祖母と私、思い出
私の中で祖母はよく動き回り働き、多趣味な人。そんな印象がある。
例えば誰かが困っていると知り、自分なら手助けできると思えば駆けつけ、その人の力になる。そして笑顔の多い人。私にとって祖母はそんな人物だ。
その祖母が今年、2020年(令和二年)四月某日、他界した。
そんな祖母について、忘れられない思い出がある。
具体的な年は思い出せない。ただ今より五年以上前だったと思う。
祖父の墓参りのため、田舎へ向かった。偶然二人きりになった時があり、いつか尋ねたいと思っていたことを聞くチャンスだと思い、教えてほしいと頼んだ。
「あのね、おばあちゃん」
「ん?」
切り出した時は少し背を丸め、いつものように笑みを浮かべていた。
「教えて下さい!」
瞬間、祖母は息を吸いこみながら目を大きく開き、私から顔を背けた。そして『ここ』ではない、祖母にしか見えない『どこか』が視界に……。脳裏に広がったのだろう。
「あんなものっ、あんなものっ! あんなもの! あっちゃぁいけん‼ 思い出したくもない‼」
豹変に驚いた。
それもこれまで一度も見たことのない姿。声がかけられなかった。
「あんなもの! 二度と使っちゃあいけん‼ あんなもの、あったらいけん! あんなものっ、あんなものっ」
何度も『あんなもの』と繰り返す。その全身からは憎しみ、恐怖、苛立ちなどを感じ、普通の状態ではなかった。私の存在を忘れた祖母は『あんなもの』と叫び続けた。今思うに、祖母は私から突然の不意打ちをくらい、思い出したくもないことを思い出し、取り乱したのだろう。
「ごめん! ごめん、おばあちゃん! もう聞かんけん! もう思い出さんでいいけえ!」
我に返った私は祖母の体に触れながら、謝るしかできなかった。
それからどうしたか分からない。ただ帰る前、もう一度謝りたかった。だけど親や見送りに来てくれた親戚の前で、またあのような状態になることは、祖母は見られたくないし知られたくないかもしれない。だから黙ってしこりを抱えたまま、田舎を後にした。
帰宅し、我が家恒例の、到着したと連絡を入れることに。
田舎へは県をまたいでの移動なので、帰宅すれば無事に帰れたと連絡することが、我が家では当たり前となっている。その日は自分が電話すると、買って出た。
無事に家に着いたと報告し、謝った。
「あんな質問をしてごめんなさい。おばあちゃんを傷つけるつもりはなかったけれど、ごめんなさい」
電話だからか、予想されていたのか、その時は祖母が取り乱すことはなかった。逆に……。
「あんたが気にする必要はないけえ。聞いても楽しくない話じゃし、おばあちゃん、誰にも言わんと決めとるけえ。その話を聞きたいと誰が訪ねてきても、私は死ぬまで誰にも話さんと決めとりますんで、孫子にも言っておりません。そう断っとる」
そんな強い意志を知らず、無遠慮に質問し、嫌なことを思い出させ……。私は泣き始めた。
「聞いたらそうやってあんたが泣くのも分かっとるけえ。気にせんでええけえ」
違う、違う。豹変に衝撃を受けただけではない。あれがどんなことを起こしたのか、少しは知っている。自分もあることでトラウマを抱えているのに、知らなかったとはいえ人のトラウマをつつき……。トラウマを思い出すことがどんなに辛く、パニックになるか……。祖母への申し訳なさ、自分がトラウマに関して突然無遠慮に尋ねられたらと思うと……。
私はなんて酷いことをしたのだろう。謝っても許されないことをしたのに。おばあちゃんが気にするなと、そう言う必要はないのに。
でもどう言っていいのか分からないので、もちろん言葉にならず、泣いたまま。今もあの時の感情は、上手く表現することはできない。
トラウマを抱えた祖母と私。原因は異なるが、『トラウマ』という括りでは同じ。トラウマを抱く者同士。
だからなのか余計に、謝って気にするなと言われても、あの日、あの時の取り乱し豹変した祖母を、今も忘れることはできない。
あの時、私を忘れ『あんなもの』の世界を思い出した祖母。
――――あんなもの。
それは西暦1945年。昭和二十年。
八月六日、午前八時十五分。
そう、広島に原爆が投下された日のこと。
被爆した祖母が産んだ子を親にする私は……。被爆者三世である。
被爆者である祖母が生前、唯一声に出した八月六日に関する言葉。
「思い出したくない」
「あったら(存在しては)ならない」
「二度と使ったらならない」
少ないが、それだけで祖母の思いは十分、私に伝わった。