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熱い日  作者: 村岡みのり
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命の天秤

 その人は市内(旧市内か現市内かは不明)で被爆し、周りを見たら、『医者はどこだ、医者はどこだ』とかけずり回っている人を見かけた。


 怪我をし、治療のため医師を求めたのは当然、祖母の働いていた会社の社長だけではない。

 多くの場所で、多くの人が医師を求めた。

 また祖母のように家族が気になり、家に帰った人もいる。

 勤労奉仕に出ていた夫や義父が急いで戻ってきたかと思うと、他の家族も戻って来て、家族皆で火から逃げた人もいる。


 一方、家に帰れなかった人もいる。家が消えたから。

 広島県立第二中学、現在の観音高校の二年生は、東区二葉の里(現市内町名)で草取りに動員されていた。爆発が起きたとは思っていたが、広島市内の家は無事だろうと思っていた人もその一人。

 なお同校の一年生は、現在の広島公園の辺りに建物疎開へ行き、出席した人は全滅したそうだ。

 たった一年。産まれるのが早かったか遅かったかで、運命は変わってしまったと言えるだろう。


 同じように勤労奉仕へ出かけていた学生は、火傷をした同級生を見て、病院へ連れて行こうとした。

 日赤病院へまず向かったが、なぜか医師も看護婦(現在でいう看護師)の姿はなかったそうだ。そこで次に陸軍病院へ行き、火傷を負った同級生を介護してもらえた。


 しかしそうやって介護をしてもらえた人は、まだ良かったのだろう。

 中には血まみれの子どもの治療を願っても、診てもらえなかった人がいるのだから。

 大人を先に治療し、市内に応援に言ってもらうからと言い、治療を拒まれた。血まみれの我が子を前に、拒まれたその人はどう思ったのか。現代の価値観とは異なる対応に、どう言えばいいのか私も分からない。

 ただこの時の医師は天秤にかけ、広島市内でなにかが起きたので、その助けとなる力になる大人を優先させたのだろう。

 命の天秤。医療に関わっていない私は、その局面に立たされたことがない。でも、もし、この医師だったら、どうしたのだろう。命に優先をつけたくはないが、限りある薬の中では、嫌でも優劣が必要だったのかもしれない。


 そう、薬や医薬品には量があった。

 当時、広陵中学一年生も建物疎開で鶴見橋(比治山近く)の場所にいた。そこで被爆し、一緒にいた教師が共済病院(現在の県病院)に連れて行き、手当を受けさせた。そこでは最初、薬はあった。だから手当を受けることができた。

 だが後から続く被爆者の人数が多く、やがて薬がなくなり、困る事態となった。

 だから医師は、嫌でも優劣をつけるしかなかったのだろう。


 勤務先は不明だが、当時看護婦として働いていた人も、やはり薬がなくなったという言葉を残している。

 医師からは「水を飲ましたらいけん(水を飲ませては駄目だ)」と言われた。だがその医師の姿も気がつけばなく、ただ看護婦たちが毎日、毎日死体を運んだ。

 医師はどこかへ駆り出されたのか、逃げ出したのか。その答えは分からない。

 ただ医師もおらず薬もなく、死体となった患者を運ぶしかできないのは、なんと辛いことだっただろう。


 同様の証言は残されている。

 広島赤十字病院(現、広島赤十字・原爆病院)も原爆投下数日後から、救護だけではなく、遺体の火葬に当たった方がいる。

 医師や看護師も被害に合いながら、負傷者と向き合った。大勢が押しかけ、負傷者の救護拠点となったが、七日の昼過ぎには、病院内人がぎっしりと詰め、庭も歩く余地がないほどの人が集まっていたという。

 その負傷者の中には、男女の区別さえつかない方もいたそうだ。そんな状態の人たちが広場を埋め、無傷の人が歩くと、罪悪感にさいなまれたこともあるという。

 性別すら不明になるほどの負傷。その姿を直に見たからこそ祖母は、自身について、火傷のうちには入らないと評したのだろう。

 事実、一枚の写真がある。

 髪の毛は残っているが、手の指もある。洋服も着ている。それなのに顔はボコボコに膨れ、唇と皮膚の境が分からない。瞼は閉じられ、まるでくっついて開かないように見える。歯は見えるので、口は開いている。呼吸はできただろう。だが、瞼同様、それ以上口を開くことも閉じることも辛そうである。伸ばした手が痛み等に震えて見えるほどだ。

 この写真のタイトルに『女学生』という文字があるので、女性なのかと分かる。タイトルを知らずにこの写真を見たら、どう思っただろう。顔だけで性別の判断ができただろうか。


 助けを求める対象は、なにも医師相手だけではなかった。

 原爆投下後、逃げている人を見て、自分たちも逃げようと後を追った。その途中、「家族が家の下敷きになっているから助けてくれ」と、見知らぬ人に声をかけられた。まさに漫画「はだしのゲン」と似た状況である。

 そして自分たちも怪我をしているからと、同行していた大人が断り、立ち去った。

 助けを求められても、逃げることで精一杯だった。しかし逃げたことが、心のしこりとして残った人もいただろう。

 助けるべきだと言う人もいることは分かる。

 だが逃げている人も足を熱で火傷し、水膨れになり靴を捨てた。痛い足を使って、逃げていたのだ。誰もが助けを求めていた。


 あらゆる場所で、命の選択、優劣を求められた人が多かった。

 もし、あの時、あの場所で。

 人の命を見捨てた。生き延びても、そう呵責に苦しまれた方も多かっただろう。






参考資料

・中国新聞社・中国新聞(令和四年四月三十日掲載、3面記事)

・発行:広島平和記念資料館(図録 ヒロシマを世界に(2007年1月 第7版))

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