ある日、大きな木の下にて2
「ひゃあ!」
「うっ……」
腹への衝撃とともに、情けない悲鳴が上がった。
朝食前でよかった。
神への供物は無残なことになったが、どうやら子供は無事のようだ。
彩花は軽く咳き込んで、子供を体の上からどかせる。
「怪我はないか」
「は、はい……ごめんなさい」
腰が抜けたのか、子供は地面に座り込んだまま頭をさげた。
それを見おろして、彩花は内心首を傾げる。
霧にさらされた髪は湿っているが、よく手入れされて艶があり、地面に散らばるほど長いのに結われていた跡はない。
高貴な生まれの者は髪を大事にするから、それだけでも十分に高い身分が想像できる。
着ているものは女巫と同じ、袍に似た白い上衣と紅の袴。しかし、この国の女巫は数年前に代替わりしたばかりで、見習いが入ったという話も彩花は聞いていない。
「そなたは、どこの家の者だ?どうやってここまで来た?」
彩花が問うと、子供がそろりと顔を上げる。
ほう、と思わず感嘆するほど見目のいい子供だった。
丸みのある頬はできたての餅のように柔らかそうで、薄紅の唇から形のよさそうな歯が見える。彩花をうつす緑の瞳は、露をのせた若葉のように朝日を浴びてまぶしいほどだ。
これはますます、どこかの貴族の子供が迷いこんだか。
一対の緑色が、彩花の顔を凝視して揺れた。
「お、お怪我を?」
ーーあぁ、しまった。
とっさに片手で左目の横をおおう。
彩花の顔には、こめかみから頬骨のあたりにかけて引きつれた傷跡がある。戦場で負った刀傷で、まともな治療が間に合わなかった。
自分にとってはもう慣れたものでも、近くで見るには気分がよくないものなのは、十分に自覚している。
「すぐにお手当てを……」
「ちがう、古傷だ」
かわいそうなくらい青くなった子供に、あわてて手を振る。
「い、痛くはないのですか?」
「あぁ」
彩花が頷いて見せると、子供はやっと肩から力を抜いた。
怖がられるか、気味悪げに目をそらされるかと思ったが、子供の反応は予想外に普通だった。
その子供のそで口から、小動物が顔を出して、「チチッ」と高く鳴いた。
「あ、小望!潰れなくてよかった」
「こもち?」
「はい。御領の栗ねずみで、友達の小望です」
「御領?」
子供が両手ですくい上げた白い栗鼠のような動物に仰天し、彩花は傍らにそびえる柱木を見上げた。
御領といえば、この柱木のずっと上。天の神が住まう神域を指す。そこにいる動物を連れているとなれば、この子供の素性もおのずと知れよう。
「貴殿は、もしや御領の斎子どのか」
「えっと……御領のお屋敷で暮らしてはいます」
何ということだ。
気が遠くなりそうになったけれど、そんな場合ではない。彩花は即座に立ち上がり、数歩下がってひざまずいた。
「無礼をお許しください。白崔国領軍将、楊彩花と申します。おそれながら、斎子どのにおかれましては突然のお運び、衷心より歓迎いたします」
斎子とは、神と女巫のあいだに生まれるという半神半人の娘だ。女巫とは違い、生まれ育つのは御領であり、地上の民がその姿を目にすることはまずない。
ごくごくまれに、神のつかいとして御領からお出ましになるとか、大昔にいずこの国の王が娶ったとか、真偽のあやしい伝説に語られる程度の存在だ。
まさしく雲の上の存在であるし、彩花は漠然と、人とはことなる姿をしているのだと思っていた。まるで人の子のような姿かたちで目の前に現れるなどと、想像もしていない。
「あの……」
「は」
彩花が深く頭を垂れてしばらく、幼い声がこうたずねた。
「ここ、どこでしょうか」
「……は?」
次話→迷子を保護した彩花。連れて行った先は王の部屋。