなくて」



 分かっていたことなのに、なにを言っているのだろう。喋る自分とは違う自分がそんなことを思った。

 この時の私は、他の人からどう見えていたのだろう。ただ「分かりました」とだけ言って帰らなかったことから、動揺していたのかもしれない。




 A子さんの夫である祖母の兄弟、B太さんは戦争へ行き、広島を留守にして被爆を免れた。息子のC太さんの消息等については、ノートへの記載はない。ただ当時の名前と年令しかなく記されておらず、そこで親にC太さんという従兄弟を知っているか尋ねた所、覚えがないと言われた。

 単純に交流がなかったのか、当日母親であるA子さんと共に行動し亡くなったのか、なにも分からない。

 片手で数えるほどの年令だったC太さん。あの日、何歳でどんな名前だったのか、それしか分からない。




 私がA子さんについて求めたように、原爆で亡くなったのは確かなのに、どこでどのように、いつ亡くなったのか。遺骨も遺品もない。

 ならせめてどこで亡くなったのか、どうやって亡くなったのか。苦しんでいなかったのか。誰かなにか見聞きしていなかったのか。それが今も分からず、知りたいと思っている人はいる。


 即死は免れどこかへ収容されたとしても、なにも語ることなく亡くなったかもしれない。収容されることなく逃げ歩き、水を求め川へ向かい、亡くなったかもしれない。




 いつどこで亡くなったのか、なにも分からないA子さん。

 遺ったのは、亡くなったという事実だけ。




 それは原爆に限らず、自然災害や事故にもいえる。

 突然のことに行方不明となり、見つからないことが悲しいことだが、確かにある。

 原爆は人間が作った爆弾なのに、自然災害と同じ状態を作る。自然災害を完璧に予知し免れることは難しいかもしれないが、人間の作った兵器なら使用しないことで免れられる。

 自然災害が相手だと、より耐震性の高い建物が開発されたり、ダムや防波堤を建設したりして人や生活を守る措置を取ろうと、人命を守る行動に走る。だが原爆はどうだ。真反対に威力は増し、まるで使われる前提でシェルターが造られる。


 あくまでこれは個人的意見だが、原爆投下により終戦したという意見があることは知っており、それを否定するつもりはない。ただ私は過去の投下の是非ではなく、未来を考えたい。


 大切な人が帰ってこず、生死不明だから探し回る。でもなにも見つからず、亡くなったと受け入れるしかない。死んだという結果だけで、いつどこで、どのように。遺骨も拾えず、遺品も見つからず、それなのに亡くなったということを受け入れるしかない。


 今も亡くなった人を探している人はいる。だけどなにも分からない。


 そんなこともあると分かっているつもりだった。それなのに、いざその事実を目の当たりにすると、辛かった。ノートを読むまで名前も知らなかったのに、生きていたことも知らなかったのに。生前を知っている相手なら、その辛さは私以上だろう。それが大切な人なら尚更だ。


 きっと祖母たちもA子さんを探したに違いない。だけど七十五年経った今もA子さんの形跡は見つからない。ただ投下されるまでは生きており、どこかで亡くなったというのは事実である。



 そんな未来、世界のどこかの誰にも経験してほしくない。



 それが原爆反対の声を挙げる理由の一つではないだろうか。






参考資料・あき書房「戦時下の廣島復刻 昭和十四年当時の地図と職業別明細図廣島市(番地入)


参考文献・1995年8月6日発行「わたしたちの8月6日」(被爆体験記編集)


参考文献・2005年5月25日発行「60年目に語る被爆市民の心 広島被爆体験集」


参考資料・中国新聞社「中国新聞」令和3年6月2日(水)付、28面記事より

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